第一一六話

電気も瓦斯も無い時代、暖を取るのは文字通り死活問題だった。


 毛布に限らず手作業故に衣服の類いはそれだけで高価であり、薪や木炭だってタダではない。定期的に換気によって温めた部屋に冷たい空気を入れなければならないし、何よりも冬籠もりの間にそれらを切らしたら文字通りの詰みだ。寒村の百姓らは家族で囲炉裏や火鉢の細やかな温もりを求めて集まり、藁布団の中で抱き合って眠らねばならなかった。


 そして、その辛さを知っているからこそ俺は思うのだ。この部屋は天国だと。


『ねぇねぇ?どうしたの?そんなぼっとして?』

「……いえ、何もありませんよ?」


 此方を心底不思議そうに見つめる黒髪の童女に向けて、俺は貼り付けたような笑みで答える。誤魔化す。共に分厚い布団に潜ってお喋りに興じる。


 そうだ、北土の冬は寒い。だから眼前の童女は、己の主人は布団に籠る。こんな朝方を過ぎて昼に差し掛かろうというのに一歩も出ようとしない。己の躾が半ば放棄されたのを良い事に同い年の雑人を湯湯婆代わりに連れ込んで籠城戦と洒落こむ。


『うへへ……あったかーい!!』

「姫様、余りそのようにべたべた抱き付くのははしたないですよ……?」

『はしたないなんてことばしらなーい!!』


 霊脈による加護を受けた土地、断熱を考慮した部屋、高級な布団。もう十分に温もりは担保されているのにもかかわらず、童女は更に俺に抱き着く。


 彼女のその行いが、決して温かさを求めるだけのものではない事を既に俺は察していた。察していたが……俺はそれに気付かぬように装う。見て見ぬ振りをする。それは完全なる打算であった。浅ましい、我欲のためであった。


『……ねぇ、◼️◼️?』


 暫し赤子のように無心で俺に抱き着いていた童女は、ふと何かを感じたように俺の顔を見上げた。上目遣いで心配するように、見つめる。


「……姫様?」

『ねぇ、◼️◼️。◼️◼️はわたしのことはたいせつ?』

「……何をおっしゃりたいので?」


 貼り付けたままの笑みで、俺は問い質す。眼前の童女は尚も俺に抱き着いたまま視線を僅に俯かせる。


『……あのね?このまえいってたの。◼️◼️は、ほんとうはわたしのことなんてどうでもいいんだって。わたしといっしょにいればいいおもいができるからしたがっているだけなんだって』

「……」


 心底不安げで、悲しげに呟く彼女を、俺はただ無言で応じる。これは……陰口でも聴いたか?いや、直接であるのなら告げ口かな?何にせよ、人の嫉妬僻みというものは恐ろしい。こんな子供相手にすら囁くのだから。


『あのね!わたし、◼️◼️にたくさんめいわくかけてるとおもうの!わがままいってるとおもうの!だからいやなおもいさせちゃってるなっておもうよ?だからきらわれてもしかたないなっておもうの!』


 眼前の童女は自分でも死ぬ程苦しそうに語る。自分の罪状を、罪科を自白していく。


『けどね!たぶんあいつらがいってたように◼️◼️にたくさんいいこともあるはずなの!わたし……わたしがやくだてるなら、なんでもきょーりょくするよ?たくさんてつだうよ?』


 そして媚びるように、おもねるように彼女は己の価値を語る。強調していく。必死に語っていく。売り込む。


『だから……だから……すてない、よね?』


 最後は感情が溢れんばかりで、その声音は質問でも確認でもなく懇願に近かった。布団の中で沈黙が暫し流れる。童女は、その間にも今すぐ死にそうな程顔を蒼くしていた。不安一杯に、俺を見つめる。


「……当然ですよ。姫様に不満なんて、無いとは言いませんがね?それとこれとは話が別です」

『あっ……』


 苦笑して俺は彼女を抱き返す。小さく驚きの声を漏らす一の姫。抱き締めた小さく華奢な身体は子供特有の温かさに満ちていた。


「姫様は大切な私の主人です。役得があればそりゃあ嬉しいですよ?けど、損得抜きに私は姫様を大事に思っているのですよ?」


 耳元で俺は囁く。どの口が言うか等と己を嘲りながら。無垢で純粋な子供の疑心暗鬼を解かんと煽てる。


『ほん、とう?◼️◼️はわたしのこときらいじゃない?わたしをまもってくれる?たすけてくれる?かぞくみたいにいっしょにいてくれる?』


 怯えるような震え声で、姫は再度問い掛ける。確認というよりはその返答自体を聞きたいが故の質問に思われた。だから、俺はその望みに応えてやる。


「勿論ですとも。姫様。私は決して貴女を見捨てません。決して貴女の手を離しません。貴女の……味方です」


 俺は何処までも優しく、目の前の小娘に嘯いた。そう、打算と、計算と、そして確かな思い遣りの心を以て……。

 

『本当か◼️◼️?本当にお前は私の事を想っていたのか?』

「……え?」


 突然放たれるその指摘に、俺は唖然とする。改めて正面を見る。其処にいたのは幼い少女でなくて、何処までも冷たい視線で俺を射抜く刀を携えた女退魔士であった。景色は変わる。ここは最早温かな童女の自室ではなかった。ここは荒れ地。何処だ?この場所は?見た事があるような?しかし、何処で……?


 残念ながら、その答えを導き出す事は出来なかった。それより先に彼女の追及が始まったから。


『だったらどうして私を裏切った?どうして私をあの家から救い出してくれなかったんだ?お前になら出来た筈だ。違うか?』

「そんな事、そんな無茶ぶりな事……」

『嘘をつくな!!』


 眼前の少女が叫ぶ。怒鳴り付ける。その身体から紅蓮の炎が舞う。辺り一面が、焼き尽くされていく。


『誰よりもお前が分かっていた筈だ。そうだろう?あの日、お前には他にやり様があった筈だ!!それを、お前は自分可愛さに、道を外れる事を恐れて!!そして私を再びあの檻の中に戻した!!』

「違っ、な、何を言って……!!?」


 詰るような雛の言葉、責め立てるような弾劾。しかしその言葉の意味が分からず、けれど確かにその言葉は真実を突いていて、訳の分からない罪の意識に俺は思わず狼狽える。逃げるようにして背後に下がる。


 何か柔らかいものに背中が触れた。肩を震わせて振り返る。ふくよかな男が此方を見下す。逃がさぬとばかりに背後に立ち塞がる。


『全く、折角くれてやった恩を仇で返すとは何処までも厚かましい小僧な事だな?やはり卑しい血は争えないという事かな?』


 鼻を鳴らして、何処までも此方を蔑んだ罵倒。同時に俺の心中に溢れるのは罪悪感だった。何も否定出来なかった。


「そ、そんな事……」

『逃げるな』


 必死に弁明の言葉を口にしようとして、しかしそれを紡ぐ前に冷酷に道理を告げられる。


『私を弄んだな?』

『儂を利用したな?』

『私を見捨てたな?』

『儂を謀ったな?』

『裏切り者』

『恩知らず』

『『疫病神!!』』

「っ……!!?」


 その場から逃げ出していたのは殆ど無意識の内であった。分からない。何も分からない。何故そんな事まで言われなければならないのか?どうしてこんなに胸が痛むのか?どうして……どうしてここまで責められるのが怖いんだ?


「はぁ……はぁ……はぁ……ここは?」


 身体能力の差もあって直ぐに追い付かれて殺されると思っていた。しかしそんな事はなくて、ひたすら時間の感覚が分からなくなる程走った末に俺が辿り着いたのは寒村だった。見覚えのある寒村。古い、古い記憶。俺の故郷……。


『本当に、貴方は疫病神だったわ』

「っ……!!?」


 酷く懐かしく、そして本能的に焦がれる声音は、しかし何処までも冷酷で冷淡だった。振り返れば其処にいたのはみすぼらしい和装に身を包んだ線の細い女性。窶れた表情に剣呑な雰囲気を湛えた眼。此方を映す瞳には何処までも深い嫌悪が滲む。


『忌々しい忌子め。お前のせいよ。お前みたいな餓鬼を孕まされたせいで、私は生まれ故郷から……』


 何か辛い記憶を思い出したように己を抱き締めて、俯くその人に、俺は何も言えない。かけるべき言葉を見出だせなかった。そんな資格なんてなかったから。


『ましてや、お前は私が漸く掴んだ幸せまで奪っていくつもりなのね?』

「あっ……」


 何とかして言い訳をしようとしてしかし、それはいつの間にか自分の傍らに佇んでいた幼い童女の存在の前に沈黙する。正確には彼女が両手で抱き締めている『足』に意識が向いてしまって……。


『にいちゃん。にいちゃんのせいでとうちゃんのあしはなくなったの?』

「それは……!!?」


 突きつけられる言葉は俺の胸を締め付ける。吐き気がした。罪を晒し出される。顔を絶望に歪ませる。


『雪音、此方にいらっしゃい。そんな奴の所にいちゃ駄目よ?貴女まで食われてしまうわ』


 窶れた女性が囁けば、はぁいと答えてやんちゃそうな子供は駆け寄った。雪の積もった純白の地面を足の断面から滴る赤い点が汚す。母が娘を抱き締める。そして一層侮蔑の視線を向ける。


『止めて頂戴な。そんな物欲しげな目で見ないで。産みたくもなかったのに、疫病神で。ましてや中に詰まった魂だって……』


 女性の眼差しは最早息子を、それどころか己の子供を見るものでもなかった。他人を、化物を、おぞましい怪物を見るようで……そして、そんな彼女に抱かれる子供は純粋無垢な瞳で俺を見つめた。見つめて、首を傾げる。


『にいちゃんはわたしのにいちゃんじゃないの?』

「っ……!?」


 違う!そう叫びたくなったが、いざ口にしようと思うと俺は躊躇う。本当に?いや、違う。それ以上にここで問題なのは血縁なんかじゃない。それ以上に俺は、俺は……本当にあの家で居場所があったのか?


 俺は、生まれて良かったのか?俺は、俺の魂はあるいはこの身体のものでは……。


『何を今更の事を言っているのかしらね?不幸自慢かしら?滑稽な事』

「ひめ、さま……?」


 風景は再び変わる。いつの間にか己は森の中にいた。無数の妖共が巣くう巣穴。巣窟に。背後を振り向けば桃色の姫君が扇子を広げて微笑む。何処までも嘲るような冷笑を浮かべて。


『そうやって、苦しんでいる振りをするのはお止しなさいな。何を思おうとそれだけの癖に。結局は楽な方に楽な方にと、自分の都合の良い方向に流されているのでしょう?そうでなければ私をあんな土壇場で助けたりなんかしないわ。……上手く恩を売ったわよねぇ?お陰様で新しい後ろ楯が手に入ったのだもの』


 そう宣ってけらけらと悪意たっぷりに嗤う美少女。


「そんな事は!!俺が、俺があの時姫様を、お前を助けたのが演技だったとでも言うのか!?」


 俺は声を荒げて反論する。余りにも心外だった。俺だってあの時は命懸けだったのだ。それを、こいつは……!!?


『ふふ。みっともない自己弁護ね。私が嵌められるのを知っていたのなら事前に教えてくれても良かったのに』

「そんな事、お前があの時信じたのかよ!?」


 あの事件以前の葵は健気な程に父親を信じていた。箱入り娘は必死に関心を惹こうとしていた。俺が何を言っても無意味なのは目に見えていた。下手したら半殺しにされていたかも知れなかった。そんな事言われる筋合いはない。


『ぎゃあぎゃあ騒ぐのは止めなさいな。……お陰で寄って来ちゃったじゃないの』

「はっ……?」


 嫌悪感剥き出しで放たれるその葵の言葉に俺は首を傾げた。直ぐにその意味は分かった。


『カタカタッ!!』


 気配がした。音がした。骨が響くような乾いた音が鳴った。近かった。俺は思わず視線を向ける。足下に。


「…………」


 俺はそれを無言で見つめた。そいつも同じく無言だった。


 ……腐った血肉がこびりついた身体を引き摺って、餓者髑髏が俺を見上げていた。遅れて酷い悪臭が俺の鼻腔を蹂躙する。唖然とする。愕然とする。そして……次の瞬間に俺の足首を掴み取る。


「うわあぁぁぁぁっ!!?」


 そのおぞましく気持ち悪い感触も相まって、思わず足を掴んだ骸骨を蹴りつけていた。振り解かれる手。骨まで腐っていたのだろう。その手は骨までへし折れる。手首が吹き飛ぶ。


『あらあら、随分と冷たい事。自分が死なせた同胞、自分で殺したお仲間でしょうに。せめて恨み言の一つくらい聞いて上げるべきじゃあないのかしら?』

「はっ!?同胞……殺した!?何を言っている!?」


 二の姫君の指摘に俺は混乱しながらも困惑する。腕を失っても尚も此方にすがる髑髏に視線を向けて、そして今更のように俺は気がついた。髑髏のその下半身が無い事に。まるで、何かに噛み千切られたかのようだった。


「あっ……?」


 そして、此方を見上げる頭蓋と目が合うと、その頭蓋の形を観察すると……漸く俺は彼の正体を悟り目を見開く。


「お前……八尋、なのか?」


 そうだ、その風貌を俺は知っていた。煎餅好きで同じ槍使い故に定期的に手合わせをしていた八尋。河川で支給されていた槍を釣り道具宜しく魚を捕らえるのに使い、班長に叱責されていた、それでいて仲間からもその明るさから人気のあった八尋。


 そして……あの満月の夜に大狼に身体を半分に食い千切られた八尋だった。


「あ、あぁ……」


 一度その事実に気付いてしまうと、骸はまるで逆再生するかのようにしてその肉を取り戻す。記憶にこびりつく最期の出で立ちで俺の前に現れる。絶望して、口から血の泡を溢して俺を凝視する。口を震わせて何かを言わんとする。救いを求めている。俺はそれに対して何も出来ない。何も言えない。ただただその血塗れの、手首から先のない腕を伸ばす彼を見下ろし続ける事しか出来ない。


『カタッ!カタッ!カタッ!!』

「っ……!!?」


 けたたましく骨が鳴る音に、俺の身体は反射的に反応していた。振り向き様に槍を横薙ぎに叩き付ける。ヨタヨタと背後からにじり寄って来ていた骸共に向けて。だが……。


「な、何で……?」


 全力で振るった筈なのに、槍はボロボロの骨を打ち砕く事も出来ずに肋骨で引っ掛かり止められる。骸はそんな己の胸元を見下ろして、そして俺を見る。


「鹿江……っ!どうしてお前がここに……!!?」


 俺が下人となってから二番目に所属していた班。その内で俺と良く組んでいた。班が壊滅して二人だけ生き残って、そして最後は必死の治療も虚しく目の前で衰弱死した鹿江。そんな彼女が俺を見つめ続ける。血を流して、無言で、己の胸元に槍を突き刺す俺を……。


「っ!?違う!!?違うんだ!!これは……!!?」


 咄嗟に槍を捨てる。仲間を傷つけてしまった事実を必死に言い訳する。自己弁護する。謝罪する。その全てに対して、何の反応もなく、彼女はただただ非難の籠った視線で俺を射抜き続ける。


 ……真横から数体、ふらつきながら近付く髑髏。視線を向ける。途端に彼らは肉を取り戻す。


「丙、平群!!お前は……柏木か!!?」


 俺は死なせてしまった部下達の名を叫ぶ。彼らだけではない。何時しか、屍共は視界に映る限り一面中にいた。それらに視線を向ければ、その特徴に気付けばそれが誰なのかを悟る。悟って、肉を取り戻した彼らは俺を見つめるのだ。憎悪の籠った眼で以て。それだけで俺は絶望する。視線を逸らしたくなって、しかし離せない。そんな資格はない。


『あらあら、皆我先に集りたがって。ふふ、どうやら罪の清算の時が来たようね?』


 無数の骸達に囲まれる俺を一瞥して、鬼月の二の姫が宣う。


「罪!?罪だと……!?ふざけるな!!確かに俺が上手く立ち回れば助かった奴もいるだろうさ!!だが、俺が……俺が好きで殺した訳じゃあない!!」


 俺の叫びは殆ど慟哭になっていた。必死に、決死に俺は己の潔白を叫ぶ。幾ら何でもあんまりだった。元より立場として死と隣り合わせなのだ。其処まで俺の罪にされてしまっては敵わない。俺は万能でなければ全能でもない。それを、余りにも荷が勝ち過ぎた物言いではないか!!?


『あははははっ!!それ本気で言っているのかしら?私がそんな事で責めていると?勘違いも休み休みに言いなさいな!!惚けているの?それとも本気で分からない訳?』

「何が言いたい!?迂遠な言い方は止めてはっきり言えよっ!!?」


 傑作だとばかりに腹を抱えて大笑いする二の姫。その余りにも嘲笑を含んだ指摘に俺は思わず怒って声を荒げる。その真意を問い質す。


『黙りなさいな。貴方、まだ分からないの?そいつらがどうして死んだのか、貴方が無能だから?確かに貴方の無能は事実だけれど、此処で言いたい事は違うわ。そんな単純明快な話じゃあない』

「じゃあ何を……!?」


 其処まで口にしてはっ、と息を呑む。ここに来てやっと俺は姫の言わんとしている事を理解した。俺が答えに辿り着いた事を察した姫君は、尊大な笑みを浮かべる。


『えぇ。そうよ。貴方の有能無能以前の話。当たり前よね?貴方のような異物がいるのだもの。……家族を筆頭に、何れだけの人間の運命を変えて来たのかしらねぇ?』


 鬼月の姫の言葉は的確に俺の心を抉る。あの満月の夜もそうだった。陰謀、謀略、罠、派閥抗争……俺はその出汁として、駒の一つとして扱われ続けた。幸運にも俺は生き残った。だが、それに巻き込まれた連中は?その死は原作では起こり得たのか?何れだけの者が俺の影響を受けた?何人が不幸になった?命を落とした?


「っ!?彦六郎!?お前も、お前達もなのか!!?」


 俺に這い寄り、抱き着かんとする骸骨共、その中の一角に軍団兵の軍装を着こんだ一団がいるのを見て俺の顔は醜く歪む。見れば俺に向かってくる骸の中には下人衆の装束以外を着ている者も散見された。顔を知っている者もいるが、知らない者も少なくない。


 ……そして、その全てが明らかに俺を恨んでいた。自分達が死ぬ運命へと導いた俺に怒っていた。運命を狂わされて、命を奪われた事に。


「あ、あぁ……」


 パクパクと、俺は陸に上がった魚のように口を開けては閉めていた。何か言いたかった。だが何も言えない。言える訳がない。どうしようもない。逃げようもない。言い訳のしようがない。意味がない。あるのはただ、俺の存在自体が彼らを死なせたという事実のみ。


『漸く、己の罪に気付けたか?』


 そして、背後にその気配を感じて、俺はゆっくりと振り返る。彼女の気配を感じて、振り返る。般若面を被った女が其処にいた。あの人が、此方を見つめていた。


 ……その細い首筋に刻まれた絞め跡を見つめて、俺は思い出す。あの日の全てを。あの日の真実を。


「う、嘘だ……」

『嘘じゃない』

「嘘だ……!!」

『嘘な訳あるものか』

「信じるかっ!!その姿で……嘘を言うな!!」

『嘘なぞ言うものか。……私が、お前に嘘を言うと思うのか?』

「……!!」


 耐えられない現実から逃避するように、殆ど反射的に俺は彼女の首を締め上げていた。目の前の存在を掻き消すために。振り払うために。強く、強く、その白くか細い首筋を締め上げる。


 次の瞬間、ポロリと彼女の首が転げ落ちた。まるで玉が転げ落ちるように、あっさりと。呆気なく。


「あ……?」


 足下にころりとぶつかった頭。一瞬唖然として、直後に悲鳴を上げる。しゃがみこむ。頭蓋を拾い上げる。抱き締める。必死に謝罪の言葉を捲し立てる。自分に次々としがみつく骸達なぞ眼中にも入れず、泣きじゃくりながら赦しを乞い続ける。


 頭蓋が蠢いた。びくりと震える。怯える。言われる事もなく、まるで見えない糸で操られるように俺は抱き締めていた頭に貼り付く面を剥がして行く。そして、そして……。


『どうしてだ?どうしてお前は私を殺したんだ?』


 ……表皮の剥けた血達磨の、蛆だらけの恩人の頭は俺を責め殺すように問い掛けた。


「…………!!」

『坊やを苛める悪い虫は何処かしらぁ?』


 俺が絶叫しようとした瞬間、耳元で囁くような甘い『母』の声音が鳴り響いた。


「なぁっ!?」


 突如現れた闖入者に対する驚愕が俺に掛けられた催眠を吹き払った。背後から伸びた無数の腕が、触手が、俺の抱く頭を吹き飛ばす。否、それだけではない。俺に群がる髑髏達も同じように薙ぎ払っていく。引き裂いていく。叩き潰していく。


 そして……まるで俺を守るようにして抱き着く。


『うふふふ、これで大分すっきりしたわぁ』

「お、お前……!?どうして?」


 殆ど頬をくっつくように背後から貼り付く緑髪を伸ばす禍神の存在そのものに俺の頭の中は混乱する。いや、こいつがこの場に存在する事自体は不思議ではない。問題は正に術中に嵌まろうとしていた俺を救い上げた事に関してであった。


『あら?別に可笑しくはないでしょう?私は貴方の心の内に住まう存在。故に私は貴方の母。故に、親が子を守るのは当然でしょう?……えっと、QED?』

「いや、全然分からんけど!!?」


 外見に似合わぬ、あるいは外見通りのぽよぽよとした声から紡がれる最初から最後まで意味不明の理論証明に俺は思わず突っ込みを入れていた。止めろ、きょとんと首を傾げるな。まるで俺が間違ってるみたいに思えてくるだろが!!


『ぱぁぱぁ!!かわいいかわいいわたしがたすけにきたよおぉぉぉぉぉぉ!!!!』


 何処か遠くから轟音と共に子供染みた拙く拍子抜けする叫び声が鳴り響く。目を凝らせば地平線の向こうから餓者共を押し潰しながら突貫する大蜘蛛の姿を認める。……何か凄い阿呆っぽい声で叫んでるけど。


『あらあら、頑張り屋さんねぇ~。がんばれがんばれ御嬢さん!お婆さんが応援してますよ~?』

『うるせーくそばばあっ!!おとしだまよこせえぇぇぇぇぇぇっ!!!!』


 母を名乗る不審者が朗らかに声援を送れば、火に油、いやガソリンでも注ぎ込むかのように怒鳴りながら一層暴れ回る巨蜘蛛。というかお前、御年玉なんて貰っても何に使うの?


「思い出した。確か俺は『迷い家』の中で……」


 そして気が抜けると共に脳裏に甦るのは直前までの全ての記憶。それが引き金となったように周囲の景色は皹割れるように崩壊していく。何度も経験した覚えのある浮遊するようで沈みこむような感覚に襲われる。つまり、起床の時間であった。


「……礼は言わねぇぞ?どうせ宿主がくたばったら困るからとかそんな理由だろうが、寄生虫め」

『構いませんとも!子に無償の愛を与えるのは親の役目ですからね!!』

「だからお前の股から産まれた覚えはねぇんだよ!!」


 人の家族を貶める自称に対し、毎度の突っ込みを入れる。そしてそれを狙っていたかのように足下が崩れて、俺は奈落に堕ちていく。眠りに落ちる。そして眠りから覚めていく。世界が反転していく……。


『……さようなら』


 俺が目覚める直前、最後に目撃したのは自分に向けて何かを呟く般若面の『あの人』の姿で……。







『ふふふ。いってらっしゃい、私の可愛い坊や。……そう言えば、貴女はあの子とお話ししなくても良かったのですか?……そう、貴女も大変なのね?じゃあ代わりに私が慰めてあげましょうか?頭撫で撫で~って!要らない?それは残念』




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『(; ・`д・´)ウオオオオッ!!ワガデンカノホウトウ!!エクスカリバーヲクラエッ!!Σ(lliд゚ノ)ノキャン!?アブナイ!?』

「…………」


 ……目を覚ました俺が目撃した最初の光景はジタバタ陸に上がった魚みたいに暴れる釘を掲げて俺に乗っかる『子啼爺』に立ち向かう馬鹿蜘蛛の姿だった。爺の爪の長い手でチョイチョイと襲われるのをブンブン釘を振るって牽制する。何処までも空しい茶番劇を繰り広げる。


 お前死なれたら困るから隠れてくれないだとか、それエクスカリバーというか「ひのきのぼう」だろだとか、伝家と言う程歴史無いだろだとか、そもそも何でお前その釘持ってんのだとか、何か色々突っ込みたかったがそれら全てを取り敢えず脇に置いておく。突っ込んだら負けだと思った。


 そして、黙りこんだままに俺は目だけを動かして周囲を観察する。そして直前の記憶も付せて現状を認識する。成る程、これは……。


(途中で身体が戻っていた筈だ。とは言え残り……百秒無いかな?)


 絶望的な状況。無数の敵。二重の時間制限。糞ゲー過ぎる。人生なんて糞ゲーだ。しかし……残念ながらこの遊戯は待ったも再挑戦も出来ない仕様だった。最高だね。


 ……幸いとは言っては何だが、時間を節約する術が俺にはあった。いや、本能的にそれを察していた。……恐らくはあの糞地母神の仕業だろう。今宿主に死なれたら困るという事か?俺の血肉への侵蝕具合を思えばロイコクロリディウムしても不思議でもないのだがな。


(まぁ、良いさ。利用出来るならば利用してやるよ)


 そうして周囲の騒音に紛れて、俺は静かに呼吸を整える。己の内に蠢くそれを引き出していく。心の臓の鼓動が激しくなる。体温が上がっていく。喉が渇く。腹が減る。耳元に響く少女の悲鳴がそれらの事象を更に加速する。それらの衝動を制御する。御していく……。


 その直後、奴らと視線が合った。最初に気付いたのは獅子。それに続いて鼬が振り向く。目を見開く。怒りに顔を歪ませる。口を開く。叫ぼうとする。


「遅いんだよ、間抜けめ……!!」


 殆ど咆哮に近い叫びと共に俺は火炎を解放していた……。








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 俺の身体はその網膜に堕神の血を受けて以来、様々な手段で進行を減衰させているとは言え、着実に怪物へと近づいていた。少なくとも皮を剥いたら人の肉体構造を維持しているなんて最早自分でも信じていない。


 今更の話だ、それは良い。問題はそれを露出し過ぎたら、つまり化物としての力を使い過ぎた場合俺の身体も心も不可逆的に変貌してしまうだろう事だ。そう、人間の振りをする事すら出来ない程に……。


 所謂時間制限として俺や翁が口にするのはこれの事だ。外付けの薬やら何やらでその制限をある程度延長する事に成功しているが、それはそれで身体に良かろう筈もない。ゴリゴリ人間としての寿命が削れているだろう事は想像に難しくない。


 それでも確かにこの危険に満ち満ちた世界で、そして下人衆とかいう超絶ブラック企業で生き抜くには妖化の力は、少なくとも目先の死から逃れる上で無くてはならぬ代物であり、そして今の状況は残り少ない制限時間をどうにかして延長せねぱならなかった。せめて、残時間の倍くらいは欲しい。


 ……そうして導き出した答え、それは単純明快に身体の一部だけ妖化させて誤魔化す事であった。


「とは言え、実際にやるとなぁ……!!?」


 腕と足と、火炎を噴き出すために口内と内臓の一部に体内の妖気を集める。集められてる?見よう見真似ですらない。自分の感覚を信じるしかなかった。多分成功している。手足に比べて頭や身体の変質は最低限だった。焼けたり破けたりとボロボロの衣服の隙間から覗く肌の色は間違いなく人間のそれであった。


 油断したら一気に妖化してしまいそうだがね。明らかに俺は危う過ぎる天秤の上にいた。


「……それはそうと、てめぇ重いんだよ!!」

 

 立ち上がった俺は先ず第一撃で炭化した赤ちゃんプレイ爺の、その加齢臭漂う骸を地面に叩きつける。馬鹿蜘蛛に注意を引かれていて焼き殺される寸前まで気付いていやがらなかった。周囲に視線を向ければ同じように業火でローストした百近い妖共の死骸が広がる……。


「さて、と。……次はお前だよっ!!」

『(゚∀゚;)サッサトニゲレバヨイモノヲ!!』


 俺が続いて狙ったのは此方に向けて瞳術を放とうとしている大猿だった。一瞬後にその腹に風穴が開いたのは直ぐ傍の妖を捕らえ、掴み上げ、そして豪速球にしたからである。空気が爆発するような音が遅れて響き渡り、驚愕の表情とともに崩れ落ちる『覚』。不愉快過ぎる夢を見せてくれたのだ。当然の報いだった。


(脅威その一、その二はこれで排除成功か。後は……!!)


 煮え滾る内の熱を蒸気に近い吐息を吐き出して排出し、俺は周囲を見やる。環は、無事か。火鉢の奴は……流石に手勢を相当消耗したらしい。小妖幼妖共に己を運ばせて全速力で逃げ出そうとしていた。


『ギャオ!!』

『グオオオオオオオッ!!』

「邪魔だってんだ!!」


 火鉢は俺の視線に気づいたのだろう。此方の気を逸らすように四方八方から生き残りの眷属が迫る。捨て駒だった。それらを爪の一撃で瞬時に薙ぎ払う。部分妖化で負担を軽減しているからといって余裕なんて一切存しない。さっさと元凶を叩き潰してしまうに限るが……!!


「まぁ、邪魔してくるよなぁ!!?」


 感じ取った殺気に背後を振り向く。同時に妖気を込めた手刀を叩き込めば鳴り響くのは激しい金属音。打ちこんだ一撃は鎌鼬の鎌爪に弾かれて火花が散る。


「うおっ……!?カアッ!!!!」


 一瞬衝撃で後ろに崩れて、そのままの勢いで俺は深呼吸。そして大口を開いて業火を噴き出す。火炎放射であった。鎌鼬は即座に離脱を図った。しかし手遅れだ。一瞬後には眼前の全てが炎に包まれる。灼熱が辺りを舐めるようにして広がる。火炎による面制圧だった。


『(*゚∀゚)ヤッタカ!?』

「だからそれフラグ!?」


 いつの間にか人の首筋にまで登っていた白蜘蛛(背中にジタバタする釘を剣のように背負っていた)が御約束過ぎる台詞を言えば此方も突っ込みを入れざるを得ない。突っ込みながら、俺は身構える。予想通りにそいつはやって来た。


『そうそう同じ手は効かないよ!!』


 跳ねるようにして業火の中からその影は姿を現す。鎌鼬が、迫り来る。


 生意気な化物が至近からの火炎から生存した理由は実に単純明快であった。頭を捻って考える必要もない。ただ直撃を食らう寸前に巨大化した尻尾で近場の妖共を複数、鷲掴みにして叩き込んで来た。それだけだ。つまり、肉壁だ。


 生け贄にされた化物共の数は十前後、それらは瞬時に消し炭と化した。それで十分だったのだろう。実際、その間隙を突いて火炎を火の粉の一滴まで見事に潜り抜けていたのだから。


『ほいさ!!』

「ぐっ!?倍返しだ!!」

『( ・`ω・´)ヤラレタラヤリカエス!!』


 再度、鎌鼬が鎌爪で迫り来る。その斬撃を一方の腕の甲皮で受け止めて、残る一腕でカウンターするように爪を立てて切り裂きに掛かる。凶妖としては恐らく防御力でかなり劣る鎌鼬には耐えられぬ一撃だった。一撃必殺だ。……当たれば。


『おっとっと!危ない!!』


 防御力は低くてもすばしっこさは別問題だ。どんな一撃も当たらなければどうと言う事はない。妖の中でも小回りが利く故の身のこなしで、此方の攻撃をまるで踊るように避けきって見せる鎌鼬。


 そして両腕の鎌で以て斬りかかりに……と、見せかけて仕掛けるのは巨大化した尻尾であった。踵を返して大鎌と化した尾が俺の身体を横薙ぎにせんと迫り来る。


「こいつは、不味いな……!!」


 その場で宙返りして鎌を避ける。次の攻勢に備える。だがそれは結果として失敗であった。


『ほら獲物だ、喰らえ!!』

「っ……!!?」


 眼前に飛び込んで来るのは数体の妖共。鼬枷によって投げ込まれたそれらを俺は反射的に八つ裂きにする。囮だった。時間稼ぎだった。


『化物の相手なんて何時までもしてられるかよ!!』


 舞うようにしてステップして、鼬枷は背後に下がっていた。その向かう先にいるのは……。


『(; ・`д・´)ナヌッ!?』

「狙いは環かっ!!」


 未だ動く事叶わぬ環を確保して撤収する事を決断したのだろう。俺の火炎に対する人質という役割もあったかも知れない。彼女の傍にまで跳躍、着地すれば半ば強引に短刀を引き抜く。悲鳴を上げる環。それも気にせず鼬枷は環の手を引き立たせる。


「させるか……!!」


 巻き添えを恐れて火炎が使えず、何なら大技の類いも使えぬ以上、取りうる選択肢は人質宣言される前に肉薄して八つ裂きにするのみだった。疾走して迫らんとするが……。


『そぅら、持ち主の所にお帰りさっ!!』

「なっ!?畜生が……!!」


 投擲された短刀は胸元、心臓目掛けた直撃コースだった。避ければその隙に逃亡するのは目に見えていた。受け止める以外に手は無かった。腕で防御する。其処らの刀程度ならば逆に刃零れするだろう外皮に短刀が深々と突き刺さった。


「ぎぃっ!!?」


 多分骨まで貫通した。思った以上の激痛に俺は思わず悲鳴を漏らす。集中力が途切れる。其処に環が迫る。押し付けられる。それを反射的に受け止める。両腕が完全に封じられる。


 罠だった。作戦だった。鎌鼬は以前の戦闘で単純な戦闘能力では劣勢なのを熟知していた。その上で対策をちゃんと立てていたのだろう。


 身体能力で負けるのならば足手纏いを押し付ければ良いのだ。環を押し付けられて両腕は塞がれた。瞬間的に身動きも困難になった。下手な機動をしたら腕に抱く環の首がへし折れる事だって有り得た。俺がそれを理解した事を察したのだろう。既に眼前にまで接近していた鎌鼬は口元が裂ける程に歪める。勝ち誇る。嘲笑する。


『まぁ、妖の考える事なぞ知れておるがな?』


 老人の底意地の悪い嗄れた声音が響いた。


『あ!?ひぎっ゙!!?』

『グオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙ッ゙!!!!』


 直後、唖然とした鎌鼬の身体を、躍り出た鬼熊がその脂肪の詰まった腹で以てぶっ飛ばした。遅れて放たれる熊妖怪の勝鬨の声。


「……くまさん?」

「ははは……目覚めた時からいないと思ってましたが、やはり油断ならない人だ」

『(゚∀゚;)ワザマエ!!』


 つい先程の鎌鼬同様に何が起こったのか分からぬといった表情を浮かべる環であった。一方で、俺はある程度こういう事態は予想出来た。意識を失う直前までいた蜂鳥が消え失せているのだ。考えられる可能性は化物共に一杯喰わせるために何か狙っているという事くらいのものだ。


 大方俺単独では駄目だと見切りをつけて迷宮をさ迷う式を誘導していた、という所だろう。タイミングが絶好だったのは最大限効果的なアンブッシュのためにずっと出待ちしていたからに違いない。そう、俺達が危険な状況にあってもずっと……流石典型的な頭退魔士である。


『ふむ、何か文句はあるのかの?』

「結果が全てなので何も言えませんね。……環様をお任せしても?」


 腕に生える短刀を引き抜き環に押し付けて俺は要請する。蜂鳥は無言で頷く。俺の制限時間の残りを考えると無駄話は無意味と思ったのだろう。……おい熊妖怪。腹突き出してキメ顔するな。何長年付き添って来た理解者相棒面してんの?腕組みするの止めてくんない?


「伴部、くん……」

「何処かに隠れて、とは言えませんね。時間が無さ過ぎる。……『迷い家』の方は頼まれて頂けますか?」

『(;^o^)キサマニツトメヲアタエヨウ!!』


 短刀を差し出したままに俺はその要望を伝える。実の所、その判断は不本意だったが他にどうしようもなかった。残された時間で全ての課題を解決するのは不可能だった。……おい、蜘蛛煩いぞ。


「……分かった。任せて」


 環の心中に何が渦巻いていたのかは分からない。ただ俺の呼び掛けに一瞬だけ息を呑んで沈黙する。そして深く頷き、差し出された腕から短刀を受け取る。覚悟を決めたように此方を見つめ返す。互いに、相手を見つめる。


「………環様。この空気の中で雰囲気ぶち壊して悪いとは思いますが、隠した方が良いですよ?」

「え?ひゃあっ……!?」


 俺の指摘に今更ながら己の出で立ちを思い出した環が悲鳴を上げた。


 正直、見えてはいないがかなりギリギリだった。先程までの緊張した空気は霧散して、環は顔を真っ赤にして慌てて胸元を隠す。布地の残りを結んでどうにかして体面を整えようとする。此方を涙目で、恨めしそうに見上げる。それでも短刀を離さないのは立派な覚悟というべきなのだろうか……?


「ううぅ……伴部くん!!空気読んでよ!?」

「……気付かずに、敵に後から指摘されて隙が出来たりしたら困りますので」


 目を逸らして、無感情を装って俺は弁明する。何だったら何処ぞのヒロインの従妹様の死因の一つである。実際、洒落にならなかった。主人公様がそんな下らぬ理由で死なれたら本当に困るのだ。


『何時まで時間を無駄遣いしてるのかの?』

「いや、これは……はい。確かに。では」


 其処に投げ掛けられる蜂鳥からの指摘。事実なので俺はそれを渋々肯定する。同時に誤魔化すようにして腕を振るった。此方が会話をしていた隙に差し向けられた雑魚妖怪を幾匹か八つ裂きにしてやる。道を作る。逃げ去る火鉢に向かう、道を。


「まぁ、これにて勘弁を。……では!!」

『( ^ω^)ホナサイナラ!!』

「あ、伴部くん……」


 そうして俺は半ば逃げるようにしてその場を跳躍した。宙高く飛び上がる。足のみを重点的に妖化しての所業だった。その場を去る直前、環が何かを言おうとしたのが聞こえたが、その文末の最後は風と共に置き去りにされてしまう。


 尤も、御人好しの彼女の言いそうな言葉は予想が出来たが。そして俺は彼女の願う望みを成し遂げるつもりだった。ここで死んでやるつもりは毛頭なかった。


「……という訳だ。さっさと死に晒せ!!」


 直後、俺は眼前に現れた顔面が半分潰れた禍々しい形相の鼬妖怪と爪で以て斬り結んだ。


 激しい金切音が、延々と鳴り響き続けた……。







ーーーーーーーーーーーーーーーー

「伴部くん……」


 あっという間に視界の遥か向こうにまで消えてしまった恩人の名前を呟く環。彼女の最後の呼び掛けは聴こえたのであろうか?聴こえて欲しいと思う。そして通じて欲しいと思う。特に、彼から聞かされたあの話の顛末を思えば尚更……。


『娘子よ』

「……分かってる。行こう、蜂鳥さん。熊さんも!!」


 蜂鳥の式の呼び掛けに環は力強く返す。どうにか切り裂かれた装束を結んで整えると、そのまま下人とは反対方向に向けて全力で駆け出す。


『……蜂鳥さん、か。やれやれ、呆れたものだな』


 その後ろ姿を一瞥して心底呆れ返る蜂鳥の使役者。普通に考えれば己の存在が何者なのか、疑念を抱き、訝しんでも良いものなのだが。あの男が困ったように誤魔化すのを、一切の不安も無さそうに素直に信じ、あまつさえこうして背中まで見せている……己の孫娘とは正反対といっていいその姿は一周回って困惑してしまう程だ。


『まぁ、その方が話が円滑に進むというものか。……ほれ、あやつが面倒を見ろと言ったのじゃ。先導してやれ』

『グルルルル!!』


 翁の命にガッテン承知!!とばかりに咆哮する熊妖怪であった。そしてその突き出た角を構えて全力疾走する。


「えっ……?」


 あっという間に霊力で脚力を強化していた環を追い抜いた熊。そのまま火鉢を追い掛ける環を遮らんとする妖共に向けて角を立てたままに突進する。鬼熊の前に吹き飛ばされて、貫かれて、踏み潰されていく。両の腕が大怪我していても尚、その筋肉と脂肪の詰まった巨体そのものが凶器だったのだ。雑魚妖怪共ではどうにもならない。


 とは言え、そんなものは『迷い家』の本体からすればどうでも良かったかも知れない。既に火鉢は眷属共によって迷宮の一角に鎮座する扉に向かっている。広大な空間を作り上げる己の権能それ自体を使って逃げるつもりらしかった。さしも鬼熊でも距離的に火鉢が扉の向こう側に辿り着く前に追い付くのは難しそうだ。


「くっ……間に合わない!?」

『慌てるでない。……こんな事もあろうかとな』


 逃げられる!そう考えて苦虫を噛んで必死に駆ける環。しかし翁はそれに対して全く余裕綽々と嘯く。そして、発動させる。隠し玉の機能を。


『「制約解放・序」。行け、扉をやるのじゃ』

『グオオオオオオオッ!!』


 蜂鳥の口上と共に鬼熊は唸る。そしてその唯でさえ巨大な身体を一回り膨れさせる。自身の妖力を膨張させる。式となった時点で封じられていた自身の妖気を部分的に解放する。全身に力が満ち溢れる熊妖怪は不敵に嗤う。


 そして、角が音を立てて回転する。


「へっ?」

『グオッ!?』


 思わぬ出来事に環が思わず間抜けな声を漏らした。付け加えれば何故か熊も同じく目を丸くして驚いていた。そして……。


『グオオオオオオオッ!!??』


 直後、何処からとは言わぬが翁の仕込んだ可燃燃料が勢い良く火炎と共に噴き出した。勢い良く粉塵を上げて、音を置き去りにしてそのまま突貫させられる恐慌状態の熊妖怪。というかいつの間にか逃げる火鉢共すら抜いていた。そして……回転する角で以て涙目になっている顔面から突っ込んだ。


『グァウン!!?』


 悲鳴と共に扉を粉砕した。豪快に。突き壊してそのまま背後の土壁までぶち抜く。『(;^o^)ツノドリル!イチゲキヒッサツネ!!』とかいう謎の戯言が響いたような気がするが気にしてはいけない。大事なのは逃げようとする火鉢の逃亡経路を潰した事だ。


「……いや、気にするよ!?待って!?今の何!!?」

『奴の真の力を解放しただけじゃ。驚く事ではないて』

「いや、驚くよ!?というか自前の力じゃないよね?本人も驚いてたよね!?あれ絶対泣いてたよね!?」


 というかあの加速方法は何だ?酷い、酷くない?思わず環はシリアスの全てをぶち壊して叫ぶ。幾ら改造妖とは言えあんまりだ。幾ら妖でもここまでされる謂れはない。多分。


『博愛精神があるのは良い事じゃの。しかしそれはそうとして今はやるべき事をやる事じゃ。ほれ、あやつめ今度は迷宮の中に逃げようとしておるわ』


 扉を破壊された事に、あるいはその手段に流石に唖然としたのだろう。暫し沈黙していた火鉢と眷属共はそれでもやっと思い出したように進路を変更する。今すぐ他の部屋に向かえない以上は無限に続き入り組む迷路に入って逃げようと図る。


「っ!!?そうだ、逃がすか……!!」


 環もその事を思い出すと緊張を取り戻して追跡を再開しようとして……背後の気配に反応する。咄嗟に怪我をしていない方の手で短刀を振るう。


 金切音と共に刃が弾かれる。若干仰け反る。前を見る。焦燥し、苦し気に表情を歪ませる環。それは貫かれた掌の傷が痛むだけではなかった。


「獅子舞さん……!!」


 半分獣に近い出で立ちの獅子舞麻美に向けて、環は短刀を再度振るった。幾度も鳴り響く短刀と爪による剣戟の調べ……。


『グッ!?信じられない、この短期間でどんだけ成長しているのよ……!!?』

「獅子舞さん、お願い退いて!!僕の邪魔をしないで……!!」


 環と三度目の戦いに際して以前よりも遥かに手練れとなっている事に絶句するように叫ぶ獅子舞。対して環は苦し気にそれを求める。懇願する。


『ふざ、けるな!!此方には此方の都合があるのよ!!こんな所で、死ねないのよ……!!』


 同時に獅子舞は環の要求に反発するように攻勢を強める。強めるが……それでも攻めきれない。環は動揺しつつも明らかに最善の身のこなしで獅子舞の攻勢を凌ぐ。それは一秒経るごとに一層洗練されていく。その事実を相対する獅子舞でも理解する事が出来ただろう。


『グッ!?』


 それどころか、繰り出される反撃は獅子舞からしても危機感を抱かせるに十分だった。半妖化した肉体で以てしても膠着する状況。その均衡の天秤は、しかも刻一刻と環に向けてゆっくりと、しかし着実に傾いて行く。生まれ持った才能の差を思い知らされる。


『グッ!?』


 遂には獅子舞は手傷を負う。顔を歪める半獅子。しかし環のそれは一層酷い。顔を青ざめさせて、泣きそうな顔になる。尤も、その態度の前に、却って精神が逆撫でされるように苛立ちの表情を浮かべる獅子舞。


『馬鹿にして……!!そんな覚悟で退魔士になるなんて生意気なのよっ!!』


 爪を振るって獅子舞は叫ぶ。まるで環の一挙一動全てが気に入らないとでも言うように。いや、事実獅子舞麻美にとっては環の在り方は許せるものではなかった。


『本当、贅沢な女よねえっ!!』

「獅子舞さん!!」

『黙れ!!』


 呼び掛けに対する怒声。そして更に切り結びは続く。そして鍔迫り合う。互いに至近で相手の目を見る。片方は苛立ちと憎しみに彩られ、もう片方は悲しみに満ちた眼差しで……。


『ぐうぅぅ!!どうして攻めきれない!?』

「やめてよ!?もう止めてよ獅子舞さん!!全て無意味なんだ!!貴女は、貴女は……!!」


 涙目となって環は叫ぶ。呼び掛ける。己の恩人の名前を、そしてその先を叫ぼうとして、口ごもる。


『何よ。何が言いたいのよ……?』


 その尋常ならざる様子に、獅子舞は困惑する。身体は未だに戦闘態勢のままであったがその精神は動揺していた。そして同時に第六感が警告する。環の言わんとする事が己の根幹に関わる重大な内容なのだと言う事に。


『っ……!!?だから何!?そんな事、知ったこっちゃ無いのよ……!!!!』


 疑念、疑惑、困惑、それらを無理矢理振り払って獅子舞は叫ぶ。そして切る。己の切り札を。


『ヴオ゙オ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ッ゙!!!!』


 装束が引き裂ける。咆哮が響く。一瞬後に環と相対するのは少女ではなくて、半人半獣ですらなくて、文字通りに完全な獣であった。獅子の獣。妖獣。獅子。周囲に向けて放電する獅子の怪物。剥き出しになる獅子舞麻美の妖としての因子。


 妖化による強化により均衡が再び崩れる。拮抗していた鍔迫り合いは一気に獅子舞に優位へと傾いた。次第に押し込まれる環……しかしそんな事は環にとっては構わない。環は獅子舞に向けて叫ぶ。


「だから、もう意味が無いんだよ獅子舞さん!!忘れてしまったの!?記憶が無いの!?思い出して!!貴女は……」


 其処で一瞬言い淀む環。しかし決心して、悲痛な感情で彼女は叫ぶ。


「獅子舞さん、全部無駄なんだ!!だって貴女は……貴女は、もう死んでしまっているんだよ!?」


 そして、環は叫んだ。それを、その事実を。下人と牡丹より伝えられたその真実を。


『……ハ?』


 環の思わぬ指摘に、獅子舞麻美は茫然とした態度で硬直した。困惑した。動揺した。狼狽えた。しかし直ぐに環を睨み付ける。


『フザケタコトヲ言ウナ!!私ハ瀕死ノ所ヲ契約シテ生キナガラエタノヨ!!コノ迷宮デ千年!!働キ続ケタラ外ニ出ラレルンダッテネ!!』


 そう、それは契約だった。最低の恥知らずの契約。人界を裏切る所業。何処までも足下を見られたふざけた条件。それでも……それでも眼前の死からは離れられる。生きていける。生きたいと願うのは当たり前だろう?全てを失うのに比べればどんな悲惨な境遇だってずっとマシだ。唯一命を懸けるに値すると考えていた彼とも、あいつとももう会えない。ならば自分の命を惜しむ事の何がいけない!!?


「ちゃんと思い出して!!これまでの記憶を、思い返してよ!!貴女の胸の内に触れて、御願い……!!」

『煩イ!!戯言デ惑ワソウナンテ小癪ナ真似ハ……』


 必死の形相で叫ぶ環の行為を心理戦の一つとして切って捨てようとする獅子。けれども、短い付き合いでも嫌な程に分かる環の性格を振り返るとそんな事はあり得ない事が分かってしまう。一度分かってしまうと、不安と疑念は一気に溢れ出していき……。


『グッ……ウッ?』


 そうして、獅子舞麻美は今頃になってその違和感を自覚した。


 思えば、もう自分は長い間自身の胸の鼓動を感じた事が無かった。それこそ、数多くの侵入者と相対して来たのに。息を荒げた事はあるのに。どういう訳か心の臓の激しい躍動を実感した覚えが無かったのだ。


『エ……?』


 そう言えば、激しい戦いの後に身体が火照る事もなかった。それどころかどうだ?己の身体に触れて見れば恐ろしい程に冷たかった。まるで死人みたいに。


『……』


 何時しか、鍔迫り合いをする力は抜けていた。獅子は人の姿に還っていた。少女は眼前の環を見つめる。環は己の口元をきつく締めて、悲壮な表情で頷く。獅子舞麻美は変化によって裂けてしまった装束の上より、己が胸に触れて見た。恐る恐ると触れて見た。


 衣装の下にある、心臓を貫いた風穴が其処にはあった。


「あ……」


 悔しさと悲しさに顔を俯かせる環。そして獅子舞麻美は思い出した。あの一幕を。


 己に割り当てられた部屋。侵入者は最後の一人にならなければ出られぬその悪辣な部屋で、獅子舞麻美は契約に従い門番として、死体処理役として酷使され続ける……。


「あ、ああ……」

 

 何回、何十回、己の役目を果たしたのだろう?その終わりは突如やって来た。無数の多種多様で雑多な妖や獣、人間達の中で最後まで生き残ったのは二人。懐かしさすら感じる専門の黒衣からその出自は直ぐに知れた。下人だ。


「あああ……!」


 最後の二人となっても何時まで経っても殺し合いをしないので、己の出番が来た。警告して、それから襲いかかる。強制的に生き残りを一人にするために。


「あああああっ!!?」


 そして生意気にも己に戦いを挑んだ片方と相討った。唖然、愕然、驚愕。卑劣な罠で心臓を貫かれて、せめて道連れにしてやろうと頭から斜め様に身体を切り捨ててやった。


 切り裂かれた翁面が外れる。血を吐きながら、その忌々しい面を見てやろうとして、獅子舞麻美は絶望に目を見開いた。


「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙っ!!!??」


 生前の彼女が最期に見たのは命果てる彼の骸に駆け寄り抱き着き、己にあらん限りに呪詛を吐く女下人の姿だった……。



 

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