第一二四話

宴会は夕刻を過ぎた頃より始まった。関街の長官に軍団長が主催者として、街の豪商や近隣の名家が百を超える客人達を持て成す。大量の馳走に樽ごとの酒が運ばれて振る舞われる。芸妓共が余興を演じる。幾つかの問題を除けば場は大盛況であった。


 ……蛍夜環にとっては、全く嬉しくもない時間だったけれど。


「……」


 宴会の席の一角を占める新人家人は、周囲の騒々しさにも濃厚な酒精の気配にも眼前の豪奢な料理の数々にも正直辟易していた。うんざりしていたと言っても良いだろう。


 元々酒に強くない事もある。毎回宿泊先で似たような事をしているからという理由もあろう。しかし、彼女がこのような席を全く楽しめない理由はより深刻だった。


 一つには下々との落差があっただろう。最初の内は気付かなかったが旅籠街を巡るに連れてそれは次第に明白になっていた。街道をとぼとぼと歩く着のみ着の流民。田植えの時期でありながら村を棄て田畑を棄てて街の隅で掘っ立て小屋を造る彼らを見た後にどうして眼前の豪華絢爛な御馳走を無遠慮に楽しめようか?しかし……どうやら同じ考えの持ち主が参列者の中では圧倒的に少数派である事が一層環を失望させる。


 より個人的な理由もあった。一年の経験すらもない右も左も分からぬ垢抜けない新人退魔士、それも蛍夜の家の娘……その立場こそが問題だった。


「これはこれは噂はかねがね。いやはや驚いた、まさか話に聞く蛍夜の家人がこれ程可憐な姫君であろうとは!!」


 態態席を移動して眼前に座る名士は高笑いしたかと思えば環の杯に豪勢に酒を注ぐ。環はそれに対してひきつった笑みを浮かべる事しか出来なかった。既に人を替えて二桁に上る回数を繰り返してきたやり取りであった。


『迷い家』の一件の時もそうであったが環の立場はまさに鴨が葱を背負ってやって来たようなものであった。北土でもその豊かさを知られる蛍夜郷から出てきた年頃の娘の家人。その顔は明らかに謀略の類いに精通していない事は明らかであって、それを彼女の才と美貌と実績とで飾れば、獲物以外の何物でもなかった。


「んっ……んっ、はぁ!は、はは……?」

「ははは。良い飲みっぷりですなぁ!羨ましい限りです。さぁさぁもう一献!」

「げっ……?」


 無理して杯の酒を飲み干せば当然のように援軍を流し込む名士であった。突如として投入された無慈悲な増援の前に、環は冷静に対処するための知能はどんどんと酪酩しながら低下していた。アルハラ良くない、絶対!


(ゔ、ゔゔぅ゙……?)


 何とかして言質を、そうでなくても最悪酔い潰して介抱を名目に……そんな邪な思いを抱いている者とて零ではなかった。欲を見せるな、というには余りにも美味しい獲物であった。


 因みに環に狙いが集中するのはより大物である橘の令嬢や鬼月の二人の姫君にも問題があった。橘のご令嬢は口が達者過ぎてあっという間に丸め込まれてしまう。一の姫君は酒に強いのか酔い潰そうとする者から自滅してしまい次々と寝室送りだ。今一人の姫君に至っては物忌みを理由に出席すらしていない。尤も、それは建前で実際の理由はより政治的なものであるという噂もあるが……何にせよ、環の苦労が増える一因である事に間違いない。


(こんな時、鈴音達がいてくれたら……)


 満たされた杯を見下ろしながら環は思う。鈴音ならば上手く客人をあしらってくれただろう。入鹿ならば無理矢理横槍を入れて呑み勝負に持ちこんでくれたかもしれない。あるいは彼ならば……。


「うっ……?」


 其処まで思いが至ると共に、一気に環の酔いは醒める。それも悪い意味で。


 入鹿が咄嗟に溢した言葉。己の未熟さが彼に強いた苦難。そして鈴音との間に生じた葛藤……杯に映りこむ環の表情は暗い。


 特に鈴音とのそれは互いに明確に口にする事はなくて、表向きは普段通りを装って、しかし……僅かな行動の機微で分かる。互いにあの一件を意識してしまっている事を、それでいてその事を直接切り出せずにいる事を。


 腫れ物扱いの、見て見ぬ振り。臭いものには蓋をして……恐れている。


「……」


 きっと互いの立場からして、それは己から話をするべきなのだろう。けれども……多忙もあるが時間を置き過ぎた。唯でさえ切り出し難かった話は、時を重ねる事で一層触れる事が難しくなったように思えた。誤魔化しながら取り戻した日常、それを今更掘り返して何の得があるのか?

 

 現実から目を逸らしているだけと言えばその通りであろうが……その日常に安穏としてしまいたくなるのは環個人の責任というよりも人の性そのものであっただろう。


「蛍夜殿……?どうかなさいましたか?」

「えっ!?あ、べ、別に……」


 場を壊すような気難しい表情を浮かべていたからなのだろう、対面の名士が怪訝な表情を浮かべるのを環はどうにかして取り繕う。取り繕って慌てて杯を飲み干さんとして、しかしやはりそろそろ厳しく思えてその手が止まる。どうやってこの場を切り抜けるべきか、環は戸惑う。


「これはこれは吾田の名主様。ご機嫌よう。どうでしたか?近頃の景気は?」


 横合いから艶かしい声音が助け舟を出した。環が振り向けば、いつの間にか席を移動していた御意見番の姿。ニコリと環と名主に微笑みかける。


「あ、あはは……これは鬼月の御意見番殿。ご、ご機嫌麗しゅう……」


 何とも言えぬ笑みを取り繕う吾田の名主であった。その動揺はまるで攻守が逆転したようであった。


(そう言えば……)


 黒蝶婦……御意見番にその呼び名がある事を環が知ったのは極最近の事だった。どうやら昔は随分と敏腕を振るっていたようで、未だに当時の立ち回りで周囲に恐れられているという。


 ……環にとっては、未だ不思議な雰囲気を纏う世話焼きの未亡人以上の印象は感じられなかったけれど。


 そんな事を思っている内に、数度程言葉を交わして吾田の名主はそそくさと退散してしまう。その姿は遁走を思わせた。それを一瞥した胡蝶は再度微笑みながら環の傍らに侍る。そして口を開く。


「横槍を入れてご免なさいね?お酒、厳しそうに見えましたから……余計なお世話だったかしら?」

「い、いえ。助かりました。有り難う御座います」


 胡蝶の言葉に環は素直に謝意を口にする。どのような意図があったのかは知れぬが取り敢えずは助けられたのだから感謝は当然であった。


「うふふ。良いのですよ?……本来でしたらこの手の手助けも師の役割なのですけれど……」


 そういって胡蝶は視線を宴席の上座に向けた。白木関街の長官ら何やら語り合う上洛団の代表を見ていた。鬼月の当主夫妻を見ていた。その視線は必ずしも友好的なものとは言えなかった。


 蛍夜環に刀術の手解きを施す鬼月菫は、しかしながらそれだけの事しかしてはいなかった。


 時よりの茶会や世話をしても、それは必要最低限のものでしかない。より深い、退魔士としての常識や振る舞い方、心持ちについて、夫人はほとんど何も伝えてはいなかったのだ。その事が環の、天性の技量と相まって彼女の心技体の不均衡を生んでいた。


 技と体に対して、心が余りにも未熟に過ぎる……ある意味において、それは何よりも致命的であるというのに。


「……環さん。やはり子女が刀術というのは危なっかしいと思うのだけれど。ねぇ、式神術や符術に興味はないかしら?」

「ええっと……それは……」


 師以上に世話を焼く御意見番の言葉に環ははっきりと答える事が出来なかった。厚意ではあるのだろう。しかし……実家でも刀術を学んでいた環には、しかも今の技量にある程度の自信もあるというのに、今更別の技を極めようというのは引ける所がある。……断じて、一度聴いた講義が分からず挫折した訳ではない。断じてない。


「うふふ。ご免なさいね、急にこんな話。……けれど環さんでしたらきっと別の道でも上手く行くと思ったのですもの。それに、今の私でしたら弟子が一人いますので好敵手がいれば切磋琢磨出来るとも考えておりますのよ?」

「白若丸くんの事ですか?けど……」


 自分は兎も角、彼は己を嫌っているのではないか?そんな懸念を察したのだろう。胡蝶は優しく微笑む。


「そんな事はあり得ませんわ。そうね、少し嫉妬してるかもしれないけれど……一過性のものですわ。あの子だって、きっと分かってくれる筈。分からせます。いざと言う時は私が説得致しましょう」


 胡蝶は一層嗤った。嗤った。人当たりの良い笑みで、深く嗤った。背後に何か黒い物を滲み出しているように見えたのは気のせいであろうか?何か圧がある。良からぬ圧が。ちらっと見たら白若丸が思わず背筋をゾワリとさせていた。何事かとキョロキョロと辺りを見回していた。此方に気付いていないのは幸いだった。


「い、いや!流石に其処までは……!!?」

「うふふ。悪ふざけが過ぎましたね?冗談ですわ。冗談」

「じ、冗談……?」


 さっと霧散した嫌な気配に、環は拍子抜けする。遊ばれていたのだろうか?いや、しかし先程の気配は明らかに真に迫るもののように思えて……環は事の真偽が分からずにただただ混乱するのみだった。


「折角の祝いの席、悩むのは後に致しましょう。今宵は食べて飲んで楽しむとしましょうか?ほら、此方のお料理なんてどう?此らは?気に入ったものがあったら後で厨房から調理法を聞いて来てあげますからね?」

「あ、有り難う御座います!」


 それはこの前約束した料理の練習の題材にする、という意味であった。その心遣いに環は心から感謝を述べる。

  

「良いのよ、気にしなくても。……あら、これとか美味しそうねぇ」


 環の感謝の言葉に微笑みながら、胡蝶はふと眼前の料理の一つに視線を留める。麦縄であった。縄のように捏ねた小麦粉を揚げた唐菓子である。どうやら、生地に蜂蜜を浸してきな粉もまぶしているようだ。


「本当ですね。僕が取りますよ」


 女子というものは甘味好きであるもの、環は胡蝶の言葉に同意して料理を取り皿から盛ろうとして取り箸に手を伸ばし……何者かと手が重なる。


「えっ!?」

「おっと、これは失礼を」


 驚いた環に、手が重なった男が恭しく謝罪を口にする。


「あ、いえ。此方こそ……」

「姫君に不用意に触れたのは此方の落ち度、謝罪は不要で御座いまする。……鬼月家家人の御方、でしたか?」

「う、…はい。えっとそちらは……」


 うん、と言いそうになったのを訂正して環は男の出で立ちを観察する。そして今更に彼女は相手がただの地主や豪商、退魔士の類いではない事に気付く。


「佐伯邦。邦守補佐の小使、名は攩野と申します。どうぞお見知り置きを」


 三十には届かないだろう男は己の身分と名を口にすると今一度恭しく頭を下げる。


「鬼月家家人、蛍夜環といいます。……お先にお取り下さって構いませんよ?」


 立場に大きな差が無いにもかかわらず相手に名乗らせて己が名乗らないのは無礼講でも無礼である。環もまた己の名を名乗る。同時に取り箸の使用権を差し出す。


「有り難う御座います。……姫様からのご要望でしたもので」


 そういって取り皿から三、四本の麦縄を盛ると会釈して立ち去る。


「姫様?」

「佐伯白犬族の姫君よ。ほら、彼処……」


 蝦夷の男の言葉を反芻していると、胡蝶が環に其処を指し示す。宴会場の一角、仏頂面の蝦夷共が寄り集まるその場所に鎮座する御簾に向けて。


 御簾の内に映りこむ、小柄な人影を、指し示す。


「あれは……」

「玉藻姫……だったかしら?」


 佐伯玉藻……玉藻姫。佐伯邦守、あるいは朝臣蝦夷佐伯白犬族の首長の娘。姫君。周囲を侍女や家臣共に囲まれた彼女は関街の長官や鬼月の当主と御簾越しに挨拶こそしたが、それきり誰とも話す事もなくただただその場に居座り時たまに茶や菓子を頂くのみであった。


「御高く留まっている事よね。私の挨拶すら許されなかったのよ?……たかが蝦夷の蛮姫の癖に」


 口元を袖で隠しての若干不快感を滲ませた胡蝶の呟き。扶桑国の文化において挨拶は大事だ。胡蝶からすればまさか己の出向いての挨拶を周囲の家臣共に止められたという事実はその矜持を傷つけるのに十分過ぎるようであった。


「それは……」


 胡蝶の不満に、しかし環は直ぐに同意は出来なかった。環とて幼い頃に寝床で聴いた昔話の事は覚えている。北土の者にとって蝦夷は妖と同じくらいに警戒の対象で、例え朝臣であろうとも偏見は完全に拭えるものではない。その認識は理解出来る。だが……親友もまた蝦夷である環にとって、たかが出自のみで蔑む言葉に形だけでも頷く気持ちにはなれなかった。


「……ねぇ、環さん。どうしてあの蝦夷の軍に姫君が付き添っているのか、知ってるかしら?」

「えっ……?」


 環の内心を知ってか知らずか、ふと面白げに胡蝶は環に問い掛けた。問い掛けながら環の顔に近付く。


「公式には、街の空き地に屯するあの軍勢……央土の警備のためだそうだけど、本当は護衛のためなのだそうよ?」

「護衛?」

「えぇ。……帝に献上する姫君の護衛よ」


 御意見番の嘲りを含んだ暴露発言に、思わず環は目を見開いて驚いた。


「!!?け、けど、確か今の帝は……」


 扶桑国現帝たる清麗帝は、環ともそう歳の変わらぬ少年と聞いていた。前帝が急死した後、その直系の赤子が奉られた。大臣共の傀儡としてただただ判子を押すだけの存在……というのは最早周知の事実である。


 とは言え、それは歴代の帝の大半にも言えた事であるのでそれ自体は大した問題ではない。それよりも世間が注目するのはその皇后の、あるいは中宮と呼ばれる地位が空席である事であろう。


 現帝が擁立された際には余りにも幼少であったのも理由である。幼帝がいつ死ぬか知れぬ以上逸って后を付けてしまうと最悪無駄玉になってしまう。朝廷の殿上人共とて皇后に立てられるだけの姫君は決して多くはなかった。


 幼帝が急死する心配が減じた後も尚、その席が空白なのは政争の影響である。有望な公家共が互いに牽制しあう結果として何時まで経っても帝は独りであった。それどころか後宮すらも人は殆どいないし、その出入りもからっきしであるとか。


「……色々噂はあるのよ?実は別に想い人がいるとか。逢い引きした姫君が次々と不審死しているからだとか、あるいは衆道趣味なんだって話までね?」


 女としての性か、あるいは人としての性なのか、噂話となって胡蝶は環の耳元で愉快げに囁く。周囲の喧騒のお陰で聴こえる事は無かろうが中々際どい話題であった。


「ええっと……そ、それは……」

「それでよ?蝦夷の娘から後宮はおろか皇后なんてこれまで一度も出た事無いのよ。噂では左大臣と蝦夷の首長共が話しあったそうよ?兵を出す代価として、帝に輿入れされたのだとか?案件を持ち帰った左大臣が返答を報告すると公議は荒れに荒れたとか……」


 特に関白を兼ねていた太政大臣と右大臣が難色を示したが……最終的には皇后ではなく後宮に輿入れさせる事で納得したのだとか。「何にせよ、蝦夷の連中からしたら面白い話ではないわね。姫君の態度はその辺りが理由じゃないかしら?」

「な、成る程……」

 

 最後は鼻を鳴らして小馬鹿にするような態度で締め括る御意見番であった。環はそれに明確な立場を示す事なく、無難に答える事しか出来なかった。答えながら、横目に彼女は今一度御簾に視線を向ける。先程の男が姫君に皿を差し出していた。御簾の隙間から皿を受け取る華奢な影……。


「…………」


 あの影に何れだけの重圧が乗っているのか、それを思うと同情を禁じ得なかった。失礼な考えかも知れないが、己の背負う重苦しい感情と重ねてしまっていた。


 ……明日にでも、腹を割って鈴音と話し合おう。環は深呼吸すると共に決意した。


 きっと、あの姫君の心中に比べれば自分の状況はまだまだ恵まれているのであろうから……。






ーーーーーーーーーーーーーーーーー

『にぃちゃん。にぃちゃん……』

『んっ、どうした?雪音?』


 冬の隙間風が吹き抜ける、襤褸も良い所な貧農の小屋。幼い少女は寝室にて甘えるようにその人の領域を侵食していた。舌足らずの口で呼び掛けながら。


『にぃちゃん……んっ。い、れ、て!!』


 兄の温もりを求めて、その藁布団に半ば無理矢理に潜り込む。それは真冬の明朝近くになったら殆ど慣習的に行っていた自分の我が儘だった。


 何故なら兄は自分と違い朝早くには家を出て、夜遅くになって漸く疲れきって、凍えきった身体で帰ってくるのだ。一瞬でも長く寝たいだろうし、ましてや己の温めた藁の温もりを一銭も稼いでいない穀潰しに奪われるのは、普通に考えれば腸が煮え返る所業であった筈なのだ。少なくとも、自分ならば心中に芽生える不満を完全に呑み込む事は出来ない。

  

『全く……仕方ない奴だなぁ。お前は』


 だからこそ、雪音は兄を尊敬していた。少なくともこういう時に兄が己を拒絶する事は皆無であったのだから。そして、当時の己はそんな兄の苦労も露知らず甘えて、甘えて、甘えきっていたのだ。


『やったぁ!!』


 兄からの嘆息を含んだ合意に、無垢の笑顔で以て自分は布団の中で兄の腕の中へと潜り込んだ。己が安心出来る絶対の世界に包み込まれる。誰よりも信頼している人に包まれる。其処で安眠を貪る。


 貪る、筈だった。


『……そうやって、お前は周囲の奴らを犠牲にして生きていくんだな』

『……にいちゃん?』


 何処までも底冷えする声音に、思わず自分は声を漏らしていた。掛けられた言葉の意味すら理解出来ず、笑顔を固めたままに兄を見上げる。首を傾げる。


 兄の顔は、まるで鍬で掘り返したようになかった。


『ひゅっ……!?』


 突然の事態に息が抜けたような悲鳴。動揺、混乱、恐怖。その場に固まる。動けない。動ける訳がない。何から何まで家族に、兄に甘えていた自分がこの事態に咄嗟に反応出来る訳がなかった。


『驚く事はないだろうに。どうせ、俺の顔なんて碌に覚えてもいなかった癖に』

『に、にぃちゃん……?』


 口もないのに響く兄の声。投げやりで、苛立ち気味で、吐き捨てるような声音。詰るような言葉、糾弾するような言葉に、幼い少女は打ちひしがれる。長兄にそんな言葉を向けられるなんて、彼女は想像すらしていなかったから。


『お前は何時もそうだったよな?何時だって駄々を捏ねて俺から飯をせしめて、疲れているのに遊び相手にして、俺がいなくなる前日だって、何も知らずに粥を御代わりしたんだもんな?』


 兄が連れていかれる前日。手付金代わりに差し出された食糧。白い米なんて本当に久し振りで、味噌の味も楽しみで、漬物以外の副菜があるのだって初めての事で……周囲の暗い空気に彼女は欠片も気付く事はなかった。厚かましく御代わりしたのだ。


 ましてや、愚図って兄にだけあった甘菓子をねだって……。


『ち、違っ……私はっ……!!?』

『違うものか。俺が消えた後だって見掛けだけ泣いて飯にがっついた癖によ。旨かったんだよな?俺を売って食った飯は?』


 事実だった。泣きじゃくりながら啜った粥は悔しいまでに美味だった。


『俺が傷ついて鞭打たれていた間、お前はどうしていた?他の家族に甘えていたんだよな?畑仕事だって辛くて、女中になったんだよな?』

『違う、違うよ兄さん!?私はそんな事少しも考えてなんか……!!?』


 其処まで叫んで、しかし自分の紡ぎ出す言葉は其処で止まる。そうだろうか?本当にそうだろうか?蛍夜の家の女中に召し上げられた時己はどう思っていた?仕事をしてみてどう思っていた?凍てついた土を延々と掘り返すよりも、泥まみれになって田植えをするよりもずっと楽だと思ってはいなかったか?


『罪人だからって友を見捨てたんだよな?主人が危険な時に何もしなかったんだよな?』

『捨てたんだ』

『捨てたんだね』

『棄てやがったんだな』

『あ、ひぃ……!!?』


 何時しか彼方此方の窓の隙間から、扉の隙間から数多くの眼光が覗いている事に気付く。そのおぞましき光景に恐怖して、そんな中で最も頼りになる人は、しかしもう己を助けてはくれなかった。助けてくれる筈はなかった。


 兄はただ突きつける。己の現実を。己の罪を。容赦なく、弾劾していく。


『終いには……俺をもう一度地獄に突き落として見せたんだよな?』


 そして眼前の存在は兄の声のままにいつの間にか手にしていたそれで顔を覆う。鬼の、般若の面を被る。襤褸襤褸で、傷だらけで、血の滲んだ黒い装束の着込む男が兄の声で嘯く。


『いやまさか、二度もお前に捨てられるとは思わなかったよ』


 兄の声で糾弾する彼の姿に、少女はまるで狂ったように絶叫して……。


 


 




「おい、大丈夫かっ!?鈴音!!?」

「ひ、はっ……!!?」


 肩を揺すられる衝撃に、彼女は目覚めた。目覚めるとともにばっと勢い良く身体を起こす。ぜいぜいと息を吐く。嘔吐感を呑み込む。額の汗を撫でる。混乱する己の心を落ち着かせる。


 未だに激しい動悸に震える眼差しで鈴音はまるで何かを探すように周囲を見渡していく。周囲を、確認する。


 己がいるのは畳の敷かれた一室だった。傍らには幾つかの調度が鎮座していて、油を敷いた灯台の頂上では小さな火種が揺れていた。突き上げ窓から覗く空はもう薄暗い……。


「ここは……」

「旅館だよ。客付き使用人用のな」


 疑念に答えた聞き覚えのある声音に、鈴音は振り返る。其処に鎮座するのは胡座を掻いた友人の姿。鋭い牙を覗かせ、狼を思わせる耳、尻尾を揺らす女。入鹿の姿……。


「客……?」


 入鹿の返事に惚けたように呟く鈴音は、しかし一瞬後に全てを思い出す。そうだ。ここは関街だった。関街の旅館。貴人用の旅館の、使用人が待機する仮部屋だ。


「寝ていた、のですか?私が……?」

「旅の疲れ、だけじゃあねぇんだろうがな。此処に着いて少ししてから臥せっていたぞ?そのまま置いとくと風邪になるから毛布を被せた。文句は言うなよ?」


 直前の己が何をしていたのかを推測すれば、入鹿が応じる。その言葉を聞いて今更のように手元に毛布がある事に気が付いた。


「……出来れば、起こして欲しかったですね?」

「馬鹿言うな。無意識に寝込んでいたのならそれだけ疲れていたって証拠だろうが?無理をしたってへまを仕出かすだけだぜ?素直に寝ていた方が正解……とは言えんか。随分と魘されていたみたいだな。えぇ?」


 入鹿の指摘に、鈴音は胸に痛みを感じる。罪悪感が胃を満たす。這い寄るような吐き気を振り払い、彼女は悪夢を見ていた時に崩れたのだろう、己の着物の乱れを直していく。


「そのようですね。……内容は忘れてしまいましたが」


 咄嗟に吐いた嘘。正確には忘れたかった。そして忘れる訳にはいかなかった。相反する感情が鈴音に偽りの言葉を紡がせた。


 ぴくり、と震える狼耳に鈴音は気付く事はない。半妖の女は、しかし友の言葉にそれ以上の追及はしなかった。友が追及されたいと思っていない事を察していたから。


「姫様は……祝宴でしょうか?」

「正解、食って飲んで遊んで羨ましい限り……と言えるくらい図太くねぇんだよなぁ、ウチの姫様は」


 入鹿の言葉に、口の悪さは置いておいて内容には同意する鈴音であった。温室育ちと言えば悪口となってしまうがああいう華やかでありながら陰湿な席はどうにも主君には似合わないように思われた。


「上手くあしらえるといいんだがな。まぁ、その辺りはあの婆さんが手助けしてくれるだろうさな。妙に面倒見がいいからな」


 皮肉げに入鹿に口にする人物は鬼月の御意見番の事を指していた。鈴音も渋々とその指摘には同意する。同意せざるを得ない。


(御意見番様は、私達を遠ざけようとしている……?)


 それは鬼月家に世話になって以降、幾度も抱いた疑念である。あの前々当主夫人は自分達の主君に対して、それこそ実の子のように甲斐甲斐しく世話を焼く一方で、彼是と理由をつけて自分や入鹿との間の関係を疎遠にさせようとしている……気がする。


「いや、馬鹿な……」


 一体何の理由があって?それこそ主君が男子であればまだ下世話であるが理由は分かる。権力ある老いた未亡人が見目の良い若い少年青年を子飼いにするなんて事例は同じ女中の間に流れる噂話でもある事だ。鈴音なぞ、あの老婆の連れる顔立ちの良い稚児をそういう目的で手元に置いているのではないかと訝っている程だ。流石に口にはしないが……。


「はっ」


 其処まで考えて、鈴音は己を冷笑した。他人の醜聞なぞに思いを巡らせる自分の浅ましさを蔑んだ。だってそうだろう?自分が他人の事をとやかく言える筋合いはない。


 兄の事、友の事、主君の事、それに……あの下人の事を思えば、言える訳がない。


(あぁ……本当に、醜い)


 自分が清廉潔白で、被害者の弱者だとでも言うのだろうか?実態は真逆だ。自覚的にも無自覚的にも、自分は常に人を喰って来た。人を踏み台にしてきた。人を犠牲にしてきた。そんな己が、己が…………。


「……」

「随分と気難しい顔をしてくれるなぁ。折角の可愛い顔が台無しだぜ」

「……頬っぺたくいくい引っ張るの止めてくれませんか?」


 人の顔で遊ぶ入鹿にジト目を向ける鈴音であった。雰囲気を壊すな雰囲気を。  


「けけけ、それは失敬」


 ふざけるように笑いながら命令通りに手を放す入鹿。そして続ける。


「考えている事は大体予想出来るぜ?余り後ろ向きに考えるなよ?俺に言わせれば、悩み事なんて逆に時間と共に呆気なく解決するものさな」

「……貴女らしい意見と言えば意見ですね」


 僅かに出掛けた反発は、その人好きのする笑みと共に霧散していて、取り敢えず鈴音は深く深く溜め息を吐き出していた。馬鹿には勝てないという事なのだろうか?


「お前が難しく考え過ぎなだけなんだよ。……俺もゲロった責任があるしそんなに切り出すのが難しいんなら、いっそ俺が出張るべきか?あいつのお付きに復帰した今なら機会を狙って言えるぜ?」

「それは止めて下さい。……自分の事は自分で決着をつけますから」


 好意からであろう、入鹿の提案を即座に却下する。己の事で友を使う事はしたくなかった。そんな卑怯者には、なりたくない。


「……兄妹揃って頑固者だよな、全く」

「……何か言いましたか?」

「なぁに、唯の独り言よ」


 入鹿の呟きに首を傾げれば入鹿はわざとらしく嘯く。


「お、そうだそうだ……」


 そして思い出したように一振り尻尾を揺らすと、入鹿は背後からそれを持ち出した。小さな土鍋を取り出す。


「……それは?」

「土鍋」

「それは見たら分かりますよ……何故それを?」


 質問への答えは湯気だった。友が土鍋の蓋を開けば白い湯気と共に粥飯が姿を現す。薬味をふんだんに混ぜた粥飯だ。


「生姜やら何やら、身体を温める物を混ぜ込んでるそうだぜ?まぁ、腹が減っては戦は出来ぬってな。ほれ?」


 続いて取り出す椀は二つ。鈴音は入鹿の目的を察した。成る程、夕食を持って来たわけか。


「そんなに入れなくても良いですよ?……其ほど食欲は湧きませんし」


 本当ならば食べたくもなかった。しかし折角用意された食事を無下にも出来まい。食べる事が出来る、という事は当たり前の事ではない事を彼女は知っていた。


「へいへい。……相変わらず少食だな?食える時に食わねぇとでかくなれねぇぞ?」

「……何処の事言ってるのですか?」

「はぁ?」


 多分他意はない。他意はない筈だ。しかし、唯でさえ三人の中で一番小さい身の上で入鹿に言われると嫌味に聞こえてしまう鈴音だった。返答の意味が分からずに首を傾げた衝撃で揺れるそれを目撃して余計イラッとした。


「こ・ち・ら・の、話です!!」


 溢れ出しそうな怒りを抑えて、手元に差し出された椀をぶん捕る。箸で粥を乱暴に注ぎ込み、噛み砕く。呑み込む。咀嚼しながら思う。こいつのが無駄に大きいのは頭の分の栄養まで使っているからじゃなかろうか、と。


「御馳走様です!!」

「早っ!?」


 ふんすっ!、と鼻を鳴らして鈴音は終了の宣言をした。その電光石火の速度に思わず突っ込みを入れてしまう入鹿である。女中の振る舞いは、まさに彼女の幼い頃のそれであった。


 必死になって飯をかっこみ、家族から良く噛むようにと呆れられながら叱られていた頃の振る舞い。


 彼女の、虚飾を捨て去った剥き出しの姿……。


「少し、夜風を浴びに行きます。直ぐに戻って来るので気にしないで下さい」

「お、おうっ!!?」


 ぱっ、と立ち上がり鈴音は足音を立てながら部屋を出る。女中にあるまじき事であった。困惑して呼び止める事すら出来ずに入鹿はそれを見送る。有難い話だった。色々な感情で自分自身でも訳が分からなくなっていた鈴音には、頭を冷やす時間が必要であったから。


 廊下を出る。同時に素肌に冷たくなった空気が浴びた。この地の重要性は霊脈よりもその立地であった。故に都や白奥のように結界が張られてはいてもその内は両者程に暖かくはなかった。北土の春はまだ寒く、山道の途上という立地もあって吐いた息が僅かに白煙をたなびかせる。思わず故郷の寒村を思い出した。


「落ち着くには寧ろ好都合ですけどね」


 鈴音は独り呟いて、旅館の廊下を進み始めた。窓の並ぶ薄暗い旅館の三階の廊下。人気は少なかった。恐らく貴人や女将達の殆どは別館の宴会に出ているのだろう。鈴音は一人、窓辺を見つめながら冷え込んだ廊下を進む。


「……賑やかな事ですね」


 暫しして口にした感想は、窓から照らし出される白木の関街の光景を見てのものだった。人の出入りの盛んな白木の街の立ち位置を思えば寧ろ当然であったかも知れない。


 途上の街もそうであるが、歓楽街の華やかな光と遠くから聞こえる人々の声を鈴音は物珍しげに見つめ続ける。故郷の寒村は無論、蛍夜の郷村も鬼月の谷街もこんな夜まで賑わい続ける事はなかった。田舎の若者らしい、都会への恐れと興味が鈴音の視線を街へと釘付けにさせていた。


「……えっ?」


 それは偶然だった。ふと視線を向けた先にその人影を見る。旅館の庭先に佇む闇に同化するような漆黒の人影。下人の装束。般若の面。下人の背中。


「と、伴部さん……?」


 それは己の謝るべき、そして感謝するべき恩人の姿であった。不用意な言葉でもう一度死地に送ってしまったその人は、直後には外套を着こんでしまってその姿は曖昧となる。直前の光景を見て意識していなければその存在を意識する事すらも出来なかっただろう。


 いや、それは良い。問題は……。


(こんな時間に……?)


 何時しか完全に日は暮れていた。夕刻を過ぎて夜に移り変わろうという刻。そんな中で彼が旅館から立ち去ろうという光景、これは……。


「好奇心猫を殺すとは言いますが……」


 相手は腐っても余所の家の者であり、素人の己とは違い切った張ったしている退魔の専門家である。果たしてこれは、しかし……。


「確か、まだお礼は言えていませんでしたか……」


 正確にはお礼と謝罪。『迷い家』での一件後に多くの事が有り過ぎた。そして環とのギクシャクとした関係。単純に彼と話す機会を作れなかった事もあるが、兎も角も鈴音は未だにそれを言えていなかった。そして、それをそのままにして居られる程に鈴音は恩知らずな訳でもなかった。


 夜の街に向かう下人の背中を見つめる鈴音。暫し迷い……しかし、直後に彼女は漸く決断する。


「待って……」


 意識せずに口にしたその呟きが彼女自身の最後の後押しをした。そのまま旅館の階段を下っていき、息を切らしながら彼の背後を追いかける。


 それはまさに軽挙な暴挙。己の主君を放って、友への言を翻し、ましてや誰にも言付けの一つすらせずの短絡な行い。叱責されて当然のその行為に、しかし彼女は衝動的に突き進む。


 まるで、何かに触発されたように。


「待って……待って下さい……!」


 それはきっと、彼の後ろ姿が外套を着込み輪郭がぼやけても尚、何処か懐かしく思えたからに違いなかった。


 記憶の奥底に眠るその背中に、彼の姿が似ていたから……。


「まって下さい。にぃさん……!!」


 咄嗟に紡いだ震える声音。その呟きの意味を、口にした本人すらも意識しておらず、ましてや理解すら出来ていなかった。


 女中は、男を追って夜の街へと駆け続けた……。






ーーーーーーーーーーーーーーー

『呆れたものですね。あんな物との区別もつかないのですか』


 旅館の屋根から影を追って歓楽街に向かう女中を一瞥して、式は呟いた。軽挙もそうだが、何よりもあれだけ未練がましい素振りを見せながら節穴の目玉に肩を竦める。


 人理の外の世界に関わるのだ。せめて見る目くらいはちゃんと養って欲しいものなのだか……不用意に動かれては此方が困る。


『……誰も見ていませんか?』


 蜂鳥は周囲見渡して確認する。巧妙に隠行している可能性もある。それが出来るだろう者も幾人も知っている。だが……。


『……アイツの側には近寄れないですし、手持ち無沙汰でいる必要もありませんか』


 静かに嘆息。そして決意する。


『監視くらいはしておいてやりますか』


 恐らく、あの男もそれを望んでいるだろうから……。


『……』


 一迅の風が吹いた。次の瞬間には蜂鳥の姿は消え失せていた……。


 

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