転がる石③

 翌朝。

 荷物をまとめて洞穴を後にする。ちょっとした愛着とともに木の扉を外し、昨日見つけた川へ。


 森の中を流れる小川の川下へ。最近自分の空間把握能力に不安を感じるぼくだが、流石に川を下るぐらいなら大丈夫だろう。


 長い長い泥道を歩く。元々体力はあったし、ここ最近歩くことばかりしていた。辛いということはなかった。


 陽が一番高く上にのぼる頃、川幅は五メートルくらいになっていた。そろそろひらけた場所に出るかなというところ、


「…………」


 咄嗟に木々に身を隠す。

 前方三十メートル先に大きな黒い影を見つけた。


 巨岩のような体躯、全長五メートル以上はあるだろう。大木ほどの腕の先にある鋭利な爪を見て、初めて生き物だと確信できた。凶悪な面構えを対岸の川べりに向けている。給水中だろうか。ふさふさの体毛と頭の上の割に小さい耳で、ようやくぼくの知る動物と認識が繋がった。


 とんでもない大きさのお化け熊がそこに居た。

 

「……やばいのいるな」


 グリズリーでもあんな大きさの奴いるのか……? いや、一番大きい熊はホッキョクグマだったっけ。色も場所も違うしな……


『あれは『魔物』だ馬鹿者』


「へえ……! 初めて見た」


 山や森の深奥、海の彼方には凶悪な魔物がいるから人は絶対に近寄ってはいけない。というのはぼくがガキの頃よく聞かされた話だ。動物を土台に、独自の進化を遂げた怪物、もののけの類。


 魔物と動物とを分ける基準は一つ。自らのオドを活用して人間でいう『魔法』のような現象を起こすことができるか、否か。ただでさえ人より身体能力が高い動物が、さらに進化した体で魔法を使う。人類の脅威なのは当然だ。


『死にたくなければ気をつけることだな』


「戦う気なんかねえよ」


『お前になくてもあいつにはある。そもそも魔物とは、人を殺すことを第一に考えるような生態をしている。いちばんの主食が人間だから、魔物は動物と違い人類の脅威なのだ。なのに、見てみろ』


 お化け熊を再度注視する。さっきまでと同じく、川遊びに夢中だ。


『たかだか三十メートルしかないのに、あれはまるで貴様に気づいていないかごとく振舞っている。罠だろう。既にこの周囲は、あいつが貴様を殺すための準備が整っているということだろう。戦うも逃げるも、全て織り込み済みという訳だ』


 罠を張るだけの知能もあるのか。


『……もしかしてぼく、死ぬ?』


『死ぬだろうな。貴様がもし勇者でなかったら』


 ため息をつく。まさか勇者やめてすぐにこんな死線に巡り会うとは。


 周囲を見渡す。アクマが言うにはこの周囲にぼくを絡め取る罠が既に張ってあるとのこと。張るなら、きっと退路に張ってあるだろう。不用意に逃げるのは危険か。弓で狙うか? いや、木製の矢しかないし、あのでかい図体を貫通して十分な傷を負わせられるだろうか。


 ……うだうだ考えるのめんどくせえ。


 ぼくは背中から槍を取り出し、川べりに向かって走る。

 当然、お化け熊もそれに気づいてぼくに顔を向ける。ネズミが自分から袋に飛び込んできたって感じだ。馬鹿だって思われてるだろうな。

 ぼくもそう思うよ……


 十分な助走をつけて、熊の真向かいからジャンプする。五メートルくらいなら訳はない。意表を突かれた熊がカウンターに腕を振るう前に、携えた槍を熊の眉間に突き刺した。上がる悲鳴を余所に、棒高跳びの要領で巨体を飛び越え、森を走り去る。


「あはは!」 


 やばい、ちょっと面白い。誰かを馬鹿にしたり虚仮にするのは楽しいものだ。


 五十メートルほど走って、ちらと背後を見やる。


 まじか。のそのそと動き出してやがる……脳まで届かなかった? 当たりどころが悪かったのかな……

 なら事態は結構深刻だ。野生の熊は確か時速五、六十キロで走れる。人間は百メートルの世界記録保持者で四十だ。ぼくの今の脚力がウサイン・ボルトを越えていたとて、ずっとは走れない。何か手立てを考えなきゃやられる。


 ちょっとどきどきしてきた。


『荷物を捨てろ、少しはマシになる』


『荷物は捨てねえ、あいつにめちゃくちゃにされたくねえし』


『貴様は本当に……』


 全力で距離を離しながらアクマと話す。馬鹿と契約した自分を恨んでくれ。

 後ろから猛然と追いかけてくる足音がする。聞き間違えじゃなけりゃ、木を切り倒すような音も。走って逃げ切るのは無理だろう。

 ならどこかに隠れるか。それもリスクが高すぎる、熊の嗅覚は知らんが人よりは高いだろう。家を出てからまともに体を洗えてないぼくを見逃してくれるとは思えない。

 どこか高台に位置取ってそこから投石とかで迎え撃つのは? 熊って確か木登りもできるよな……そもそも五メートル以上もあってあんな機敏に動ける動物が、ぼくに登れる高所に登ってこれないってことはあるだろうか。


 ……もうめんどくせしステゴロで一か八かやるか。


『待て! 早まるな』


『止めるな! あいつにだって脳があるはずだ! あいつの爪をスウェイして右ストレートで意識を刈り取るんだ!』


 そうと決まれば出来るだけ開けた場所に行きたい。スピードを緩めずに最短で通れる道を走りつつ、決闘場を探す。少なくても後数分はトップスピードを保って走れる。未だ後ろから聞こえる足音と距離を保てているということは、ぼくの身軽さはあいつの膂力りょりょく任せの暴走に負けてないってことだ。数分以内に見つけなければ。


 コーナーを曲がるように、ちょっとずつ右にずれながら走る。熊に策を読まれないように、ちょっとずつ。右に大きなUターンをする。

 当然距離は少し詰められる。曲がりきれば、後は全力で直線を走るのみだ。


 いよいよ体力も落ちてきた頃、辿り着いた。そこはさっきまで熊がいた川の川下だ。川幅も広くなっていて、対岸には砂利でできた地面。広さもある。


 ぼくは荷物を対岸に投げ飛ばし、それに追随して自分自身飛んだ。着地してすぐ、手に収まるサイズの石を探す。

 何個か目処がついた頃、お化け熊も川に辿り着いた。当然渡ってくるだろう。それでいい。


 立ち止まるぼくを見て醜悪に顔を歪め、川に入る熊。前足が消えたのを確認してから、ぼくは石を掴んでその顔に投げつけた。狙うは目だ。


 くぐもった悲鳴をあげる熊。当たったようだ。次は左目、その次はとにかく頭狙い。こっちにたどり着く前に出来るだけダメージを与える。

 結果、両目を潰すことには成功した。野生の熊ならとっくに山奥に逃げ帰る傷だけど、少し体を重そうに動かすだけで、当然のように奴はこっちに向き合ってくる。


 やるか。


 じりじりと見えないなりにぼくと距離を詰めるお化け熊。石を明後日の方角に投げてみるも、臭いでぼくを捉えている。諦めてあいつの先制攻撃を避けることに意識を集中させる。右ストレートでぶっ飛ばす、右ストレートでぶっ飛ばす……


 いよいよ奴のリーチにぼくが入り、ぼくが拳を硬く握った時。

 急に奴がぼくから意識を外し、横に顔を向けた。その隙を逃すぼくじゃない。瞬間ぼくの黄金の右が奴の鼻っ面を捉えた。少し揺れる巨体、二段構えで左を繰り出そうとした時、急に奴の体が沈んだ。右で既に落としてたのか……!


「……兄ちゃん、随分無茶したな」


 熊の巨体の横から声がした。目を向けると、そこにはまた別の巨体が立っていた。二メートル超えるくらいの大柄で、チェインメイルを泥で汚れたチェニックで隠している。その右手には無骨な片手半剣ハーフアンドハーフブレードを携えている。


 歴戦の戦士のような出で立ちの男が、ぼくを見つめていた。


 

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