憎めないコウハイ

くるみ

憎めないコウハイ

 彼女との出会いは、忘れたくても忘れられない。

 それはある日の放課後。

 僕は進路相談でもある二社面談を済ませ、少し遅めの時間に下校していた。

 空の色が茶色に染まる時間帯。西に沈んでいく太陽が見え始めるこの瞬間、校内は昼間とは違う雰囲気を醸し出す。窓から入り込む夕陽とそれに伴う陰が廊下を彩り、少し落ち着いたムードを味合わせる。

 そんな時だった。

 下駄箱から正門までの近道を通っていると、突然校舎の窓から水が奇襲してきた。

 顔面直撃である。短い髪から水が滴れるほど完全に濡れ、制服もやられている。


「あ……」


 水が襲い掛かってきた方へ振り返ると、そこにはバケツを待った少女が立っていた。

 目が合い、しばらくの間沈黙の時間が生まれる。

 その間、少女の表情は次第に絶望へと変化していく。一気に顔が青く染まり、思わずバケツを離してしまう。バケツは窓の縁に当たり、こちら側へと渡ってきた。

 僕の身体からは何滴も水が滴れた。その先には突発的に出来た水溜りがある。ピチャピチャとランダムで水滴が落ちる音が響き渡る。校舎の間だからなのか、壁と壁で反響し、一層僕たちの耳にその和音が届いた。

 すると少女はその展開を打ち消し、血相を欠いた様子でどこへ消える。

 ここへやってくるのか、それとも謝りもせずどこかへ逃げるのか。

 そして少女が導き出した答えは──。


「本当に申し訳ありませんでしたぁー‼︎」


 少女は後先考えず上履きのまま僕の前に現れ、盛大なお辞儀を見せつけた。

 水滴の音を掻き消して、少女の謝罪の言葉が周囲に轟く。 

 これが彼女との出会いだった。


 ***


「せんぱ〜い!」


 教室で友達と話していると、そんな幾度と無く呼ばれた掛け声が耳に入った。


「また呼んでるぞ」


「……はぁ、いい加減しろよあいつ」


 前に座って会話していた男子生徒に冷やかしをされる。そして他のクラスメイトたちにも同様にそんな眼差しを向けられた。

 些細な苛立ちを秘めながらその声の出元──教室の扉へ向かうと、後輩女子高生がいつものように笑っていた。

 上原佳奈。

 根岸色のミディアムヘアー。彼女曰くその髪色は地毛らしく、ふわったセッテイングされた髪型も果たして遺伝によるものなのかは疑問。少し小柄な身体だが、スタイルは抜群。出るべきところは出ていないが、引っ込むところは引っ込んでおり、頭の上から足の先まで身体の黄金比が形成されているごく普通の女子高校生である。


「上原、この前も言ったが教室にはもう来るな」


「えぇ⁉︎ どうしてそんな酷いこと言うんですか⁉︎」


 端的に伝えた跳ね除けに上原は可愛らしく頬を膨らませた。

 あの日以降、僕は何故か彼女に好かれている。休み時間や昼休みなど、時々こういう感じで訪ねてくることが多く、しかも日にちにその頻度が増している気すらあった。

 とはいえ、彼女が喧しいとか鬱陶しいとか、そんな否定的な事を思っているわけではない。けれど上原は高校一年生。常識的に考えて一つ学年が下の女子が上級生の男子の教室に訪れる事自体が不自然過ぎやしないだろうか。いいや不自然過ぎる。これじゃあ付き合ってると思われかねない。……もはや手遅れかもしれないが。

 で、一番の問題はというと──。


「ソーダソーダ。ソノコガカワイソウジャナイカー」


 先ほど会話していた男子生徒の明らかな棒読みが耳に入った。男子生徒のニヤける顔が目に浮かぶ。あいつ後で覚えてろよ。一発ぶん殴ってやる。


「で、何か用事か? 僕も暇じゃないんだけど……」


「またまたそんなこと言って〜。先輩彼女いないし、さっきも友達と話してただけじゃないですか〜」


 上原は挑発するように人差し指を立てる。


「失敬な! お前こそ彼氏いないだろ!」


「いないんじゃなくて作らないだけですぅ! そこは勘違いしないでください!」


 腕を組み堂々と胸を張る上原に対し、呆れた色の息を吐いた。

 彼女の平常運転はこれである。天真爛漫と言えば良いのだろうか。良くも悪くもポジティブで、僕に水を掛けた時も素直過ぎるくらいの土下座をしてくれた。お笑い芸人なのかと一瞬思ったくらいそんな彼女の姿に、僕は思わず爆笑してしまった事を今でも覚えている。

 だから日常を掻き乱され、相性的に正反対な彼女でも、憎めない。

 上原は何かを思い出したかのように両手を叩いた。


「そんなことは置いといて、先輩今日の放課後暇ですよね?」


「どうして暇前提なんだ」


「だって部活入ってないですよね?」


「それはその通りなんだが……」


「じゃあホームルームが終わったら正門に集合という事で」


 そう言いながら上原は一年の教室がある校舎の方へ駆け出した。


「は? おいちょっと待てよ!」


「絶対来てくださいね〜!」


 薄茶色の髪が揺れて、喜びに満ちた彼女の背中が遠退いていく。僕は廊下を右に曲がっていくその背中が捉えなくなるまで見届けた。

 どこ行くかくらい言ったらどうだ……。


 ***


 正門にはすでに彼女の姿があった。


「あ、先輩遅いです。男子なら女子より早く到着しておくのはデートの鉄則ですよ?」


「すまんすまん。いいから早く行くぞ」


「ちょ、まだどこ行くか言ってませんよね⁉︎」


「歩きながらでもいいだろ」


 口を尖らせる上原を置き去りにして、そのまま正門を抜けた。

 話を聞くに、彼女が行きたい場所というのはとあるパン屋だった。何でも、学校の近くに新しくオープンしたとかで友達から教えてもらったらしい。チラシを見せてもらうと、コンセプトはどちらかというと洋風スイーツ屋。レトロ風なレンガや木などの茶色がメインの色合いではなく、新築の白い家だ。

 ちなみに何故彼女がパン屋に行きたいかというのは、おそらく新店舗だからだけではない。

彼女が異常なまでのパン好きだからだ。特に彼女は焼き立てパンを好んでいる。


「ここか……」


 チラシで見た通り、やはり外観はスイーツ屋だった。スイーツ特有の甘い香りも店から漂っており、店前に設置されている立て付け看板にはパンケーキのイラストが描かれている。

 三枚の円型パンケーキの間に生クリーム、フルーツなどが挟まれている。特に変わった点もない至ってシンプルなパンケーキである。


「パン…ケーキ……ですか⁉︎」


 上原はその看板を目にした途端、目を丸くして看板を両手で押さえ付けた。


「パンケーキは邪道ですっ! トッピングがメインでパンはほとんど付属品ですよね⁉︎」


 押さえ付けた看板を前後に揺らす上原。ギシギシガタガタ音が鳴る。壊れそうなレベルで。


「おい店の人に聞こえるぞ」


 確かに近年のパンケーキは名前にパンと付いている割にパンの需要がほぼない。もはやパンケーキがなくてもパンケーキと呼んでしまうほどに。ていうか、上原からしたらパンケーキも湿っている部類に入るのかもしれないな。まぁ、正直どうでもいいんだが……。


「なら入るのやめとくか?」


「いいえ、もしかしたら他にパンメインの商品もあるかもですし……何より、受けて立とうじゃありませんかっ! パン好きである私を唸らせる味かどうかを!」


 看板の前で立ち上がり、挑戦状を叩きつけるかのように上原は看板に描かれるパンケーキに人差し指を向けた。

 何だかんだで結局食べるのか。


***


「んんんん〜〜〜‼︎ 先輩美味しいです!」


 一口入れた瞬間、上原はまるで少し前の自分の存在自体を抹消したかのように真逆の反応を示した。批判していたものの、上原も立派な女子。パンケーキを食べて不味いと言うほど味覚は狂っていなかった。


「そんな大声出さなくても聞こえてるから」


 上原が発した大声で、定員と訪れていた二人組の女性客から視線を浴びる。僕たちがまるで微笑ましいカップルにでも見えるのだろうか。


「先輩はそれだけで足りるんですか?」


 僕は上原と違い、パンケーキを頼んでいない。前提として、夕方だというこんな腹を満たすような物体に食欲が湧くわけないのだ。ただし小腹は空いている。なのでコーヒーとクロワッサンは頼んでいた。


「これが普通だ。……お前太るぞ」


「うぐっ!」


 率直な感想が上原の心に突き刺さる。彼女は飲み込もうとしていたパンケーキが喉に詰まり、胸を二、三回ほど叩いた。コップに注がれた水を口に含み、ようやく呼吸が出来るようになる。


「ふぅ……先輩ってほんと失礼ですよね」


「事実を言っただけ。……だが、それを全部食ったらの話だけどな」


「それって遠回しの欲しいアピールですかぁ? 仕方ないですねぇ、一口だけですよ」


「は? そんなこと言って──」


 僕の口元にフォークで刺された一口サイズのパンケーキが現れる。


「はい先輩あ〜ん」


 何この羞恥プレイ!︎ 僕そんな性癖ないんだけど!

 再び集結した周囲の目に煽られ、ゴクリと喉を鳴らし、僕はパンケーキを口に入れた。


「どうですか?」


「あぁ、うまいよ」


「ですよね⁉︎ 特にこのパンが美味しいです!」


 僕の感想に喜んだのか、はたまたパンケーキの美味しさに興奮したのか。その事実は彼女しか分からない。しかし満面の笑みを浮かべる彼女に不思議と僕も高揚させられ、目元を細めてしまった。


「ほんと好きだな、パン」


「はい! ……ちなみに私は最近パンよりも好きな物を見つけました」


「へー、聞いても良いか?」


「先輩です」


 何の恥ずかしさもなく、躊躇いもなく上原はそう言った。


「冗談でもそんなこと言うのはやめとけ」


 もちろん、僕はそんな甘い発言を信じない。毎日のように会いに来るのも頼れる先輩友達としてだろうし、そもそも僕を好きになる理由がない。

 彼女はいつの間にか真剣な瞳を僕に向けていた。常に笑っている印象がある彼女のこんな姿は初めて見た。好物であるパンを食べる手も完璧に止まっている。けれど僕の言葉を聞き、上原は呆れた吐息を吐いた。


「先輩ってほんと鈍感ですよね。私結構アプローチしてますよね?」


「………」


 何も言い返せなかった。

 じーっと、フォークを咥えながら鋭利に尖った彼女の眼が突き刺さる。彼女から視線を外し、そっぽ向いて何とか回避した。


「私に……というか恋愛に興味ないとは思ってましたが、まさかここまでとは」


 恋愛に興味がないわけじゃない。ただ好きな人が出来ないだけだ。


「なんか悪い」


「いいえ、全然構いません。……ですが──」


 唐突に上原はフォークを机に戻し、人差し指を僕の口に当ててきた。


「必ず振り向かせて見せます。なのでこれから覚悟してくださいね?」


 ニヤリと何かを面白がって企む上原は、外見的にも年齢的にも歴としたコウハイ。

けれどこの時だけは、男を出玉に取るような悪徳センパイに思えてしまうのだった。

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