第16話 先輩との日々⑥
「まだ痛い?」
「いや…もう大丈夫。」
「そう、ごめんなさいね。」
僕たちは堤防に二人で腰をかけていた。僕と先輩が初めて出会った場所。なんとなく二人ともここに来ることが必然のように考えていた気がする。
「先輩…その……」
身内でのゴタゴタを見られたことと、不甲斐ないところを見られた恥ずかしさで僕は俯いてしまう。
しかし先輩はそんな僕に眼もくれず、口を開いた。
「お父様に随分失礼な態度を取っちゃったわ。」
「え?」
「怒ってなきゃいいのだけど。」
「ああ…」
きっと強引に僕の手を引いてきたことを反省しているのだろう。そして戸惑っている、普段の彼女ならそんな感情的な行動はしないはずだからだ。
「……それと、ご挨拶にもいかないと。」
「いいよ、面倒くさい。」
「ダメよ。ちゃんとしとかないと余計面倒くさくなるだけなのだから。」
「…………」
「…………」
いつもと同じような声と顔と、話し方で先輩が話してくれる。それだけで僕は安心した。
夜の海に来たことはなかったが、思っていたよりもずっとずっと静かで暗い場所なのだと思った。彼女がそっと身を寄せてくるのがわかった。きっと彼女も暗くて怖いのだ。
先輩の香りがした。夏の間に何度も嗅いだ彼女の匂いは不規則にざわついていた僕の心をどんどん鎮めていく。
心が解けていく。
「先輩、僕の秘密が聞きたいんだろ?」
「聞きたいけれど、それは…」
「僕が言いたいんです。聞いてくれますか?」
「……いいわよ。」
祭囃子が聞こえる晩夏の夜、僕は先輩に全てを話した。
唯一の理解者だった母のこと。
母に褒められたくて勉強を頑張ったこと。
母が病気にかかり、衰弱していったこと。
母が未来の話をすることは無くなったこと。
それでも笑顔を絶やさなかったこと。
それでも、それでも死んでしまったこと。
死ぬ直前に、父の名を呼んでいたこと。
父は母の死に目には立ち会わなかったこと。
それから勉強をやめたこと。
髪を染め、ピアスを開けたこと。
父と話すことがなくなったこと。
息をするのも忘れて無心に言葉を吐いた。先輩なら全てを受け入れると信じて、彼女の棘の中にある温かさを信じて、情けないほどに彼女にぶちまけた。
「…………」
「…………」
二人とも無言だった。何も言わずに夜の真っ暗な海を眺めていた。空と海の境界線が曖昧になる。
「これが僕の秘密。あんま面白い話じゃなかったろ?だからまあ…聞き流してくれればよかっ…」
それ以上先の言葉を僕は言わなかった。
「せん…ぱい……?」
「和季、じっとして。」
「…………」
言えなかったのだ。春澤澄歌に抱きつかれ、締め付けてくる彼女の温かさを感じ、僕は言えなかったのだ。
☆
「結局のところ、許すしかないのよ。」
「え」
「お父様のこと。」
「…………」
父を許す。仕事にかまけて母の死に目に立ち会えなかった愚かな父を許せというのか。そんな選択、僕は考えたこともなかった。
「はは。」
今もまだ父のことを考えるだけで溢れ出る怒りを笑みで誤魔化しながら僕は笑う。
「…先輩は強いからそんなことを言えるんです。僕にはどうにも許せそうにはありません。」
「……何も今すぐ許せというわけではないわ。」
「…………」
「何年かかってもいいから許すの。許せるようになるまで待つの。」
「…でも。」
「でもじゃないのよ、和季。それにきっと許さないという方が難しいの。怒りも悲しみも風化していくのだから。」
「風化?」
「そうよ、感情は長い時間をかけてすり減って消えていくの。残るのは怒りや悲しみではなく大きな溝だけ。そしてその溝もやがて消えていく。」
「…………」
想像できないでいた。この怒りや悲しみが軽くなる日が本当に来るのだろうか?もし来たなら、僕はどのように父と接するのだろう。
わからない。僕にはわからない。
「結局のところ大人になるということはそういうことなのよ。色々なことを経験して、あなたも父になって初めて見えてくる景色があるはずよ。」
「大切な人の死にも向き合えないなら僕は大人になんて…。」
「あなたも大人になるのよ、和季。」
「それでも、あいつのせいで母さんは…」
「あなたのお母様が亡くなったのはあなたのお父様のせいではないわ。善悪の問題ではないのよ和季。清濁飲み込んで人は大人になっていくの。」
「…っ………じゃあ、僕はどうしたら…!」
「私がいるじゃない。」
「え…」
「大人になっていくあなたを、悩み受け入れていくあなたを、私が見ていてあげるわ。」
春澤先輩が僕の手に手を重ねた。
「だから恐れないで和季。大人になることを怖がってはいけないわ。」
「……僕は」
そのとき、何かが光り輝くのが見えた。遅れて、祭囃子に乗せられた人々の歓声が聞こえた。
晩夏の夜空に鮮やかな花が咲いていた。
「…花火。」
「………。」
人波賑わう祭囃子から遠く離れた海岸の淵から見る花火だった。僕と先輩、二人だけの花火。
閃光が僕たちを照らした。言いたかったことも、知りたかったことも、全て置き去りにして僕たちはその明かりを見ていた。いや、花火を見ていたのは彼女だけだ。
僕はただ花火に照らされた春澤澄歌を見ていた。
「大丈夫よ。」
「!」
「もし怖いなら…私が側にいてあげるから。」
「……心強いです。」
ずっと考えていた。学校に馴染めず逃げた海辺で出会った薔薇のような彼女、春澤澄歌への思いの名前を。
出会ったときは険悪だった。それでも雪解けのように親しくなっていき、この一夏を共に過ごした人。
色々なことを教えてくれる人だった。理知的で高貴な人だった。美しく凛とした人だった。
そして、しっかりと自分を持った強い人だった。
『和季!』
あの海での笑顔が僕の脳内にリフレインした。
(なんだ…そうだったんだ。)
彼女を見るたびに緩む頬も、声を聞くたびに震える心も全て、僕の今までにない経験で戸惑った。
それでも一度名前をつけてしまえば、すんなりと受け入れることができた。
僕は…春澤澄歌に恋していたんだ。
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