第49話『追懐 2』

 誰かが誰かに親切心を捧げる声が聞こえた。

「ねぇ、大丈夫??ほら、貸して。」

私の椅子が誰かにもぎ取られる。

「大丈夫?すごく汗かいてる。脱水になっちゃうよ。水分を摂っておいでよ。これは私がやっちゃうから。」

この人、私に話しかけてるのかな。目が合ってるような気がする。

「ねぇ、大丈夫……?保健室に行く?」

体育服に刺繍ししゅうされている苗字の色は青。3年生の先輩だ。

「……返してください……」

あ、久々に声を出したなぁ。喉が痛いや。

「えっ、ううん、無理しなくていいよ。2年生とか3年生とか、関係ないから!ね!」

「返して!!」

彼女たちの椅子は私以外がやっちゃだめなの。私に与えられた指示。私がやらなかったら、私は、また、きっと、あぁ、嫌だ、返して、私がやらないと。サボったってバレたら、殺される、殺される、殺される。

「だっ、大丈夫?」

背中に当たる人の手の感触。熱い。

「触らないで!!」

「あっ……ご、ごめんね。けど、震えてたから。保健室、連れて行ってあげるね。大丈夫だよ、私が連れて行ってあげるから。」

震えてたから。大丈夫だよ。私が。この人の言った言葉が、自分の中で反芻はんすうされる。

「やめて、く、だ、さい、私、わ、私が……私が、やらなきゃ……いけない、から……」

痛い。苦しい。やだな。逃げたいな。誰か助けてなんて、思ってなかった。弱い私が、顔を出す。

「そんなのないよ。みんなでやるもんだしね。とりあえず、ここで待ってて。すぐ戻ってくるから!」

その先輩は、私が持っていた椅子4脚を軽々持ち上げ、走っていった。足に力が入らなくなって、座り込んだ。もしもあの人が、明日には私のことを忘れてしまうとしても、私はきっとあの人を忘れないんだろうな。私が陰に立っているからか、日向に立つ人がやけに輝いて見える。あの人は、日向の中でも一番明るいところに立つ人だ。偽善、なんて言葉は知らない、真の善人。

「あっ、大丈夫!?」

先輩が戻ってきて、私に駆け寄る。

「立てる?保健室まで行こっか。」

「……い……」

「うん?」

保健室に行ったのがバレたらどうなる。どうなる。

「……嫌です……」

「保健室、嫌なの?」

「……」

「じゃあ、少し中に入って休もっか。」

先輩がそっと私の背中に触れる。胸の奥がぎゅうぎゅう締めつけられた。苦しい。苦しい。温かい手が私の背中を撫でる。やめて。苦しい。苦しい。

「……部屋の中に入ろ。ここじゃ暑いよ。」

先輩が私の体を支え、室内に入れた。階段に座ると、不意に、私の中で何かが崩れた。ボロボロと音を立て、無秩序むちつじょにこぼれ落ちる。先輩が、持っていたタオルで私の頬を拭った。

「……私がここにいるから、たくさん泣いていいよ。」

この人は何も知らない。何も知らないのに、この人は私の心を溶かした。優しい温度で、柔らかいヘラで、少しずつ。

「……ごめん。」

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