第8話 不思議な後輩との日々⑤
電車から降り、改札を通る。
学校へ向かう黒と茶色の人波は今日も当たり前の日常を謳歌するのだろう。
そのなかで、緑色の僕だけがポツネンと浮かんでいた。
色が違うから馴染めない。馴染もうと思えば黒と茶色で塗りたくられて小汚い色になってしまう。
春日谷はあのあとちゃんと電車に乗れたのだろうか?
もし乗れていたなら、彼女のヘッドフォンの赤もこの黒茶色の人波のなかで浮いてしまうだろう。
彼女は、どんな選択を取るのだろうか?
先輩は、どんな選択を取ったのだろうか?
☆
机の上に広げた参考書を先ほどから出鱈目に眺めていた。
他に机の上にあるのは白紙のノートと、数本のペンだけ。
出鱈目と言ったのはその内容が少しも頭に入ってこないまま、時間だけが過ぎていたからだ。
僕は教室の窓から秋の空を見上げた。スッと心が軽くなるはずのそれも今はなんだか嘘っぱちに見えた。
「……………」
僕はそっと目を伏せる。
テスト直前にも関わらず、勉強に身が入らないのはきっと、今朝電車で見た彼女のせいだ。
暗く、荒んだ顔をしていた春日谷舞。
10日ぶりに見る彼女は、まるで何日も眠っていないのではないかというぐらいに顔がやつれていた。
一体彼女の身に何があったというのか?
何回も何回も、目の前の参考書に目を通す。それでも僕の目には一文字も入ってきやしなかった。
「ダメだな……」
こんな心境じゃペンすらまともに握れやしない。僕は椅子から立ち上がる。
ざわっと、突然立ち上がった僕に皆が注目した。平和な教室内の異分子である僕が目障りなのだろう。
(別にとって食いやしないのにな。)
僕はため息をつき、目的の場所を急いだ。向かうのは春日谷の教室だ。記憶を頼りに階段を上がっていく。
この高校は4階建てであり、螺旋階段を通し繋がっている。1年生が4階、2年生が3階という風に降っていくのだ。
確か春日谷は1-Dだったはずである。
僕が4階に行くとその瞬間、水面に広がる波紋のようにざわざわと僕を見る人々の会話が始まる。
「ねぇ、あの人…」
「やっぱりそうだよな……」
「何しにきたんだろう……?」
当然だが、1年生にも僕の噂は広まっているのだろう。緑色の髪をした非行少年を見て皆が青白い顔をしている。
(だから別にとって食いやしないっての。)
僕はため息をつき、ずんずんと1-Dまで歩き進んだ。
少しだけ春澤澄歌を意識した。彼女ならきっと自分を貫くはずだからである。例えどんな目で見られようと、どこに居ようと毅然とした振る舞いで。
手前から、A、B、C——そして。
そして、1-Dの教室の前に立った。
春日谷はもう登校しているだろうか?テストを休むような奴ではないから来ているのだろう。
『何があったんだ?』そう尋ねるつもりだった。
10日間も彼女を避けていた僕が口を出すのもどうかと思ったが、それでも僕にとって彼女はかわいい後輩なのだ。
(先輩として、彼女の力になりたい。)
そう決意し、僕は1-Dの扉を開いた。
「 」
そこから先のことはよく覚えていない。ただ暴力沙汰にならなかったことだけは自分のなけなしの理性を称賛する他にないようだ。
不自然に空いた座席も。
そこを指差して笑う女たちも。
下品な女たちの会話も。
見て見ぬふりをする有象無象の顔も。
硬く握りしめたままの僕の拳も。
僕の口から溢れ出た激しい怒声も。
僕の剣幕に怯えた彼女らの顔も。
辛かった記憶も。
全部、全部、春日谷舞は忘れていい。
彼女が傷つく必要なんて世界中探してないのだから。
「はっ!はっ!はっ!はっ!」
それから、カバンを取って僕は走り出した。テストが始まるまであと5分もなかった。すれ違った教師から何か言われた気もするが構いやしなかった。
電車よりも明らかに時間がかかるのに、僕はひたすらに走った。電車にはやはり乗れなかった。少しだけ怖いし、 走り出さずには居られなかったからだ。
「はっ!はっ!はっ!はっ!」
張り裂けそうなほどに胸が高鳴っていた。秋風が僕の体を押し出した。ただ前へ前へ、彼女の元へと。
不思議と、彼女がいる場所が僕にはわかった。理由なんてわからないし、わかる必要なんてきっとない。
ただ僕は彼女の元へ行けばいい。
行けばきっと、時間は流れ出すのだから。
「はぁ…はぁ…はぁ…。」
駅のホームのベンチには、赤いヘッドフォンをつけた女の子が眠ったように腰掛けていた。
秋の
僕はゆっくりと彼女に近づき、そっと彼女のヘッドフォンに手をかけ、外した。びくりと彼女の体が震えた。
僕はうまく笑えているだろうか?
「風邪ひくぞ。」
僕を見上げた春日谷舞は大きく目を見開いた。
その瞳は先輩とは似ても似つかなかった。
☆
私たちは駅のホームのベンチに二人腰掛けていた。お互いに何も喋らず、時計も確認せず、ずっと座っていた。
先輩が何も喋らず、そばにいてくれているのはきっと彼なりの優しさなのだろう。なんて不器用な人なのかと私は少しだけ笑った。
今なら話しても怖くないと思えた。
「私、いじめられてたんです。生まれて初めて。」
「……………」
「理由は多分、逆恨み。いじめた子の好きな人が私のことを好きだったんだと思います。私は男好きする容姿をしているみたいなので。」
スラスラと言葉を紡いでいく。
「最初は物を隠されたり、捨てられたりされるだけでした。本当にそれだけ。だから私も放っておきました、大したことではないのだと。すぐに止むものだと。」
先輩へと綴っていく。
「だけど終わることはありませんでした。それどころか、私は暴力を受けるようになりました。水をかけられるようになりました。」
どうしようもない思いを、ただひたすらに。
「それでも負けるものかと学校に行きました。だけどもう無理だったみたいです。こうして今もここで座って蹲っていました。痛む体をさすっていました。」
私の目からは大粒の涙が溢れた。視界が歪み、前が見えなかった。先輩の顔だって見れない。
高校一年生にもなってギャン泣きすることが恥ずかしくてついつい私は俯いてしまった。
「私はもう生きていくのが怖いです。いや、本当はずっと怖かったんです。今更になって気づいただけなんです。」
一粒。
「いじめられることが怖いんじゃないんです。またいじめられるかもなと思い続けることが怖いんです。人とどうしても違うから、同じではいられないから怖いんです。」
二粒。
「私が私でなかったら、もっとうまく立ち回れる私であったなら、そう考えてしまう自分が怖いんです。望んだようには生きられないくせに、変わる勇気なんてないくせに、それでも変わりたいと願ってしまう自分が怖いんです。」
三粒と、涙が溢れていく。こんなこと先輩に言ったら迷惑がかかるだけなのにと頭ではわかっているのに私の鼓動は早まるばかりだった。
「先輩、私はどうしたらいいですか?綺麗なままで私はあり続けることができますか?それとももう綺麗じゃ…」
四粒目が流れることはなかった。
「え……」
羽賀先輩がぐしゃぐしゃと私の頭を撫でたのだ。溢れるはずだった涙が引っ込むほど強引に、ぐしゃぐしゃに、撫でたからだった。
私はすっかり慌ててしまう。
「せ、先輩!?」
「春日谷、多分お前はもう綺麗ではいられないよ。」
「!」
私は先輩の顔を見ることができなかった。先輩が私の頭を強く撫でるので、顔が上げられなかったのだ
ただその静かで優しい声で彼は告げるのだ。
「きっとこの先も怖いことばかりだけどさ、春日谷。」
先輩がそっと私の頭から手を離した。私は弾かれたように顔を上げて、先輩の顔を見た。
「!」
「二人なら怖くないよ、絶対。」
羽賀先輩は泣くように笑っていた。ヘンテコな顔だった。
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