章末
「……何だい、これは?」
その部屋に足を踏み入れての第一声がそれであった。亡霊は思わず己が何等かの幻術に嵌まったのではないかと訝んだ。
「何だって……御大臣様だけど?」
「いや、そうじゃなくてだね?」
案内した背後の巫女擬きに向けて、思わず亡霊は突っ込みを入れる。それは分かっている。分かりきっている。そもそも彼に会うために来たのだから。
「そうじゃなくてって。じゃあ何なのよ?」
「それは……いや。言葉遊びは止めよう。説明はしてくれるのかい?」
宮鷹の娘の言葉に更なる突っ込みを入れようとして、それがこの娘の馬鹿げた話術に嵌まる所業だと即座に理解して亡霊は本題に話を戻す。
「説明ねぇ。何処から説明したものなのだか……」
ノリの悪い亡霊の態度に肩を竦めて、しかし巫女擬きの娘は部屋の奥の存在を見て普段の妖艶な振舞いも引っ込めて何とも言えぬ表情を浮かべて困り果てる。実際、どのように眼前の人物が眼前の状態に成り果てたのか説明するのは非常に困難だった。
「いや、説明して貰わないとかなり困るのだけれど……あれを見たまえよ。膝が三つになってるじゃないか」
何だったら上下反対になっているし、畳に沈んだ顔面からは涙と涎が垂れ流しである。床に泉を生み出していた。仏の如き面で白眼を剥いている物体……説明不足にも思えるが実際、それくらいしか表現のしようがなかった。鵺ですら眼前の前衛芸術を正確に説明するための語彙を持ち合わせていなかった。
「御客様と御対面した途端に黙り込んじゃってね。その後直ぐに体調不良って退出。御茶会は白けて即刻御開き。車の中に着いた時にはもうこの様よ」
付け加えるならばこの異常事態を誤魔化すために態々彼女はここまで同行する羽目になったのだとか。うんざりしたような態度は、確かに車の中でこれと一緒である必要があったのを思えば当然であった。
「それは災難だったね。しかし、御茶会か……」
「巫女様がおられたのだ」
顎を撫でて訝る鵺の発言に重ねるように、老人は喉奥から言葉を紡いだ。亡霊と巫女擬きが共に視線を部屋の奥の肉塊に向ける。
「あ、あ"あ"あ"あ"っ"!!!!」
吠えるように、あるいは吼えるように、大口を開いて老紳士だった男は絶叫する。歓喜に打ち振るえる。
「そう!!そうだ!!そうであろうとも!!あれぞ。あれぞ正しく……あの御方の!正しく、正しく、正しく!!運命えぇぇェェのぉ!!」
目玉が飛び出んばかりに目を見開いて、唾を吐き散らかしての咆哮であった。全身を打ち振るわせて、絶頂する。じわり、と袴に染みが広がる様に亡霊と巫女擬きの姫は同時に顔をしかめた。いやどれだけぶちまけたのだ?
「……成る程。おおよそ理由は把握した。まさか目にしただけでここまで壊れるとは思わなかった。私の見立て違いというものだね」
亡霊は弟子であり同志でもある男の反応に全てを察したようであった。普段こそ平静を、少なくとも取り繕う程度の理性はあった筈だが……その腹の底で積もりに積もっていた感情の奔流は、その爆発はどうやら想定していた以上であったらしい。
「……貴方にも想定外の事がある訳?」
「私が全知全能の神ならば、こうもせせこましく陰謀を企ててたりはしないさ。長生きしていれば想定外の事なんて山程あるものだよ」
そう。例えばあの天狗の小娘の事案の顛末等……。
「しかし、困ったものだね。この分だと彼、我々の存在にすら気付いているのか怪しいものだ」
眼前の物体は完全に妄想と妄執の世界に沈んでしまっているように見えた。
「……そう言えば、何のために此方に足を御運びに?正直な所、そのガワで行うには軽率な行いではないかしら?」
宮鷹の巫女擬き姫はふと気付いたように尋ねる。屋敷に帰宅して、己の部屋に閉じ籠った左大臣にたかが祐筆の分際で己から接触に向かうなぞ、余りにも悪目立ちではないか?
「そうも言ってられなくなってね。早く決断をして貰う必要が出てきた。後手後手になってしまっては不味い」
「……何があったわけ?」
不穏な気配に巫女擬きは亡霊のもたらして来た問題について問う。
「暗摩山での一件が解決した。正確には解決してしまった情報が来る事になる」
伝令よりも早く、狐に寄生させていた蟯虫によって鵺は全てを把握していた。彼の蛇の末路を、天狗共の使節団に向けた宣告も、帰還した中納言の宣う戯言も。
……これが討伐隊の編成と出立後であれば最悪有無を言わせずに既成事実を作ってしまう事も出来た。討伐隊の街頭行進の後ならば体面もある。現場の和議なぞ無視して殲滅戦に持ち込む事も出来たかも知れない。そしてそれは間に合わない。
「兵糧輸送に名乗りを上げた橘商会が突然ごね出してね。輸送契約に遅れが出てしまった。今から何をしても、伝令が辿り着く方がずっと早いだろうね」
予算が決まらないのに動員出来る筈もなく、街頭で行進も出来やしない。討伐隊の編成は遅れ、遅れ過ぎて、今や不要品となってしまった。天狗共の差し出す財貨の量を思えば今更大金を動かして戦争するなぞ馬鹿げていた。正式に世間に話が広がっていないのだから動員計画自体を無かった事にしよう……公議の参列者の大多数は恐らくこれを主張するだろう事は目に見えていた。人は刻と共に熱狂から醒め、喉元過ぎれば熱さを忘れるものだ。
先手を打たねばならない。鵺の手にした情報は鮮度の良い速達のそれである。都の者で同じ情報を知る者は殆どいまい。ならばこそ、大臣には今の内に動いて貰いたいのだが……。
「それにしても、良く収めたねぇ?」
彼の大蛇の伝説については巫女擬きの姫も知っていた。残り滓とは言えそれを討伐して見せるなぞ……天狗共についてもそうである。良くも尊大で矜持の高い連中に譲歩させたものだ。
「蛇については同意するよ。いやはや、流石だね。私としても鼻が高いよ」
「天狗共については想定済だった訳?」
どの面下げて鼻高々等とほざくか、内心で吐き捨てながらも噯にも出さずに宮鷹の姫は尋ねる。朝廷と天狗の因縁を思えば、連中の行為が想定内だとは到底思えなかった。特に、その元凶たるこの男が口にすると……。
「愛だ」
会話に割り込むようにして部屋の奥の狂肉が呟いた。ぐるりと首を回転させて顔だけが上下正しく亡霊と巫女を見る。
「愛故に。そうでしたな?陰陽寮頭殿?」
「……」
上(下)が三又の鉾になっている左大臣の指摘に亡霊は無言で肯定する。内心で口は平静なのにその体勢なのやめろと思うが口にはしない。
「時に宮鷹の姫殿。貴女は何処まで話を伝え聞いているかな?」
ぶっ飛んだ姿勢で、涙の跡が刻まれた顔で、口は老紳士そのもので左大臣は宮鷹の贄娘に問う。亡霊同様に姿勢と表情と口調の落差にげんなりしつつも忍鴦は恭しく答える。
「古事記によれば、大君は功ある三ツ足烏に所領を与えた……三ツ足烏は陰語、それが公の記録でしたか?」
天狗が扶桑の成立に関わった事、それを公然と公開する訳には行かぬ。そして裏の歴史もまた公開する訳には行かぬ故の婉曲的な表現……。
「実際は島流し。大君を襲った天狗の長を、しかし当の大君は慈悲深くも斬首する事を躊躇い、結局当時の辺境に押し込めた……として貶めた」
この話には続きがある。それは初代の陰陽寮頭が皇后と結託して謀った扶桑における最初の権力闘争であり、謀略だと。故に彼の山に追放された天狗は朝廷を酷く恨んでいるとも……尤も、古き家の本筋ならばそれくらい知っている。今更そんな事を語るつもりとも思えない。
「陰陽寮頭殿」
「折角だから話すけどね。あれは寧ろ私としては似合わない程の善行だよ。泥を被ってあげて、怨まれ役になってあげたのだからね」
左大臣の呼び掛けに応じて、亡霊は姫に昔話のネタバラシをしてやる。
「泥?」
「大火をボヤ火にしてあげたのさ」
あの愚かな鳥は政治は分からぬ。扶桑は人の国だ。半妖の出しゃばる国ではない。彼女は例外だったのだ。
「半妖が差別されるのは単なる偏見じゃないさ。当時は神も妖も人も、弱者は生き抜くためならば何でもやったものさ」
それは半妖共も変わらない。徒党を組んで、己達よりも弱い唯人共の村を略奪したものだ。原初の退魔の戦士達は皆用心棒として連中と良く殺し合いをしたものである。
「押しが強いなら良かったよ。覇気があれば、向上心もあれば別の選択肢もあり得た。唯のお利口さんを残すのは最悪さ」
「……成る程」
巫女擬きの姫は亡霊の言葉に納得した。
抗い、のし上がるつもりもない半端な化物が権力闘争に勝ち残れる訳もなく、そんな者が一度舞台を降りたら命は長くない。出自を思えば擁護してくれる者、保護してくれる者は多くはないだろう。
「あの娘の納得するギリギリの線でね。放置していたら間違いなく焼き鳥にしてただろうさ。あるいはその前に彼が動いたかな?その時は最悪だね。私としては折角拵えた作品が台無しだ」
あははは、と遥か昔を思い起こしてからりと嗤う亡霊。軽い口調で語るには余りにも重い内容に忍鴦には思えた。こいつはこいつで感性がズレている。
「……まぁ、そういう訳だ。あの鳥にも山に追放、帰郷させる際にその事は説明したのさ。重々と納得してくれたよ。そして私は己の判断が正しかった事を確信したものさ」
嵌められた事よりも、腕を失った事よりも、慕う者が奪われた事よりも、ただ愛した人の平穏と安全と安定を喜んで……それでは駄目だ。そのような謙虚な在り方では到底生き残れない。傷になるだけだ。そんな女は遠ざけるのが正しい。
そう。狡猾な癖に青臭かったあの青年自身のためにも……。
「さて、大臣。今の報告の通り、事態は緊急を要します。急ぎ先手を打つべきでしょう」
「致し方ありませんな。文を書く用意を。方々に討伐の取り止めの提案をしなければ。……あぁ、全く以て口惜しい!!」
亡霊は頷く。そして祐筆の立場を利用して宮鷹の姫にこの場を押し付け、己は文具を取りに踵を返して退出した。背後からの二人分の愚痴と呪詛の言葉を聞き流して彼は肩を竦める。
(随分と攻撃的……昂っているね。想像以上に劇薬だったか)
流石に暴走する前に自身から退席したのだ。軽挙妄動は無いとは思うが……あの反応を見るに注意しておくに越した事はない。
(方々への説明に偽装。黄華君達の回収の迎えも必要だね。やれやれ、だから下手に関わらぬ方が良いと言ったんだがね?)
あるいは蛇は生き残り、天狗は屈服したやも知れぬ。あの蛇が此方の要請に応えるとは思えないが、意図が知れても知れなくてもあの性格だ、誘導は出来よう。この一件、此方の損失は大したものではないが逃がした魚は大きいかも知れない。
「まぁ過ぎ去った事をとやかく言っても仕方あるまい。それは兎も角……」
それにしてもまた随分と面倒な「連中」に魅いられたものだ……亡霊はある意味身内とも言える男に向けて、最大限の憐憫の情を抱いていた。
ーーーーーーーーーーー
微睡みは永遠には続かない。夢は何時か覚めるものである。問題は、夢から覚めた後に待ち受けるものが何かという事だ。
「あ、起きた?」
「あ……?」
覗き込むように見下す眼差しと視線が重なる。未だ思考の定まらぬままに口をあんぐりと開いて相手を見つめ続ける。
「……おい。ちゃんと目覚めた?はいこれ、何本か分かる?」
「んっ、あっ……えっと。えっと……に?」
此方の鈍い反応に苛立ったのか無理矢理に身体を起こされる。眼前に白い指が一杯に広がった。ぼんやりとした輪郭のピースサインを見て、俺は途切れながらも声の命じるままに答える。
「宜しい。これは何指?」
「小指?」
「これは?」
「……輪っか?」
「よしよし、これは?」
「輪っかに指……いや。何しとんねん」
意識がはっきりすると共に俺は突っ込みを入れていた。眼前でニヤニヤしながら下品な合図をする女天狗を認識して、呆れ果てる。……いや待て。天狗?
「何処まで覚えてる?」
「何処まで?……あれ?というか、ここ何処だ?お前は、誰だ?」
天狗の質問に、俺は状況把握に意識が向いた。自身の寝ていた上等な部屋に、俺は何故か見覚えがあった。眼前の片翼の抉れた天狗にも見覚えがあった。しかし、分からない。何も、何が何なのだか……。
「っ!!?というか、貴様!!?」
確実な最も鮮明で最も新しい記憶は使節団の隊列が襲われた光景だった。破裂した、殻継家の当主の姿……!!
「お前、もしや……!!っ!!?」
得物を手にしようと周囲を探り、しかし何処を見ても武器はなかった。代わりのように全身に走る筋肉痛に舌打ち。睨み付ける。飄々としてそんな此方に流し目を向ける女天狗……!!
「ちぃびなめるよ!!?肉体強化で……「中納言」っ!!?かはっ!!?」
痛む全身を奮い立たせて身体強化で対抗せんとして、しかし紡がれた単語に俺のその覚悟は揺れる。揺れた瞬間を突くように組み伏せられた。
「くっ……!?」
「おっと。詰まらん事はしないでよ?火事にするつもり?」
最後の切り札たる妖化は、それが為される前に全身に蚯蚓のように縄が巻き付いた事で阻止される。霊力の、妖力と神力までもがその流れを阻害されていく……。
「畜生……!!」
「そう喧嘩腰にならないで欲しいのだけどね?別に此方は荒事にするつもりはないんだから。一緒に汁まみれになった仲じゃないの?」
「何を……!?」
訳の分からぬ発言に俺は困惑して、心理戦の一種かと思い睨み付ける。天狗の女はそんな俺の姿に苦笑して肩を竦めた。悠然として背中を見せて背後から何かを取り出す。
「まぁ落ち着きなさいな。ほら、呑みなさいよ。まだ浅漬けだからあんまり味が出てないけど……中々悪くはないわよ?」
瓶詰めから黄金色の液を椀に注ぐ。甘味に酸味の混じった薫りが部屋に満ちた。椀を眼前まで差し出す。これは……蜂蜜酒?
「暗摩の蜂蜜地酒の糞蛇漬けよ」
「何だそりゃあ?」
天狗の説明に更なる困惑。何をどうしたらそんな物を造る事になる?というか何で俺に出す?怪し過ぎる。何を企んでいる……?
「アンタのお陰だからね。功労者には真っ先に呑ませてやんないと」
「化物の差し出す酒呑む奴がいるかよ」
妖の差し出す酒と肉は絶対に喰ってはならない御約束だ。何が入っているか知れたものではない。そう語った俺を何処か懐かしげに、そして寂しげな眼差しを向けてくる天狗であった。解せない。
「ふぅん。残念ねぇ。こんな良い物、滅多に呑めないでしょうに。アンタ、かなり損したわよ?」
「生憎、上物なら仕入先があってな。そんなのよりも余程安全で上質な代物さ」
勿体ぶって椀の中の酒を味わい呑む天狗に吐き捨てる。強がりではない。実際、何処ぞの南蛮娘なぞは度々礼物として珍酒名酒を定期的にくれていた。……良く狼女の奴が盗み呑みしてるけど。
「猿連中が造る物ねぇ。到底この御神酒より良いとは思えないけど……ぷはぁ!あぁ、強い!!」
俺の言葉に嘲りというよりも訝るように応答して、天狗は酒を呷る。呷って豪快に息を吐いた。かなりの度数なのだろう。吐き出した吐息は鬼のそれに匹敵する酒精の薫りに満ちていた。
「……俺をどうするつもりだ?煮て焼いて喰うつもりか?」
「あはははっ!!じゃあさしずめこの酒は下味付けかしら?安心しなさいな。喰い殺すつもりはないわよ。人肉の旨い調理法なんてウチの里では伝わってないんだからね?」
「ふざけやがって……何なんだ、この会話は!!?」
本当にふざけた会話であった。意図の分からぬ、不明な会話。一体どうなって……まさか俺は人質なのか?いや、中納言は兎も角俺に人質の価値なぞ其処までない筈だ。この天狗女の狙いは、何なんだ!!?
「狙いって、そんな大仰なものじゃないんだけどね?何だったら私はアンタとの誓約を義理堅く守ってやるためにこうして会話してるんだけど?」
「誓約、だと?」
「そ。誓約」
そして天狗は腕を捲る。白い肌に刻まれる刺青のような模様を一瞥して、再度俺を見る。
「……これでも結構律儀なのよ私って?」
言うや早く、天狗は縄で簀巻きにした俺を見下すように立ち上がった。床に倒れる俺は身構える。しかし天狗が足を運ぶのは部屋の壁の方であった。壁に掛けられた着物……羽毛で編まれた外套である。それを掴んで見せつける。
「こいつは……?」
「とりま、先ずはこれを御覧あれって所かしら?そら見て見なさいな、この見事な烏天狗の羽毛外套を!……そっちだと割と高値らしいじゃないの?五十年掛けて編んだ自慢の一品よ」
天狗の羽根は最高級の羽毛であり、呪具の素材でもある。それを何百本、あるいは千を超える?天狗の手自ら編み込んだ外套は日用の調度品としても退魔士の防具としても一級であろう。実際眼前の烏濡羽色に照り輝くそれに俺は言葉を失っていた。
「そ、し、て!!」
「あ?んぐっ!!?」
唖然として外套を見つめていると女天狗が寄って来る。そして指を二本立てる。俺の口内に突っ込んだ。加えるならばこの時漸く俺は面を着けていない事に気付いた。
「な。なひぃ、っを!!?」
「咬まないでよ?んっ。まぁこんなものね」
口内を手袋ではない素の指でまさぐって、蹂躙して、そして糸を伸ばして引っこ抜く。唾液でどろどろの指を天狗は噛み締める。出血。唾液と血液が指回りで濁って混ざり合う。それを外套に押し付ける。外套の表面に染みで何か記号を描く。囁く。そして染みは乾いたように消え去る。噎せて、涙目になって咳き込みながらも俺はその一部始終を目撃する。
「けほっ、げほほっ!!?な。何を、した!?」
「単純に窃盗対策よ。没収されそうになったら言ってやりなさい。私の認可無しに譲ったら持ち主に不幸がやって来るぞってね」
冗談めかしての、しかし冗談ではない内容だった。何だそれは?まるでこれは俺に……?
「俺に、寄越すって言うのか?それを?」
天狗が己の編んだ毛織物を他人に与える事例は本当に少ないという。商売としても、ましてや無償で?
「それ以外に何があるのよ?嗚呼、法螺貝とか縄なら既に一切合切譲渡済みだから安心しなさい。アンタの気結構旨いようだからね。特に縄の奴はかなり舌が肥えちゃってるわよ?覚悟しときなさい」
「はぁ?」
何の話か訳が分からなかった。譲渡済み?舌が肥える?さっきから何の話を言ってるんだ?話について来れない。記憶の改竄……?いや、天狗の発言を事実と前提とするのが可笑しい。
「分からないなら分からないで構わないわよ。どうせアンタの性格からして説明しても信じないでしょ?というか目が言ってるわね」
「信じる要素が、ねぇだろが!!」
殻継の当主の上半身を吹き飛ばして、中納言を誘拐した敵の発言の何処が信用出来ようか?
「……事情を知る立場で見たら滑稽ねぇ?」
「滑稽で結構だよ……!!くっ!!?硬ぇっ!!?」
幾度か悪足掻きするが駄目なものは駄目だった。神力を振り絞ってもその都度縄に喰われていく。抵抗は無意味だった。少なくとも真正面からの正攻法では……。
「……畜生!」
結局、それ以上貴重な霊力神力を失う訳には行かず俺は抵抗を中止した。中止するしかなかった。
「……ふふ、素直で結構。反抗ばっかりするのも小生意気で可愛いらしいけど、やっぱり正直なのが一番ね?」
「餓鬼扱いしやがって!」
実際、眼前の怪物からしたら俺は年下の小僧なのだろうが……だからといって愛玩動物みたいに言われる謂れはない。
「そうそう。公議での話し合いで決まったけど褒美にあとは幾等か金子も用意しているわ。素直に受け取っときなさい。それと確かあとは……そう。これこれ」
そして手の内を広げて見せつけるのは……錆びついた銅の塊であった。
「……駅鈴?」
「交通証。と言った所かしらね?大分お古で使ってないけれど、まだ有効な筈よ?」
かなり古い代物のそれは呪具のようにも見えた。交通証、魔除けか?
「山で鳴らせば里の連中が直ぐにやって来るわ。式連中は守るし、山妖共は逃げ出すわ。……最後は保証出来ないかもしれないわね。歯向かった連中は今掃討してるらしいけど過信は禁物よ」
そんな事を宣って、女天狗は俺の装束に備え付けられた腰の物入に勝手に駅鈴を押し込む。
「まぁ、特に気負う事なく気軽に訪問したらいいわよ?猿相手でも、精々一族挙げてもてなしてあげる。……その身体、色々と厄介そうな呪いやら縁があるようだしぃ?いざという時の逃げ場所はアンタとしては必要でしょ?」
「それは……っ!!?」
魂すら見透かしそうな眼差しに、俺は息を呑む。鎌を掛けている訳じゃない。確信を抱いての発言。この天狗、何処まで俺の秘密を知っている……?
「……幻術やら何やらで自白させたか、って面ね?もう少し素直になった方がいいんじゃないの?」
「妖相手に素直にしてたら俺はここにいないだろうよ」
此までの間に喰い殺されている。
「ふっ。まぁ、一理あるか。仕方無いね。其処は合意してあげるわよ。あの糞蛇相手だけでも散々に実感するわ」
俺の眉間に皺を寄せての反論に、ふと、優しく天狗は微笑み同意した。妖のそれと分かっていても、人に似た造形が、その態度が、どうしても敵意を削いでいた。
何よりも、これまで出会した妖としてはまだ話が通じる所が俺の警戒心を緩めて……。
「……んじゃあ。公としての通達も終わったし、私は素直になろうかしらね?」
「へっ?」
奇妙な物言いに困惑。そしてそれが始まりであった。ドンッ、と気付けば天狗は俺に馬乗りとなっていた。……ドロドロに濁った眼差しで此方を見下ろして。
頬を紅潮させ、ふぅーふぅーと荒い息を吐きながら。じゅるり、と涎を垂らす肉食獣めいた眼差し。
「何、を、……!?」
「ふふふ!!煩ぇ!それは此方の台詞なのよぉぉ!」
事態の急変。態度の急変に唖然としていると装束の前をはだかれた。剥き出しになる胸元。ベロリ、と汗の滲む肌を刻まれた傷跡をなぞるように、汗を掬うようになめられた。ぞわりと背筋が凍りつく。
肉食獣に睨まれた兎のような感触に、襲われる。
「ひぃっ!!?」
「うわ、すっご♡濃過ぎるでしょ、特濃よ。こんなの詐欺でしょ、麻薬でしょ?人の頭快楽でぶち壊す気かこの牡猿♡」
怖じける俺に向けて蕩けるような声音に口汚い言葉を浴びせる女天狗であった。因みにその表情は声音以上に蕩けていた。己の口元に残る汗を赤い舌で回収するようになめ尽くす。瞳孔はグルグル目になっていた。完全にキメてる目付きであった。
「おい!?いや待て!!?何かお前急にキャラ変わってない!?」
「煩せぇよ、この濃厚牡臭がっ♡此方は初対面からずっと我慢してやったんだぞ♡ムラムラさせやがって♡てめぇこそ常時ムンムン匂い出してんじゃねぇぞ♡誘ってんのかこの野郎♡誘い受けか?誘い受けなんだろ♡ムッツリめ!」
今度は己の上着を乱暴に脱ぎ捨てる。ぴっちりと肉襦袢の密着した肢体が晒け出される。良く筋肉の引き締まり、それでいて程度良く丸みの帯びた肉付きであった。そして何よりも雌臭としか言い様がない匂いが嗅覚を刺激した。
「待て!いや待て待て!?この流れ可笑しい!絶対可笑しい!?何か猿空間に入ってない!?」
「牡猿だから当然だろが♡牡臭出してるから当然だろが♡この野郎、私らの嗅覚なめるなよ♡牝狐だって獣臭で分かるんだゾ?人の頭蕩けて殺すつもりかよ♡愛の刺客かよ♡!?」
「何それ知らないけど!?」
まるで人が変なフェロモンでも出してるような言い種であった。名誉毀損であった。完全に責任転嫁であった。責任転嫁でも普通はこの流れは可笑しい。やはり猿展開であった。
「落ち着け!取り敢えず落ち着け!?キャラ変してるから!!キャラ崩壊してるから!?軌道修正必要だから!!」
「大人の御姉さんとして公私分けてるだけだろこの野郎♡そもお前さんに今更拒絶の選択肢なんざねぇんだよ♡自分から喰われに来てるだろうが♡人を傷物にしやがって♡責任取れよ♡」
「傷物!?」
何それ知らない!?
「抱いて飛んでやったろうが♡肌に(呪印)跡刻まれてやったろうが♡髪は女の命だぞ♡自慢の美翼差し出してやったろうが♡舌捩じ込んで口吸いしてやっただろ♡?忘れたとは言わせねぇぞ!?♡御姉さんはとってもとっても献身的なんだぞ♡!!?」
「知らないけど!?」
特に最後は意味不明である。どうしてそうなる!?何があった!!?逆レか、逆レされてたの!?
「人様の産み立てほやほやの卵まで食ってくれやがって♡《ref》求愛意思表示行動。暗摩天狗の独自文化。牝獅子の赤子殺し的なアレ《/ref》あんだけ意思表示してその気がねぇとか言わせねぇぞ!?♡」
「何の話!?最早存在しない記憶だろそれ!?」
というかお前ら卵生なの!?
「烏だから当然だろが!」
「納得した……!!」
同意と共に俺はだけていた装束を剥がされた。上半身が剥き出しになる。全身の傷痕に、打撲跡が残る身体が空気に触れる。直後に天狗の生暖かい吐息に撫でられる。
「ひゃい……!?」
「ははっ!可愛い声出しやがって♡!!媚びてるんじゃねぇぞ♡」
思わず出た悲鳴に女天狗は胸元への甘噛みで返す。ぶるりと身体が震えた。
「んっ。ん、ん、ぷはぁ……!!」
「や、やめ……は、話せば分かる!」
「ヤレばデキる♡」
「正論だけど!!?」
というか卵生なのに人とデキるの!?生命の神秘なの!?エロゲー世界だから気にするな?成る程!!ヤらせんぞ……!!?
「ふぅー。ふぅー……暴れんじゃねぇぞコラ!♡」
必死に踠く俺を女天狗は見た目では想像出来ぬ妖らしい腕力で捩じ伏せる。馬乗りになっていた身体を更に乗り掛かるようにして寄せる。胸元に柔らかい物が潰れるように貼り付く。おい、馬鹿!マジ止めろ……!!
「散々確認してやったんだ♡我慢してやったんだ♡今更逃げんな♡責任とれよ♡」
「責任!?どうやって!?」
「ボボパン一択だろこの野郎♡」
「やっぱりタフだ!?うおっ……!!?」
突っ込み、同時に仰け反る。具体的には言わないが女天狗が布越しに下腹部のナニにナニを当てていた。ナニでナニを撫でて刺激していた。生理現象故に、どうしても刺激に反応してしまう。あと何かお前の布地湿気てない!?
「ほかの、他の責任の取り方で!!せめてそれ止めろ!!落ち着け!こんな雰囲気で色々捨てるの止めとけ!若気の至りだ、絶対後悔するぞ!?」
「私、お前より年上だけど♡?」
「畜生、化物め……!!」
もしやこれ、こいつ目線だとショタレイプなのか?そんな下らない発想が思い浮かんだ。現実逃避である。
「嫌な顔すんなよ、こんな美人とヤれて役得だろが♡御褒美だろが♡溜まってんだろ、こちとら匂いでわかんだよ♡」
「だとしても、強姦される趣味はねぇんだよ……!!」
「いでぇっ♡!?」
勢い良く頭突き。今度は天狗が仰け反る。転がって、馬乗りの女天狗を振り落とす。立ち上がって逃亡せんとする。足が縺れる。失敗する。烏の羽根が舞う。女天狗が勢い良く背中に乗っかっていた。グイグイと腰を振る。擦りつける。蕩けた眼差しで見下ろす。
「だったら強姦しろよ♡さっきみたいに逆転してみせろよ♡地母神の血引いてるなら出来んだろ♡おら、手解きしてやるよ、穴があったら入りたい目に遭わせてやるよ♡」
俺が断った酒瓶を持ち出す。離れた所からでも分かる酒精。次の行動は分かりきっていた。天狗は兎も角、俺が呑んだら一気に酔い潰れる事確定で、後は煮るなり焼くなりヤルなり……いや不味い。いやこれ本当に不味い!!?
「だ、誰か……誰かぁ!!?」
「はははっ、叫んでも無駄だよ♡この部屋は防音なんだ♡観念して就活しろや♡繁活しろや♡んんっ、私の……「やめなさい」うげっ!!?」
酒瓶を呷って口内に溜めこんだまさにその瞬間、ドンッと天狗の頭に何かが叩きつけられて、酒を吐き出してバタンキューと倒れ込んだ。人様の顔面に口内の酒をぶちまけて気絶する女天狗。それを一瞥して、そして下手人を見上げる。
片腕のない、幼い顔の烏天狗の少女……。
「お前は……」
「先ず、それを退かすわね?」
俺が質問する前に闖入者は逆レしようとしていた女天狗を撤去する。そして俺を縛る荒縄を解く。キツく締め付けられていた縄は天狗の少女に撫でられた途端にしおらしく緩んだ。俺を解放する……。
「娘が粗相をした。謝罪する」
「娘?」
「んっ。娘」
立ち上がった俺は不躾にも眼前の新たな天狗を何度もまじまじと見つめていた。怪我しているのか、薄く着崩れた装束の下には包帯が巻かれているようだった。幼い外見……娘?この倒れてる奴が?逆では?いや妖の外見なんて信用ならんものではあるが……。
「どうして、助けたんだ……?」
「貴方は里の、里の仔達の恩人だから。朝廷の人間だから。私達は貴方と貴方達と敵対する気はない。だから……駄目?」
遠慮がちに、天狗の少女は語る。首を傾げる振る舞いにあざとさも感じそうになるが、恐らくそれは演技ではなかった。
(それよりも……)
それよりも、その内容に俺は疑念を口にする。
「……もしかして、記憶が抜けているのか?俺は?」
「詳しくは話さない。信用出来ないでしょ?貴方の仲間達から詳細は聞いたらいい。その方が貴方は信じる筈」
「解放、してくれるのか?」
「話はもうついてる。そも、貴方がここにいるのは治療のため。これは想定外。もしかしたら呪いなのかも知れない」
「呪い……?」
聞き捨てならぬ発言であった。この世界において、呪いという単語は戯言として流せるものではない。
「詳しい話は仲間達がしてくれる。……それより早く、これは荷物」
激しい戦闘の後のように皹の入った面、誘拐された際に手にしていた各種荷物。そして見知らぬ荷も……。
「大丈夫。娘も言ったように貴方の物よ。持ち出しても呪われないわ」
「……騙す理由は、ないか?」
「誓約、結ぶ?」
「……さっさとここを離れたい」
「あの障子から、外に出れる。この屋敷は樹木の上だけど……外に停めてる式が運んでくれる」
「騙してくれるなよ?」
「んっ」
少女天狗の態度を疑りつつも、しかし行動はする。荷を背負い、障子を開いた。奥に続く廊下に人気はない。罠は、ないよな?
「待って」
「っ!?何だ!?」
部屋から立ち去る直前、今一度天狗の少女は俺を呼び止めた。振り向くのと、床に落ちたそれを差し出すのは同時にだった。
天狗の羽毛の外套を、差し出す……。
「それは……」
「この娘の御礼の気持ちは本当。改めて貰って欲しい。駄目?」
「駄目って……」
逆レしようとして来た女の用意した代物だ。素直に受け取るにはかなり抵抗がある。しかし……。
(敵意を向けるのに抵抗がある?糞、訳が分からねぇ!!)
足元で倒れる女天狗に負の感情を突きつける事に、どうしても動揺があった。差し出された外套を、しかし突っぱねるつもりにはなれなかった。何故?絆された?馬鹿な。どうして?そんな事は……糞!
「……えぇい、ままよ!!」
僅かの迷い。しかし結局、俺の身体は直感、あるいは感情に合わせて行動した。引ったくるようにして俺は差し出された外套を受け取る。
「返却や賠償はないぞ?」
「んっ」
「……糞。何なんだよ。こりゃあ!?」
退魔の戦士としては当然の甘さすらある行動。それなのに抱く何とも言えぬ罪悪感、後ろ髪を引かれる思いを押し退けて、踵を返す。俺は迎賓館のような屋敷の廊下を走り抜けた。何はともあれ、さっさとここから逃げ出して使節団に合流してしまいたかった。
状況確認はそれからでも遅くはない筈だから……。
「……ふぅ。もういいわ。起きなさい」
「……母様、良かったのかよ?あんなあっさりと返してしまってさ?」
母天狗の呼び掛けに娘天狗は、楓花はムクッと起き上がった。平然として、飄々とした面で、頭に出来たたん瘤は涙目で撫でて。
「はぁ……。貴女達は世間に疎い。末端とは言え朝廷の家臣を犯して里に勾留したら話がややこしくなる。折角戦が回避出来たのに全部台無しにするの?」
「むぅ……」
嘆息、棘のある物言い、ジト目での糾弾に楓花は黙りこむ。正論であった。全くの正論であった。
そも、此度の誘拐自体がある意味でやらせでもあったのだ。何せ使節の代表があの中納言となれば……母天狗は昔を思い返す。姫君への求愛のためにと退魔士を連れて山に突撃してその日の内に遭難した若者の事を。
娘の一人が仕方なしに救護して看病した件は、当時こそその貴人と弟子の救助に来た化狸との壮絶な荒事になって大迷惑であったが……よもやあの小僧が使節の代表となり、密かに交流を続けていた娘経由で上司たる楓花に里の危機の打開策の切っ掛けを助言する事になろうとは。世の中どうして分からぬものである。
「……そう言えば躑躅は?一応聞くけど中納言を搾り殺してはないでしょうね?」
そんな事になればやはり全て台無しだ。
「あー、その辺りは大丈夫だと思うわよ?あいつが言うにはそういう関係ではないっぽいし」
何方かと言えば母子か、姉弟に近いらしい……そう語る楓花。躑躅曰く「ぷらとにっく」らしい。外来語は分からなくて困る。
「まぁいいわ。中納言も、出来る限り早く御帰還願って。余り滞在されると怪しまれるわ。後腐れなく、丁寧に丁重に……私としては貴女にも躑躅と同じような形で振る舞って欲しかったの良かったのだけど?」
それこそ喰われてしまった上の子らならそうしたであろう。……少なくとも今回限りは。
「いやだって、滅茶苦茶ムラってしたし……地母神の血統だよ?あれ無理でしょ、一度ハマったら絶対抜けられないよ?ドハマリよ。頭の中に直接阿片でも突っ込まれたような……私だってずっと我慢してたんだよ?あの野郎、人の気も知らずにド淫乱に濃くまろな匂い撒き散らしやがって!」
「はぁ。……うん。分かってる。我慢出来ないだろうって。分かってた。だから活用したわ。上手く騙されてくれるといいのだけど」
娘の最後辺りはもう剥き出しになってる欲望に再度嘆息。説明。帰れば事の詳細は方々から説明されるだろう。そして知る筈だ、呪いの意味を。呪いの意味を……履き違える筈だ。
「……あの糞蛇の神罰が私の精神に作用したって考えてくれたら上々、って?」
「逃げ道も用意した。色々とややこしい状態の子みたいだから。朝廷から逃げ出すしかないって事もある筈。甘い所もあるから貴女の心配もあってここにやって来る可能性は高いわ」
「そうなれば此方の物って?文字通りの手籠めって訳ね。……流石ね。母様らしい小狡さだわ」
「褒めてるの、それ?」
娘の最後の言葉は、更に裏の意味もあっての事だった。神罰の所在が分からない。ならばそれが誰に何処に対象としたものかを見定めるために一度引き離す訳だ。距離を置けば里に罰が下らない。彼なら己への神罰を乗り越えられるだろう。罰が下り切った後ならば此方のもの……そういう信頼であり、打算であった。
「……それと貴女達も、何をやっているの?」
「「「うきゃぁぁっ!!?」」」
感じていた気配に、そう言い捨てて母天狗は無慈悲に襖を開く。開くと共に雪崩が生じた。幾つもの人影が将棋倒しで転がる。
「母様ぁ……」
「うー……楓花姉さんだけ狡ぃ。どうして私達は待機だったんですかぁ?」
「そうです!そうです!せめて去り際に少しくらい摘まみ食いしてもいいじゃないですかぁ!!汗くらい!!種くらい!!」
床で塊となって文句を言うのは夜咫や楓花同様、天狗共である。面を、外套を、外して生の声で話す天狗共。若い(楓花比)天狗の娘共が十数名ばかり。
発情している、暗摩夜咫之烏坊の娘達……。
「はあぁぁぁぁぁ……」
娘共の惨状に、これ迄で一番深く深く深い溜め息を吐いた母天狗であった。
天狗種。人に似て狡猾なその妖怪は群れで、部族で、家族で、社会を形成して生きる。しかしその習性は鳥というよりも寧ろ蜂に酷似しているといって良い。女王が産む子は基本的に群れを維持する駒、娘ばかりで雄は極少数、他の群れに送る種馬である。
半分しか天狗でない夜咫の血族は、しかしながら中途半端にしかそれらの特性を受け継がなかった。純血の天狗共は態々半端鳥の群れに雄鳥は贈らない。一方で夜咫自身は欠陥があるのか雄を産めず、産まれる子らは人の血はより濃く、純血のそれと違って個の意識がより自律的で個別の繁殖も出来た。
無論、誰でも良い訳ではない。選り好みはかなり激しい。……例えば今回のような神血に呪われ、神血に愛され、神殺を果たしたような者とか。
矜持の高い天狗でも満足の、満足の種馬である。
「貴女達の姿を見れば分かるわ。楓花と違って自制が利かない」
淡々と、冷たく娘達の鳥頭を評価する夜咫であった。蛙の子は蛙である。経験から、性格から、あるいは血筋か、楓花程に思慮のある娘はそうそういるものではなかった。だからこの子達は此度は出禁にした。下手すれば今頃彼の青年を押し倒して搾っていたかも知れない。全力で逃亡されて、失敗したとしても帰って来ないのだ、やはり朝廷と戦になっていた事だろう。それでは意味がない。
あくまでも、あの青年には自主的に逃げて来て貰う。匿う。匿って、軟禁する。搾り取る……それが上手いやり方というものだ。
「可哀そうだけど、ね?」
同情。憐憫。それはそれである。どちらを優先するかと言えば娘達の応援をしたいのが親心というものであった。
己と同じ思いを娘にさせる事を良しとする程に彼女は娘達に冷酷ではなくて、何処ぞの亡霊が思っていたよりもずっとずっと強かであったのだ。
「年の功って奴で?いてっ!?」
「取り敢えず貴女達全員水浴びをして来なさい。酷い匂いだわ」
親の年齢を指摘した楓花に拳骨を叩き込んで命令する。女所帯で人との交流が少ないからいけない。しかもあの蛇のせいで人と交流していた世代はかなり食われたので尚更だ。次に青年が来るまでに色々教えて置かなければ。せめて里に引き込むまでは怪しまれてはならなかった。
まぁ。それはそうと……。
「……久し振りに産卵しよっ」
昔を思い返して疼いた母烏は、発散もかねて年甲斐もなく無精卵の出産をしようと決めるのだった……。
ーーーーーーーーーーー
伝承というものは刻と共に変質するものである。
例えば悪逆無道な盗賊や中央に滅ぼされた豪族が鬼や土蜘蛛に例えられ、異教の神格は天使に悪魔にと変化する。数多の伝承が集合して一つに纏められ、あるいは枝分かれして近似の伝説が広い地域に教え伝わる。
その神格には知恵があった。神格は知が力であり、無知が罪である事を知っていた。情報の重要性を知っていた。だから布石を打っていた。その存在の伝承が乏しかった事は決して朝廷の怠惰だけが原因ではない。それ自体が己の力に関する痕跡を抹消する事を心掛けていたのだ。
そして今、その努力が結実する。
九頭龍の伝承は決して有名ではない。扶桑の全土に散見する伝承は全て古く、そして不明瞭である。故に扶桑国が編纂した風土紀においても殆ど触れられない。触れられぬようにそれは己の記録を、目撃者を処理していた。
だから誰もそれを繋げる事はなかった。近似の別の存在として見なした。見なすように仕向けた。偽の伝承を広めさせた。
……九頭の龍の頭は九つではなくて、八又の大蛇の命は八つではない。
八又の蛇神。その真名が『八岐九甦邪龍』である事を知る者は、最早殆どいない。
『故に、私は猿共にとって存在しない柱……という訳なのよねぇ?』
闇夜。その余りの巨体故に解体作業の途中で放置された大蛇の躯の上、其処に足を組んで鎮座する存在がいた。全身から伸びて滴る銀糸は『己』であり、『己の母』たる躯の腹から出でた故のものである。
己に残された最後の命。其処に己の『神罰』を重ねる事で強化した存在。情けなくも討たれた不肖の鬼息子と、己の腹を裂いた蜘蛛の糸、それらから着想を得た一つ首の大蛇が命事切れる寸前に選んだ判断……その結晶たる存在が『彼女』だ。
『面白いやり口だな?それにしても……牝の造形とはまたどういう風の吹き回しなんだい?』
『多分だけど、油断を誘うためじゃないかしらぁ?やっぱり見た目って大事よ?僅かでも見る者の心持ちに影響があるんだからぁ』
当然面で尋ねる鬼に向けて、豊満な蛇は物理的に見下して答えた。滑る肢体を晒して、先の割れた長舌を見せつける。背後でうねる触手のような尾は九本。
『かっかっかっ。嘘つけ!』
蒼い鬼は快活に笑って発言を否定した。
『狙いはアイツだろ?俺には分かるぜ?お前さんらの考えくらい、容易に見抜けるさ。性根までな?』
鬼の酷い指摘に、蛇は妖艶な美貌をおぞましく歪める。文字通りに蛇が獲物を狙う眼差しである。
あの男は人面獣心にして妖心、そして神心である。その価値は計り知れない。退魔士だけではない。神格にとって見てもそれは同様。ある意味ではそれ以上……ましてや、今の大蛇にとっては、尚更である。
『無頭の蛇にまで墜ちたんだ。もう一柱じゃあどうにもならねぇよな?』
単純計算で全盛期の九分の一。実態は遥かに悪い。百分の一も残っていまい。前任の己と比べても尚低位。神罰の力を転用した事で幾分かマシにはなったが到底神を自称出来るものではない。出来る訳がない。
だからこそ、戦略を変える必要がある。戦術を変える必要がある。己一柱で成す事を、諦めねばならぬ。
『あのイカれ地母神の神統になるのでしょ?鳥共も似たような事考えてるようだけど……種馬には丁度良いと思わない?私の真名を見抜いたのも高評価だわ』
『解釈違いだなぁ!』
鬼の爪が振るわれて、妖女の背後から尾が溢れ出した。照り光る鱗に覆われた巨大な尾が九つ。鬼の斬撃を切断もされずに受け止める……!!
『ぬるってしてるからなぁ!!』
『後ろねぇ?』
鬼が叫ぶ。蛇は背後を見やる。巨大な錨が迫っていた。事前に鬼が投擲していた錨は飛去来器のように大回りして大蛇を背中から潰しに掛かる。
『御返ししてあげる♪』
『うげっ!!?』
ぬるりとした尾が錨を受け流した。鬼の元へと勢いそのままに返還する。鬼は受け身も出来ずに錨に殴られて吹っ飛んだ。
大樹を次々とへし折って、粉塵と闇に包まれて森の中に消える鬼影……大樹の幹が突っ込んで来る!
『まぁ、生きてるわよねぇ?』
巨尾が突撃する大樹を掴み、絡まり、締め上げ、そしてへし折った。だが投擲されるのは一本だけではない。二本、そして三本、四本、赤子が投げた玩具のように迫り来る、その全て捉えて破壊する。
『けっ。器用なこったなぁ?まるで狐みてぇだ。猿真似ならぬ狐真似ってかぁ?』
闇の向こうを見る。薄皮破れ、額に一筋の血を流して、しかしそれだけの事で、鬼はニコニコ顔だった。禍々しい錨を引き摺ってギロリと睨んで嘲った。
『まさかと思うが、天下の大蛇様が遠目に妖狐と誤魔化すため……なんて小賢しい真似するために尻尾生やした訳じゃあないよな?』
あからさまな挑発であった。大蛇の小細工への愚弄であった。
『あはっ!まさか!!』
『だよなぁ!!』
蛇は嗤う。鬼も嗤う。互いに殺気を向けて満面の笑みを浮かべる。白々しい掛け合いであった。
げらげらげらげらと。くすくすくすくすと。濃厚な殺気と悪意が充満する。そして……同時に提案した。
『『手を組もうか』ましょうか?』
重なる意見。互いに嗤う。先程よりも一層凄惨に。
『貴女の欲求は育った英雄に殺されたい、て所かしら?まるで盆栽感覚ねぇ?』
『お前さんの目的をアイツがぶち壊したら、さぞや痛快だろうな?』
鬼は前座として蛇を認め、蛇もまた種馬を確保する上で鬼が途上まで有用であると認める。決定的に相容れず、しかし途上までは歩調は合わせられる。合わせられてしまう。
『アイツがお前を殺す時、俺は一切手助けしねぇぜ?』
『あの猿擬きが誘惑に墜ちたら、貴女を真っ先に始末してアゲル』
互いに納得する。果たしてどのような終着点を迎えるか……何にせよここに何処までも歩調の合わさぬ二人三脚が成立したのは事実であった。
『ははははっ!!救妖衆だっけか?あんな詰まらない連中よりかはまだ前座としちゃあイイなぁ!因縁もあって貫禄も……まぁ、あるか?シメの前の御相手にしちゃあ合格だ!ほれよ!!』
鬼は愉快げに己の僧衣を放り投げる。蛇の上に被せる。
『らっぱは流石に止めとけよ。警戒されるぜ?』
『そういうもの?……あぁ、そうだ。これあげる』
受け取った僧衣を摘まんでまじまじと観察する蛇は、思い出したように足下に打ち捨てられた「己」から皮を剥ぐ。ポイっと蛇皮を鬼に放り投げる。
『御挨拶の粗品。多分、酒の中に漬かせて寝かせたら良い味出るわよ?』
『焼いてから熱燗に淹れても良さそうだなぁ』
まるで河豚の鰭を扱うような物言いで語り合う化物二体。先程までじゃれ合うように殺し合っていたのを思えば異様な、しかし化物の精神構造で見たら当然の振舞いであった。
『……鳥頭が気取ったな』
『流石に少し煩かったかしら?』
風と共に迫る気配に二体は気付いた。抑えているとはいえそれでも妖気は凄まじく濃厚だ。勘づいた天狗共が武器を手に急行するのは当然だった。
『騒ぎにしても面倒だしなぁ。得もねぇし、トンズラするか?折角だから何処かで一杯してこうぜ?』
『いいわねぇ。折角この身体になった事だし、ご馳走して貰っても?』
『おうおう、厚かましいなぁ!!』
呑気に、わいわいと楽しげに、愉しげに、化物共は語って、騙って、立ち去っていく。闇の中に溶けていく。
異変に気付いた天狗共が到着した時に、其処に残っていたのは荒々しい暴力の爪痕それだけであった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます