第43話 風の精霊
「ヨハン、どうしてお前は生きている」
「そんなこと言われても、僕にも分かりません」
レベッカの腕から浮き上がる血を口にしたのに、ヨハンは何事も無かったように立っているのだ。
本来ならば冥界の川へ赴き、精霊問答をしなければならないはず。周囲の皆も顔を見合わせ首を捻る。
そのヨハンの目が虚ろとなり、気付けば肩に小人が座っていた。背中に四枚の透けた翅を持つ、可愛らしい女性が。
だが見た目に騙されてはならないことを、誰もが気付いていた。肌がひりつく程に風の魔力を感じるのだ。間違いなく精霊だと。
その精霊が、みやびに気付いて小さく手を振った。
「イン・アンナの愛し子がいるー。こんばんわ、良い月夜ね」
「こ、こんばんわ。私はみやび、貴方のお名前を聞いてもいいかしら」
「私はシルフィード、よろしくね。そして……レベッカも」
シルフィードがレベッカに顔を向け、翅を広げて彼女の肩に飛び移った。
「教えてくれシルフィードよ、なぜヨハンは生きているのだ」
「二人とも肝心な事が抜けているのね。ヨハンを助けた後、貴方は何を見たのかしら」
八年前、ヨハンを手にエビデンス城の上空へ戻ったレベッカ。その瞳に映ったのは、命を燃やすレゾリューションの青白い光だった。
天にも届くその光にレベッカは悔しくて泣いた、モスマンが憎いと。ふと見れば、ヨハンが自分を見上げていた。泣かないで、泣かないでと。
「ヨハンはね、レベッカの額から流れる血の混じった涙を浴びたのよ」
「……え?」
「あの時にスオンの儀式は始まっていたの。でも二人はまだスオンになれる年齢に達していなかったでしょ。だから私はね、待つことにしたの。トリガーは自らの意思でもう一度血を口にすること」
信じられないといった顔でレベッカはヨハンを見た。
「しかし、ヨハンは私を選ばない可能性も。普通の女性と結婚したかも知れないのでは?」
「あら、私には確信があったわ。私は川の畔でヨハンにね、こう尋ねたの。命を捧げても構わないと思えるような人と巡り会えたら、貴方はどうすると」
当時七歳の少年に精霊問答でその問いかけですかと、周囲が呆れる。だがみやびは、静かに聞き入っていた。シルフィードが持つ確信の答えがそこにあるのだろうと。
「んふふ。ヨハンはね、即答で叫んだのよ。『僕は助けてくれた火属性のリンドを一生かけて守る! 必ず守る!』ってね」
レベッカの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。まさかあの時から自分をスオンに定めていたのかと。
「貴方はヨハンの成長と幸せな未来を願い、ヨハンは貴方に恋慕を抱いた。さあ、貴方が持つ魔方陣を展開してごらんなさい」
シルフィードに促され、レベッカが火の魔方陣を展開する。するとその上には、白い風の魔方陣が重なっていた。
「ふふ、仲良くするのよ」
そう言い残し、シルフィードは光の粒となってヨハンの胸に入っていった。それと同時にヨハンが我に返り、この魔方陣はと驚いている。
「ティーナ、ローレル、司教さまをお呼びして」
みやびの要請に二人は頷き、北門へ駆け出して行った。
――翌朝。
「まさか私が立会人になるとは思わなかったわ」
「現役のリッタースオンが立会人に一番相応しいのよ、みやびさん」
調理場で、妙子とみやびがお弁当を詰めていた。二段重ねの特別製である。
和え物には、ブロッコリーのごま和え。
揚げ物には、エビと野菜の天ぷら。
焼き物には、サバの
これにアジの酢締めを加え、茶碗蒸しも付ける。
「一段目のお赤飯、懐かしいわあ。二段目は豪華だし」
「レベッカとヨハン君が日帰りでオアナに行くと聞いてね、持たせてあげたくて。飛んだらレベッカもお腹が空くだろうし」
八年も前にリンドの血を口にしていたので、ヨハンは口づけによる血の交換で眠りに付かなかったのだ。
そこでファフニールはオアナ再建に向け、町の規模や建物の配置を下見するよう二人に命じたのだ。
もちろんそれは建前。二人でゆっくりしてきなさいという、ファフニールのはからいだった。
「ところでみやびさん、ファフニールとお風呂に入ったり、一緒に眠ったりしないの?」
「ええ! お風呂はいいけど寝ぼけて竜化されたらどうしよう」
妙子が袂を口に当ててコロコロと笑った。儀式で交換した指輪を付けたまま眠れば、寝ぼけて竜化しなくなるのだと言う。
「ファニーの部屋にお泊まりかあ」
「彼女、いつ来てくれるのかしらと気を揉んでるかもよ」
つい顔がにやけてしまうみやび。
「そうそう忘れてた。はいみやびさん、これ。ブラドさまから預かったの」
「この革袋は?」
「お給金よ。リッタースオンの分プラス近衛隊総監の分。そして肉と魚以外の、食材調達の分も含まれているわ」
みやびは頭に手をやった。前に受け取った金貨すらまだ残っているのにと。
そして遙か遠くに目を向ける。行方不明となっている女子高校生は、このまま神隠しになるかも知れませんと。
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