第一〇二話

「おねがいします、おとうさま」


 仄暗い部屋の中、黒髪の少女は頭を下げる。いや、行為はそんなものではない。土下座そのものであった。


 正面の上座に君臨する男は、父はそんな彼女を同じ紅い眼光で睥睨する。無言で、睥睨する。


「おとうさま、おねがいします……!」


 少女は、今一度嘆願する。震える声音で願い出る。それは心からの願いであった。懇願だった。


 全ては彼女の我儘からのものだったのだ。無思慮に彼に要求したのだ。目先の事すら考えずに感情の赴くままに駄々を捏ねたのだ。泣きじゃくって罵倒までして、彼にそれを強いたのだ。


 その末路がこれだった。夢のような時間は長くは続かなかった。所詮は子供の浅知恵で、けれども浅知恵というには彼が必死に考えた計画は狡猾で聡明で、だからこそ大人達にとっては彼の行いは唯の悪戯では済まされなかったのだろう。


 引き立てられて、切り傷や裂傷で血塗れの衣服のずたぼろの襤褸雑巾のような姿が少女にとっての彼の最後の光景だった。


 謹慎を言い渡されて以来三日三晩に渡って号泣して、食事どころか水すらも拒絶したのはこのためだった。逃亡中に、少しずつ追い詰められる中で草藪に一緒に隠れていた最中、彼が冗談で言った話を彼女は覚えていた。


『いざとなったら姫様が御当主様に嘆願して下さいよ。謹慎の時に断食でもしてやったらあの方の事です。きっと根負けして会ってくれますよ』


 本当に冗談だったのだと思う。けれど彼よりもずっと馬鹿な自分にはそれ以外に手なんて思いつかなくて、せめて彼を助けたくて、彼女はそうした。そして彼の慧眼は正しかった。こうして父と面会を許されたのだから。


「……おとうさま?」

「ならぬ」


 どれだけの間嘆願した事だろう、ひたすら無言を貫く父を訝しんだ少女は思わず顔を上げて父を呼ぶ。即座に返ったのは拒絶の言葉だった。


「そんな……!?」

「大恩に浴しながら鬼月の姫をたぶらかし、一族を謀った下郎の所業赦し難し暴挙!!」

「ひっ!?」


 パシン、と手元に持つ扇子を叩き鳴らし宣言する父、その音と気迫に思わず雛は身を縮めて怖じ気づく。それは田舎の村に住んでいた頃の優しくて甘い父ではなかった。あの頃を思うと想像すら出来ぬ光景だった。この屋敷に移り住んでから交流がめっきり減ってしまったが、その間に父は変わってしまったのだろうか?そんな事をつい雛は思う。


「よってその罪、死罪が相応しい。皆、相違ないな?」


 尤も、流石に父が彼の死を宣告する事までは、まだまだ幼い雛には想定外の現実であったが。


「左様!あのような小僧、即刻処断すべきぞ!」

「その前に徹底的に見せしめに拷問するべきだな。二度とこのような真似をする者が出てはならぬ」

「処断は鋸引きか?それとも火炙りかの?下等な妖共に生け食いさせるという手もあるの。何にせよ出来るだけ無残に殺さねばならんわい」

「待て待て。あのような緻密な計画、一介の子供に出来る訳もない。廃人にしても良い、裏で糸を引いている者共の記憶を引き摺り出すべきだ!!」

「そうだ、我が一族を壊乱せんとする者がおる。その者を炙り出さねばな……!」


 父の宣言に続くように左右に控える大人達がわいのわいのと叫ぶ。その怒声、その内容に雛は震え上がる。何はともあれ退魔士としてかなりの温室で育っていた幼い彼女にとって大人達が口にする内容は余りにも常軌を逸しているように思われたのだ。


 故に、雛は叫ぶ大人達の主張の後半が耳に入る事はなかった。長老衆らの幾人かが、出席者の一人に警戒の視線を向けた事実にも……しかし、雛がその事に気付く前に事態は進み続ける。当主が口を開く。


「……宇右衛門、御主はどう思う?」


 父のその詰問に、左右に陣取る影の一人が僅かに震える。その大柄な影に視線を向けて、雛はそれが叔父である事を漸く理解する。同時に雛は期待する。叔父が彼を弁護してくれる事を。叔父が彼の事を何だかんだ言いつつも可愛がってくれている事を知っていたから。


「……御当主の仰る通り。極刑が妥当でしょうな」

「そんなっ!?」


 幼い雛の希望は無惨に打ち砕かれる。どうして?何で?彼が殺されても良いの?雛には叔父が彼を見捨てた理由が分からなかった。思わず視線を叔父に向ける。叔父は何も言わなかった。唯無言で視線を逸らす。


 裏切られた、それが雛の心中に溢れた思いであった。最早彼の味方は己だけだと理解した彼女は恥も外聞も全て打ち捨てて叫ぶ。


「おねがいします!やめてください!わたしが、わたしがいったんです!わたしがていあんしたんです!!ばつならわたしがうけるから!だから、だから◼️◼️は、◼️◼️わぁっ……!!」

「黙りなさい」

「っ!?」


 少女の慟哭は最後まで紡がれる事はなかった。父の言霊が娘の声音を奪う。必死に叫ぼうとして、しかし喉がそれに従う事はない。枯れたような吐息だけが漏れる。その事に雛は眼を更に涙で濡らす。


 いや、まだ出来る事は残っている。雛は咄嗟に立ち上がる。どよめく大人達。


「何をっ……!?」


 長老衆の一人が言い終える前に雛はそれを実行した。部屋の大黒柱に突貫して己の頭を打ち据える。激痛が小さな頭蓋に響いた。ジンと額が熱くなる。悲鳴が上がる。


「止めよ!?貴様、正気かっ……!?」


 長老衆が叫ぶのと二度目の衝撃音が鳴り響くのは同時だった。血が、床に飛び散った。


「止めさせろ!!」


 三度目の音が響く前に雛は拘束される。大人達の手が雛の身体を取り押さえる。もがく雛。暴れる雛。誰かの腕に噛み付く。怒声と共に頬が叩かれる。


「鎮まれ!!」


 怒気を帯びた当主の宣言によって、場は再び沈黙する。雛も含めた全員が怯んだようにして当主に視線を向ける。直後に幾人かは彼の有する異能を思い出して向けた視線を逸らした。


「……皆の者、退席せよ。私が直に説得しよう」


 当主の命に、幾人かが反論しようとしてしかし、鋭い赤い瞳孔に睨まれると萎縮したように黙りこむ。渋々として場の出席者達は退出する。


 広い部屋に残るのは上座の父と、床に倒れる涙目の少女だけであった。そして上座の父は立ち上がるとゆっくりと娘の元へと向かう。


「あ゙っ゙……がぁ!!」


 言霊術で声を出せず、しかし必死に父に訴えようとする雛。そんな雛を、父は優しく抱き抱く。


「大丈夫か?異能を自由に使えぬのに無茶をしてくれる」


 優しげな声音だった。心からの思い遣りに満ち溢れた表情であった。己の必死の行動が通じたのだろうか、雛は幼心にそんな希望にすがる。母親に良く似た顔で、父を恐る恐ると見上げる。


「よもや、あやつが此処までお前を良いように誑かしていたとは。お前に迫る狡猾な魔の手に気付いてやれなかった私を許しておくれ」


 叩かれて赤く腫れた頬を撫でながら、父は心からの善意を以て絶望の言の葉を雛に突きつけた。


 違う!……叫ぶ事は出来なかった。そして暴れる事すらも。直後には雛は父の瞳の魔力に囚われていたから。頭の中が捩れる。歪む。締め付けられる。脳味噌を掻き乱される感覚、吐き気がする。吐いた。嘔吐する。抱き締める父の着物を汚す。何かが、何かが彼女の内に這い寄る。認識が、塗り潰される。


「安心しておくれ。あの男の処分は私が責任を持とう。丁度、もう一人面倒な邪魔者もいる事であるしな。あれにはお前を騙して貶めた罰を与えよう。永く永く、時をかけて、苦しめ抜いて、その薄汚い命を以てして……」


 嫌だ、止めて、彼を虐めないで、そんな思いを訴える余裕は失われていた。父の掛けた呪いによって雛の意識は遠くなる。目眩がして、視界がぼやける。


「だから雛よ。彼女の生き写しのような我が最愛の娘よ。安心して眠るが良い。心の底から愛しているよ、誰よりも。何を犠牲にしてでも」


 父は娘を慈しむ。倒れ伏す娘を愛でる。愛で溺れた言の葉で以て、呪う。


「お前は私のものなのだから……」


 気を失う刹那、雛は父の何処までも親愛の籠った言葉を聞いた。そして思ったのだ。それが愛の形であるのならば、それが真に愛の形であるのならば、ならば、ならば…………。




 









ーーーーーーーーーーーーーー

 以前にも多少触れた通り、『迷い家』とは擬態する妖である。


 前世の元ネタで言えば東北の伝承、山奥等に現れる神出鬼没、夢か現かも知れぬ豪華絢爛な御屋敷である訳であるが……この世界においてはそれは獲物を釣り上げるための仮初めの姿、罠に過ぎない。


 原作制作陣曰く、野生の『迷い家』とは植物系……食虫植物に近い存在であるという。何も知らず招かれた人間は先ずは幻惑に惑わされて知らず知らずにその内で養分を吸い取られて朽ち果てる。


 そして仮に途中でその幻惑を見破っても『迷い家』の内は空間が極度に歪んでいる。異界化した、下手すれば物理法則すら狂っているような場所すらもある広大にして複雑怪奇な迷宮と言うべき妖の腹の中、無数の罠が仕込まれて、無数の魑魅魍魎が徘徊する其処から抜け出すどころか生存し続ける事すらも容易ではない。……少なくとも事前知識がなければ。制作陣曰く、権能設定元ネタの一つはバックな部屋のクリーピーパスタなんだとか。おう、悪意の塊かな?


 ……何はともあれ、そんな『迷い家』相手に堂々と真っ正面の門を潜って内に入り込もう等というのは正に自殺行為に他ならなかった。


『迷い家』の討伐法は既に確立している。内容は単純にして明快、「屋敷の外から火力を以て一気に殲滅せよ」だ。


 当然と言えば当然だろう。『迷い家』のその立派な御屋敷は外付けの擬態、外装に過ぎない。大事なのは核である。それが『迷い家』の本体であり、それさえ破壊してしまえば『迷い家』は死に絶える。そして『迷い家』の内に入るのが自殺行為であるのならば、残る選択肢は外側からの大火力で核を外装ごと噴き飛ばす位のものだった。


 ではそうすれば良いではないか、何故態態『禁地』なぞに指定して放置しているのだ……そんな意見もあるだろう。無論、其処には理由がある。


『迷い家』は植物に近い妖だ。そして、植物の中には時として理解し難い程の成長を遂げるものもある。


 第三等禁地・宝落山の麓に鎮座する『迷い家』は異常な規模に成長したものと知られていた。推定年齢は二千年を超える。中級規模の霊脈の上で発芽したためであろうか?上空から見た場合、内裏に匹敵する規模の敷地に家は広がっていた。宮殿と呼んでも良い。外側から見るとそれは豪華絢爛、贅の限りを尽くした華やかな御殿に見える。


 この規模になると一撃で『迷い家』を、その中枢に鎮座する核に届くまで噴き飛ばすのは容易ではなかった。腐っても凶妖、木材と石材で出来ているように見える屋敷はしかしその耐久性は明らかにそれを逸脱している。周囲に立ち込める濃厚な、しかし隠匿された妖気は一流退魔士の一撃に乗せられた霊気を瞬く間に中和して霧散させる。


 無論、相応の実力を有する退魔士を多数用意して大技の波状攻撃を叩き込み続ければ最終的にこの『迷い家』を完全に葬り去る事も可能であろう。理論上は可能でも実現性では低いが。


 退魔士も暇ではない。手練れを多数集める等と言っても扶桑国各所の守護の任がある事を思えば彼らが一時的に抜けた事による影響は無視出来ない。それどころか『迷い家』討伐のために戦力を集めたら立ち込める霊気で却って有象無象の妖共を呼び寄せかねない。


 幸い、『迷い家』自体は基本的に受動的な存在だ。少しずつ成長してその領域を拡大させているがそれは人の時間感覚で言えば長大な規模での事だ。百年二百年程度ならば大した事ではない。寧ろ伸び代で言えば婚姻を通じた退魔士らの血統の濃縮と強化の速度の方が上だ。


 それらの要因が複合し、結果的にその存在が発見されて以来七百年、一度は本格的な討伐が計画されたもののそれも直後に生じた『人妖大乱』によって流れた。以降、朝廷はこの地を禁地と指定して幾度かの調査と威力偵察こそ行っても基本方針としては『戦力・予算の目処が付き次第討伐予定、現状保留』と言うある種事勿れ主義的な態度に終始していた。


 原作たる『闇夜の蛍』においてはゲームシナリオ上、都上洛ルートではなく鬼月谷滞在ルートを選択すればこの『宝落山の迷い家』と相対出来る。あるいは同じく鬼月谷滞在ルートを描いたノベル版でも登場する。各地で増加する妖関連の事件の増加に対して、鬼月家を筆頭とした北土退魔士一同の、朝廷に対するポーズとしての討伐である。


「何もなく終われば問題はないが……」


 胡座を掻いた姿勢で項垂れた俺は、小さく呟いた。原作ゲーム版では中に入った瞬間に事実上の詰み、ノベル版では生還はするものの盛大に主人公を曇らせてくれた『宝落山の迷い家』であるが、逆に言えば内に入りさえしなければ此度課せられた任務は容易この上ないものであった。事実、ゲーム版では正しい選択肢を選べば呆気なく終わるイベントだ。


 ……問題は、これ迄の経験則から言って必ずしも平穏無事に終わるとは確信出来ぬ事であるが。


「悪いが、それは出来ねぇ相談でな。ほれ、四光で六〇点だ」

「はぁ!?ちょっ、待っ……嘘でしょ!?」


 でいつの間にか揃えられていた役を叩きつける呪具衆弁職に、俺は絶句して立ち上がる。立ち上がって卓上の役に唖然とする。えっ、嘘。いつの間にか揃ってたの!?こんなギリギリのギリギリで!?


「さて、集計に入りますか。……とは言え、結果は言うまでもねぇな。次の親は俺様だな」


 俺と、今一人の獲得点数を算盤で計算しながら久賀猿次郎が次の遊戯の準備を始める。


「流石にこれは厳しいですね……よもやここまでやるとは」

「糞、確実にイカサマの癖に、種が分からねぇ……」


 葉山改め、鬼月黒羽が苦笑いを浮かべて、俺は忌々しげに吐き捨てる。尤も、イカサマを仕掛けているのは俺達全員であったが。


 呪具師衆弁職の職場で、賭博的な花合わせに興じている俺ら三人であった。尤も、表面上は都への上洛や諸々の予定に際する打ち合わせ、という名目で集っている訳だが……この有り様では苦しい言い訳であろう。


「おいおい、酒が無いぞ?ほれ、寄越せ」

「流石に飲み過ぎじゃないでしょうか。……はいはい、分かりましたよ」


 盃を向けられた俺は渋々と酒瓶から甘酒を注ぎ込む。因みにこれは正月に橘商会から贈呈された年始めの祝い品の内の下人衆分、更にその内からの允職分の品である。


「大丈夫ですか?この後また仕事でしょう?事故でも起こしませんか?」

「心配してくれんなよ、羽山の坊主。なぁに、この程度でヘマをやらかす程に下手な腕はしてねぇさな」

「けど、前に酔って金槌で指やってませんでしたかね?」

「五月蝿いぞ、允職」


 黒羽の心配を飄々と受け流す猿次郎は、しかし俺の指摘に口を尖らせて盃を呷る。この昔馴染みの職人は腕は悪くないが、やはり頑固でお調子者であった。


「それはそうと、羽山の坊主よ。そちらは準備はどうだね?」

「どう、と言いましても……自分では何が良いのやら。殆ど綾香達が拵えてしまってる状況でして」


 札を配りながらの猿次郎の問いかけに、黒羽は苦笑しながら答える。


 一度取り潰された羽山鬼月家の再興を、当主は予想に反してすんなりと受け入れた。退魔士家としてではなくて唯の地主、郷主としての再興であったのが理由であろうか?黒羽が隠行衆を抜ける事、鬼月家本家の屋敷から出る事も要因かも知れない。


 小村四つ、人口は合わせても五百にも満たない鬼月家全体から見たら猫の額のような所領ではあるが、それでも郷主は郷主である。屋敷は以前のものを使い回すとして、家具調度、それに衣装等を用意せねばならなかった。余りに貧相では黒羽の年も合わさって村人らになめられかねない。しかしながら、黒羽の手元に金は無い訳で……。


 御意見番が資金面で、調達面で綾香が其処に助太刀した。特に綾香は積極的で、足りない分は自身の資産も使って黒羽の支度を整え始めた程だ。


 総計すれば恐らく百両以上の資金を注ぎ込んでいるように見えた。この前なぞ綾香や桔梗に着せ替え人形にされている黒羽の姿を見掛けた。どの衣装も値が張るのは明らかな代物であった。


「金も物も出して貰っている立場で偉そうな事は言えませんが……流石に着せ替えで半日潰れるのは疲れましたね」


 恐らくは俺が目撃した光景の事だろう、黒羽は力なく笑う。


「けっ、贅沢な事言ってくれるぜ。俺らからすりゃあどんだけ小さかろうが一国一城の主様だ。地元じゃあお殿様だぜ?雇われの身からすれば羨ましい事羨ましい事……なぁ、允職よぅ?」

「御上の目を気にせずに済むからと羽目を外し過ぎないで下さいよ?不摂生は身体に毒ですからね」

「止めて下さいよ、御二人共……!!」


 俺と猿次郎がからかうように冗談を飛ばせば、しかし黒羽は困り果てる。相変わらず生真面目な小僧であった。


「拗ねるな拗ねるな。全く素直な奴だなぁ。お前さんはよ?俺らのような下市民の言葉なんざ一々気にするもんじゃねぇぞ?」

「下市民だなんて……御二人を相手にそんな事思えませんよ」


 俯きながらの黒羽の言葉は、決して大きな声ではなかったが、しかし確かに深い意志に満ちていた。


「……」


 俺も猿次郎も、そんな黒羽の姿に思わず無言になり、そして互いに顔を見合わせる。何ともやりにくかった。

 

 俺が下人堕ちする以前、更に言えば雛の退魔の才が発覚せず唯の小娘に近い立場であった頃は


 本家の庶子に分家の妾腹、口ばかり上手い雑人の餓鬼、呪具師衆見習いの悪餓鬼……周囲から見れば中々お似合いの集まりだった事だろう。雛と猿次郎がやんちゃに騒ぎを起こして、俺が彼方此方でそれを誤魔化し、自己主張の少ない黒羽はその後を仔犬のようにして付ていく……大昔の話である。


 あの頃とは全てが変わってしまった。人は何時までも子供に留まる事は出来ない。人は変わって行くものだ。良くも悪くも。


「ははは。……ここで雛の奴がいれば完璧なんだがなぁ。折角昔の馴染み募ってもどうもしっくりしねぇな」

「雛様も、流石にもう大人ですよ。こんな馬鹿の集まりに参加はしないでしょうよ」


 盃を口に含んでぼやく猿次郎に、俺は淡々と指摘する。性差なぞ気にせず馬鹿騒ぎしていた餓鬼の頃はいざ知らず、今の彼女は凛々しくも勇ましい名門鬼月の淑女だ。自己を律した正道であり王道を進む歳上系ヒロイン様だ。黒羽ならば兎も角、少々下世話な猿次郎や卑しい立場の俺では彼女と親しげに付き合うなぞ身の程知らずと言うべきだった。


「おいおい、酷い言い様だなぁ。別に雛の奴がここに加わっても俺はあいつの下着の色を聞くだけだぜ?」

「首飛ばされたいんですかね?」


 ヤンデレサイコな親父殿が聞いていたらその程度で済むかも怪しい。拷問の後に鋸引きかも知れない。こいつ、良く原作だと生きてたな。……あるいは原作では其ほど付き合いが薄かったのか?


「ははは、雛様も随分立派になられましたからね……」


 黒羽は小さく笑うと複雑な表情を見せる。黒羽は昔の騒動以来、それこそ鬼月の一族に復帰してからも雛と腹を割って話を出来ていないらしかった。


「まだ蟠りがあるのか?俺も刀の鍛錬で多少の会話はするがね。あの騒動の後に何度かそれとなくお前さんの弁護はしてやったが……」


 猿次郎の言葉が最後の方で淀むのは致し方ない事であった。あの騒ぎ以来、雛の立場は大きく変わった。俺や黒羽と違って立場が変わらなかった猿次郎だが、それでも雛と気軽には会えなくなっただろう。強制的に疎遠にされた筈だ。時偶に顔を会わせる事があっても込み入った話は出来なかったのだろう。


「いえ、良いんですよ。彼女に恨まれるのは仕方無い事です。……それこそ、癇気に触れて焼き殺されても仕方無い」

「まさか。雛様に限ってそんな事……其処まで落ち込む事は無いだろう?雛様の事、きっと許してくれる筈ですよ」

「………」


 黒羽は無言で俺を見る。何か思う所があるような視線だった。猿次郎が俺と黒羽を交互に見やる。うん?なんだ、これは……?


「……止めだ止めだ、辛気臭い話は止めだ。折角集まったのに空気が暗くなるだろうが!ほれ、次の試合だ。始めようぜ?允職、その甘酒の残りはどれくらいだ?」

「後二、三杯分って所ですかね?」


 とは言え、俺や黒羽は数杯しか飲んでいない。殆どは猿次郎の腹の中に消えた。昼間なので度数が低く甘味の強い甘酒を土産として持って来たのだが……これでは同じ事だな。


「丁度良い。次の試合、点数がドン尻の奴が次の酒用意するぞ。因みに俺の手持ちは安酒しかねえ!」

「自分はそもそも自室には……」

「羽山の坊主、安心しろ。其処の允職はたんまり溜め込んでるぜ?何たって豪商の娘さんに上手く媚び売ったぽいからな。自室の蔵には舶来品の高級酒がわんさかさ。……協力して潰すぞ」

「二対一に持ち込まれた!?」


 突然の宣戦布告であった。そして容赦なく花合わせの次の遊戯は始まる。元より三者ともイカサマプレイをしている身である。しかも猿次郎にはイカサマの技量では勝てず、挙げ句に二対一で狙い打ちされたら勝敗は決まりきっていた。


 ……まぁ、あれだ。随分と無様な負け方であったと思う。


「そういう訳で、旨いの頼むぜ?」

「畜生!あぁ、糞!分かりましたよ!」


 俺は舌打ちしつつも面を被って呪具師衆弁職の職場を出る。逃亡ではなくて要求品の確保のために。……不本意ではあるが猿次郎には昔から道具面で相当世話になっているのは事実だった。恩義を無下には出来ない。黒羽の前で醜い争いなんざしたくもなかったしな。


「今生の別れにもなりかねねぇものな」


 いつ死ぬとも知れぬ身で、後悔する別れはしたくなかったから……。








ーーーーーーーーー

「気持ちは分かるがな。流石に今のは頂けねぇぜ、坊主」


 旧友でもある允職が部屋を出たのを見送った後、摘まみの漬物をゴリゴリと噛み砕きながら久賀猿次郎は注意する。その指摘に鬼月黒羽は俯いて頷く。


「ですが……御意見番様から話は聞いていましたが、やはり事実なんですね。記憶が操作されているという話は」


 詳しい改竄内容までは分からない。その理由も、しかしこれは……余りにも酷いではないか。余りにも残酷ではないか?その上、よりにもよって本人は自覚すらも出来ていないとは……。


「この事を雛様は……?」

「さてな。少し触れようとしただけでも剣呑な口調で拒絶されるからな。あるいはあいつとはまた違う記憶を捩じ込まれているかも知れんぞ?」

「そんなまさか……当主様が雛様の記憶を操作したと?」


 鬼月幽牲為時、鬼月家現当主の一の姫に対する溺愛ぶりは知られている。今でこそ隠しているのか公明盛大に振る舞っているが、廃人となり果てる以前の依怙贔屓はそれはもう凄まじかった。そして執念深く狂気的であった。そして、だからこそ雛に何かをするなんて事は想像出来なかった。


「……言っておくが、言うなよ?記憶が操作されているかも知れないなんて、下手したら狂うぞ?」


 記憶操作を疑う迄ならば兎も角、実際に操作されていると理解してしまったらどうなるか。人によっては何もかもが信用出来なくなり疑心暗鬼に陥りかねない。それこそこれまでの人間関係すらも疑い始める者だっているだろう。発狂して自殺されたら目も当てられない。


「まぁ、俺達の方が記憶を改竄されているって可能性もあるだろうが……まぁ、流石にそれはねぇだろうなぁ」


 記憶の操作と改竄とて万能ではない。何十人もの人間の洗脳は容易ではない。洗脳出来ても複雑な操作は出来ない。裏付けを取る手段は幾らでもある。その点で猿次郎は己の記憶を大いに信用出来た。


「……それにしても、どうしてまたこんな事を?」


 黒羽は沈痛な面持ちで呟く。罰を与えるだけならば下人堕ちだけでも十分過ぎるだろうに。いや、いっそ極刑でも良い。記憶改竄の上での下人堕ち等という面倒な事を態態するなぞ……。


「止めろ止めろ。余り深入りするもんじゃねぇぞ?特にお前さんは立場的に深入りするもんじゃあねぇ」


 猿次郎は黒羽に警告する。羽山鬼月家のヤラカシはその死によって清算された。しかしながら黒羽への当主とその派閥からの警戒が緩んだとは思えない。寧ろ長年昏睡していた当主が目覚めた事で強化されたと思うべきだ。


「下手して折角手に入れた地位を捨てるこったねぇ。蓮華のお嬢ちゃんも預かるんだろう?」

「はい……」


 河童騒動で壊滅した蓮華家の相続については未だに紛糾している。


 北土の退魔士の血統は複雑だ。あの家もこの家も蓮華家の名と資産を得ようと次の当主候補を立てては会議を続けていて、鬼月家もまた妾腹の桔梗を確保した事でその渦中にあった。


 彼女狙いなのか、幾度か簡易式が鬼月家の屋敷に潜入せんと企てた。巧妙に擬装がされているそれらの中には毒針を備えていたものもある。何処の家が放ったのかは分からない。痕跡は巧妙に消されていた。一つではないのは確かだ。下手すれば御家取り潰しで資産を接収しようと企てる朝廷の可能性すらあった。


 黒羽と共に桔梗もまた羽山の土地に下がる事は内密の話である。女中に擬装しての雲隠れである。御意見番が主導したらしい提案は、恐らくは相続問題の駒に使える桔梗の保護のためでもあるのだろう。陰謀渦巻く鬼月の屋敷は最早安全ではない。外からの刺客だけではない。鬼月の末端や部屋住みは私有する資産は必ずしも多い訳ではない。既に幾人かの者がその血筋と家名目当てに桔梗に言い寄っていた……。


「優先順位を間違うんじゃねぇぞ。あれもこれもと一気に抱えるな。無理して失敗して、悪目立ちしたら面倒だ。……それこそあいつみたいな事になるぞ?」


 雛の事だけじゃない。詳しい話は敢えて聞いていないか下人に堕ちてからも随分と面倒な事になっている事は察せられた。相変わらず、生きるのが下手な小僧だと猿次郎は思う。


「幸い、御意見番様はお味方のようだ。あいつの事を孫みたいに可愛いがってたからな……」


 尤も、あの黒蝶婦がその程度の理由で絆されるというのも考えにくいのだが……あの旧友に道具類の支援が出来ている理由の一つは水面下での彼女の指示も理由であるのだが、その意図を猿次郎は図りかねていた。


(とは言え、踏み込み過ぎたら口止めされかねんしな)


 彼の周囲については、雛の事もあって誰も彼も政争と陰謀の具にしているように思われた。友としては全力で助けてやりたいのが本音であるが、下手に動けば誰の虎の尾を踏むか知れたものではない。誤魔化しが出来る範囲内の手助けで精一杯だった。少なくとも、今はまだ。


 ……そして、其処まで深い事情を眼前の黒羽に教える訳には行かなかった。


「まぁ、そう言う訳だ。……余り心配するな。先方に任せて、お前さんは自分の幸せを追求した方が良い。綾香の奴を心配させてやるなよ?」


 僅かな沈黙の後、黒羽の懸念を解きほぐすために猿次郎はあっけらかんと宣って見せる。そんな呪具師の物言いに黒羽は苦笑いを浮かべる。


「あはは。確かに綾香には幼馴染として迷惑を掛けっぱなしではありますが……」


 いやそうじゃない、と思わず喉から出かかった言葉をどうにかして呑み込む猿次郎であった。下人堕ちした友もそうだが、眼前の青年も中々にこの手の機微に疎い所があるようだった。まぁ、敢えて指摘はしない。痴情の縺れで背中を刺されるのは自己責任だ。其処まで面倒は見ていられない。


「たく、……世の中、割り切りは大事だぜ?お前さんの小さい肩で背負える物は知れてらぁ」


 言い捨てるような猿次郎の言葉は決して無責任故のものではなかった。人生の先達としての助言であった。現実と向き合うための心得……人の背負える物には限りがある。抱え込める物には限りがある。その取り捨て選択を誤るなという忠告であった。


「……分かってはいますよ」


 黒羽は其処まで言って黙りこむ。猿次郎は納得しないだろうが、黒羽だって割り切れない事がある。


 何れだけ忘却しても、罪は消えないから。己が忘れても、相手は忘れないものだから。


 そして恨みに限らず思いというのは時を重ねては膨れ上がり、ふと気が付いた時に利息を揃えて請求されるものなのだ。その支払いからは逃げられない。逃げるべきではない。少なくとも、黒羽にはそのように思えた。


 ……どちらが正しい真理であるのか、知恵に限りのある猿次郎にも断言は出来なかった。


「………中途半端に残ったな」


 無言の黒羽を一瞥した猿次郎は己の盃に甘酒を注ぐと酒瓶の中を覗きこんでぼやく。そして、そのまま酒瓶を黒羽に向ける。


「猿次郎さん?」

「お前さん、殆ど飲んでねぇだろ?さっさと寄越しな。今の内に慣れておかねぇと向こうに行った途端に地元連中に酔わされて知らん女に餓鬼をこさえさせられるぞ?」

「何ですか、それ」


 猿次郎の妙に具体的な脅しに苦笑する黒羽は、しかし小さく微笑むと盃を差し出した。恭しく酌を受け取り、注がれた通常の半分程の量の白濁の液体に口をつける。苦味と甘味の混在した味だった。それに体質の問題だろうか?ちびちび飲んでいても直ぐに酔ってしまう。酒は苦手だと黒羽は思う。


 ……そう言えば父は酒癖が悪かっただろうか?よく思い返せば悪酔いして家族を虐待していたものであった。あるいは己の酒に対する弱さは父に似たのかも知れない。そう思うと少しだけ陰鬱になった。


「……?何をしておられるのですか?」

「ん、少し待ってろ」


 ふと、気が付けば猿次郎が立ち上がって背後の棚を探っていた。酒精が回っているのだろう、顔を少し赤く火照らせた猿次郎は暫し乱雑な棚の中を悪戦苦闘しながらまさぐり……そしてそれを見つける。


「そう言えばお前さんに渡す予定だったんだが…丁度良い、酒の肴にも使えるって思ってな」

「これは……脇差ですか?」


 卓上にどんと載せられたそれは友人の下人の所有する短刀に似ていた。しかしそれよりも長く、装飾は漆と銀箔を基調としたものだった。黒羽は自然とそれを手に持つ。その脇差の緻密な装飾を覗き見る。そして見つける。刻まれたその刻印を。


「烏、ですか?」

「羽山鬼月家の家紋さな」


 鬼月の家紋に更に烏を加えたそれは、曾て隠行衆に強い影響力のあった羽山鬼月家を表すものであった。


「個人的な祝い品だ。言っておくがな、純粋な武具としては允職の奴の手持ちの奴よりも物は良いぞ?」


 そも、あの短刀も猿次郎の打った代物だ。当時の最高傑作だ。それから何年も経ているとなれば今の彼の傑作がそれを超えている事は何ら不思議ではない。


 ……尤も、其処に更に鬼月の二の姫が幾重にも呪いを施しているので両者の比較には余り意味はないが。


「ですが……これも呪いが掛かっています?」

「そいつは俺じゃなくてあいつだな。まぁ、所詮下人の掛けられる物だ。無いよりマシ程度の御守りと思っておけとよ」


 無論、今の黒羽は武家でも退魔士でもなくて唯の地主なのだ。そもそも脇差を使う状況になっている時点で半ば詰みである。本当に御守りのような代物だった。


「……こんな物準備しているなんて聞いてませんでしたよ?」

「けけけ、驚いたか?」

「……はい。とても、有り難く思います」


 猿次郎の問い掛けに黒羽は口元を緩めて答える。自身でも知らぬ内に手にした脇差を抱えるように抱き抱いていた。それは、あの日以来、彼にとって何よりも大切な贈り物だった。


 そして青年は思う。調子良く、都合良く、思う。


 過去の宿業からは、過ちからは逃げられない。いつか取り立てはやって来る。


 それでも……それでもせめて、ツケを払う前にもう一度こんな風に古い友人達と集まれたら良いなと、青年は心の底から思った……。







ーーーーーーーーー

「邪魔するぞ。……って、居るのは毬だけか」


 猿次郎からの要求に応じて、ゴリラ様から宛てがわれた小屋に一時帰宅した俺は室内を見渡して呟く。安物中心の家具や家庭用具か疎らに安置された部屋の中央に座る人影は、此方の声に反応したように首を上げた。



「えっ?あ……と、伴部様、ですか?」

『(* ゚∀゚)モドッテキタ!ヨミノクニカラセンシタチガカエッテキタ!!』


 瞼を閉じたままで此方に顔を向ける少女は何処か唖然とした表情を浮かべる。おい、馬鹿蜘蛛ジ◯リに謝れ。


「お、お早いお帰りですね……も、申し訳御座いません!今、そちらにっ……!?」

「待て待て落ち着け。慌てるな」


 急いで膝立ちで此方に向かおうとするのを、俺は側に寄って止める。


「で、ですが帰宅なされたのでしたら着替えや水桶の用意を……」

「要らんよ。どうせまた出るつもりだ。……どうした、そんなに狼狽して?」


 酒瓶を保管している炊事場の棚(対妖護符して封済み)に向かうのも中止して、俺は尋ねる。尋ねられた毬はと言えば萎縮して、恐縮して、何なら顔を赤らめる。


「い、いえ……皆さんがいない間、一人遊んでいたもので、その……」

『(*´ー`*)ワタシオヒルネシテイタワ!(o≧▽゜)oネタコハソダツノヨ!』


 取り敢えず脳内に響く戯れ言は無視しておいて俺は毬に向けて微笑みかける。


「仕事は終えたんだろう?だったら余った時間は好きにすれば良い。文句はあるまいよ」


 見れば傍らには縫い終えた縫物に畳み終えた洗濯物が折り重なっていた。床を見れば埃一つなくて、恐らく部屋の壁や家具をじっと見つめてもそれは同様であろう。かなり丁寧な仕事をしたに違いない。


「此方こそ、休憩していた所に邪魔したな。用を終えたら直ぐに出るさ」

「邪魔なんて……私も御兄様も此方に住まわせて頂いている身です。お気になされないで下さいませ」


 宥めるような俺の言葉に、しかし毬は寧ろ落ち込むように答える。これは、少しミスったかな?


「悪い悪い。言い方が良くなかったな。別にお前さんが何をしていても気にはしないって言いたくてな。……相変わらず良い仕事をしているよ」


 床をキュキュと指で擦って俺は彼女の仕事の出来を誉める。


「それよりも、そちらこそ一人囲碁なんて……良いのか?退屈しているのなら、今度何か買って来ても良いぞ?」


 俺は彼女の正面に鎮座する安物の碁盤を見て提案する。恐らく一人で遊んでいたのだろう、盤上には白黒の碁石が彼方此方にと散らばるように置かれていた。


「いえ、そんな畏れ多い……こうして一人で碁を打っているだけでも十分楽しめますよ?皆さんの邪魔になりませんし……」

『ヾ(*´∇`)ノパパアソンデー!』


 最後は少しだけ寂しげな声音だった。誰かを巻き込まず、それでいて盲目である以上毬が楽しめる娯楽は限られていた。そうなれば確かに一人で卓上遊戯をしているのは当然の帰結なのかも知れない。白蜘蛛の要求は当然無視するとして、しかしこれは……。


「ほぅ、中々伯仲しているな。それにこいつは……夕飯の後に一局御願いしても良いか?」


 盤上の状況を見て、俺は提案する。何度か対局しているので俺には分かった。どうやら新しい戦略を試しているらしい。少し目を離しただけでどんどん強くなってくれるものだ。近頃は五回やれば四回は負けてしまう。入鹿なんて負け過ぎて拗ねたのか、近頃は毬と対局するのを嫌がって『( ´・∀・`)マッタクコマッタイモウトネ!!』……よし、無視無視。


「ほ、本当ですか!はい、お待ちしております!!」


 俺の何気ない提案に、しかし毬はこの上ない程に純粋に喜んだ。ぱぁっと花の咲くような純朴な笑みだった。


「あ、も、申し訳ありません。まるで子供みたいにはしゃいでしまって……」


 そして一瞬後に己の行いの粗相に気付いて恥ずかしそうに謝罪する。


「…………」


 尤も、そんな彼女の振る舞いに俺は思わず無言で見惚れてしまったが。毬には悪いが貞淑で控えめ病弱大和撫子は個人的にかなりストライクであったのだ。


 ……そして病弱という言葉で俺は、一瞬松重の少女の事を思い出して今度こそ罪悪感で言葉を失う。そう言えば、近頃は接触は無かったか?第三者に関係がバレるのを危惧しているだけと思いたいが……。


「……どうかなされましたか?」


 俺の奇妙な沈黙を怪訝に思ったのだろうか。ふと、尋ねるような声音。盲目の少女が此方を覗くように首を傾げる。


「いや、大した事は……」


 動揺した俺は取り繕うとして、思わず視線が其処で止まり、即座に道義を弁えて逸らした。


 相変わらずの事であるが、毬に前のめりになられると非常に視線に困る。……うん、付け加えるならば体つきも好みなんだよなぁ。病気がちな彼女に対して失礼極まりないが心身共に完璧かよと叫びたくなる。


(欲しい物だ何だ言う前に、先ずは新しい服でもやらねぇとなぁ)


 首元どころか谷間まで覗くのは彼女の尊厳のために宜しくない。本人は盲目なのと性格が若干幼い故に肌の露出する事自体への羞恥心は薄いが放置出来る事ではない。


 あれだな、入鹿みたいに天元突破して明け透けだと一周回って慣れ切ってしまうが毬のようなタイプだと裸体を見た経験があってもまた別のようだ。却って脳裏に彼女の身体の情景が生々しく浮かび上がる。


 ……孫六の奴に何か無性に謝りたくなってきた。


「伴部様……?」

「さて、そろそろ戻るか!!人を待たせる訳にも行かんしな!!」


 毬の二度目の問い掛けに思わず俺は誤魔化すように叫んでいた。実際に誤魔化しだった。彼女にやましく穢れた感情を読み取られる前に立ち上がってその場から撤収せんとする。逃亡せんとする。


 それが大失敗であった。


「はっ!?」


 間抜けな声と共に俺は滑った。ツルリ、という擬音すらしていそうであった。毬の床掃除を思い出す。毎回ツルツルに、光沢が出る程丁寧な仕事である。そんな床に俺は滑って、そのまま前のめりになって転げる。


「危ねっ……!?」


 膝立ちした毬の身体が正面にあった。盲目の少女は何が眼前で起きているのかも分からずに首を傾げる。


 俺だけはこのままだと彼女の上に倒れる事を理解して、即座に足を前に伸ばしてギリギリの所で身体の均衡を保つ。保ち……切る!やったか!?


 ゴツッ!!


「いぎぃっ!?」


 碁盤に伸ばした足の小指をぶつけた俺は苦悶の悲鳴を上げた。ここで緊張の糸が切れる。今度こそ完全に俺は転がった。


 毬の身体に向けて、転がった。


「あっ……きゃっ!?」 


 視覚は見えなくてもそれ以外の五感で感じるものがあったのだろう。殆ど反射的に手を広げて身構えていた毬の懐に俺は突っ込み、そのまま二人して床に倒れこむ。何も、敷物すら無い床に。


「ちぃ……!?」


 虚弱体質な少女が勢い良く床に倒れたらどうなるのか、少なくとも良い事態になる可能性は皆無だと断言出来た。そしてそれが己の馬鹿げた失敗によるものであるならば許容出来る筈なかった。


「痛でぇ!?」


 咄嗟に毬の身体を引っ張って身体の位置を入れ換えた俺は背中から勢い良く床に激突する。直後に上から追撃とばかりに毬が倒れこんだ。


「あっ……」

「きゃっ!?」


 何か言う前に俺の視界は毬の身体によって塞がれた。柔らかい感触が顔面を包み込む。


「え、えっと……伴部様、でしょうか?す、すみません!今どきますので……きゃっ!?」

「ぷふぁ…!?ふぐっ!?」


 慌てて毬が退こうとして更に転げて、今一度俺の顔面が塞がれる。柔らかい感触だった。


「んっ!?んんんっ!!」

「んっ!?ひゃっ、く、擽ったいですぅ……!?」


 毬の身体の下敷きになった俺は頭を彼女の横から抜けようとするが、その感触からか毬が思わず矯声を上げる。


「ふぁっ……はぁはぁ、済まない。少し乱暴だっ……た……」


 其処まで言って俺は彼女の方向を見たのを後悔した。俺が動いたせいだろう、元より若干はだけ気味だった襟首胸元がかなり際どい事になっていた。病弱なので息を荒くして頬が少し紅潮している毬の表情も加わってその光景は中々破壊力があった。酷い話ながら彼女が盲目で良かったと思った。己の今の視線が何処に向いているのか目撃されたくなかった。


「おーい。毬いるかぁ?御宝見つけて来たぜー?」


 ……ある意味完璧で最悪のタイミングで犬っころが登場してきたがね。


「ん?何処……お、其処にいたのか?にひひ、驚くなよ?こいつはぁ山ん中で見つけたんだ、が……」


 恐らくは鬼月谷の何処かで見つけて来たのだろう、蜜をたっぷり溜め込んだ蜂の巣(抵抗勢力殲滅済み)を狼腕で抱える入鹿は毬の姿を見つけて、そして俺と視線が合った。


 沈黙が流れた……。


「……取り込み中か。邪魔したな」

「待てぃ!!」


 得心したように退出しようとする入鹿に向けて、俺は悲鳴と懇願と弁明を叫んでいた……。


 

 



ーーーーーーーーーーーーーー

 毬を支えて座らせて、嘘臭そうに此方を見る入鹿相手に必死に釈明をして、尚も訝しげな視線を背中に受けながら俺は酒瓶片手に逃亡するように小屋を出た。


 何だろう、夫が帰って来て慌てて逃げる間男みたいな気分になっていた。解せぬ。


「世の中、結果が全てではあるがなぁ……」


 確かに足を滑らせる等という馬鹿みたいな失敗からの疑惑であるが、流石に立場を利用して毬に何かしようと等とは考えてはいない。其処まで性格は悪くない。……顔面に感じた柔らかい感触が何度も脳裏に過るのは勘弁してくれ。


「後で家に戻るのが憂鬱だな」


 尾びれをつけて入鹿が孫六に何か吹き込んだ時には、あいつからの警戒した視線を向けられて無傷でいる自信はなかった。というか空気が重くなる。毬が弁護してくれるのを期待するしかない。


「冗談きついぜ……?」


 嘆息しながら俺は自身が間借りしている小屋を含んだゴリラ様の敷地を後にする。猿次郎の鍜治場兼自宅に向けて土塀で仕切られた門を潜り抜ける。


 そして、俺は彼女と鉢合わせした。


「あ……」

「えっ……?こ、これは雛様、失礼を!」


 門を潜った曲がり角で俺は思わず彼女と額からぶつかりかけて驚く。驚きながらも寸前で身体を引いて激突を回避する。直ぐ様膝を折って一礼する。


「いや……そちらこそ怪我がなくて幸いだった。それに、丁度良い所で出会えた」


 此方の謝罪に、凛々しい黒髪の少女は微笑みながら応じる。続いて紡がれた言葉に、俺は思わず頭を上げる。


「丁度良い、でしょうか……?」


 俺の返答に、神妙な表情を浮かべた雛は小さく頷く。


「あぁ。お前に通達しようとしていて……」


 其処まで口にして、雛は気配に気付いたように視線を俺から移す。俺もまた遅れて背後の気配に振り向いた。


 門の奥、屋敷の奥から桃色の姫君が此方にやって来る。


「あらあら、御姉様。私の敷地に何か御用で?」


 尊大に、冷笑するように、蔑むような口調での問い掛けにしかし、雛は欠片も表情を歪めない。淡々と、僅かに眼を冷たくするだけであった。


「いや、お前には特にない。私が用があるのはこいつだけだ」


 そして雛は改めて俺を見下ろす。見下ろして、布告する。


「如月の月に予定されている『宝落山』への遠征、御当主様よりその第一陣の総指揮を仰せつかった。下人衆允職、そちらの指揮も私が執る事になろう。……現場での輔弼、宜しく頼むぞ?」


 凛々しく、そして悠然として、鬼月の一の姫は俺達の前でそのように宣言したのだった。





 ……背後で、微かに扇子が軋む音が鳴り響いた。

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