第一二六話

「じゃあ。伝えていたように、そろそろ行ってくるね?」

「あぁ。分かった」


 関街の旅館の一室で、二人は静かに言葉を交えた。片や装束を着込みながら、片や朝餉の粥飯をかっこみながら。


「……」


 外出の支度をしながら無言の内に、そして横目に窺うようにして環は狼の友の姿を覗きこむ。鍋の前で胡座を掻いて、ひたすら出された飯を漬物と共に呑み込んでいく姿は何時もの友らしい。


 何時ものように友は振る舞う。何でもない日常を過ごすように、偽る。


「っ……!」


 奥歯を噛み締めて、環は己の感情を抑えた。本当は互いに分かっている筈なのに。それに触れない。まるで互いに騙し合っているかのような感覚が、何処までも嫌になる。


 本当ならばもう一人いる筈の友の不在。本来ならば、それによる場の静けさを騒ぎ立てぬ程に蝦夷の狼女は薄情ではない。寧ろこのような場合にいの一番に動くような性格だ。


 ……いや、実際に動いている。動いていた。環は知っている。先日の夜に環が自室に帰った際に友が誤魔化すように横腹を擦っていた事に気付いていた。あの時の廊下における師の警告の言葉と合わせると、恐らく己より先に動いて警告を兼ねて仕置きされたのだろう。

 

(その程度で素直に従うとも思えないのだけれど……)


 呪いか、あるいは何か脅迫でも受けたのだろうか?有り得るとすれば己に関する事だろうか……?だとすれば心から済まないと思う。友の名誉もあるので決して口には出さないが、環は内心で入鹿に謝罪する。


(……けど、入鹿が危険な目に遭わないで済むのは助かる、のかな?)


 脳裏に過るのは故郷での出来事。腹の裂けた友の姿。目の前が真っ暗になった。ほんの半年前の話だ。あれから己はどれだけ変われただろうか?問われても到底胸を張って答えられる自信はない。寧ろ、己の無力を思い知らされ続けて来た。


 稗田郡でも崩宝山でも、自分は何も成せていない。何も守れていない……逆説的に言えば、だからこそ友の片割れが安全な場所に残る事に環も安堵を感じていた。少なくとも入鹿は無事で済むのだから。


 だから後は、己が今一人の友を探し当てるだけの事で……!!


「なぁ、環」

「ふぇっ!!?え、ええええっと……何だい、入鹿っ!!?」


 ……不意討ち気味の呼び掛けに思い切り動揺する環であった。初手からの失敗であった。大失敗だ。内心で自分の情けなさに泣けて来た。


「……おいおい、慌て過ぎだろうが?心配になってくるな。おい」


 呼び掛けた入鹿自身も呆れ果てているようで、哀れみすら感じさせる視線で環を見る。見られる環は羞恥から思わず俯く。


「落ち着けっての。気負い過ぎたら空振るぞ?それこそあのおかっぱみてぇにな」


 シャキ、という小気味良い音と共に胡瓜の漬物を噛み砕きながら入鹿は宣う。おかっぱ……赤穂家の姉弟子の事であろうか?


「ありゃあ単純な実力だけならお前よりも、それこそ俺よりもずっと上手なんだろうけどな?持ち前の運気もあるだろうが……心持ちが弱いな。教練で出来ても実戦で馬鹿やる質さ」

「は、はは……」


 嘲りも混じった態度で論評する入鹿。その言を環も否定出来なかった。寧ろ、図星とばかりに目を逸らす。半年や其処らの付き合いではあるが、分かり過ぎる程に環はそれを実感していた。……いや、何で今日まで生きて来れたのだろうか?


「……まぁ、致命的なまでの要領の悪さを考慮してのあの実力ってんだから流石赤穂家というべきかねぇ。もう一人、あの顔の良い坊主はその逆さ。経験は浅いが警戒心が異様に強えぇ。何処に居ようと欠片も気を緩めちゃいないような奴だな」

「それは、確かに……」


 入鹿の言は完全に的を射ていた。確かにその性格を考慮しても姉弟子は己よりもずっと上であると環は確信していたし、白若丸に至っては心の持ち様が別物だ。自分よりも余程周囲が見えている。二人共、退魔士として己よりも格上であると言わざるを得ない。


 そしてそれは、奇しくも以前同じ人員で稗田郡に赴いた時に既に思い知っていた。二人に比べて己がどれだけ未熟であったか……。


「お陰様で安心だな」

「えっ……?」


 入鹿の発言に、落ち込んでいた環は無意識的に呟いていた。そんな様子を見て、入鹿は若干の悔しさを滲ませながら続ける。


「両方、俺なんかより上でお前よりも上なんだ。既に組んだ経験もあるから勝手は知ったるだろうしな。付き添いとしては最適、安心安全って奴さな」

「……」


 己よりも上……入鹿の突き付ける事実を、環は認めるしかない。認めるしかなくて、しかし其処に合理性があるとは言え、どうやっても悔しくて……。


「おいおいそんな残念がるなっての。指導されてた年季が違うんだ。お前さんよりアイツらが上なのは当然だろうに。向こうからしたら、新参者が後ろから自分を追い抜こうとしているんだ。正に恐怖体験だぜ?」


 入鹿の言は一面では事実であった。心持ちは兎も角、純粋な刀術の技量は事前に手解きを受けていたとは言え到底半年程度のものではないと環は度々聞いていた。そしてそれは決して世辞の類いではない。確かな才能なのだ。

 

 鍛練の経験の浅い者に追い縋られて、追い付けられて、追い抜かれる。それを経験した者の心情はいかばかりの事であろうか……?


「それは、言いたい事は分かるけどさ……」

「正直言うと目付役ってのが碌な奴じゃないんじゃないかって不安でな?雲隠れしてくれやがった鈴音を探すんだろう?だったら面子なんて気にしちゃあらんねぇよ。俺からすれば喜びこそすれ不満はねぇさ。……仲間外れで拗ねはするけどな?」 

「ふっ!!?」

 

 最後のムスッとした子供染みた物言いに、思わず噴き出す環であった。何が笑えるかと言えばこの状況で入鹿が言った台詞が場を和ませる冗談ではなくて本音そのものであった事であろう。入鹿は、本気で拗ねていた。


「そりゃあそうだろうが?実はな、今の俺は外出禁止まで食らってんだぜ?……畜生、関街ってんで酒の種類も豊富なのは確実なんだ。折を見て下町で一発引っ掛けようかなんて思ってたのによ」


 計画が全てぱぁ、だ。と入鹿は口ずさむ。友は心から失望していた。今度は環が呆れ返る。


 ……同時に環は、入鹿が己についてひた隠す事なく語ってくれる事に喜びも感じていた。


「そんな事考えてたの……?鈴音がいたらひっ叩かれるだろうに」


 お付きが酒臭いなんて論外極まりない。酒気を帯びた入鹿に鈴音がぶち切れるのは確実だろう。


「そうさ。其処も含めてのお楽しみって奴さ。ただ呑むよりも禁じられているのを抜け出して呑むのが背徳感と興奮があってな?」

「何その趣向?」


 理解及ばぬとばかりに肩を下げる環と、それを見てゲラゲラと下品に笑う入鹿。そして、ふと笑いを止めて蝦夷は環を見つめる。


「どうだ?程好く肩が解れただろう?」

「っ!……今の会話、全部そのために?」

「いや、九割くらい本音」

「一割は?」

「正直おかっぱの方は少し不安かねぇ?」

「辛辣だね!!?」


 本当に辛辣な本音に思わず環は叫んでいた。確かにアレだが……もっとこう、言い様は無いのか?

 

「其処は環が補佐してやれよ。……済まねぇな。俺が出れなくて」


 少し投げやりに問題を放り投げて、そして入鹿は神妙な表情で謝罪する。環はそんな入鹿の発言に僅かに驚いて、しかし直ぐに首を横に振る。


「いいんだよ。僕が菫様に食いついたのも理由だから……」


 落ち着いて考えてみれば、師の提案は譲歩であるとも言えた。寧ろ、己が我が儘なのだ。蝦夷の内の繊細な問題である事を思えば、事前に厄介事を回避するために入鹿を出禁にするのも理解は出来る。今の状況に文句を言える筈はない。


「鈴音の奴に出会したら、少し話しにくいかも知れねぇけどよ。アイツも悪気は無かったんだ。というか、あの馬鹿が真に受けて突っ込んだのが想定外でな?」


 入鹿の言の意味に一瞬首を傾げて、そしてそれが崩宝山での一件の事であると思い至る。ならばアイツというのは……。


「伴部くんの事?」

「酷ぇ奴さ。報連相もしねぇから周囲がギクシャクすんだ。出世したら碌に面も見せやがらねぇ」

「それは、鬼月の当主様の御傍付きになったから……」


 立場が大きく変わってしまったためであろうか?私的に顔を合わして会話をする事すら覚束ない。あの時の御礼も言いたいのだけれど……しかし、面会を無理強いするのも心苦しい。


「伴部くんも大変なんだよ。余り悪く言うのは……」

「そんなの構わねぇよ。環、慎ましいのは胸だけにしておけよ?遠慮したら向こうが配慮してくれる保証なんざねぇんだからよ。ガツガツ攻めねぇと食われるぜ?唯でさえ裸見られてんだ、デカい顔で要求していけ」

「慎ましいって、入鹿と比べたら大概の人は……というかその話ほじくり返すの止めてくれないかな!!?」


 自身の胸元を確かめるように触れて呟き、直後に恥ずかしい記憶を無理矢理思い出さされて環は叫んだ。相手に悪意が無かった事もあって水に流した一件ではあるが、乙女として平然としている事も不可能だった。故に忘却の彼方に忘れ去ろうとしていたというのに……!!


「かかか。随分とらしくなったじゃねぇか。えぇ?まるで郷でやんちゃ娘していた頃みてぇだ」 

「お陰様でね!!」

「感謝は口よりも物で示してくれよ。良い酒頼むぜ?」

「前向き!!?」


 友は元より図太い神経の持ち主である。皮肉も嫌味も通じぬ事を悟って、環はげんなりと嘆息する。俯き嘆息して、己の影を見て、窓を見る。日の高さを推し量り、今の時刻を見定める。


「むぅ……色々と言いたい事はあるけれど、もう時間だね。失礼するよ」

「おうよ。まぁ、大船に乗ったつもりで行ってこいや」

「そんな無責任な……」


 自分がやる訳では無かろうに……そんな事を考えながらも、環は確かに同行する目付役を思って内心で同意はした。


「うん。……行こう」


 身嗜みの整えの最後に髪を纏めて、立ち上がり、踵を返した。障子を開いて、一歩踏み出す前に振り向いた。


「いってきます」

「おうよ。いってきな」


 呼び掛けに返答。それに背中を押されるように環は部屋を出た。


 先程までの言い様のない先行きへの不安を、もう彼女は抱いてはいない……。

 





ーーーーーーーーーーーーーー

「漸く来ましたか。遅いですよ?常に早めに支度を整える。ましては白若丸さんは兎も角、貴女は同行をお願いする立場です。先に来るのが当然の礼儀でしょうに!!」


 時刻は巳の四つ半時。場所は関街一の旅館の裏庭。其処で若武者姿で佇んでいた赤穂の末娘は、漸く現れた同行者二人を糾弾した。


「ご、御免!一応これでも早めに用意したつもりだったのだけれど……」


 そういって慌てて謝罪する同じく若武者な貴公子然とした出で立ちに身を包む環は、しかし内心で恐縮と共に困惑もしていた。


 確かに紫の言は間違っていない。直前に友人と長話をしてしまった落ち度もあるし、そもそも目付として紫が出張る原因は環の駄々によるものである。道理に従えば環が先に待っておくのが礼儀という物であり、その叱責もまた当然……待ち合わせの一刻も前から待っていなければ。


「……」


 無言でジト目を向けるのは白若丸であった。この元稚児はとっくの前から式神で紫がぽつんと虚しいまでに一人で待ち続けていたのを知っていた。そわそわしながら池の水面で髪が跳ねていないか何度も確認していたのも知っている。その初々しい所作と言ったら逢引でもあるまいに。……あと髪が気になるならまずそのてっぺんの阿呆毛をどうにかしろ。


 因みにこの元稚児は男装している二人と打って変わって女物の着物姿であった。杖を持って笠を被り、垂れ衣でその容貌をひた隠す。


 弁護するならば三人の変装の差異は本人の趣味嗜好ではなく、合理的な理由からであった。年齢や性別よりも霊力や異能をずっと重視する退魔士は例外として、唯人の間では大なり小なり男尊女卑の傾向が根強い。変装する以上は退魔士である事すら隠す必要があった。環と紫が刀を公然と差すには男装は必須であり、白若丸のような術師が全身に呪具や式符を仕込む上でゆったりとした女物の着物を着込むのもまた道理なのだ。


 ……断じて己の師に頼んで垂れ布で隠れて見えぬ容貌に丹念に化粧までしたのも、決して元稚児の趣味嗜好ではない。


「ごほん!まぁ、良いでしょう……!!稗田郡であなた方の実力も性格も既に分かり切っていた事です。元より家人としての歳月も浅い貴女達にそれほど期待はしておりません!!師もその辺りを承知で私を指名したのでしょうしね!!」


 白若丸がそんな事を考えていれば、暫し愚痴っていた赤穂の娘が漸く機嫌を直して仕切り始めた。何なら前回の事例まで持ち出して来る。


「さぁ、時間は有限です。早く調査に向かいますよ!!」


 そしてクルリと踵を返すと街へと向かい始める。……妙に阿呆毛を振り回しながら。


「えっと……じゃあ、行こうか?」

「他に選択肢があるのならばどうぞ?」


 環と白若丸は互いに顔を見合わせて、そんな会話を交えると何とも言えぬ空気感で紫の後に続いたのだった。






「うおっ!!?」

「あ、危ないっ!!?」


 直後に何故か足下に転がっていた実芭蕉の皮に転んだ紫を、慌てて環達が背後から支えて事なきを得たのはちょっとした小話である……。


 

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 調査と口で言うのは易い。問題は帳簿上の人口だけで七万を超え、実態は難民や一時滞在の商人や旅人を含めれば更に膨れるだろう人の犇めく白木の関街をどのように調べるかであった。


「計画もなく当てずっぽうに探しても無意味だろうな」


 街中を歩みながら元稚児は呟く。赤穂の娘が言うように時間は有限。そして人手の頭数ならば長官や白犬族の方がその十倍以上動員している筈だ。虱潰しに探した所で空振りに終わるだろう。


「本来ならば各種の物探しの呪いを行使すれば良いだけなのですがね。攪乱呪術を使われているのでしたか?」

「……あぁ。目撃されたっていう宮鷹の術師が行使しているってのが御上の見方だ。開示された情報からも間違いない」


 紫の問いに若干遅れて白若丸が答える。この元稚児は会話の盗聴や第三者の監視に備えて周囲に遮音の結界を張り周囲の警戒、式による直上からの哨戒も実施していた。それ故にどうしても気が散り反応が一瞬遅れている所があった。


「宮鷹、か。……ねぇ、宮鷹ってどんな家なの?」


 ふと、疑問に思った環が質問を口にした。度々その名を見聞きして、此度の上洛団にも名を連ねる鬼月とも縁の深い家の事、しかし環は殆ど知らぬままであった。


「宮鷹ですか?ええっと、それは……北土の名門で知られていて、それで……」

「宮鷹家。その歴史は鬼月家よりも更に二百年近く遡る北土の名門退魔士家の一つにして禁術の大家として知られていた一族です」


 環の疑問に、慌てて己の知りうる知識を思い出して述べていく紫であるが、其処に元稚児が心底詰まらなそうに説明を横からかっさらう。


「禁術……?」

「はい。呪術の内でも人倫と人道に外れる業とされているものですよ。禁術の概要自体は朝廷が制定した基準がありますが、それ以前より宮鷹の家の業はそのおぞましさからそのように呼ばれていたとか」


 白若丸は続ける。後に朝廷が正式に禁術に該当する呪いを定義して各退魔士家にそれらに抵触する業の放棄を命じた際、一族に伝わるその業の大半が違反してしまう故にあの手この手でそれを逃れようとしたらしい。


 政略にも長けていたのだろう。賢しくも言葉を弄び、解釈を捩じ曲げて、子細をぼかして、この一族は業の大半の禁止を逃れた。それでも誤魔化し切れぬような業もまた、放棄する事なく水面下で未だに活用していると噂されている。


「馬鹿正直に持ちうる業を全て報告した赤穂家は兎も角、どの家も秘匿する業の一つや二つはあるもの。とは言えここまで酷い事例は早々ありません。業自体は無論、その執念と賢しさもあって世間では敬意と共に非常に疎まれ畏れられているとされています」

「な、成る程……んん?今何か我が家の悪口を言われたような?」


 途中から発言を横取りされた事も忘れて紫は白若丸の説明を聞き入って瞠目する。瞠目して、遅れて気付いたように首を傾げるが其処は華麗にスルーする元稚児である。


「そう、なんだ……。今回目撃されたって言う宮鷹の人も、そんな術を使うの?」


 環もまた、白若丸の説明に緊張したように息を呑んで、そして恐る恐ると尋ねる。その環の発言に、元稚児は仏頂面を蔑んだようにしかめさせる。


「……件の人物は家系図上は宮鷹家直系の一員とされています。宮鷹家より陰陽寮の一部署に派遣されている形式で所属していたようです。本来ならば都に留め置かれている筈なのですが……」


 昨日の夜に呼び出された宮鷹の上洛団の代表は関街に出没したという一族の存在を感知していないと申したという。


「具体的な内容までは知れませんでしたが宮鷹の一族においても、特に特殊な術を扱う者だそうです。その術故に陰陽寮に留め置かれていたとか」


 それ故に事は一層問題だと言う。この関街に姿を現したというのが独断であるとすれば、それは朝廷の命に反した事でもある。処罰の対象となり得た。


「馬鹿な。そのような畏れ多い事……宮鷹のその某は愚か者なのですか?」


 事態を殊更重く受け止めたのは赤穂の末娘である。長年朝廷に最も従順に仕え忠義を果たして来た退魔士家の一つである赤穂の家の者からすれば、それは到底信じ難い話であった。


「……式を飛ばして都に事の真相を問うている所です。まだ確定した事ではありません」


 尤も、渦中の人物の評判を思えば真っ当な答えは返って来ないだろうなとも白若丸は達観もしていた。宮鷹の一族でも放蕩者の問題児、忌み子、そして穢らわしい汚物……伝え聞く噂だけでも碌でも無さそうであった。


(……まぁ、それだって何処まで信用出来るか知れない話ではあるけどな)


 耳にした悪名、しかし同時に朝廷からも重宝されて態態派遣を求められている事実。それを思えば人格面での問題なぞ大したものではない。何だったら恥知らずの噂の中身が全て真実であろうが同じ事であった。寧ろ、それを隠れ蓑にしている可能性だってあり得る。


「何にせよ、接触した際には油断はしない方が良いでしょう。荒事向きではないそうですが、搦め手ならば幾らでもやり様があります」

「一戦、交える事になると?」


 白若丸の発言に、紫が反応する。それはまるで宮鷹の某との戦闘となる事を見越しているかのような物言いであった。


「可能性の話ですよ。蝦夷の姫君を拐かしたとなれば、最悪相応の手段を以てして取り戻さねばなりません。最悪を想定するのは当然、違いますか?」

「出来れば、何事もなく終わって欲しいな……」


 紫に向けて「それくらい想定しておけ」とばかりの冷たい視線を向けて言い捨てる元稚児。環はそんな話を聞いて表情を曇らせる。彼女は周囲の人々を守れる程に強くなりたいと思ってはいたが同時に誰かを傷つけたいとは思っていなかった。人食いの化物相手ならば兎も角、同じ人間同士で傷つけ合うなぞ……。


「ふ、ふん!私は覚悟くらいありますからね!そも、荒事に疎い者相手に赤穂の一族の者が後れを取る筈がありません!!」


 刃傷沙汰になる。その可能性があると知れた紫はそれでも虚勢を張った。赤穂の刀技の中には捕縛に適した術も多い、と若干早口で宣う。


「いざとなれば……仕方ありません。環さん、貴女は引っ込んでいる事ですね!!白若丸さんもです。御二人では足手纏いにしかなりませんよ。私一人で引っ捕らえてやりましょう!!」


 紫の強がるような宣言。いやしかし、実際この場に集う三者の内で一番荒事の腕前がある事を紫は理解していた。真っ正面から戦えば間違いなく己が完勝するとも確信していた。そしてそれは嘘ではなかった。


 ……先程まで搦め手の可能性が話されていたのにそれが想定から抜け落ちている所が彼女の脇の甘さである。


「……その際の対処は任せますよ。話を戻しましょう。問題はその姫君と術師の所在をどのように見出だすかです」

「……どうすれば良いんだろう?」


 白若丸が話を原点に戻せば環は不安な表情を浮かべる。そんな環に侮蔑を含んだ視線を一瞬向けて、元稚児は懐から折り畳んだ紙を取り出した。


「それは……地図、ですか?」


 紙を受け取り広げた紫がそれが何であるのかを言い当てる。恐らく街の長官から認可を受けて写本したのだろう、それは白木の街の街内の区画と周辺の山地、山道までを書き記した地図であった。 


「……?これは、何?」


 横から地図を覗いた環が尋ねるのは、その地図に刻まれた線と点であった。線は二種類、山地の一角から広がるように四方八方に伸びる赤い線。もう一方は直線に伸びる青い線。そして疎らに記された黒い点……。


「白若丸さん?これは何ですか?折角写本させて頂いた地図に落書きでもしているのですか?」

「撹乱修正重点算出法」


 非難染みた視線を向けた紫に向けて、白若丸は淡々と答えた。


「物探しの呪いを撹乱する術式の内実は、縁や霊気の残り香を土地の霊脈を通じて辺り一帯にばら蒔いているだけの事なのさ」


 白若丸は淡々と説明する。物探しを目的とした呪術への対抗として練られた撹乱の呪い。何処ぞの雑人の小僧がかつて仕掛けた式神による撹乱は変化球ではあるが下準備に時間がかかる等決して効率が良いものではない。撹乱の主流は己が縁の残り香を、霊脈の流れを使って周囲にばら蒔く事である。


「この国だとまだ有名じゃあないけど、南蛮だとこの撹乱術に数式で対処する方法があるらしい」


 かつての西方帝国では学府都市を中心として数学が発達していた。そして帝国政府は撹乱術で追跡を逃れ潜伏する脱走魔女共の増加に頭を悩ませて、それを効率的に炙り出す方法を学府の賢者達に乞うたという。


 そうして生まれたのが数学的な手法を活用した『撹乱修正重点算出法』である。


「霊脈の流れを計算に入れて、対象となる地域の基点となる地点を導き出す。その地点で時刻ごとに物探しの呪いを唱えるんだ。向いた方向を結んでいってその重点の近似する座標点を絞り出していく。計算式は横軸縦軸其々で……説明理解出来てるか?」

「「いや、全然」」

「……まぁ、その面はそうだろうな」


 宇宙な猫、何故かそんな単語が脳裏に過るような表情を浮かべている若武者姿の退魔士二人にジト目を向ける元稚児である。期待はしてなかったがこの段階で理解出来なくなるとは……。


「……つまりは、特定の場所、特定の時刻に物探しの呪いをしに回って行けば最終的には撹乱の効果を無視して正しい居場所が分かるって事。これで分かるか?」

「ど、どうにか……?」


 理屈は今一つであるが、方法は理解した環は鋭い視線で確認してくる白若丸に応じる。


「南蛮の業ですか……本当に信用出来る方法なので?」


 一方で、疑念を抱くのは紫であった。己も知らなければ扶桑国の退魔士の間でも主流ではない手法を何処まで頼りにして良いのか図りかねているようであった。


「こればかりは信用してもらう以外に言い様がないな。それとも、他に方法を用意しているのか?」


 環と紫を垂れ布の隙間より一瞥して、白若丸は尋ねる。其処には期待もあった。まさかと思うが自分だけが目標達成の具体的な方法を構想していた訳ではあるまい……?


「あはは、其処は……頑張ったら、と」

「……兄上が言っておりました。為せば成ると」

「根性論じゃねぇかよ」


 駄目だこいつら……そんな眼差しに刀使い二人は肩身を狭める。仕方無い事であった。命じられたのが半日前の夜中、そのような知識もない彼女らとって碌な対処法を考える時間も心理的余裕もなかったのだ。寧ろ、白若丸がこの短期間の内に対処法を思い付いていた事を称するべきであろう。


「御免ね?その、僕の事なのにこんな……」

「……嘆いている暇があるなら手伝ってくれよ。地図を見てみろ」


 心底心苦しいといった表情で詫びを口にする環に、不機嫌そうな口調で白若丸は指示を出した。反発するのも恥の上塗りというもので、環は素直に紫の広げた地図を見る。


「青い線は夜の間に結んだ線だ。夜間に活発化する霊脈の影響を強く受けている基点で導き出した方角に引いている。これからやるのは残る黒い点、日中に活発化している霊脈から影響を受けている場所で物探しの呪いを行う事さ」

「残る点、ですか。……十箇所もあるのですか?」

「それにこれ……街をグルリと一周する必要があるんだね……」


 待ち受ける前途に、環達は渋い表情を浮かべる。今日中に回りきれるのか少しだが怪しい。何か問題があれば日が昇っている内に達成出来ないかも知れなかった。


「それでも、虱潰しよりはマシだろう?」

「……確かに、やるしかありませんね。環さん。腹を括って下さい」

「……うん。そうだね。折角白若丸くんが途中まで頑張ってくれたんだ。最後までやろう!!」

「その意気です。我が家の家訓にも『当たって砕けろ』という文句があります。一度決めたのならば、いっそ砕けるつもりで果たしましょう!!」


 環の力強い返事に、紫もまたウンウンと誇らしげに頷く。妹弟子の覚悟に満足したようであった。そして今一度地図を見下ろす。


「さて、では最初の調べるべき座標は……」


 紫は地図上で最も近い黒点を探す。そしてそれを見付け出すと其処が何処なのかを確認する。


 白木の関街一番の、陰間茶屋の敷地のど真ん中であった。


「……」

「……」

「……いや、さっき当たって砕けろって言ってたじゃねぇかよ?」


 再度宇宙猫になって己を見てきた二人に向けて、元稚児は今度は気まずげに視線を逸らして呟いた。

 



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 白若丸の残していた基点は、実の所行きにくかったからではないかと環は思わざるを得なかった。


 初手の陰間茶屋は入場料が高額だったのもあるが、此方を男性客として迫って来る少年を受け流すのは中々骨が折れる作業であった。


 それだけではない。次の基点は屠殺場。その次は見ず知らずの出稼ぎ男共の長屋の中を失礼する必要があり、三番手は女人禁制の山地に築かれた寺社の敷地内であった。筋骨隆々の僧侶達に何時バレるかと環はハラハラしたものである。


 汚物を集める町外れの肥溜めは特に酷かった。蛍夜郷を筆頭に、霊脈の恩恵ある地では畑仕事に態態金肥……肥料なぞ使わない。使わずとも作物の実りは十分過ぎる程に豊かなのだ。霊脈の細い地方やその恩恵から全く外れた寒村では肥料が使われるが、それとて多くの場合は干鰯、せめて〆粕、油粕といった漁業農業で発生する廃棄物の再利用品である。


 糞尿を再利用した肥料は、扶桑国では最も下等な物であるとされていて特に貧しい集落に向けて販売される。安いが白木の街は大人口。塵も積もれば山となる。汚物の処理を無料で出来るとなれば進んで回収を求められる。故に元締めや作業者の収入は決して悪くはないのだが……穢れの考えもあってか街の者達からは距離を置かれていて作業者達もまた余所者に対する警戒は強かった。


「ううう。臭い、移ってないよね……?」


 ひっそり潜入して酷い臭いに耐えての調査。それを終えて街に帰って来たのだが、茶屋で休憩する環は何度も確かめるように己の服の匂いを嗅ぐ。眩暈がして、卒倒しそうになりながら白若丸は風避けと風抜けの呪いを掛けて少しでも自分達の周囲に漂う空気をマシにしようと努力していた。その甲斐もあって衣服に臭いがこびりつく事は幸いにして無かった。


 ……三人揃って酷い嘔吐感に悩まされてしまっていたが。


「御侍さん、お茶ですよ」

「え?あ、あぁ……有り難う」


 横合いから茶屋の看板娘から差し出された緑茶の湯呑みを受け取った環はどうにか笑顔を取り繕って礼を述べる。


「ご注文は以上で?」

「あ、うん。ははは、もしかしたら後から追加するかも知れないけどね……」

「そうですと嬉しいのですけどね」


 安い茶だけを注文してやがった事に、看板娘はそんな愚痴交じりな呟きとともにくるりと踵を返して店の奥に消えてしまう。その振る舞いに、環は苦笑いを浮かべるしか出来なかった。


 肥溜めでの調査を終えた後、環達が向かったのは大通りに面した歓楽街の茶屋であった。吐き気と落ち込んだ気分を取り戻すために茶の香りと味が欲しくて仕方なかったのだ。尤も、それが到着する前に残る二人は厠に直行してしまったのが現状である。


「はぁ……」


 何処までも酷い溜め息を吐いて、環は出された緑茶を一嗅ぎ、爽やかで渋みのある香りだった。一口啜る。程好く温かい苦味が口の中に広がる。胃の奥から感じていた吐き気が収まっていく気がした。

 

「……残る基点は、四ヶ所かぁ」


 二口、三口と茶を啜った後、漸く落ち着けた環は地図を広げて現状について呟いた。白若丸の指し示した十箇所の基点。その半分以上を巡り終えていてその上を通るように青い線が引かれていた。……何処も随分と酷い場所であった。


「あと四つ……」


 今一度残る場所の数を反芻すると嘆息する環であった。ここまで来て残りの場所が真っ当と思える程に彼女は楽観的ではない。今から陰鬱になりそうだった。


「時刻は……未の八ツ時過ぎって所かな?」

 

 奇遇にも丁度おやつ時である。そんな時に茶屋にいるのは因果な事にも思えて来る。問題は日暮れまでに残りを回り切れるかであった。悠長に菓子を食べている暇はない。


「出来れば今すぐにでも動きたいんだけどなぁ……」


 焦燥を抱くが同時に己が一人逸った所で無意味である事も分かっていた。紫は兎も角、白若丸がいなければ物探しの呪いの修正作業は出来ないのだ。


 急がば回れとも言う。後先考えず、脇目も振らずに猪突猛進しても結果が着いて来るものではない。努力の方向性が間違っていれば何れだけ汗水垂らそうが無意味なのだ。


 実際、厠に去り際の二人も取れる内に休憩をしておけと環に言ったものだ。機械ですら整備しなければ磨耗して壊れる。ましてや人では尚更だ。環は今の悠長にも思える時間を必要なものであると納得させる。


「……けど、せめて少しくらい気を利かせようかな?」


 呼び出した茶屋娘に串団子を持ち帰りで注文した。移動中にでも間食として食べられたらという考えからである。そして注文を終えてから、改めて環は二人が戻って来ないかと辺りを見渡す。


 そして、通りを歩むその男と視線が重なった。


「あっ」

「これは……奇遇ですね。貴女様も此方で御休憩を?」


 環が口を開く前に彼は恭しく一礼をすると、優しげな表情を浮かべて問い掛けた。


 蝦夷の小使は腕を組んで一礼し、問い掛けた……。







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 それはまるで雲の上に浮いているような感覚だった。思考は纏まらない。ただただ柔らかな至福の感情のみが頭を埋め尽くしていた。周囲の事態にすら欠片も注意も意識も向かず、流されるままに彼女は状況に身を任せる。


 それは瞳術であり、言霊術であり、催眠術であった。多少の霊力持ちであれば、あるいは事前の知識、強い意志があればある程度対抗は可能であろう。


 しかし、裏を返せば無警戒で何らの抗体もない者にとっては己がその術中に嵌まっている事を自覚する事も難しかった。唯でさえ、人は易きに流れるものであるが故に。


 だからこそ、寒村出の女中が我に返ったのはほんの些細な切っ掛けで、幸運というべきものだった。


「それにしても、本当に可愛い仔猫ちゃんな事。頬っぺたプニプニしていますしねぇ?」

「えっ……?」


 そう。例えば鈴音の場合は芸妓の一人が何となしにその頬を指でつつかれた事が切っ掛けだった。


「えっ?……ええっ?」


 我に返った女中は動揺しながらキョロキョロと首を振り、周囲の景色を見渡す。


 豪華絢爛な、それでいて成金趣味な大部屋だった。傍らには豪勢な料理が御膳で盛られていた。


「あら?どうしちゃったの急に?ずっとぶっきらぼうだったのに」

「御寝惚けでもしたんじゃないのかしら?あらあら、びっくりするお顔も可愛いわねぇ?」

「えっ?えっ?貴女達は、一体……?」


 きゃっきゃっとした姦しい声音に鈴音は愛玩動物を見るような眼差しを向けている女達の存在に気が付いた。芸妓、あるいは舞妓というべき出で立ちの女達は鈴音の豹変を寧ろ可愛らしく感じているようであった。尤も、それは鈴音にとっては寧ろ不愉快なものであったが。


「あらら?これは失敗失敗。術が解けちゃった」

「!!?」


 そして頭の上から鳴り響くその甘ったるい声音に自分が誰かの胡座の上に乗っていた事を理解して、咄嗟に頭をあげる。直後、見上げる形で対面した人物のその容貌に鈴音は眼を見開いた。


 男なのか、女なのか、鈴音には判断しかねた。男にしては線が細過ぎて、女にしては余りにも奇抜な出で立ちだった。ただ、麗人である事だけは判断出来た。


 そして、漸く覚醒した脳からどっと溢れ出す記憶。すると意識を失う直前の記憶にこびりついたその者の容貌と、眼前の人物のそれが重なって……。


「お前は……」

「はい。お口は閉じようか?大声は嫌いなんだ」


 叫び声は強制的に綴じられた。眼前の人物が摘まんだ指を横向きに引けばまるで口を結ばれたようにして鈴音の口は閉じられる。んーんー、と口ごもりながらもそれでも叫ぼうとする鈴音。


 当然だろう。相手は己を誘拐したであろう人物なのだから。叫んで助けを呼ぼうとする判断は至極当然の事である。


「こらこら。そんな態度で良いのかな?そんな事すると……ほら?あの子はどうなっても良いと?」

「っ……!!?」


 抵抗しようとする鈴音に向けて、眼前の人物は愉快げに部屋の一角を指差した。首が相手の指の動きに連動して動いて指し示される方向に向かう。


 部屋の隅に敷かれた座布団。其処にちょこんと座り込む少女は何処までも不安げに打ち震える。


 その頭上に鎮座するのは一羽の黒い雀。


「夜雀って、知っているかい?中々怖い妖でね。その羽には毒があって、羽ばたいた風に当たれば最悪盲目になってしまうんだそうな」


 誘拐犯はその余りにも危険な内容を軽々しく囁く。鈴音の耳元で囁く。


「だから……間違っても刺激してはいけないよ?びっくりして何をしちゃうか分からないんだからね?」


 ねっとりと甘く、脅迫する。


「……!!?」


 人質、脅迫……その余りにも卑劣で破廉恥な行為に、鈴音は殺意すら籠った視線を向ける。しかしそれだけだった。それ以上、何も出来る事はなかった。口が利けないからではない。人質の存在が全ての反抗の意思を抑え付ける……。


「ふふふ、怖い怖い。そんなお顔は年頃の娘には似合わないでしょうに。……うん、じゃあ一つ、余興代わりに皆に下げ渡すと致しましょう」


 鈴音の無言の降伏と憎悪の眼差しに殆ど形だけの怯えを見せて、それでいて一人納得したかのように誘拐犯は宣言した。すっと先程とは反対に指を振るう。鈴音の口が大きく開いた。


「ぷはぁっ……!?この、卑怯者!!人拐いで人質なんて……」

「そぅれ。持ってらっしゃい!」

「きゃあっ!!?」


 非難を口にした直後に襟元を掴んで放り投げられる鈴音。悲鳴をあげる女中は周囲に屯していた芸妓達に下賜される。


「きゃー、流石忍鴦様太っ腹ぁ!!」

「可愛い可愛い仔猫ちゃん、此方で一緒に遊びましょうな!」

「え!?きゃっ!!?えぇ……!!?」


 あっという間に控えていた芸妓共に群がられて揉みくちゃにされる鈴音。事態の急激な変化に対応出来ず、女中は為す術もない。為す術もなく、ひたすらに弄ばれる。


「あははは。そらそらもぉうと賑やかに!!見事、この見物人を満足させて見せたなら!御賽銭に大判小判大振舞いかもよ?」


 誘拐犯の宣言に、更に黄色い歓声が湧く。けらけらとその様を笑って、かぶき者は立ち上がる。そして踊るように進んでいく先には姫君。


 蝦夷の姫君の元へと、参上する。


「どぉ?お暇潰しの見世物には満足してくれてる?……あぁ。忘れてた。綴じてるままだったっけ?」


 問いへの沈黙に、今更のように思い出した誘拐犯は指を振るう。固く閉ざされていた口の自由を返された玉藻姫は問いに答える事はなく叫ぶ。


「あ、あなたが何者かは存じません!ですが……!!あ、彼方の方は関係はありません。どうか、あの方だけは解放を……!!人質ならば私だけでも……!!」

「だぁめ」


 少女の懇願を、誘拐犯は艶かしい口調で拒絶する。即答だった。


「そんな、どうして……」

「どうして?そんなの分かりきったお話じゃあないですか?」


 顔を青ざめさせる蝦夷の姫君に向けて、誘拐犯は嘯いた。


「既にあの娘も無関係じゃあないんですよ?もう、あの娘だって状況の一部。舞台役者の一人……そんな事は貴女だって気付いている癖に」

「それは……」


 抱いていた一抹の不安。それを指摘された気がした姫君は困惑する。いや、しかしそんな事……どうして?


「それはそうと……流石に香を纏わせていてもこの距離からは誤魔化せないみたいですねぇ?」

「っ……!!」


 茫然としていた所で、いつの間にか四つん這いになって迫っていた誘拐犯の顔。そして全てお見通しとばかりに容赦なく突きつけられる指摘。それに思わず姫君は息を呑む。その意味を理解して、布に包んだ懐の存在を抱き抱く。


「この子は、何も悪い事なんてしていませんよ……!!?」

「今は、まだ悪い事はしていませんねぇ?」


 必死の主張は、即座に皮肉で言い返された。眼前の女の紫水晶色の瞳に、絶望に顔を歪める姫君の表情が映し出される。最早言い逃れは出来なかった。


「ですが、ですが……そんなの……」

「イケナイ娘。みぃんなにひた隠して、可愛いお顔して随分と大胆な事で。……まぁ、彼方の御嬢さんと釣り合いは取れていますかね?」


 そんな事を言って、チラリと横目に女中を覗き見る。芸妓共によって彼方此方へと引っ張り蛸に弄ばれる鈴音の姿。何処か微笑ましくもある光景に、しかし姫君は表情を曇らせる。彼女を心底厄介な事情に巻き込んでしまった事に、苦悩する。


「貴女は、誰の手先なのですか?何が、目的で……んんっ?」


 勇気を振り絞って問い詰めようとした姫君の口元に、白い細指が当てられた。弾力ある若い桃色の唇に指を押し付けながら、誘拐犯は何処までも妖艶に嘲笑する。

 

「秘ぃーみぃーつ。まぁ、暫くは浮き世の事なんて忘れて、おもてなしされておいて頂戴よ」


 無責任に放言して姫君から離れる誘拐犯。入れ替わるようにしてすっと手籠めにした貴人の手元に向けて飛んできたのは菓子入れとお茶。愕然とする少女にくすりと嗤って、かぶき者はくるりと回って女中を弄くる連中の仲間入りをする。


『クゥン……』


 少女の懐で、その内心を代弁するかのように小さな鳴き声が部屋に木霊した……。

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