第一二七話

「……そして、鳴き声を訝しんで棚を開いて見たのです。するとどうです?中から出てきたのは丸々と太った鶉と来たものですよ」

「ええぇ!?本当なんですかっ!!?」


 白木の関街の大通り。其処に面した茶屋で二人は談笑する。一人は若武者姿で、今一人は役所勤めに見える文官に見えた。


 鬼月の家に所属する蛍夜の姫君と、白犬の一族に仕える小使は茶を片手にして朗らかに歓談を続けていた。


 聞くところによれば小使もまた、環同様に捜索隊を率いており、今はこうして休息を取ろうとした所で彼女と出会したのだとか。最初は目的を同じとする故に互いの進捗の報告を、そして其処から会話は件の姫君に移り行く。最初は性格等のその行動に関わる実務的な内容であったのは、次第に雑談へと変わっていた。


 どうやら環と面識のあるこの男、佐伯邦守から任じられて長年件の姫君に、それこそ漸く歩き出せたような幼子の頃から仕えて来たという。


 話によれば姫君はその身分と見目とは打って変わって活動的で、時として周囲が驚嘆するような行動を平気でやってしまうのだとか。……本人はお淑やかを装っていると思っているらしいが。


「特に動物の事になると中々……善き心をお持ちなのでしょう。警戒心の強い筈の野の生き物すら手なずけて持ち帰ってしまうのです。驚くべき事ではありますが、やはり我々としては困ってしまいます。あの御方は佐伯の姫君であるのですから」


 高貴な姫君が獣共と戯れていては困る。特に佐伯白犬族の姫君にとっては。


 宗主たる扶桑国は、この人界の主だった国々同様に人間至上主義の国である。神格も自然も、人の繁栄のために屈服させるべきものに過ぎない。野の獣なぞと遊び耽るのは文化していない蛮族の所業……其処まで明確に意識している訳では無かろうが、それでもその行為は汚く穢らわしいと殿上人であれば眉を顰めて袖口で口元を隠すであろう。


「姫君が抜け出したのはあるいは其処に起因するのかも知れませぬ。逃げ出そうという訳ではなかったのでしょうが……」


 やんちゃし過ぎて騒動に巻き込まれてしまった姫君を思ってか、低く溜め息を漏らす小使。其処には隠しきれぬ疲労と焦燥が滲み出ていた。あるいはその立場から目上より圧が掛けられているのかも知れない。


「……攩野様は、姫様の事をとても大切に思っておられるのですね?」


 雑談が一旦途切れ、お茶を一口呑んでから環は尋ねる。いや、それは尋ねるというよりかは感想に近かっただろう。


 攩野君雲、彼から述べられる彼の主君の姿は本当に細やかで、良く見ているものだと感心したものだ。


 僅かな所作の差異で相手の望みを読み取り、それを過不足なく整えている彼の在り方は一種の理想そのものであろう。人を使う身の上であれば誰しもが欲しがる筈だ。自身を良く理解してくれる家臣というものは中々に得難いものである。


「……邦守様は、私如きが賎しき身の上を取り立てて下さいました」


 小使は瞼を閉じながら、まるで思い返すようにして語る。己が部族においても身分の低い階層の出身である事を。本来ならば老い朽ちるまで土地に縛られ土弄りに勤める運命であった事を。其処を、偶然視察に赴いていた姫の父……佐伯邦守の目に留まった事を


「邦守様は中々に先進的なお考えの持ち主でして。身分の上下問わず、資質ありと見た者に環境と機会を下さる御方なのです」


 無論、部族の名家からの反発はある。折角の機会を掴みきれぬ者もいる。邦守曰く「十人に一人が物になれば良い」と言うが……そして、そのような才有りとされた者の中でも、攩野君雲という男は特に引き上げられた存在であった。


「姫様への傍仕えに、此度上洛への同行……邦守様が私を評価して下さるのは有難いお話です。故に恥ずかしい。このような事態なぞ……」


 信用して、信頼されての任であったのだろう。それが守るべき姫君の所在も知れず……攩野にのし掛かる責任の重さが環にも良く分かった。同情して、共感する。


「辛い、ですね……」

「いえ、私如きの心情なぞ……私よりも心を痛めている御方はおりますよ」


 それが誰なのか、其処まで尋ねる程に環も野暮ではない。深堀りはしない。根掘り葉掘り聞かれて愉快な者はいないだろう。


 だからこそ、せめて安心はさせてあげたい……環は話を切り出す。


「此方の捜索は、上手くいけばもうすぐ成果が出そうです。どうにか、今日中に見つけ出せる筈です」


 絶対に、と言えないのがもどかしかった。残念ながら白若丸の行っている手法を、環は精々二割程度しか理解出来なかった。殆どあの少年術師の付き添いであった。己が情けなくなってしまう。


「先程お聞きした退魔士の能を活用した捜索方法ですか。此方も順調とは言えぬ状況なれば、有難い限りです」


 曰く、事態が事態故に蝦夷の長達も関街の長官も、大人数での捜索は難しいらしい。比較的口が堅く信頼出来る者を選抜し、それでも詳細を伝えずに捜索を命じているという。


「ましてや、通りであれば兎も角屋内ともなれば……事あるごとに問題が起きるので遅々として進みませぬ」


 そして己がその度に赴き収拾を担っているのだと攩野は語る。語りながら湯呑みを呷る。それは飲酒する訳には行かぬ故の代償行為にも思えた。


「そうなんですか……」

「見方によれば、そちらの方が進み具合は良いかも知れませんね」

「そんな事は……」


 謙遜しつつ、環は手持ちの地図を広げる。残り四ヵ所。其処を回る間に小使達が件の姫君を見つけ出せる可能性は……誰にも断言は出来まい。


「いっそ、協力は……」


 其処まで口にして、しかし直ぐにそれをつぐむ環。そも、環が別途で捜索を求めた理由を思えばそれは出来ぬ相談だった。協同すれば、鈴音の身柄が保証出来ない。目の前の青年は兎も角、その上がどのように判断するか環には読めなかった。


「ははは。そちらの事情は聞き及んでおります。お気になさらず」

「いえ、こんな個人的な事で。事は重大なのですから本当だったら……」


 きっと、立場が逆であれば環は相手を睨み付けている事だろう。自分達の都合で何て身勝手な事をと面と向かって詰るかもしれない。思わず俯いて、手元の湯呑みを見つめる。その水面に映りこむ己の姿に嫌悪感すら抱く。


「物事を後ろ向きに考えるのは止めましょう。考えようによれば独立しているからこそ、そちらは我々よりも自由に動けるのです。短所よりも長所を見ましょう。後ろ向きの考えは、余りにも実りがない」

「……そうですね」


 暫くの沈黙。通りを見つめながら人の行き来をただただ観察する。あるいはその中に渦中の姫君が紛れてはいまいかと微かに期待もするが……当然そんな事はなく、己の無意味な行いに環は呆れすら抱いていた。


「……さて。そちらの御同行人も来られたみたいなので、そろそろ私も仕事に戻りましょうか」


 湯呑みに残る茶を全て飲み干した攩野は宣言した。宣言して立ち上がる。その視線に釣られて見てみれば漸く厠から戻って来たのだろう二人の目付の姿。双方共、まだ顔は少し青かった。その姿を見て、己は意外と図太いのだろうか?等という無駄な思考が思い浮かぶ。


「環様、これを」


 その呼び掛けに、環の視線は先程まで会話を交えていた攩野に戻る。そして彼女はそれを見る。攩野がそれを差し出すのを。困惑しつつも、流されるように環はそれを受け取っていた。


「これは……」

「御守りです。御入台される姫様のために、と思って前々より用意しておいたのですがお渡しする機会を掴みかねておりまして……」


 己の不甲斐なさを嘲るように苦笑する攩野。環が受け取ったそれは数珠玉であった。勾玉を交じらせて真珠を繋ぎ合わせた数珠だ。


「ええっ!?これ、かなり上等な代物ですよね!!?ち、直接渡して下さいよ……!!?」


 大粒の形大きさが均等な真珠玉を百粒。これだけ集めるのは相当な金銭を積む必要があるだろう。公家や大名家の基準で言っても高価過ぎる代物だ。環は思わず返そうとするが、それは押し止められる。


「いえ、寧ろ環様の方が宜しいでしょう。姫様の御身のために、と語れば要らぬ詮索はないでしょうから」

「要らぬ、詮索……?あっ!?」


 小使の言葉に環は首を傾げて、ふと気付いたように声を漏らす。そして若干頬を赤らめさせる。


「えっと、けど……」

「恐らくですが、環様の方が御先に姫を見つけ出せるでしょう。それに、姫様のお立場もありますれば」


 両手を組んで恭しく一礼して蝦夷の男は再度嘆願する。それを断れる程に、環は冷淡にも無責任にもなれなかった。それは、余りにも人の心が無さすぎた。


「分かり、ました。僕が……僕が責任を持ってお渡ししましょう!!」


 僅かに戸惑いつつも、最後は力強く応じた環。小使はその態度に微笑んで、再度一礼する。先程よりも一層深々と頭を下げる。


「言い忘れておりました。昨夜の短刀の一件に対しては大変失礼を。結果として貴女に御迷惑をお掛けする事になりました。私としてもお役目でした故に何卒御容赦を。……では」


 そして気づかぬ内に此方に来ていた蝦夷の兵共を一瞥すると、席に茶代を置いて行ってしまう。その後ろ姿を一瞥した後に、環は手元の数珠を見つめる。数瞬見つめて小さくコクりと頷いて、盗まれぬようにとそれを大切に懐に忍ばせた。


「うー、まだ気持ち悪いです……」

「大丈夫?……緑茶でも、飲むかい?」


 漸く店にまで辿り着いた紫達を労りながら、環は呼び寄せた茶屋娘に追加の茶の注文をしていた……。







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 茶屋から撤収したのはそれから暫く後の事。幾つか問題を引き起こしつつも三人は残る要を巡っていく。


「『道先示せ』……北、いや北西か」


 あからさまに盗品を取り扱ってそうな骨董品店の店主を言霊術で催眠した後、その店の裏手倉庫で白若丸は物探しの呪いを唱える。床に石灰で方陣を刻んだ後に、神木の切れ端を削り取って作られた筮を立たせる。本来ならば直ぐに倒れてしまう筈のそれは上から糸で吊るされているかのように暫し揺れながら、それでも三十数えた頃には漸く倒れこんだ。指し示す方角は北西。地図を広げて、白若丸は線を引いていく。


「これで三ヶ所目。漸く終わりが見えて来たね」

「とは言え、そろそろ日が暮れて来ましたね。残り一ヶ所、さっさと終わらせてしまいましょう。所詮、前座に過ぎないのですから」


 環が安堵したように呟けば紫が強めの口調で指摘する。環はそれに反発する訳でもなく、尤もとばかりに頷いた。確かに、これは前座に過ぎない。その先こそが、彼女らの目的なのだから……。


「それで、最後の座標は何処だったっけ?」

「待ちなさい。そうですね、確か一番遠回りの場所だった筈ですから……」


 追記をしていく白若丸の背後から二人の男装武者は地図を覗きこむ。暫し図上を探し回って……漸くその黒点を見出だした。


「あぁ、これですか。確かここは……」


 不敵な笑みを浮かべて紫はその場所を指し示す。そしてその場所の名を口にしようとして……口をへの字に歪めて口ごもる。環は、この状況に凄く覚えがあった。というか此度の黒点の場所を調べる過程でほぼ毎回行われている反応だった。最早様式美であった。お約束であった。


「ええっと、ここは……」


 今更、慣れたもの。環は嫌な予感を覚悟して地図に示された文字を読んだ。そして紫同様に神妙な表情を浮かべる。


「銭湯の……男湯かぁ」


 客として入り込むには自分と紫では難しそうだ。尤も、危険性という意味ではこれまで回った場所の中では低い方でもある。幸い、此方には男子が一人いた。問題は現地で他人の目がある中で呪いを執り行えるだろうかという事か?


「向こうでどうする?人払いが必要かもしれないけど……白若丸くん?」


 環は現地での手順を相談せんとして白若丸の横顔を見る。そして首を傾げて、困惑しながらその名を呼び掛けていた。


 件の少年は、額から汗を流しながらひたすらに動揺していた……。







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 多量の湯を用意するのは本来であれば非常に手間の掛かる作業である。当然だろう、川や地下から汲み出した水を多量の薪を燃やして熱しなければならぬのだから。時間も人手も、金だって掛かる。


 例外が温水が自然に湧いて出てくる場合、つまりは温泉がある場合だ。地熱、あるいは霊脈で以て温められた地下水を利用すれば当然ながら態態冷水を温めるやりもずっと安上がりで湯を用意出来る。


 そして扶桑国の場合は銭湯の大半がこの方式である。辺境の銭湯は蒸し風呂が主流で高い癖に何週間も同じ湯を使い回して、挙げ句浴場を男女別に分けぬ場合もあるというが、都を中心とした霊脈の恩恵豊かな土地のそれはそれこそ毎日湯を代えているにも関わらず子供の駄賃程度で利用出来る。


 白木関街の銭湯の場合は少し特殊だ。此方は南土の多くの場合と同様に霊脈ではなく地下熱による温水を利用していた。独特の硫黄臭が鼻につくが、それはそれとして滋養に良く、専門の銭湯では湯治に訪れる者も少なくない。


 要の座標の場所たる銭湯は、関街の中でも特に大きな大衆銭湯であった。特に職人や肉体労働者向けの其処は同時に酒や軽食を提供して遊技場、非公認ながら小さな賭博場すらも設けられていた。


「無理。絶対無理!!一人で何て絶対に嫌だっ!!」


 活況な銭湯の入口を遠目で見やる環は傍らで叫ぶ白若丸の反応に困惑する。困惑して、困り果てる。


 一体どういう訳だろうか?本来ならば一人客として男湯に入り込めばほぼ終わる簡単な話であったのだが……当の少年は何れだけ言ってもこの有り様だった。妥協の余地なくひたすらに拒絶するのみだった。


「ではどうしろと言うのですか!?私達に男湯に突っ込めと?それとも強権でも使えと?我が儘言うのは止めなさい!!」


 憤慨するのは紫だった。完全武装で無理矢理突っ込めば当然ながら問題になる。客として?布地を身体に巻いたとしてもそれは流石に環もご免こうむる。退魔士家としての権限を使うのも事が事なので宜しくあるまい。白若丸が一人向かえばそれで御仕舞いなのだが……どうしてこれ程までに頑なに?


「いやだ……いやだ……むり、むりぃ……」


 踞る白若丸は、途中から涙声になりつつ頭を横に振るう。その余りにも憐れな姿に流石に環も紫もこれ以上何も言えなくなる。一体何を恐れているのか……いや、それを今掘り返している暇なぞあるまい。


「白若丸くん、この中で座標を占える技能があるのは君だけなんだ。だから絶対に赴いて貰う必要があるんだ。それは……分かるよね?」

「ううう……」


 この上なく嫌そうに唸りながら、小さくコクりと頷く白若丸。環は優しく寄り添って、更に尋ねる。


「一人じゃ向かうのは嫌なんだよね?それじゃあ、僕達も同行するんなら我慢出来る?」

「環さん、何を言っているんですか!!?」


 紫が叫ぶのも無視して、環は白若丸の返答を待つ。暫しして……再び頷く白若丸。漸くの、頷きであった。


「……その場凌ぎの誤魔化しは止めて下さいよ。どうやって入り込むつもりなのですか?」

「そ、それは……っ!!?」


 鋭い紫の指摘に環は悪意こそ無かったが図星を突かれて慌てて、しかし直ぐにそれを視界に収めて思い付く。


「あれ、使えないかな……?」

「あれ?……正気ですか?」


 環が指差す先に視線を向けた紫は、唖然として再度環に顔を向ける。返って来たのは、虚勢を張って頷く目付相手の姿であった……。





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 規模のみで言えば関街でも一、二を争う銭湯、『極上殿』は今日もまた繁盛しており、特に今の時刻が掻き入れ時であった。丁度仕事終わりの男衆が挙って入店して来るからだ。仕事で流した汗を洗い落として一杯引っ掛け、おまけに打つために集う。近頃は田舎から流れて来た新参者の日雇い連中も多い。


 お陰様で店で雇われる奉公人共は彼方此方へとてんやわんやである。足音は騒がしく、怒声も響く。見る者によっては不快感を与える光景ではあるが……其処は所詮は格安銭湯である。小金持ち向けの気取った所がないとも言えるだろう。値段相応、元より分かりきった事であり一々文句をつける客もいない。寧ろ、そんな事をするような奴は器の程が知れようというものだ。


「しかし、流石に値上がりは困るもんだな」

「便乗値上げもあるんだろうがなぁ。給金は上がらんのに堪らんな」

「うげ。見ろよ、また玉子と酒が値上がりしてやがる……」


 関街の職人街より参上した見習いの鍛冶師共三人が腰巻きだけを着けた状態で語り合う。以前ならば風呂に浸かりながら熱燗と温玉子に舌鼓を打つのだが……。


「前の倍近いのはなぁ」

「軍団や退魔士共は何してやがるんだ?」

「洒落にならんぜ、全くよぅ」


 あらゆる物が不足こそまだ程遠いが着実に値上げし続けていた。既にその原因が治安の悪化である事も下市民には知られていて、結果として不満は治安を維持する者達に向かっていた。


「しゃあねぇ。今日は呑まずに行こうぜ」

「見習いじゃあ金もねぇからなぁ」

「取り敢えず汗を流せればそれで良いさな」


 愚痴りながら通路を通って湯槽に向かう。


 銭湯には適温の湯槽の他、熱湯に水風呂、そして蒸し風呂が拵えられていた。男湯だけでも軽く百人、いや二百人以上が浸かれる空間……但し、安い大衆銭湯という事もあり元より灯りは少なく、其処に節約のために更に数を減らした事もあって湯気と合わせて室内は非常に薄暗い。


「相変わらず暗さだ。セコい真似してくれやがる、足滑らしそうだぜ」

「おい、先に身体洗っちまうぞ!!垢取りだ」

「三助の奴ら何処だ?おい、誰かいねぇのか!!?」


 数歩先も曖昧な薄暗い銭湯の中で男達は叫んだ。


 銭湯で働く者達に「三助」と呼ばれる者達がいる。客人の身体を洗い、あるいは番頭として、下足番等を勤める……より正確に言えば「三助」の呼称自体はそれら銭湯で働く男共の階級の最高位であるのだが、法で決められている訳でもないので必ずしも厳密でもない。事実、労働者向けのこの銭湯では敢えて三下の者にまでその名で呼ばせていた。


 残念ながら、客の多さも手伝って直ぐに彼らに対応してくれる者達はいないようだった。


「たく、御客様は神様だってのに……おっ!!見っけた!!」


 呼び掛けに応じない店員共に舌打ちした男は、直後に眼前を通り抜けた人影の一人の腕を掴む。従業員の、腕を掴む。


「うわっ!!?」

「うわっじゃねぇんだよ。呼び掛け無視すんじゃねぇ。此方は金払ってんだ。代金分の仕事は……」


 其処まで口にして、言葉を詰まらせる男。理由はうっすらとした灯火に浮き出た従業員の容貌によってであった。


 幼い。十代前半てあろうか?少年としても華奢過ぎる身体。薄い浴衣はダブついていた。此方を見据える怯えを含んだ顔は、少年というには余りにも可憐に過ぎた。少女、それも美少女というべきものだった。


「ひ、ぃ……!?」

「お、おおぅ……?」


 息を呑む程に愛らしい顔立ちでの、まるで妖でも見るかのような怯え切った反応に男もまたどう反応するべきなのか迷う。はて、このまるで歌舞伎座の役者の如き美貌は誰であろうか?ほぼ毎日のようにこの銭湯に通っているが見覚えはない。年頃からして新人か……?


「白若丸くん……!?何してるの!?」


 首を傾げている内に、暗闇の向こうから舞い戻って来た別の従業員が叫ぶ。驚くべき事に此方も中々端正な顔立ちだった。最初の少年には劣るものの其処らの女よりも可愛いらしいかもしれない。


「あっ、す……すみません!!僕達、急いでいるので……!!」

「お、おい……!!?」


 湯女とは別に陰間茶屋のような副業でも始めたのか?思わずそんな事すら訝んでしまう。そしてそんな事を考えている内に二人目の従業員は一人目を連れてさっさとその場から立ち去ってしまう。呼び止めても無駄だった。あっという間の出来事だった。


「……な、なんだってんだぁ?」


 嵐のような一瞬の出来事に、男は困惑する事果てしない。唖然と愕然として、そして直後に従業員の態度に憮然として憤然とする。不満が沸き起こる。


「糞、客に向けてなんて態度だってんだ。全く……そう思うだろう、えぇ?」


 そして男は振り返って同僚達に呼び掛けた。誰もいない湯気立ち込める闇の中に向けて、声は木霊した。


「あ?おい、どうしたんだ?何処に言った……?」


 いつの間にか消えていた二人に今度こそ驚いて彼方此方と向いて闇の中を探す男。もしや、己を置いて先に行ってしまったのだろうか……?


「だとしたら酷ぇ話だぜ?冗談じゃねぇ……うおっ!?」


 確定した訳でもないのにもう毒づき始める男は、直後に足を滑らせて転げかける。極度の暗闇の中、浴場は床が濡れているもので転倒の可能性は常にあるものだ。しかし……。


 ピシャリ。


「な、なんだぁ?」


 床の濡れに男は違和感を感じた。何と言うか……湯ではないように感じられたのだ。もっと粘ついていて、何なら急に生臭さすら感じられた。困惑に眉間を潜める。そして何なのだと先程からの不愉快な感情に任せて男はしゃがみこんだ。


 ……直後、視界の端に何かが照りつけるように輝いた。何かの気配が、闇の中を蠢く。そして、振るわれる。


「あっ……?」


 その刹那の瞬間まで、男はそれが何であるのかを知る事はなかった。





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「ううう……腕、洗いたぃ……」

「何を箱入り娘みたいな事言っているのですか!?男子なんですからしゃきっとしなさい!!~~~!!本当に恥ずかしいのは此方なんですから……!!」


 見ず知らずの男に掴まれた腕を撫でながら涙目になって呟く白若丸を紫は叱責する。最後の方は小声になって指摘する。顔を赤らめて己の纏う薄い装束の襟元を押さえながらである。


「く、暗くて良かったよね!?そ、その……み、見えなかったよね!!?」


 後続の環は確認を取るように尋ねる。尋ねながらかなり危うい裾を引っ張る。大きめの浴衣はしかし、激しく動くと下の部分がかなり怪しかった。


 蛍夜環の企てた潜入手段は、つまりは従業員への成りすましであった。より正しく表現した場合、銭湯で働いていた男共を三人程、闇討ち不意討ちの峰打ちで仕留める。気を失った所で衣装を拝借して忍び込むというものだった。ここの銭湯はほぼ一晩中開店しているために閉店時間を狙う事も出来なかった。姫君の身柄を早く保護する必要もある。手段は選べなかった。


「かと言って此は……!!は、破廉恥な!!」


 紫は震える声音で吐き捨てる。彼女らの今の状況は流石に褌までは流用出来なかった故の苦肉の策。湿度の高い風呂場という事もあって浴衣は相当薄い。下手したら透けてしまうのではないかと思える程で、薄暗い室内だからこそどうにか彼女達は羞恥心を堪える事が出来ていた。


「早くやる事をやって撤収しますよ……!!この辺りで良いでしょう。さっさとしちゃって下さい!!此方だって我慢しているんですからね!!」

「ううう~、分かってるよ。煩いなぁ……」


 浴場の奥の奥。隅の隅。人気の無さそうな場所にまで辿り着いた紫は早口で捲し立てる。命じられた白若丸は尚も己の腕を撫でながら……潔癖症なのだろうか?と環は訝った……何処までも不満げに呪いを始める。手元の小さな燭台の光を頼りにして、懐に隠していた石灰で方陣を描いていく。環と紫はその間周囲を見張る。


 筮を立てる白若丸。長々とした呪いの句を唱えていく。環はちらりとその様子を横目に観察する。


(……男の子、なんだよね?)


 濡れた布地が細身の身体に張り付いた少年の姿は、暗闇から浮き出るような光景なのもあって中々に幻想的で、そして色香に溢れ過ぎていた。湯気で汗をかいたのだろう、髪を掻き上げる所作一つ取ってすら蠱惑的だった。正直、男子である事が信じられなかった。


(ゴクリ……)


 思わず唾を呑んでしまい、それに反応してか、ふと向けられた眼差しに己の感情を悟られぬよう慌てて視線を逸らす環。逸らした所で突如足下で鳴り響く音に思わず肩を竦める。


「どうしましたか……!!?」

「え、えっと……これ、みたい?」


 咄嗟に警戒する紫に向けて、環は条件反射的にしゃがみこんで音の正体を探っていた。そして直ぐに暗闇の中からそれを見出だしていた。掲げるのは中身のない風呂桶。それを認めた赤穂の娘は安堵の溜め息を漏らす。


「……全く、驚かせないで下さい」

「ご、ごめん……」


 環の謝罪を受け入れて、紫は背後を背後を向く。呪いの進捗を確認する。


「……よし。分かった。後は地図に結果を記載するだけだ」


 丁度呪いを終えて道具類を仕舞いこみ、床の方陣を軽く擦って消す白若丸。紫は頷いて環に向き直った。そして口を開いて何かを言おうとして……。


 暗闇に、銀色の光が煌めいた。


「っ!!?危ない……!!?」

「えっ……!?」


 予感であり、悪寒だった。環は咄嗟に叫びながら側にあった風呂桶を紫に向けて投げつけていた。より正確には紫の直ぐ真横に向けて、投擲していた。


『シャッ……!!?』


 風呂桶が何かにぶつかった。同時に低く鋭い悲鳴と共に何かが吹き飛ぶ。紫の頬を何かが掠めた。頬に走る鈍い熱……。


「な、何が……?」


 訳が分からぬままに恐る恐ると触れる紫。触れた手を見下ろす。掌には真っ赤な血がこびりついていた。切れた頬の薄皮より流れ出す、鮮血だった。


「ひぃっ……!!?」

「白若丸くん……!!」

「分かってる……!!」



 小さな悲鳴と共に振り返る紫。環の呼び掛けに応じて即座に袖下から封符を放つ白若丸。符より解放された刀を受け取り構える。薄暗い闇の中からそれらは現れる。


 土左衛門の如き青白い肌、窶れてふやけて腐食した身体に対照的に膨らんだ腹部。窪んだ眼孔。そして、鞭のようにとぐろを巻いた鑢のように粗い舌。


 人為的な手段によってのみ製造される人工妖『垢舐め』。かつて朝廷により禁じられた術。それによって産み出され使役される変質した亡者。亡者の群れ。西方にて屍喰鬼の一種とも分類される……化物!!


「馬鹿なっ!!?何故こんな化物が!?妖気すら感じられなかったのに!!?」


 同じく封符より解き放たれた己の妖刀を引き抜きながら紫は驚愕する。暗闇で視界が見えぬ事は分かる。物音すら殆どしなかったのも分かる。だが、妖気を感じないのは……それも数は一体や二体ではない。


 右より、左より、正面より、背後より、天井より、四つん這いで、あるいは前のめりの体勢で、顎を拡げて垢どころか肉すら削り取る程の鋭利な舌をくねらせて、蛇とも獣とも名状し難い奇声を鳴らして這い寄る化物共。


「禁術で使役されてるから妖というよりも式神に近いんだ……!!糞、来るぞ!!?」


 白若丸が叫ぶ。同時に懐から湯気で湿った式符を取り出して放つ。猿染みて飛び掛かる『垢舐め』共は直後に現れた数体の巨大針鼠によって串刺しにされる。だが、しかし迫り来るのは必ずしも正面からとは限らない。


「くぅ……!!?」


 背後より疾走してきた『垢舐め』を、身体を強化した環は顔面から一刀両断の下に切り伏せる。続いて横合いより迫る新手の舌を切り落として燕返しの要領で喉を掻っ切った。紫はその間に二体打ち倒す。しかし、暗闇から現れる亡者の成り果て共は、その間にも増え続けていた。


 暗闇の中で、金切声が増えていく。


「この数は何なのですか!!?関街の内にこれ程の数が、どうして……!!?」

「お、御客さん達は、どうなって……!?」


 紫の、そして環は疑問を吐き出しながら刀を振るい続ける。振るい続けながら、疑問は尽きない。あり得ない。


「おい、一体何が……」

「うわっ!!?何だこりゃあ!!?」


 少なくとも環の疑問は直ぐに氷解した。暗闇の彼方此方から鳴り響く客の困惑は悲鳴に、そして直後には絶叫が混じり始める。肉の削げる音、骨ごと切り落とされる音が濡れた物音を供連れにして奏でられる。


「みんな、逃げて!!糞ぉっ!!?」


 事態に気付いて逃げ惑う客達に向けて、必死に環は叫んだ。叫んで、ひたすら群がって来る眼前の異形を切り払う。切り払いながら苦虫を噛む。何の罪もない人々が襲われる事に。そして……無数の『垢舐め』の存在そのものに。


(女性に、子供まで……!!)


 骸を原材料にする以上、製造された『垢舐め』共の中には明らかに元がどのような者だったのかが明瞭なものもあった。死して尚、その尊厳を侮辱する所業に環が思い出すのは崩宝山での記憶。死して尚利用され続けた恩人の存在……。


「このぉ……!!」


 無力感と怒りが胸の内に込み上げて、環は眼前の骸共を薙ぎ払う。ドス黒い感情を意識しつつ、環の思考はその先に及ぶ。


(禁術、これはもしや件の宮鷹の誘拐犯によるもの?だとしたら鈴音は、鈴音はどうなって……!!?)


 環は最悪の事態を思い浮かべて震え上がる。誘拐の実行犯とは言え、犠牲者の話はなくて朝廷に仕える身の上と思えば其処まで無茶苦茶な事はしないと思い込んでいた。しかしこの状況は、認識を改める必要があるのか……!?


「おのれ、雑魚共がぁっ!!」


 切り捨てた化物の数が十を超えた辺りで、それ以上に増えていく『垢舐め』の数に業を煮やした紫は妖刀の力の一端を解放した。


「絞め落とせ『首削ぎ』!!」


 宣言と同時の一振。同時に細身の刀は変質する。鞭のように伸びて、別れて、絡みつく。無数の剃刀のような刃の縄が十数の『垢舐め』の首を絞めつける。


『■■■■!!』

『■■■■!!?』


 まるで吊るし首にあったように括られる首元を手をやって、『垢舐め』共は表し難い咆哮を吠える。そして……紫が刀を引き絞めた瞬間にそれはばたりと途絶えた。首を絞め切られた化物の首が、転がる。


「『散らせ』。『爆ぜろ』」


 白若丸の使役する式符たる針鼠は忠実に命令を実行した。背中の針を飛び散らせて周囲の『垢舐め』を串刺しにする。直後に風船のように膨らみながら群れに飛び込み爆発すれば爆風で『垢舐め』共は四肢を撒き散らし、壁に叩きつけられる。


 それは稗田郡でのそれと一見同じ戦法……しかし、実の所は針には前回と違って毒が塗られていて、内には礫だけでなく鉄片をも混ぜ込み殺傷能力を向上させていた。後者は兎も角、前者は動く死骸に過ぎぬ連中に何処まで有効なのかは怪しいものであるが。


『■■!!』

『■■■■っ!!!!』


 男湯と女湯の仕切りを乗り越えて更に躍り込んで来る新手。環の刀に舌を巻き付けて、捕らえる。


「くっ!!?このぉ!!」


 即座に環は霊力で筋力を全力強化すると、そのまま思いっきり刀を振りかぶった。舌を通じて刀を捕らえる『垢舐め』ごと振り回して周囲の同族共を巻き込むようにして叩き飛ばす。ブチッと嫌な音と共に長舌が千切れた。幸い、既に骸故に噴き出す血はなかった。


『ギャオオオオオッ!!!!』

「何っ!!?」

「咆哮、新手ですか……!!?」


 獣声。悲鳴。絶叫。暗闇からでも水風呂の設けられた個室から幾人かの客が半狂乱になって飛び出し出たのが見えた。その後に続くようにしてノシノシと巨体を現すのは魚と獣を合わせたような奇形の怪物。


「虎!?」

「水虎、ですか。しかしあの造形は……!!」


 驚愕する環に対して紫や白若丸は苦い表情を浮かべ、舌打ちする。


 表記こそ水の虎と記して『水虎』。しかしながら実際に野に巣くう化物としての水虎は眼前のそれとは違い本来ならば河童に近い造形だ。それを此は……!!


「禁術の一つだな。くっ……妖育した紛い物か……!!」


 白若丸が異常の原因を糾弾した。人界の敵たる妖共、しかし同時に長い歴史の積み重ねから、人はあらゆる形で妖を駆除するだけでなく利用もしてきた。


 その中で人に飼われて管理される事で猪と豚の関係のようにその姿を、性質をも変質させたものもある。養殖ならぬ妖殖だ。


 水虎もまた同様。一目で分かる。野生のそれよりも反って巨躯で狂暴なそれは一部の無責任な退魔士が持て余して野に放つ事例もあって、式とする事を禁じられていた筈であった。


『グオオオオオォォォッ!!!!』


 再度の咆哮。そして水虎は正面を見据える環達に視線を向ける。獲物を見い出す。


『グオオッ!!!!』

「ちぃ、見境のないっ!!」


 紫は化物の所業を罵倒した。大浴場と水風呂とを繋ぐ通路は一段低い造りとなっていた。水虎はその巨体故に通路を抜けられずに立ち往生するが、一瞬後に突進して無理矢理大浴場に乱入したのだ。屋根を吹き飛ばして、壁を抉る。開いた穴から月光が覗きこみ、冷たい風が湯気を吹き払う。大浴場の視界が鮮明に浮かび上がっていく。


「うわあぁっ!!?妖!?」

「どうして!!?何故こんな所にっ!!?」

「に、逃げろ!!逃げろぉっ!!?」


 大多数の客は既に逃げ出していたが、未だに湯気と暗闇で事態を把握出来ずにいた一部の客に、異常事態の発生に駆け込んで来た銭湯の従業員らは一様に目を見開いた、見開いて一目散に逃げ出した。


 幸い、化物共の殆どは彼らに無関心で環達にのみ迫り来ていた。同時にこの事態の動機を如実に表してもいた。


「やはり、こいつらは俺達を狙い撃ちで来たって事かよ……!!?」

「誰かがけしかける訳ですか。相当キナ臭くなりましたね……!!?」


 簡易式を次から次にと矢継ぎ早に召喚する白若丸の叫びに紫が応じる。応じながら突貫してくる『垢舐め』を切り伏せる。周囲を見渡す。『垢舐め』共はそろそろ打ち止めだろうか?新手は見えない。問題はあの水虎か……恐らく下位とは言え大妖に類するだろう。


(全力ならば其処まで手間ではありませんが……!!)


 先の戦闘を想定すれば、そして周辺被害を思えば全力全霊で大技を使うのは躊躇われた。つまり小手先の技を使わねばならぬ訳で……面倒な。


「っ!!?出てこないで……!!?」


 紫がどう水虎を料理しようかと考えていると、ふと何かに気づいたように環が叫んでいた。視線を走らせる。見つける。水風呂部屋から瓦礫を払いのけながら前進する水虎、その直ぐ側の浴槽の物影に隠れる幼い子供の姿。いや、隠れていた筈の子供の姿だ。


「ゔ、ゔえ゙ぇ゙ぇ゙……っ!!?」


 親は何処に行ってしまったのか、一人ぼっちの幼子は歳を十も重ねていないだろう。禍々しい化物を見て息を殺せと言うのは酷な話であった。だとしても、化物の方は配慮なんてしてくれる筈もないが。


『グオオオオオォォォッ!!!!』


 子供の泣き声すら掻き消す程の咆哮だった。幼子に首を向けてその顎を思いっきり開く。おぞましい事に顎は裂けていた。まるで昆虫のような複数顎。ギラリと並ぶ鋭利な牙。


「駄目……!!」

「環さん!?何を……このっ!!?」


 組んでいた陣形から離脱する環を紫は静止しようとして、『垢舐め』共によって遮られる。環自身にはより一層襲い掛かって来た。当然の話だった。孤立した者から袋叩きにするのは基本中の基本であろう。


「邪魔だぁ!!」


 文字通りに斬り捨てながら環は突貫していた。激しく荒々しい刀捌きは、しかしそれでありながら驚嘆する程に的確でしかし、それでも気勢は削がれる。環は直感的に理解出来てしまった。


(間に合わない……!!)


 一瞬の中で辿り着いた確信。絶望。残酷な現実。数瞬後に、環の眼前で子供は食い殺されるだろう。それは避けられぬ運命だった。それを突きつけられてしまって、それでも、それでもこの甘過ぎる娘は目の前の命を諦めきれなくて……。


 二度と、無力な傍観者ではいたくなくて……。


「……!!」


 ……だから、環の胸の内に眠るそれが、その求めに応じた。


「えっ……?」


 紫が一番、事の一部始終を俯瞰して見れていた。それは本当に刹那の出来事であった。


 極めて端的に言えば環は水虎との間にあった距離を詰めていた。まるで風のように。疾風のように。すばしっこい鼬のように。


 まるで、鎌鼬のような一迅の風となって。


「はぁっ!!」

『グオッ……』


 そして懐に入り込んでの、喉元から上に斬りかかる一撃であった。流れるような刀術。水虎もまた、それを感知出来なかった。あるいは視認は出来ても思考は追い付かなかったのだろう。即ち……化物の首は欠片の抵抗すらなく刎ねられた。


 少し遅れて巨躯がドスンと崩れ去る。環は刀身にこびりついた血肉を払い、そして見据えた。足下で泣き顔で此方を見上げる子供の姿を。子供を見下ろす。安堵と共に。


(間に、合った……?)


 己の内に溢れた力に困惑した環は、しかしそれ以上に目の前の子供を守りきれた事に純粋に喜んだ。己が退魔士としての道を歩んで、漸く報われた……そう思った。


 その油断こそが、蛍夜環が退魔士として未熟たる所以であった。


「何しているのですか環さん!!後ろですよ!!?」

「えっ……」


 年下の姉弟子の悲鳴染みた怒声が轟いた。咄嗟に驚いて振り向こうとした環は、その半ばで全身を何かに包み込まれた。


 生きた水に、包み込まれた。


「あぶはっ……!!?」


 溺れる。冷たい水が口の中に入り込んで来る。噎せこみ、苦しむ。暴れる。何も掴めず、何処にも逃れられず、のたうち回る。


(な、何がっ……!!!??)


 狂乱と混乱に包まれながら、それでもうっすらと目を開いた環が目撃したのは、首無しとなった化物が己の身体を半分溶かして己を包み込む光景だった……。






ーーーーーーーーーーーーーー

 窓辺に白木の関街を一望出来る旅館の廊下を貴婦人が歩んでいく。


「何かしらね……」

「貧乏人共の屯する下街からですわね」

「馬鹿騒ぎしてるんじゃないの?あー、やだやだ」


 旅館の女中共が丁度三人で姦しく囁き合う。囁き合いながら廊下の向こう側から現れる高貴な客人の姿を認めると慌てて並んで御辞儀した。


「……」


 当の客人はそんな女中達を立ち止まる事なく一瞥すると、しかし直ぐに視線を正面に戻して廊下の一番奥にまで辿り着く。


 鬼月菫が、娘の借りた部屋へと辿り着く。


「……開けるわよ?」


 扉の前で菫は尋ねる。返事はない。構わなかった。指を振るう。結界で閉ざされていた扉は強制的に開かれる。退魔士からしてみればかなり強引な所業。菫はそんな事は気にも止めずに淡々と室内へと足を踏み入れる。


 そして……怪訝な表情を浮かべる。


「……少々、下町が騒がしくなっているようねぇ?弟子達の所に向かわなくても良いの、御母様?」

「教えるべき事は教えていますわ。この程度の騒ぎで果てるのならば其までの事よ」

「それはそれは、お厳しい事」


 部屋の上座で脇息にしなだれる娘の詰まらなそうな台詞に、菫は一層訝る。彼女の想定では葵が罰則を破り部屋を抜け出しているだろうと考えていたからだ。しかしこれは……。


「あらあら。随分とまた残念そうなお顔だ事。一体何を考えおられるのだか……」


 口元を袖で隠してクスクスと嘲る葵。その姿を菫は見据える。簡易式ではないのは明らかであった。その身に纏う霊力の強大さは到底簡易式では再現出来まい。魂を切り裂いて分け身としても難しいだろう。


「……念のため、荒事の用意をしておいて下さい。鬼月が借りている旅館で化物共の跳梁を許すのは御家の恥ですから」

「御母様は?」

「長官方の護衛をせねばなりません」


 淡々と命令を伝えた菫は踵を返す。部屋を出ていく。出口前で一度振り返る。葵は振り返る母を冷笑した。その影からは震える半妖の白丁の姿……。


「……」


 菫は正面を向き直ると部屋を立ち去っていく。……娘が一体どんな手品を仕掛けたのかを考察しながら。


「……ふっ」


 脇息に凭れる女は、何処までも蔑みを含んだ眼差しでそれを見送っていた……。

 

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