第一五一話

天狗。天の狗と書き示して表記される妖群。数多く分類される魑魅魍魎共の中においてもそれらは「暴虐なる鬼」、「狡猾なる妖狐」、「増殖せし河童」等と並んで一級の脅威として扶桑国においては扱われる。同時に扶桑国においてこの妖群は極めて異例とも言える扱いを受けている。


 より正確に言えば、数多ある天狗共の内の一方族のみが、扶桑国の積極的な討伐の対象から外されていた。


 扶桑国央土暗摩霊山。一郡が丸々入りそうな峻険な山脈。深い樹海。央土においても殊更に上質な霊脈の地。其処を根城とする天狗党は、央土にあるにもかかわらず、未だに存続し続けていた。かつて央土に巣食っていた怪物共の悉くが討ち果たされたにもかかわらず……。


 記録を辿れば過去数回程、小規模な討伐隊が派遣されたものの手痛く追い出されてそれきりである事が分かる。扶桑国はこの霊山を一級の禁地に指定すると柵を張り巡らしてこの地を入るもの、この地を出んとするもの、その双方を取り締まり続けていた。


 ……形式上は。


「何せこの辺りは大昔から殆んど手付かずだからな。霊木も霊鉄、霊草、中々上物が見つかるってんで忍び込むモグリやら商人の雇われやらが多くてな」

「百姓連中だってそうさ。食いっぱくれの三男四男からして見ればこんなに肥えた土地が広がってんだ。何で態態北土の寒村なんぞ行かにゃならんのだってな」


 何百里にも渡る霊木を打ち据えて構築された柵、それに沿うようにして巡回する軍団の一隊がそんな雑談を交えていた。徴用されたばかりの新人に先輩の軍団兵二人が語り聞かせる。


 禁地の多くは一歩足を踏み入れるだけで化物の餌になるという。しかしこの暗摩禁地は事情が異なる。その内に妖共がいない訳ではないが観測されるのは何れもこれも低級で、強力なものでも中妖が精々だ。その程度ならば柵とそれに貼り付けた護符、結ばれた結界で十分に退けられる。直接戦う必要すらない。脅威にはなり得ない。


 そしてそんな危険が少なく、旨味の多い地を見過ごすなぞ、一周回って悪徳というものだろう。朝廷の命にもかかわらずこの禁地に手を伸ばす者は数多い。そして命を出した朝廷自身、多少の事については目を瞑っているようで、豪商や退魔士家、地主共、挙げ句には公達までもが……彼らが差し向けた手の者達に対して、朝廷は積極的に罰則も勧告も行ってはいなかった。そして上がそのような態度となれば下も倣うものだ。


 禁地の巡回は何処までも形式的で、それどころか役目の半分も果たしていない。禁地の不法採取者を見つけても捕らえる事はなく、精々取り調べに託つけて戦利品の何割かを押収すれば解放してしまう有り様で、それどころか既成事実の積み重ねの果てに禁地の境界ギリギリ内側に幾つかの開拓村が出来上がってしまっていた。


 実際、巡回する彼らの向かう先では幾筋もの煙がたなびいている。白い煙。時刻を思えば朝餉の飯を炊くそれであろう。何なら届く煙で腹が鳴る。非合法の開拓村の、公然とした飯炊きの白煙……。


「腹減ったなぁ……」


 それがあからさまな勅命を違反した煙に対しての配属六年目の軍団兵の感想であった。彼がここに配属される前から村はあったのだ。今更存在が非合法という事実を気にかける事はない。


「俺らも次の小屋で飯にしようか?丁度村も近いしな。炊きたての飯を幾らか分けて貰えりゃあいい。金、出し合おうぜ」


 暗摩の禁地の巡回には規則がある。柵伝いに千歩ずつの距離に監視を兼ねる小屋がある。二、三人で一組となって小屋から小屋へと巡回する。小屋には先に巡回に出た組が休息していて、到着すれば前の組は次の小屋へと向かい、到着した組は後続の組が来るまで休憩を取るのだ。


 佑介、重五郎、信保の三人から成るこの組は幸運にも開拓村の側で朝餉の時刻を迎えつつあった。巡回する彼らに支給されている食事は携帯しやすい保存食が主で、熱い飯は余りにも魅力的であった。


「信保、お前が飯貰って来いよ?」

「えぇ?自分ですか?」


 巡回しながら、佑介が信保に集めた金を突きつける。パシリ扱いに文句を垂れる新人。


「煩い。若い奴が動くのは当然だろうが。俺らはもう年だぜ?」

「それに、若い奴なら多めに盛って貰えるかもな?けけけ、お前都の近く出身なんだろ?村の娘子連中に注目されるかも知れんぞ?」

「煽てても騙されませんよ?そんなのだから婚期を……っ!?先輩、何かいます」


 前を進む先任の二人に文句を垂れる信保は、その視線に気付くと背負っていた火縄銃を正面に回して身構える。先任の二人もほぼ同時にそれを認めると其々槍と火縄銃を手にして険しい表情で身構える。


 柵を挟んで、凡そ三、四百歩程度であろうか?樹海の中からそれは此方を警戒して、監視するように見つめていた。目元を細めて、軍団兵達はそれを凝視する。


 まるで山伏のような出で立ち、下駄を履いて、外套を被った朧気な人影が三つ、ある者は錫杖を手にして、あるいは腰に刀を差して、半面をして、大樹の幹に立つ。


 外套と面と、何よりも樹海に日射しを遮られているのもあって顔は全く窺えなかった。しかしその不躾な視線は確かに感じる。連中の背中は異様に大きく膨らんでいる……。


「先輩、あれは……」

「あぁ。糞天狗共だ」

「珍しいな。こんな近くまで降りているのは……」


 相対する軍団兵三人は禁地の住民から視線を離さず、語り合う。


「落ち着けよ、新人。弾は射つな。規定は教えただろ?」

「分かってますよ。『三勿』、でしょう?」


 先方が退くまで退く勿れ、先方が仕掛けるまで仕掛ける勿れ、先方が逃げたならば追う勿れ……この禁地の警備に回された軍団兵が最初に教わる文句である。上司から、それこそ口酸っぱく何度も何度も、うんざりする程に念を押されていた。


「直ぐ行ってくれりゃあいいんだがなぁ……長い時には一刻二刻も睨み合うんだぜ?はは、参るねぇ」


 槍を立てて身を低くして、重五郎が宣う。面倒臭いなぁという感情がありありと分かる口ぶりであった。口振りからして、何度か経験しているのだろう。そして事実長々と暇で退屈な時間だったのだろう。


「こりゃあ、熱い飯は御預けだな。糞天狗共め。空気読みやがれよ」


 肩を竦める重五郎と違い、より攻撃的に文句を言って舌打ちする佑介。この禁地の軍団兵共の中に天狗に対して好意的な者なぞ殆んどいない。いや、扶桑国全体においても同様だ。


 どういう経緯かは知れぬが豊穣に満ち満ちた央土の一等地を何時まで化物の物にしたままでいるのか。妖は絶対的に駆除するべき害悪である事は常識である。ましてやこの地の開拓が捗れば何れだけの者が助かるか……近頃は特に開拓団や密猟者との小競り合いも散発している。


 いっそ退魔士連中を送り込んで化物共を一掃してしまえば良いのに……そんな風に考えるのは佑介だけではなくて、そして扶桑国における常識ではそれは過激でも短絡的でもない。


 尤も、佑介の場合は食い溢れた弟の一人が北土の寒村に移民して食い殺されたという事情もあるが……。


「まぁまぁ、カリカリするなよ。面倒は面倒だが直接戦うわけじゃあねぇんだ。……俺は引退するまでずっとこのままナァナァで終わりたいもんだね」


 この場における最年長であり、去年まで東土との関街の警備を担当していた重五郎はそんな佑介を宥める。徴兵期間を終えた後も食い扶持のために軍団に残り、幾度か盗賊や小妖との戦闘も経験しているこの男からすればこの地の仕事は気楽であり、このまま何事もなく過ごせれば良いと思っているらしかった。


「呑気な奴だなぁ。信保、お前はこんな給料泥棒にはなるな……」


 後輩に警告せんとした佑介の言葉は、しかし途中で途切れる。轟音と咆哮が、それらを掻き消したからだ。


 開拓村で、粉塵が舞い上がる。


「何だぁっ!?」

「何が起こった!!?」


 軍団兵共は動揺する。一斉に視線を二百歩は先にある開拓村に向ける。そして目撃する。巨大な影を。怪物の姿を。妖だ。それも……。


「大妖かっ!?嘘だろ!!?」


 佑介は叫ぶ。驚愕する。目撃した存在に仰天する。獣に似た大妖……少なくとも佑介にはそう見えた。


 実際の所、それは限りなく大妖に近い中妖であったが、それは大した問題ではない。大事なのは天狗でもない上位の妖がこの央土に、この禁地に出没した事であり、開拓村を襲撃している事である。


「先輩!?」

「落ち着け!?佑介!知らせを!」

「糞、分かった!」


 重五郎の呼び掛けに愕然としていた佑介は直ぐに行動に出る。巡回組の内一人には絶対に配布される噴射筒。信号弾。それを火縄銃の銃口に押し込むと上空向けて発砲した。天高く放たれた装薬は破裂すると青い空に赤い煙を撒き散らす。赤色は妖の襲撃、援軍派遣要請を意味していた。後方の駐屯地に対する救援信号。


 尤も、対応出来るだけの戦力が派遣されるのに要する時間が何れだけ必要なのか、そしてそれが眼前の危機に間に合うのか、それを保証出来る者は何処にもいない。


「畜生、どうなって……」

「先輩、天狗共が……」

「あぁ!?」


 後輩の呼び掛けに佑介は視線を樹海に向ける。気配と視線は消えていた。何もいない。何も……それは突然の事であり、開拓村で発生している事象と無関係だと考えるのは余りにも楽観的に過ぎた。いや、寧ろ……。


「まさか奴ら、けしかけて来たんじゃねぇだろうな……!?」


 脳裏に過る可能性は決して妄想とは言えなかった。央土は残る四方の土と違い圧倒的に妖からの安全が確保されていた。千年以上に渡る地道な駆除事業の結果である。街道は無論、森の中にさ迷ったとしても幼妖相手すら滅多に遭遇する事はない。央土の地に封じられた退魔士家は無職だと皮肉られる程だ。


 ましてや柵の向こう側の開拓村が襲われているのだ。朝廷の影響及ばぬ暗摩の禁地内にて養われた妖が村を襲撃している……それこそが考えられる限りにおいて最も合理的な答えであった。


「何処の誰かなんざどうでもいい!それよりも問題はどうするかだ!」

「どうするって……どういう意味です!?」


 重五郎の言に困惑と動揺をない交ぜにして反応する信保。苦々しい表情を浮かべるのは佑介である。


「村の連中を見捨てるのかってか?」


 対妖よりも対人戦を前提として編成される軍団であるが当然最低限の対妖教育も施されている。その中には相対する妖が現有戦力にて対処不能な場合の判断もあった。


「ここで監視するってのも手だ。俺らだけじゃああれの駆除は困難だぞ!」


 官軍が支給する標準的な槍に火縄銃。予備の装備に短刀。鎧の下に忍ばせている官給品の護符は小妖の妖気や呪いを祓い、低級な幻術にも耐性がある。そしてそれだけだ。


 眼前で村を蹂躙する妖相手にはどう考えても全てが不足していた。火薬を活用した銃器の殺傷力は妖気による威力の減衰を差し引いても尚小妖程度ならば十分なものであったが、あの規模の怪物相手では二挺では足りぬ。


「撃退困難な場合は遠くから権能と習性を観察せよ、か……!!」

「それじゃあ、村はどうなるんですか!!?」


 佑介の呟きに信保は非難するように叫ぶ。重五郎は静かに、と指を口元で立てる。


「だから落ち着けってんだ。注意を惹くだろう……っ、今の発砲音は、前の連中か?」


 澄んだ発砲音が二度続けて鳴り響く。暫くして更に一度、二度。猟銃ではない。間違いなく、官品の火縄銃の音であった。


「伊賀助の奴らか。無茶をしやがるこった……!!」


 佑介が口にしたのは彼らに先行して巡回していたであろう同僚の名であった。どうやら彼らは監視ではなく、妖駆除を選択したらしかった。村の小娘連中と上手くやっていたからだろうか?馬鹿な事をしてくれる。


「流石に仲間は見捨てられねぇ。違うか?」

「……糞。まだ賭けの取り分貰ってねぇんだぞ」


 佑介の指摘に、渋々重五郎は己を納得させた。昨日、兵舎での双六で伊賀助達から給料後払いで大分せしめていた。故に連中に死なれてはかなり困る。動くしかあるまい。


「信保、行くぞ。伊賀助の奴らの援護に……」


 佑介は言い切る前に発砲していた。銃口の先にいたのは新米の頭に兜ごとかぶりついていた妖猿だった。血塗れの口元を開いてゲップをした所に弾丸を頭蓋に食らう。仰け反る。直ぐに起き上がって威嚇した。


「糞っ垂れ!!うおっ!!?」


 次弾装填、その途上で横合いから飛びかかって来た犬妖怪と取っ組み合いになる佑介。火縄銃を失う。短刀を抜いた。突き刺した。


 刺した。噛まれた。刺した。噛まれた。刺した。噛まれた。噛まれた。噛まれた。噛まれた。噛まれた……残念ながら重五郎はそれを助ける術はない。その暇はない。


 周囲の茂みからは、その姿を現す幾体もの異形の怪物共がいて……。

 

「参ったな。……タダ飯食い過ぎた罰が当たったか?」


 己を囲む妖共に向けて手持ちの槍を向けた軍団兵。舌打ちする。不敵に笑う。覚悟を決める。


『グオオオオオッ!!』

「ぶっ殺してやらぁ!!」


 獣の咆哮がした。応じる雄叫びが響いた。そして……。







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「……であるからして、先日の公議にて、此度の一件に関する謝罪の要求、及び原因の究明、及び土地の利用に関する交渉の必要ありとの結論に達した次第なのであります」


 朝廷からの使いを名乗る老境の官人は逢見の屋敷の門前にて、巻物を広げながら泰然として通達した。内々に下された朝廷の結論を堂々と、大仰に宣言する。清麗帝の御世の一四年、水無月の三日の事である。


 此度の一件、それは今より七日前に発生した央土禁地における開拓村崩壊に関する事案であった。一両日の間に生じた民草と軍団兵の死者は凡そ百名。即座に情報封鎖されたその詳細を知るのは一部の専門家と為政者のみである。そして……。


「つきましては使節団の護衛として、上洛退魔士家より人員の派遣を要請するものである。故に、北土鬼月家に関しては退魔業を生業とする者を三名、所望するとの由」


 長く長く続いた前置きは終わり、遂に本題が命じられた。人員を、それも最低限退魔士として通じる者を三人派遣せよとの命令……。


「……こほん。朝廷に対する責務なれば、心して励む事を望むものである。何か、ありますかな?」


 官人が確認に呼び掛けたのは目付きの鋭い酷く痩せた男である。鬼月家現当主、鬼月幽牲為時。官位は正五位下。陰陽寮付……。


「……」


 正六位上の位にある官人は音を出さずに息を呑む。先方の立場を思っての緊張であった。


 陰陽寮付であるのは全ての正規退魔士が形式的にでもそのように扱われているので何ら注目には値しない。真に注目するべきはその官位であろう。


 退魔士家当主は必要に応じて昇殿の必要がある故に名目上であるが全員が殿上人である。


 形式的であり特権は伴わぬ故に、殆んどの当主は従五位下に固定して留め置かれている。多少格式ある旧家の場合は従五位上の地位を世襲する。名目のみであり実質は変わらない。


 正五位は違う。その家に、あるいはその者が特別に格式か功績がある場合に賜下されるその官位は退魔士としてはおおよそ現実的に見て望み得る最上の地位であり、実利的な意味でも益があった。多くのその位にある官吏・公家同様に俸禄が支給されるのだ。退魔の家々に対する飴と鞭であり、家格を逆手に取った一種の分断工作でもあるが、それだけ朝廷も重視している事の現れでもあった。


 つまりそれだけ鬼月という家は名門であるのだ。北土三家と称されるだけの事はある。そんな家の当主を宿泊先の屋敷の門前まで呼び出して高圧的な命令。それも下位の官人から。朝廷の退魔士家に対する立場の確認を兼ねている訳であるが……それを命じられる立場からすれば生きた心地はしない。


 ましてや傍らで当主に付き従う夫人を、勇名と悪名高き「刀狂い」の姿を見れば、尚更に……。


「……そうか」


 何れ程永く沈黙していたのであろうか。閉じていた目蓋を開き、嗄れた喉で以て当主は重々しく口を開いた。


「宜しい、承知した。……朝廷には誠心誠意務めを果たさせて頂くと御伝え頂きたい」

「……しかと、承りましょう」


 当主の穏当な言に胸を撫で下ろし、官人は応じる。一礼。そして控える部下共と共に屋敷の門前より退出する。


「……菫。自重しろ。ふざけが過ぎるぞ?」


 遣いの連中が完全に見えなくなってから苦言を漏らす幽牲。


「はて。何の事でしょうか?」

「分からぬと思うか?袴がずり落ちるのは内裏に戻った頃合いかな?」


 夫の問い掛けに貼り付けた微笑みのままに首を傾げる妻。恐ろしく早い牛蒡による斬撃。それは自身の布地を斬られた事に気付かぬ程。職場で下半身を晒す事になるだろう官人は、しかし事象と犯人を結び付ける事は出来まい。


「さぁ。どうでしょうか?……貴方はどう思います?」


 そして夫人は傍らで跪く側仕えに呼び掛ける。即ち、俺に向けて……。


「私の目では言の真偽は判断しかねますれば……」


 問い掛けに向けて、俺は淡々と答えた。正確に言えば本当に一瞬この面の皮が厚い夫人の輪郭がブレた気がしたがそれだけだ。動いたかも知れない、それが今の俺の動体視力が知覚出来た限界であった。やはり赤穂の血である。原作の世界線でお隠れしている理由が分からない。其処らの妖や刺客如き相手に命を落とすとは到底思えないのだが……。


「だそうですよ、貴方?根拠もなき無礼、謝って下さいまし」

「いけしゃあしゃあと、言ってくれるものだな」


 若干揶揄うような物言いでの夫人の要求に、静かに呆れるように当主は呟く。腕を組み、瞼を閉じて、そして踵を返す。


「何方に?」

「午睡にな。……やはり少々無理をしたな。長旅で体調が戻らんよ」


 昼寝宣言をしながら屋敷の本殿向けて戻る幽牲。年単位で寝たきりであった身体は未だ全快とは言えず、寧ろ長旅で折角持ち直した体力を消費している……らしい。


 何処まで事実なのか、知れたものではない。


「人選はどのように致しましょうか?」

「任せる。そちが適当と思われる判断をせよ」


 菫の問い掛けに端的に答えて、今度こそ黙々と去り行く当主。


「承知致しました」


 その姿に優雅に頭を垂れて見送る当主夫人。そしてその背中が本殿に隠れてしまってから、彼女は口を開く。


「……そのような訳です。何時でも立てるように旅支度を。分かりましたね?」


 此方を振り向く事もなく下される下知。それは即ち、俺の派遣が元より決定している事を意味していた。


「……はっ」


 俺は下げていた頭を一層深々と下げて短く、本当に短く応答するのだった……。









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「天狗、かぁ……」


 旅支度の命を受けて、必要物の調達を名目に外出しようとしていた俺は彼女と出会した。逢見の屋敷の庭先で、鍛練中の蛍夜環と出会した。呼び止められて、雑談で口にした言葉に彼女は反応した。


「……何か、ありましたか?」

「あはは、まぁね……」


 話題は天狗の話となり、その口振りに俺が尋ねれば何処か気恥ずかしげに環は答える。


「天狗って言えば、童話で良く聞いたなぁって思ってね、天狗の昔話……知らない?」

「聞き覚えはありますよ」


 扶桑国の、というよりもこの世界における童歌や童話は妖が登場するものが数多い。幼い内から警戒心と教育を身につけさせねばコロリと死にかねないからだ。


「色々妖話は知ってるけど、郷では実際に妖を見た事はなくてね。頭の中で色々想像したものさ。それで特に怖かったのが天狗なんだ」


 怠け者は脛の皮を剥がされる。悪戯っ子は誘拐されて親元へ帰れない。頭の悪い子は連れて行かれる……数々の童話で描かれる天狗の所業である。生真面目を説き、怠惰を諌め、勤勉に努めるように諭す内容だ。


「正直、昔は本当に怖くって……服汚したり、隠してあった饅頭食べた後とか、天狗に連れて行かれる、どうしようって本気で思ったよ。子供らしく大泣きしちゃったりしてね……」


 頭を掻いて誤魔化すような苦笑いを浮かべる環。己の幼い部分を自ら口にする。これはもしや……。


「口利きを求めておいでで?」

「ギクッ!?」

「図星ですか」


 環の分かりやすい反応に俺は僅かに呆れる。態態己の恥を晒してまで語るとなればその理由は知れている。定員は三名。一名は埋まった。残りは二名……。


「直接、お話すれば良いのでは?」

「それは……あはは。ちょっとね」


 環のはぐらかすような返答。恐らくは話したくないのだろう。


(菫に対して、苦手意識か……?)


 何か関係が壊れる案件があった話は知らない。どちらかと言えば直接的なものではなく圧力や雰囲気によるものだろう。


 俺だって、可能ならばあの女に近寄りたくはないし、話したくもない。常に首元に刃が当てられているような感覚は到底慣れるものではない。何ならきっと、実際次の瞬間に首が落ちているだろう。


「駄目、かな?」

「私は所詮、家人扱です。鬼月の者でなければ、正式の家人でもありません。後程報告してみますが……期待はしないで下さい」


 俺ははっきりと事実を口にした。俺個人としてはどう判断するべきか分からない。目に入る範囲に置いておくべきなのか、それとも安全圏に逃しておくべきなのか……何にせよ、選択の余地はない。


「そう、だよね……うん。いいよ。それはいいんだ。じ、じゃあ!」


 ウンウンと、己を必死で納得させる環。厳しい現実を呑み込んで、そして此方を上目遣いで見据える。


「それじゃあ……もし、同行する事になったら、支えてくれる、かな?」


 弱々しく、自信無さげに、期待するように。少年然とした少女の飾り気のない愛らしいお願いだった。


「……善処しましょう」


 短く、俺は答えた。目を逸らしたのはその純粋な眼差しを相手にするのが気まずかったからだ。


 心が汚れきった俺とは、余りにも違い過ぎる澄んだ瞳……それは劣等感であり、罪悪感だった。


「あり、がとう?」


 此方の行為に気付いて、謝意を示しながらも怪訝に首を傾げる環。俺は話題を変えようとして、丁度彼女が視界に映った。というか……。


「……何ですか、あれは?」


 赤穂の末娘は腑抜けていた。というか庭の縁側で三角座りしていた。座ったまま、ぼーとしていた。背景には何故か雄大な星空が見えた。壮大な音楽が聴こえる気がする。……あと何か阿呆毛はぐでっと萎れている。


「あぁ。あれはね……」


 何とも言えぬ表情で環は答えてくれた。


 ……彼女の有様の理由は文の知らせによるものであったらしい。西土の関街で生じた騒動。それが原因となっての赤穂家の上洛の中止。当主たる父は無論、御隠居たる祖父、兄の全員が都に上がるのを取り止めたのだという。それが相当精神的に来たそうな。


「上洛の道中でもずっと言ってたんだ。今の自分は実家にいた頃の倍は強いって。皆をぎゃふんと言わせてやるんだって」

「さいですか」


 原作や設定でも成長率が高いキャラであったのを思い出す。故に初見プレイヤーは彼女をパーティーに加える訳で……まぁ、大体戦闘とか関係ない場面で死ぬんですけどね?主人公様と都で装束買った帰りに腹に風穴開くとか予見出来ねぇよ。序でに櫛買った場合は頭が無くなる。ここ、試験で出るぞ?


「しかし……西土の関ですか」


 環や紫は知らぬだろうが、俺は当主夫妻や佳世経由で内々の話を聞いている。何なら原作知識でも知っている。実際は東土と南土の関でも類似の騒動が生じた事を。特に南土での問題は相当に面倒な事態に陥っているという……。


(救妖衆か)


 原作やノベル等でも触れられていたイベント。都での打ち上げ花火に先立っての工作。原作においては詳しい内容までは分からず、主人公らは介入すら出来ない事案。しかしながら現実には北土での一件において主人公様と鬼月家は介入に成功していた。連中の行動が早まった故か、此方の日程がズレた故か、理由は分からない。


 何にせよ、連中にとって先日の四方の関での騒動は失敗ではない事は確かだ。俺の知り得る限りの情報ではそのように判断する。赤穂の一族の都入りの阻止が出来た事と、異民族や大名との協力に横槍を入れられたのだ。連中にとっては十分な成果の筈だった。


「伴部くん……?」 

「家族に会えないのは寂しいものです。環様、時間があれば慰めて下さいませ。妹弟子の言葉でしたら私よりもずっと心に響くでしょう」


 環の呼び掛けに俺はそういって要望する。紫が使い物にならなくなっては困る。アレでも実力は本物なのだ。他の家族に全く及ばぬとしても貴重な戦力であった。


「……うん。そうだね」


 紫を見て、何か思って頷く環。その瞳は慈愛の心で満ちていた。


 ……良い傾向だと思った。原作では追い詰められる程にその瞳は濁り、人を思いやる事も出来なくなっていったものだ。原作のステータスには精神耐性欄もあって、それによって選べる選択肢が変動したものだ。精神耐性が低くなると選べる選択肢はそれはもう悲惨なものだった。


 その点で見た場合、今の状況はまだまだ余裕があるように見えた。関街の一件以来雪音と入鹿との関係のぎこちなさが緩和されているのが原因だろうか?俺の知らない間に仲直りしたらしい。幸いだ。精神は安定している。


 ……あとは左大臣辺りと二人きりになったりしなければ、か。


「……それでは、私は此れにて」


 脳裏に過る懸念を振り払い、俺はその場を去る。男でもアレだったのに乙女となれば拗らせ左大臣がどんな反応するか想定出来ない。それでも大臣である以上簡単に出会すとは思えなかった。まだイベントは踏んでいない筈だった。ダイジョウブダッテ!


「……」


 妙な胸騒ぎを感じつつも、俺は此度の仕事を生き残るための行動を開始するのだった……。









ーーーーーーーーーーーー

「……行っちゃったな」


 去り行く恩人に向けて、環は呟いた。


 蛍夜環にとって、あの家人扱下人は正しく恩人だった。己と、家族と、友と、故郷の恩人だ。返しきれない恩義のある、尊敬するべき先輩だ。


 そして退魔の生業をする中で、その尊敬の念は一層大きくなっていく。


「伴部くんなら、もっと上手く出来たのかな……?」


 それは関街での騒動の顛末について。己は精一杯やった。けど犠牲は確かにあって、悲しみも沢山あって、何よりも己の努力は水泡に帰してしまった。白狼の子供は連れ去られ、蝦夷の姫は巨狼の骸を遠目で見て確かに泣いた。泣いた上で感謝されて、雪音の嫌疑の擁護までしてくれた。環は何も言えなかった。


 環にとって、余りにも不本意で、諦め切れず、煮えきらぬ顛末だった。己の力不足を思い知って、一層彼への憧憬は大きくなる。


「……もっと、強くなりたいな」

   

 環はまた呟く。


「もっと、もっと強くなれたら……上手くやれたのかな?」


 そして抱くのは胸の内に渦巻くナニか。あの騒動で己が使った力の、恐らくは片鱗。異能の類いか何かではないかという話であったが……環はそれを自覚して、実際に己で使役して見て思う。恐ろしいと。あれは到底自分が制御し切れるものではないと。


 下人衆の助職のように、未熟の内に己の異能を制御し切れずに暴走してしまう例は度々あるという。場合によっては周囲を怪我させて、あるいは命を奪う事すらも……それを思えば、易々と鍛練出来るものではない。強くなりたい、しかしこれでは強くなれない。そして強くなれなければ……環は陰鬱になる。


 そうだ。強くなれなければ、誰かを失うかも知れない。誰かが無茶する事になるかも知れない。そしてその可能性が一番大きいのは……。


「……!!」


 胸を締め付けられる感触。恐怖。喪失感。無力感。明日そうなるかも知れない未来に俯いて、先程までの曇りのない表情は悲惨な事になっていた。


「僕は、どうすれば……」


 それは誰にでもない。己自身に突きつける詰問。呼びかけ。慟哭で……。


「あぁ。環さん。此方にいましたか?」

「ふぇ?」


 甘ったるい猫撫で声に環は我に返る。即座に目元を袖で拭う。振り向く。そしてその人物を視界に映し出す。


「環さん。来て下さいな?」

「えっ、あ……はい!」


 夫人と共に師であり、身の回りの世話と言う意味では母親のように助けられている鬼月の御意見番、その人からの手招きに慌てて環は向かう。立場と恩義から言って待たせる事はあり得なかった。


「御意見番様!それと……白若丸くん?」


 老婆と思えない若々しい前々当主夫人。その傍らに控える年下の兄弟子を認めて、思わず目を丸くする。当然だろう、その出で立ちは巫女そのものであったから。


 化粧に紅までして、着飾った姿は余りにも美しい。普段から少年というよりも少女に見えるのだ。今の姿を見て、初見でこの少年を男だと判断出来る者はいまい。それこそ鬼月家の上洛隊の大多数が宿泊するこの逢見の屋敷の者達も、この家人を娘子として認識していて、本人も師も否定しないものだから誤解が広がっているように環には見えた。一応、目についた所で環が誤解を解いて回っているのだが……。


「なに?」

「あ、ううん。何も……」


 視線に気付いての白若丸の若干刺々しい問い掛けに環は誤魔化す。この前の関街での仕事で少しは距離を縮められたと思ったのだが……いや、あの騒動で己が密かに行おうとした事を思えばそれも仕方無いのかも知れない。


「もう、そんなに刺々しくしては行けませんと言っていますのに……御免なさいね、環さん。注意はしているのですけれど」


 困り顔を浮かべる御意見番。しかしながらその物腰は柔らかい。関街の一件から少しして、どういう訳かこの老婆は機嫌が良いように環には思われた。


 逆に環からすればやりにくかった。己のあの神犬への行い。代替わりについての叱責は軽く、寧ろ怪我がないかと大層心配されてしまったから。環は己の過失を分かっていたからそれを喜べなかった。


 罪には罰があるものだ。どのような理由があっても、その道理を無視しているといつしか守るべき大切な一線を越えてしまうのではないか……?


「環さん……?」


「あの、いえ何も……それよりも、何用なのでしょう?」


 自身の暗い気配に勘づいたのか、尋ねられて環は話題を逸らす。正確には本題に移す。


「あら?そうそう御免なさいね?そうね、先ずは優先しなきゃならないお話からしなくちゃね?」


 そして一度咳をして、改めて胡蝶はそれを環に向けて語った。


「環さん。貴女に案内状が来ております。宮鷹家より、本家直系の姫君より。……如何なさいますか?」


 それは宮鷹家本家・亜流巫女、宮鷹忍鴦からの歌会への招待状で、蛍夜環は思いがけぬ誘いに暫し唖然とするしかなかった……。






ーーーーーーーーーー 

 人の波の隙間を俺は進む。扶桑国中津邦の都は人で溢れている。四方の土からやって来る難民の群れ……その多くは新街に流れたとは言え、それでも城壁で囲まれる旧街は問題ないという訳でもなかった。


 一年前と比べて一割増えたであろう人口。規制の強い旧街でそうなのだ。新街はもっと酷いだろう。余所者が増えて、彼らが真面目に働くならば良し、実際は仕事にありつけずに盗人やら博徒、詐欺師、賊になる者もいる。それらを取り締まるために朝廷は一層の軍団や検非違使を都で巡回させていた。


 正面羅城門では人と車でごった返す。警備の衛兵はそれらを完全に統制出来ていないようだった。


「全く、困ったもんだ。田舎は彼方も此方も騒ぎで……ん。潜って良しだ。日が暮れる前に帰る事だ。夜は門を閉ざすからな」


衛兵の認可を受けて俺は門を抜けた。碁盤の目で整然として管理された旧街から、猥雑で乱雑で、ある意味旧街よりも活気のある新街へと足を踏み入れる。


「……約束は、果たせそうにないがな」


 以前ここに足を踏み入れた頃の事を思い出して呟く。吾妻雲雀の元に共に顔を見せようかと言う話も白としていたが……残念ながら今となっては難しい。呪いで殺されんだろうな?


「流石に……いや、どうかな?」


 子供には甘くとも元陰陽寮頭。その辺りにはシビアかもしれない。というか甘々なら俺に呪いなんて掛けていまい。……マジで大丈夫だろうか?認識阻害の外套を深く被って俺は街の中を進み続けた。商店の立ち並ぶ街並みを、物売りを躱し、懐に手を伸ばすこそ泥の腕を往なしながら、突き進む……。


 随分と奥地にまで足を踏み入れる。途上の比較的奇麗そうな店で串団子を数本買って、近場で腹を満たす。御手洗団子を計三本だ。


「……」


 一本を沈黙して食べる。二本目を咀嚼する。そして竹筒の水筒で喉を潤して、三本目に手を伸ばし……。


「旨そうじゃな?一つ、儂にくれんかの?」

「……御代の請求は、御自宅で宜しいでしょうか?」


 突然に、前触れもなく、気配すら悟らせず、傍らで並ぶようにして佇んでいた老人に向けて、俺は問うた。同時に老人の懐から布切れが泳いで来て、俺の視界を塞ぐ。


「目隠しじゃ。それと、赴く前に虫を掃わんとな?書籍が駄目になりかねんわい」


 けたけたとした意地の悪い老人の嘲り。恐らく髭を撫でての言に、俺は今更怯える事はなくて肩を竦めて同意する。


 それは元陰陽寮斎宮助兼理究院長、松重道硯との直接的な意味での再会であった……

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