第一五五話
飢える。飢える。飢える。胃袋の底から餓えていた。肉を求めていた。獲物を求めていた。
滾る。滾る。滾る。本能が荒ぶっていた。贄を求めていた。捧げられるべき貢ぎ物を求めていた。
暴走は当然だった。犠牲を出さぬために、一人で大妖を相手とした。怪物の本能を呼び覚まして、同時に神蜘蛛に血を貢ぐ事で人として認識される一線は越えぬように踏み留まる。
それが何れだけ困難な事であるのか、形容するのは難しい。理性を保ちながら発狂して、右を向きながら左を向き、生きながら死ぬようなものだ。全てが矛盾していた。矛盾しながら突き進む。脳への負担は筆舌するに足らない。
仕留めた。紙一重で討ち果たした。襤褸襤褸で、面の下は最早人ではなくて……分からない。朦朧として、掠れた自我。気付いたら其処にいた。暖かな部屋にいた。静かな空間にいた。柔らかな布団に寝かされていた。薄暗い中で、数本の蝋燭の灯火だけが周囲を照らし出す……。
『ア゙ァ゙……?』
唄が聴こえた。甘い唄だった。砂糖のように甘美で、何時まで経っても飽きなくて。何かが腹に乗り掛かっていた。増えているような気がする眼球の焦点は、自然と上向く。
巫女装束を着崩した、極上に淫靡な贄が騎乗していた。
『ッ……!!』
息を呑む。視線が交わる。頬を赤らめて、誘惑するように小首を傾げる。
「えへへっ」
純情に淫乱に、贄巫女は微笑んだ。
『ッ゙ッ゙ッ゙ッ゙!!!!』
力任せに押し倒して、上下は入れ替わる。抵抗は欠片もなくて、三本、四本、五本……幾つもの腕が、そしてそれ以上に無数の触手が彼女の細過ぎる肉体に伸びる。頭を押さえる。腕を押さえる。首を絞める。太股に絡み付き、布地が音を立てて裂ける。
はて、己の爪はこれ程に長かったか?己の腕はこれ程に太かったか?こんなに無数にあったか?こんな赤黒い肌色であったか?そもそも触手なんてどうしてある?そんな疑念は布地の下から晒された透き通るような白い柔肌によって彼方に消え去る。
貪った。しゃぶりついた。噛み付いた。甘噛みするだけで、その汗ばんだ表面の汁を啜るだけで満たされる。まだまだ開発途上の丘陵を、裂けた顎から吐き出した鑢のようにざらついた肉で無数に撫でる。己の物であると証明するように体液を粘液を、塗りたくる。
贄は震えていた。海老反りしていた。甘い。甘い。甘い。愉快。滑稽!それだけで己の舌はこれ程に長くて厚かったかという疑問は霧散する。両腕を拘束して、容赦なく体重を乗せて、完全に組伏せて、支配する。当然の権利と言わんばかりに。
「は、ぅ……」
潤んだ瞳が此方を見据えた。媚びるような牝の風貌。牡を求める表情。劇薬だった。牝餓鬼が……!!
……可笑しい。待て。可笑しい。可笑しい。これは何だ? 何をしている? 俺は何をした? 何をしようもしている? 引き返せ。まだ間に合う。今すぐに引き返せ……!!
「兄貴なら……いいよ?」
『グギィ゙ィ゙ィ゙ィ゙ッ゙!!』
理性をぶち壊す、何処までも甘えた調べが理性の欠片を踏み砕く。顔を埋める。犬のように荒い鼻息。鋭い牙で噛みつく。啄む。己が蹂躙してやった証を刻み付ける。牝の嬌声が絶え間無く響く。愉快で愉悦だった。耳元に響く。少女の求愛の唄が。耳元に響く。
全なる者の母の早く貫け、早く満たせ、早く孕ませろという呼び掛け……僅かな躊躇。しかし。
「えへへ……これ、みてぇ?」
子供のように愛らしい声音で、贄は見せつけた。透き通る程に蒼白い肚、其処に刻み付けた紋様を。
服属と従属を意味する、余りにも卑猥な呪印を。印紋を。……淫紋を。
『ッ゙ッ゙ッ゙ッ゙!!!!』
膨らむ。のし掛かる。押し付ける。突き立てる。導かれるように。己の内の邪気をかき集めて、溜め込んで、濃縮して、吐き出すために見定める。熔岩のように煮え切った欲望。突き破らんと構える。そして……。
『(>ω<。)コレハアールエイティーントウコウジャナイワヨパパ!!』
「……」
……何か凄く突っ込みたい訴えが頭に響いた。何なら『そうなのぉ?じゃあ仕方無いわねー?あー、御年玉いるかしらー?』なんて呑気な声が続いた。先程まで己をけしかけていた声音が、である。
『( ・`д・´)ウォー!ヨソモノメー!オノレノタマヨコセヤー!』
『あーいあーむゆあーぐらんどまざぁー♪』
『ヽ(;▽;)ノノーン!』
……いや、なにお馬鹿会話しとんねんお前ら。
「……?あに、きぃ?」
恍惚と蕩けて、涎まで垂らした少年の、あるいは少女が見上げる。困惑するように、そして誘惑するように潤んだ眼差し。その暴力的なまでの魅力に全身が疼くが……一度冷や水を掛けられた頭では、既にその気分は失せていた。
「……」
「あっ……」
ぼやける意識で抱き着く。腕を回す。体重を乗せて、甘えるように、そして甘やかすように抱き締める。先程とは真逆に、自身の胸板に相手の顔を押し付ける。顔を見ないのは心変わりしないため。ただただ純粋に人肌の温もりだけを求める。
「あにきぃ、あにきぃ……だめ、もっと……ねぇ?」
嫌がるように、むずかるように、しかし喜ぶような鳴き声。しかし己の意識は既に眠りに誘われていて、ともすればそれは睡眠を妨げる雑音にすら思えた。
「静かにしてろ……」
「んっ、ひゃ……ぁ……」
ぎゅっと、若干強く抱き締めればびくりと手込めにした細身が震えてそれっきり。ただただ背中に華奢な手を回して、その行為を受け入れる。
「それで、いぃ……」
漸く静かになった事に満足して、誉めるように頭を雑に撫でて、最後には半開きの目蓋をゆっくりと閉じて、夢の国へと旅立つ……。
『(* >ω<)シャザイニネズミノクニニツレテッテネ、パパ!』
いや、知らん、が。な…………。
ーーーーーーーーーーーー
「……目覚めたら天幕の天井だった」
それが目を覚ましてからの、俺の最初に目撃した光景であり、俺の第一声でもあった。
記憶を辿る。最後に覚えているのは禁地での出来事。お出でになられた大妖をどうにかこうにかして絶命させてやった瞬間だ。
最後っ屁の反撃を食らって、手痛く殺られた瞬間……。
「痛たた……。回収、されたのか……?」
全身を見る。殆んど裸一貫の身体は筋肉痛で、しかし古傷ばかりで生傷は殆んどない。再生していた。それはいい。
問題は、俺が意識を失った後。恐らく半ば化物と化していた己を誰が回収したのかだ。この身体の秘密が他所に露見していたらお仕舞いである。
「そういえば……」
其処まで考えて、追加で抱いた疑念。思わず視線を周囲に向ける。幸い、ソイツは直ぐに見つかった。
『ヽ(д`ヽ彡ノ´д)ノカーナシーセカイ~♪』
「いや。何踊ってんねん」
虫籠の中、八本足で先程から器用に踊り続ける蜘蛛であった。何か汗だくで反省促してそうな舞を舞っていた。頭に南瓜色の紙兜をしているから尚更だった。言っておくが流石に流行りが過ぎてるからな? 今の話題はコズミックだぞ? アレか? アナザー世紀は認めない過激派なのか?
……因みに紙兜は一種の呪具であり呪いである。御夫人様が丹精込めて折ってくれたそれは蜘蛛を持ち出す条件であり、俺が不埒な行為をしたら蜘蛛の頭を締め潰すらしい。容赦無さすぎる。人の心とかないんか?
「あぁ。兄貴。起きてたのか?」
馬鹿蜘蛛に突っ込みを入れていると背後から響く特徴的な声音。声変わりしていない少年とも少女とも形容出来る澄んだようなそれが誰のものなのか、俺はとっくに知っていた。同時に安心する。誰が俺を回収したのかが判明したために。
「白若丸様? もしや自分を回収したの、は……?」
振り向きながらの問い掛けは途中で途絶える。理由はその出で立ち故にだった。
恐らく水浴びをしてきたのだろう。外套を脱げば水気滴る茶髪が晒される。薄着に華奢な輪郭が浮かび上がる。項に始まり、鎖骨に胸板近くまで覗く白く瑞々しい肌……如何わしい感覚に囚われて、思わず視線を逸らす。
「水浴び、してたの……ですか?」
『( -∀・)アサブロハオトメノタシナミヨ!』
面をしていない事に気付いて、どうにか表情を取り繕う。口調が若干震えていた。それだけ動揺していたのだ。少年の癖に、色気が可笑しいんだよ。
「あぁ。流石に匂いをそのままじゃ、な?」
「匂い……?」
『(。・`з・)ノデリカシーナイワヨパパ!』
髪を掻き揚げながらの白若丸の言に、その言い方の不自然さに俺は首を捻る。
「覚えて……いないか?」
「覚えて?」
『(´・ω・`)オモヒデポロポロ?』
若干寂し気にも思える白若丸の問い掛け。俺は記憶を手繰る。そうだ?どうしてた?俺は……。
「確か、山道整備の護衛をしていて、大妖が出張って来て、そして……?」
其処から先の記憶がどうにも曖昧だった。どれだけ思い出そうとしてもどうにも出て来ない。俺が鎖やら何やらで捕えられずにいる事、そもそも生きているという事は最悪の事態に陥った訳ではない筈だが……『(*≧∇≦)ノワタシガチギッテナゲテノダイカツヤク!!』おう。存在しない記憶を語るな。お前はチューチューしてただけやろがい。
「うん。大妖については問題ないよ。兄貴がちゃんと討伐した。皆見直していたよ」
「そうだ、俺は確か……」
槍こそお釈迦になったが、妖化の比率を上げてどうにか大妖を討ち果たした筈だ。問題はその後だ。それなりに無茶をして、しかも満腹した蜘蛛のせいで妖化を抑えきれずに……。
「周囲にバレる前に兄貴は回収したよ。そして処置して抑えた。ここは俺の天幕さ」
「それは……」
恐らくは御意見番の代役として同行していたこの少年は俺の尻拭いをしたらしかった。完全な善意だけではあるまい。俺の秘密の露見による鬼月家への追及を恐れての側面もあるのだろう。その辺りは夫妻にも話を通している筈だ。
あるいは……いや、今はそれはいい。態々この場で確認する事ではあるまい。
「……ご迷惑を、お掛けしました」
『(;^o^)ホメテツカワス!』
心から礼を述べる。化物と化していた俺を捕らえてからの処置は大変であったろうから。……馬鹿蜘蛛お前は反省しような?
「気にするなよ。兄貴のためならこれくらい……寧ろ肩透かしだったくらいさ」
「それはまた……言ってくれますね?」
『( ^Д^)フハハ!ヌカシオル!』
肩を竦めての苦笑に、俺もまた苦笑する。何故か蜘蛛は高笑い……それにしても随分とデカい口を叩くようになったものだと思う。同時にその成長を喜ぶ。彼の成長は原作のバッドエンド対策の戦力拡充にも、彼自身の立場の強化にも繋がるのだから。原作のようなサバトして孕み袋になるような悲惨な運命を辿る必要はないのだ。
「あぁ。次はもっとヤンチャにしてくれてもいいくらいだぜ? ……それと、さっきから思ってたけどこういう時くらい敬語は止めてくれよ。な?」
「そう言っても……聞かれないか?」
『( ´・_ゝ・)カセイフノミタ!』
俺は家人扱下人。白若丸は正式な家人。年功序列はあくまでも身分の次に優先される。今の俺は白若丸の下であった。身内だけであれば兎も角、公然と砕けた口調で会話するのは世間体として宜しく無かった。そんな場面を下手に聞かれたとしたら……。
「安心してくれよ。この天幕は結界を張ってるからさ。遮音と式避けの結界だ。この会話は誰も聞いてないさ」
俺の懸念に対して白若丸は安心させるように応じる。それはまた用意周到……いや、派遣された理由を思えば当然なのか?何にせよ、御意見番の弟子らしくなっている。
「それは、うぅ!? 取り敢えず服を着こみたいんだが……」
寒さから来る身震い。殆んど裸であった事を思い出して俺は装束を要望する。すると待ってましたとばかりに家人の少年は天幕内の一角に歩み寄る。折り畳み式の机の上に置かれたそれを胸に抱えて持ってくる。
「孫六から受け取ったのか?」
「あぁ。式を伝令に差し向けたんだ。確認したけど問題はないよ」
「はは、当たり前だろ?」
『( -∀・)ヤツハワタシノツギニパパノチュウシンヨ!』
「自意識過剰だなおい」
毒なり何なりが仕込まれているのを警戒したのだろうか?やはり御意見番の弟子らしい思考である。まぁ、孫六がそんな事する理由なぞないだろうが第三者が横から企む可能性は無くもない、か?
「……何だよ? そんな見られるとやりにくいな?」
「え? あぁ。別に、な?」
受け取った装束……少し湿気てるか? ……を着こんでいると突き刺さるような視線。白若丸が此方を凝視していた。彼の稚児時代の彼是関係による振る舞いであろうか? だとすればとっとと着こんでしまう方が良いだろう。
(何だったら、とっとと出ていった方が良いか)
妖母の因子を封じるためであったのだろうが何時までも男が自身の天幕で寛いでいる状況は嬉しくないだろう。着こみ終えて、最後に面を被ると俺は一礼する。
「有難う。助かった。……此れからの予定について、聞いているか?」
「昼過ぎには禁地に進むそうだ。後で話が来ると思うけど兄貴も護衛に指名されたよ。……露払いの任に成功、結構評価されてるみたいなんだ。参加者全員に褒美があるってさ」
「それは……また太っ腹だな」
『(*>∇<)ノワタシノオカゲネ!』
(……これに対しては否定出来ないのが悔しい)
そして僅かに意外に思う。あの奉公を要求する割には御恩がけち臭い朝廷にしては本当にサービス精神旺盛な判断だった。まぁ、どうせ原資は百姓から徴収した税なので公家連中の懐はノーダメなんだろうが。
(あるいは政治的な意味合いもあるか)
任免されて日が浅い家人扱を厚遇する事で他の連中の競争心やら面子やらを刺激する狙いもあるのかも知れない。俺が成果を上げた以上は他所の家からすれば相応の活躍をしなければ一族の沽券に関わる。公家らしいねちっこい策略かも知れんな。
「朝餉、本陣の天幕でだってさ。服装は普段と同じでいいけど、食べる時は面を取ってだってさ」
「マジか?……分かった。心得ておこう」
『(*゚∀゚)ワタシノシャコウカイデビューキター!?』
「違うけど?」
身分制度に煩い扶桑国において謙虚は確かに美徳であるが、度を過ぎれば非礼であり中傷の対象でもあった。身分相応の振る舞いもまた求められる。その意味で事前に褒美と飯の話が聞けたのは良かった。面倒臭い話でもあるが……改めて礼を述べて、俺は天幕の出入り口へと向かう。
「兄貴っ!」
「ん? おっ、どうした……?」
天幕を出る直前、背後からの呼びかけに振り向く。同時に眼前まで来ていた白若丸を見下ろして思わず驚く。足音すらなかったぞ?
「えっと、いってらっしゃい!」
「……奥方かよ」
「……お妾?」
「悪化してんじゃねぇか」
『(;゜∀゜)ソシテワタシコソガパパトママノイシヲウケツギシセイトウコウケイシャデアル!!』
「知らんがな」
一人と一匹に突っ込みながら、俺は眼前の少年の頭を撫でた。新婚夫婦の出勤前の口付けではないが、余りにも白若丸の頭が撫でやすい位置にあった故の行いであった。褒められた話ではないが……。
「えへへ……」
(……まぁ、いいか)
根は甘えん坊なのか、相変わらず嬉しそうに撫でられ続ける少年の姿を見ると内心の疑問も霧散してしまう。二度と会う事のないであろう、弟達を其処に重ねてしまっていたからだ。
……結局、直ぐに天幕から出ていく筈が、暫くの間俺はひたすらに眼前の年下の後輩でもある目上の先輩を可愛がる事になるのだった。
ゴボッという生臭い音が何処から聴こえた気がしたが、少なくともこの時点で俺は気にかける事は出来なかった……。
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「旦那、無事でしたか!?」
『(^O^)コンペートヨワタシハカエッテキタ!』
自分の天幕に帰還すると同時に駆け寄って来るのは孫六だった。慌てたように、心底心配するように此方を見る。おう、馬鹿蜘蛛やっぱりお前アナザー否定派だな?
「あぁ。どうにかな。心配かけた。……着替え助かったよ。前の奴は?」
「え、へい。御釈迦になったので処分したと。家人様からの御言葉でした」
「……あー、追加の服の要請しないとなぁ」
夫妻に言うのも、デ……隠行衆頭に注文するのもやりにくい話であった。必要な経費故に我慢するのも出来ないのが辛い話だ。
……必要な経費申請するのがやりにくいってかなりブラックだな。いや、命掛かってるのが平常運転な時点でブラック越えたブラックだけど。
「装束だけで幸いでした。服は幾らでも替えは利きやす。体は違いますぜ?」
『( ^ω^)カラダハシホンヨ!』
「それは、まぁな……」
神妙な表情で指摘する孫六に、そして馬鹿蜘蛛に、俺は面の下で微妙な表情で同意する。微妙な理由は今の俺ならば最悪腕が飛んでも内臓が潰れてもどうにかなりそうだったからだ。
……大概俺の感覚もズレて来たな。
「伴部様……」
「んっ、毬か。……起こしたか?」
孫六の背後からの声。視線を向ければ天幕内に敷いた布団の上で撓垂れるような体勢で座る少女の姿。
「いえ。元より起きておりましたので。……はぁ。御無事で本当に良かったです」
「旦那の無事をずっと祈ってみたみたいで……身体に障るから代わると言ったんですが」
『( ・`ω・´)ヨフカシトハワルイコネ!』
安堵するように息を吐く毬に、困り顔の孫六。良く見れば毬の手元には安物の数珠が巻いてあった。恐らく夜中の間ずっと念仏を唱えていたのだろう。毬の顔には心労が見て取れた。
「寝ていろって言ったんだがなぁ……」
「申し訳ありません。罰なら、何なりとお受け致します……」
『(^ω^U)ホォ、ナンデモトナー?』
「喧しい」
「はい?」
「……此方の話だ」
馬鹿蜘蛛の横槍発言は無視して、俺は毬に寄り添う。ゆっくりと押し倒して、布団を着せて寝かせる。
「身体が弱いんだから、自分を優先しろ。俺の心配なんざする前にな」
「ですが……」
「旦那の言った通りだ。此処は御屋敷じゃないんだぞ? お前が体調を崩したらどうする?」
孫六の発言は、特に今回の場合は深刻だった。
此度、鬼月家は『迷い家』化した牛車を利用していない。理由は朝廷に対する配慮だ。唯でさえ禁術で製造された代物である上に、朝廷の使節は大型とは言え普通の牛車を利用していた。鬼月家がそれよりも良い車を使う訳にはいかなかったのだ。
故に、万一体調が悪化しても俺の権限で毬を『迷い家』の中で休ませる事は出来ない。毬には無茶をさせる訳には行かなかった。
「申し訳、御座いません……」
心底恐縮して、頭を垂れての謝罪。見ている方が胸が苦しくなりそうな光景に俺も孫六もそれ以上追及する事を躊躇う。
目元にうっすら浮かぶ隈を思えば、尚更に。
『(。・`з・)ノアヤマッテスムナラポリスハイラナイノヨ!?』
……いや、容赦ないなお前。
「……あー、一晩中祈ってくれたのか?」
「御無事の帰還を……祈願させて頂いておりました」
「はぁ……仕方ない奴だ」
『(*゚∀゚)ククク、ウイヤツメ!』
頭を撫でる。本当に、仕方無い奴だ。弱い癖に。無力な癖に。……あぁ、俺が言ってもブーメランだな。そして馬鹿蜘蛛、お前は黙ってろい。
「助かった。だからもう寝ていろ。……昼前に起きればいい。睡眠不足は肌の敵だぞ?」
『(^ω^U)ワタシノスベスベモチモチオハダ!』
冗談めかして笑って、俺は孫六の方に意識を向ける。
「まだ朝早い。少し休ませてくれるか?」
「朝餉は?」
「……本陣に呼ばれてるらしい。俺の分はいらん」
「分かりやした」
『(´・ω・`)ワタシノハー?』
恭しく答える孫六に俺は内心で少し複雑な気分となる。本陣での飯なんざ、きっと気も休まらず味わえないだろう事は分かっていた。それなら孫六の飯を此処で食べる方がきっと楽しかった。そして馬鹿蜘蛛、お前は昨日食ったろうが。
……偉くなるのも良い事はない、なんて言うのは贅沢な話なのだろう。飢える苦しみは知っていた。それに比べたらまだ耐えられた。
……昔の事を思い出すのは辛いわ。とっとと寝よ。
「では、自分は外にて」
「あぁ」
『( ^∀^)ゴアンゼンニードル!』
洗濯と朝餉の用意のために天幕から出る孫六。俺は毬から離れて己の寝床に向かう。畳を敷いて、その上に布団を置いた簡易な寝床……これでもまだ允職時代よりずっとずっとマシだった。
「半刻くらいは、寝れるかね?」
『(* >ω<)キャトルミューティレーション!?』
馬鹿蜘蛛を懐から虫籠に直葬……直送。上質な新品のそれに閉じ込めて静かにさせて(謎思念波を遮断するという意味)から俺は布団に包まる。目を閉じて、睡魔に身を任せる。そして……。
「……くちゅんっ!」
「……」
「……くちゅんっ!」
「……毬?」
立て続けてのくしゃみに、俺は目を開いて振り向く。同じく布団にくるまる毬に尋ねる。
「えっと、すみません。夏風邪……でしょうか? くちゅんっ!?」
そして申し訳なさそうに、再びくしゃみ。
「あはは。すみません……」
「……」
俺は立ち上がる。己の布団を持つ。そして毬の寝床まで向かうとそれを被せる。
「伴部様……」
「全く、だから身体を労れって言ったんだぞ?」
しっかりと、身体を包むように布団を被せる。肩も足も出ないように。暖を取らせる。
「伴部様は?」
「野宿は慣れてる」
それこそ、屋根も床も布団もなく寝る経験だって幾度もあった。それに比べたら、な?
「……あのっ、此方に!」
目を閉じたままの娘は暫く自分を見上げていて、そして布団を広げる。手招きする。
「毬?」
「来たばかりの頃は、良くして頂きましたでしょう? また、昔のように……」
毬が語るのは孫六共々世話役として来たばかりの頃の話。特に冬の寒さに互いに布団にくるまっておしくら饅頭染みて雑魚寝をしていた頃の話である。
毬が今よりも、ずっとずっと子供であった頃の事……。
「それは……なぁ?」
「確かに穢い娘ではありますが……それでも、湯湯婆代わりにはなりますわ!」
「しかし……」
「どうか……温めて下さいまし?」
「っ……!?」
小首を傾げてのお願いは、純情で無垢で無知故のもので、だからこそ一層艶かしくて、何よりも己の疲労と眠気が最後の一押しとなった。
「……仕方無い奴だな」
そうして、全ての責任を何も知らぬ娘に押し付ける。甘える。布団に入り込む。入り込むと共に柔らかさ感触に触れる。ぎゅっと胸元に抱き着く少女。自身の身体の成長を欠片も理解もせずに。
それは、余りにも無防備な密着……。
「んっ。ふふ、温かいです」
「……あぁ」
誘惑ではない。単純に温もりも感じるためだけの純粋な行い。それがどうしても魅惑的に過ぎた。
「……」
抱き締めようかと思って、しかし俺はそれは止める。それ以上は精神の均衡を保てないと分かっていたから。きっとそれ以上は彼女を裏切る事になるだろうから。
「お休みなさいませ。伴部様」
「…………」
「……伴部様? 眠って、しまわれましたか?」
返事もしない。その甘い声音に応じるのが怖かったから。
「……」
それから半刻の間、俺は甘くて柔らかい感触に癒されて、同時に耐えるようにして、ひたすらにひたすらに心中で念仏を唱え続けるのだった。
休息が取れたのか睡眠を取れたのか、それについては俺自身にもよく分からなかった……。
ーーーーーーーーーーー
「ほほほほ。来たようだの。ほれほれ、近こう寄ると良い。もう朝餉の用意は出来ておるぞ?」
身嗜みを整えて(そして喧しい馬鹿蜘蛛は留守番させて)、本陣の天幕を潜った俺は既に敷かれた畳に座っていた中納言に手招きされる。彼の手前にあるのは未だ湯気が立つ膳が二つ。そして同じく畳に座布団……。
「……」
面越しに周囲を観察した。そして想定とは違い他の退魔士家も、公家もいない事に驚く。いるのは精々、身分の低そうな寡黙な雑人、数人のみであった。
「随分と無茶な戦いであったと聞いておる。余り大所帯では傷に障ろう?」
俺の疑念を読んだのだろう、中納言は朗らかに笑いながら説明をした。
「……御配慮、感謝致します」
「よいよい、そんな所で頭を下げずともな。……それよりも早く此方に来ると良い。飯は温かい内に食べるに限るぞ?」
「ははっ」
礼。応答。そして俺は出来るだけ礼儀正しく中納言の元まで参上する。雑人時代の記憶と、この数ヵ月で夫人に仕込まれた突貫工事の行儀作法を思い起こしての見様見真似。性格の悪い公家であれば少しの非礼を咎めかねないが……幸い、そんな事はなく俺は膳の前で正座する事に成功する。
……座るまででもう凄く疲れて来た。
「先ずは昨晩の務め、御苦労。者共が躊躇う中、いの一番に名乗り出る覚悟、勤皇の心構え、まさに退魔の兵の鏡である。誠に結構な事じゃった」
「……恐縮です」
恭しく頭を下げながら謝意を示す。肯定はしない。内心ではゲンナリした。うんこれ、遠回しにあの場にいた打算で様子見してた家々ディスってるな。
こりゃあ下手に応答したら何に発言利用されるか分からねぇな。公家なんざ、こじつけて因縁つけて来るのが仕事見てぇな連中だ。公家衆? すげぇ心の陰湿な敵なのか?
「ほほほ。謙遜するでない。有望な退魔の兵が増えるのは善き事じゃ。……近頃は務めに励まず百姓共や商人共の真似をする者も多いという。御主のような若人は悪い見本を見習わぬでいて欲しいものだな」
「は、は……」
思わず乾いた笑いが出た。これは完全に鬼月家への嫌味だ。特に鬼月宇右衛門に対しての。
(士農工商、ってか?)
その用語は史実においても正確な実情を評しているものではないし、扶桑国でも公的な制度ではない。しかしながら確かにそれに近い職業に対する徒弟制度的で非流動的な意識は根強く存在していた。特に「士」を統制するために。
武士、そしてそれ以上に退魔士に対して朝廷は特権を与えている。特権に見せ掛けての様々な規制もまたしていた。寧ろ、そちらこそが主ですらある。
特に退魔士家に対して霊脈管理の必要を超えた土地経営や商売・金貸等に関して、朝廷は有形無形の規制を実施していた。名目上は退魔の任に専念させるためである。間違いではないが同時に退魔士の弱体化、最終的には土地や特権を返上させて単なる技能集団にまで貶める目論見がある……というのは設定集に記載されている内容だ。
鬼月家は名門である。元より擁する土地は広かった。しかしその大半は規制が強化される以前に確保したものである。長らく、鬼月家は御家騒動や当主の浪費によってその勢力を停滞させていた。一時期な宮鷹等の他家に依存していたという。それを打開した一因が隠行衆頭である。
名門の退魔士としては二流であったが経済感覚に優れた肥満体は、扶桑国の法制度を熟知していた。そして人脈形成も交渉も上手かった。奇術的な詐術で以て、限りなく黒に近い灰色な手段で以て、彼は鬼月家の荘園開発に土地購入、あるいは商売の活路を切り開きそれをなし崩し的に認めさせた。一時期混沌して弱体化していた鬼月家が宮鷹家等の影響下から脱却出来た一因だ。
……朝廷からすれば、欠片も嬉しい話ではないだろうが。
「確か、主は元々雑人衆であったとか?」
「はい」
「あの隠行衆殿には良くして貰っていたと聞いておる。手取り足取り指導されていたとか……ははは、確かに上手く仕込まれているようだのぉ」
「……恐縮です」
たかが家人扱下人を良く調べているようで。薄ら寒い所の話じゃないな。完全に圧迫面接だよ。……身内事情までは、流石に大丈夫だよな?
(というよりも、この爺さんは鬼月と俺をどう見ているのかが重要か……)
取り込もうとしている? 牽制している? 分断しようとしている? 俺が当主にどのように見られているのか理解しているのか?
「鬼月は魑魅魍魎共より北土を守る要。これからも務めに精進して欲しいものだ。……さぁて、長話もこれまで。冷える前に飯としようかのぉ」
「ははっ」
箸を取って膳に配された雅な椀を摘まみ始める中納言。俺は一礼して、そして覚悟を決めて面を取る。面を晒す。
「ふぅむ。聞いていた通り、若いのぉ」
焼魚を摘まみながらの老人の指摘。これは……返答するべきか?
「……未熟ながら、鬼月の御家には宜しくして頂いております」
「下人の身であった頃も、かな?」
「今日まで生き残り、引き立てて頂けた事が全てです」
姫飯を一口口にしての返答。全く言いにくい事を言わせてくれる公家様である。失言狙いだろうか?
「いやいや、下人の任は筆舌し難い程に過酷と聞く。己の実力を卑下する事はあるまいて。なぁ?」
「ははっ」
態とらしいくらいに同情するような口調。こりゃあ試されてるな。あるいは探られている?
「うむうむ。おお、やはり魚は鮎に限るのぉ。干乾しにしても、いやだからこそ旨味がある」
「……全くです」
お前さんの好みなんざ知らんがな。
「やはりか? いやぁ、霊脈の無いような地の魚でも下処理次第で幾らでも旨くなるものよの」
「……霊脈がない?」
不自然な発言に思わず聞き返す。これは央土の魚ではない?
「うむ。近頃は歳での。そろそろ引退をと考えて仕事を減らしておるのだ。此度は遠出としては最後の奉公というべきかな?」
中納言は確かに高齢だった。霊力を持たぬ唯人としてはもう第一線で働くのは無理であろう。息子に段階的に家督を譲っていると語る。
「それで浮いた時間をもて余しての。美食に手を出して見た次第なのじゃ。知らぬ土地、知らぬ食材を取り寄せて食すわけだな」
「成る程……」
内心で暇なんだねと揶揄しながら、しかし俺もまた鮎を摘まむ。悔しいが旨かった。正確に言えば食べやすかった。これは姫飯や汁物、煮物ともに共通している。
(塩味の強い田舎風。歳食った公家様にしては物好きな事だな)
汁物を啜りながらそんな事を考えていると、中納言は話を進める。正確には本筋に戻す。
「そうそう。此度の働きに対しての褒美もやらんとのぉ。従七位の下。金子も用意しておこうかな?」
「は……?」
思わず汁物を啜る作業を止めて、俺は中納言を見返す。老人は飄々としたままだ。
「か、官位、でありますか……」
「遠慮するでない。朝廷としてはちょっとした宣伝じゃよ。モグリやらハグレやらには困っていてのぉ。主のような出自でも引き立てて貰えるとなれば少しは正式に召し抱えられに行く連中も増えようて。まぁ、棚からぼた餅とでも思うておく事じゃの」
ほほほほ、と相変わらず朗らかに笑う。俺には悪魔の嘲りに思えた。
従七位下。下だ。圧倒的に下だ。従であり下である。あからさまに名ばかりの形ばかり。扶桑国の律令制度で言えば滓に等しい。俸禄がある訳でもない。
それでも……それでも、それは確かに正式に朝廷に認められた地位であり、そもそも朝廷の官吏殿の大半はかなり鋭角三角形である。そして其処らの民草よりも明確に上であった。官位がある事と無い事、その間に広がる溝は余りにも深い。
そして、ほんの少し前まで狗畜生の身の上で官位を賜る事への周囲の印象は如何程のものか……位打ち。允職に、そして家人扱に任命された時と同じ嫌な感覚に囚われる。
「……承知、致しました。有り難き幸せで御座います」
深々と、本当に深々と頭を下げる。表情が見られないように。どうにか外面を取り繕うための時間を稼ぐ。
……お腹痛くなってきた。
「うんうん。宜しい宜しい。……そう畏まるでないわい。頭を上げよ。話が進まんぞ?」
「ははっ!」
湯呑の茶を啜ってからの中納言の命令。急いで顔を上げる。どうにか表情は取り繕った。少し、涙目になっているけど。
「ん? どうした? 其れほどまでに目元を潤ませて? 傷が疼くのかの? 相応に深手と聞いておったが……やはり無茶をさせたかな?」
意識してか無意識か、そんな白々しい事を宣って見せる中納言。ここで糾弾出来たら楽だろう。ぶん殴れたらスカッとするだろう。現実は許されない。
「いえ、中々味わい深い鮎でして、仕事明けの身には良く沁みまれば、感慨深く……」
二割くらいの本音で偽る。どうせ嘘だと見抜かれそうだけど。
「そうか。それは良かった。遠慮の必要はないぞ? 良く食する事じゃ。たらふく食べられるのは若い内だけだからな!」
そしてやはり朗らかに笑う。やってる行為は朗らかとは程遠い。俺は茶を飲んで精神を落ち着かせる。食事を再開する。
暫し、無言で互いに食べ進める……。
「そうじゃな。禁地への行進。御主は儂の車の傍に控えて貰おうかな?」
「? 至極光栄なお言葉と存じます。しかしそれは……」
八割方の食事を終えた時であろうか? 中納言が話を切り出した。漸く内心の平静を取り戻していた俺は警備の観点から見ての問題を具申せんとして、しかしそれを意見する前に老人は先に語る。
「手練れは先頭に置く。元より儂の車まで近付かれた時点で警護は失敗であろう?鬼月の姫君なぞ、先日に意見していたじゃろうて。実力者は味方を巻き添えにしかねん。端に置いた方が、気兼ねなく戦えよう」
「……成る程」
全面的に肯定した訳ではない。但し、今の俺の身分で真っ向から反対出来る訳でもない。この会話は提案ではない。決定事項の通達であった。その事を忘れてはならない。
「逆に主くらいが身辺警護には程好いのかも知れんな。小さく纏まっている方が近場で荒事があっても巻き込まれんだろうてな」
「承知致しました。……その旨は、既に?」
良く考えなくても誉められていないし嬉しくもない提案。それでも受け入れて、確認する。話の行き違いで悪目立ちする訳には行かない。
「いや、これからの事よ。……ははは、案ずるでない。行き違いはあり得ぬよ。周知は怠らぬわ」
安心出来ない奴が安心するように語りかけて来た。笑い話にもならなかった。
「中納言様の御要望でありますれば……」
何にせよ、俺に拒絶の権利はなかった。食うや食わずの貧乏小作人の息子からの成り上がりとしては破格で、しかしだからこそ改めて分かる身分の壁。雲の上はまだまだ高い。高過ぎる。不条理は容赦なくて問答無用だった。
「……」
鶯豆を摘まむ。甘い味わいを求めたのは癒しを求めて。到底癒しきれない。茶を啜る……悔しいが全体的に旨い。先程も思ったが食材は悪くないが厳選している訳ではない。しかしどういう訳か食べやすい。舌が慣れ親しめる味付けであるように思えた。
「ははは、美味しそうに食べてくれるのぉ。用意御代わりはいるかな?」
「いえ、結構。朝は八分目に限ります」
半分は本音であった。満腹で運動するのが厳しいのは誰でも分かる話である。……それ以上に出来るだけ飯を早く終わらせたかったのだが。
「そうかの。では朝餉の後にちと茶と菓子を振舞おう。それで終いじゃ。良いかな?」
「はは」
本来なら茶も菓子も要らないと言いたかったがそうもいかない。流石にこれは断れない。
尚、茶の席は茶器と茶葉自慢で半刻は使った。糞、油断した……。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「伴部殿」
「ん?」
食事を終えて、漸く己の天幕に戻ろうとした所で呼び止める声。振り向けば其処にいたのは中納言の雑人……。
その手には折り畳んだ朴葉で包まれた何かを持っていた。
「……何でしょうか?」
「中納言様より土産物であります。どうぞ御受け取りを」
そして恭しく差し出される手荷物。それを拒絶出来る立場に俺はいなかったし、それでも拒絶したならばそれは神をも恐れぬ暴挙であった。
故に、俺は丁重に受け取る。受け取ったと共にその独特の臭いを感じ取る。僅かな、生臭さ……。
「これは……」
「御開封下さいませ」
「……」
紐を解く。大きな朴葉を広げる。そして視界に映りこむのは干物であった。魚の干物。数は五枚。成魚が二枚に、小柄な物は三枚……。
「先程お召しになられた鮎、大変気に入って頂けたようにお見受けしたと」
「そう、ですか」
確かに旨かったけど目元が潤んだ理由は違う事くらい分かっているだろうが。嫌味か? 嫌味だな?
「有り難く、頂戴致します」
……まぁ、鮎に罪はない。後で孫六達と食おう。今度はちゃんと味わって。
「……それでは疎巳郡庇岸川の鮎、お渡し致しました」
「承知。……ん? 今、何と?」
雑人の言葉を聞き返す。出てきた名詞に思考が停止する。
「北土、疎美郡庇岸川の鮎で御座います。何か?」
「いや、それは……」
淡々とした雑人の返答に俺は言葉に窮する。だってそうだろう? 余りにも話が出来すぎていた。
老人が仕入れた鮎のその産地は、だって……。
「……」
俺は無言のままに、手元の鮎の干物を見下ろした。じっと見つめ続けた。五枚の鮎が何を意味しているのか、何を「警告」しているのか……。
「畜生……」
そしてそれを想って、それを察して、それを悟って、ただただ俺は込み上げて来る内心の吐き気を堪えるだけで必死になるのだった。
こんな事なら、馬鹿蜘蛛がいた方が気が紛れたのにと心の底から後悔していた……。
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