第七七話

 白魚のように色白く、か細い指が頁を閉じた。


「ふぅ、収穫無しね。これはもう良いわ。次は其処に積んでいる書籍を寄越しなさい」

「は、はい……!!」


 妖艶で、可憐で、甘くて、そして何よりも高慢な女の声音が室内に響く。それに続くのは可愛らしい少女の返答である。前述の声音とは打って変わって純粋で弱気で、健気な子供の声………。


「こ、此方で宜しいでしょうか………?」


 呪いによって保護されてはいるものの、それでも尚月日の経過による劣化は抑え切れないのだろう。古臭い書物を白い狐の半妖は両手で差し出す。彼女の眼前の姫君は小さく冷笑してそれを譲り受ける。譲り受けると文机の上でそれを広げて、脇息にもたれ掛かりながら嘆息する。


「全く、嫌になっちゃう事よね。こんな汚くて詰まらない本を読まないといけないなんて」


 一族の繁栄と栄光、名誉と功績を書き記した記録を流し読みしながらその末裔は、鬼月の二の姫は吐き捨てる。何処までも退屈そうに、言い放つ。


 鬼月葵は自室にて書籍の山に囲まれていた。屋敷の書庫より簡易式を用いて保管されている無数の書籍を持ち運び、それを一つ一つ確認する。そして古めかしい文字の列を何処までも詰まらなそうに読み流すのだ。そんな読み方でも彼女の聡明な頭脳は内容を完全に暗記し、理解していた。理解した上で読み込んだ書物に価値無しと切り捨てる。


「本当に退屈な事…………」


 実の所、葵からすれば本来ならば鬼月の一族の歴史なぞどうでも良い。欠片の興味もない。虚飾で彩られた伝統も伝説も糞食らえだ。葵は己の家を何処までも嫌悪している。


 しかしながら、それはそれとして鬼月の名の権威は有益であるし、「資産」として彼に贈るだけの価値はある。そして何よりも目の前の書物の山は今彼と己の眼前に聳え立つ難題の解決の糸口になり得るかも知れぬ事も事実なのだ。


 歴史的に俯瞰して見れば古の時代は人神妖の垣根は今世よりもより低く、その距離はより近かった。


 好んでの事ではない。人が今よりも弱く、文明が低級な時代、神妖の干渉を拒絶するのはより困難であったし、奴らに対抗するためにはその力を利用せざるを得なかったのもまた厳然たる事実なのだ。今日日、朝廷によって禁術として指定される儀式や呪いの多くはそんな時代に開発されたものであり、人道に悖るだけでなく人が人としての枠組みをはみ出し扶桑国の国是に反する故の事だ。


 ………無論、朝廷が禁じているとは言え、各地の退魔士家には、特に歴史の長い旧家名家は今でもそんな術式を非公式に伝え、時としてそれを利用しているのだが。


 例えば同じ北土三家の宮鷹が未だに行使していると言う生贄代替の呪いはその代表例であろう。鬼月とて嘗ては「座敷厄負贄牢童子之呪」と呼ばれる禁儀をほんの二百年前まで執り行っていたという。それも、儀式を行わなくなったのは事故によってその具体的内容が失伝したからに過ぎない。勅命に従い馬鹿正直に伝来の秘術禁術を放棄した名家は赤穂家くらいのものである。


 まぁ、前置きはこの程度で良い。兎も角も葵が態態己の時間を費やす理由は一つしかない。そしてそれを解決するには常道の手段では限りなく不可能であった。実際今の時間稼ぎの二つの処置とて明らかに普通ではない。一級の退魔士の心の臓を使い潰すのも、何時覚醒するかも知れぬ神格の幼体に餌をやり続けるのも正気ではない。そして根本的な解決のためにはこれ以上の手段が必要なのは明白だった。


 だからこそのこの作業であった。鬼月家の保管する資料の数々から彼を救うための何らかの知恵を得られまいか?それを期待はして見たものの………現状目ぼしい成果は見られなかった。


「はぁ………あら、貴女も退屈なのかしら?」

「え?あ、いえ………大丈夫です!」


 余りの倦怠感に欠伸をしていると、傍らの半妖もまた小さく欠伸をした事に目敏く葵は気付く。慌てて取り繕おうとする白。しかし葵はそれを咎めない。彼女にとっては咎めるような事ではなかったからだ。


「構わないわ。気持ちは分かるわよ。………そうね、丁度八つ時ね。休息を取るのには頃合いかしら?」


 肩を鳴らして、葵は両手を組んで背伸びをする。その過程でゆったりとした和装の上からでもはっきりと認識出来る、彼女の豊かで張りのある双丘がたぷんと揺れ動く。


「ふわぁ……」


 思わず白はそれを見て目を丸くし、同時に己の行いに頬を赤らめる。どうしようもない事であった。そのまま何となしに自分の身体を確認する。僅かにショックを受ける。自爆であった。


 そんな侍女を一瞥する葵は、しかし特に咎める事はなく、唯一度冷笑するのみであった。そしてそのまま問い掛ける。


「煎茶、で別に構わないわよね?」


 彼女がそう言うやいなや障子がすぅ、と開かれる。そしてのっしりとした足取りで中に入って来るのは真っ黒な人形の簡易式である。葵が使役する雑務用のものだ。それが二体。一体が急須と湯呑をお盆で、もう一体は菓子入れを手に恭しい態度で入室する。


「まぁ、好きに食べなさいな。その年頃の身体だと直ぐにお腹が減るものでしょう?」


 式神から受け取った湯気の立つ湯呑を一口すると、そのまま葵は眼前に差し出された菓子入れから栗饅頭を一摘まみして口に放り込む。葵は鬼月に雇われる雑人や女中よりもずっと己の簡易式の方を信用していたので毒味は必要なかった。


「は、はい……!!そ、それでは………」


 主人の言に従っておどおどと白は菓子入れから栗饅頭を手にするとそれを栗鼠のようにゆっくりとかじりつく。横合いから簡易式が湯呑を差し出して来ると御礼を言って受け取り呷った。ゆらゆらと白い狐尾が踊る。それは彼女が小さく喜びに興奮している証拠で、尾が感情に応じて勝手に動くのはどうやっても矯正の出来ぬ狐妖怪全般に言える特徴である。


 そんな侍女を一瞥してから、葵は視線を正面へと移す。面倒臭そうに広げていた書物を一頁捲り、そして嘆息する。


「期待外れね」

「ひ、姫様?」

「あぁ、貴女は関係ないわよ」


 一瞬怯えるように白は主人を凝視する。それに対して葵は嘲笑で答えた。全く、あの商家の小娘もそうだがこの狐もあざといものだ。


「書物の方、ですか………?」

「えぇ、そうよ。本当に役に立たない内容ばかり。………読めるかしら?この辺り、丁度大乱の頃の記録ね。陰陽寮からの要請で手勢を西土に派遣したって内容。相当大きな戦いで、長期間続いたそうよ」


 それは『鬼月人妖大乱記紀』が第三刊が四章、武叡帝の御世の十年如月の月の記録である。


 著者によれば、苛烈になる妖魔共との戦いに陰陽寮は北土が諸家に六度目の派兵を要請、鬼月家は退魔士七名、下人や雑人等その他の人員凡そ九四名を供出したのだと言う。彼らは朝廷からの下命に従い西土が綾凪邦に向かい……そしてその人員の半数近くを失った。空亡が率いる百が凶妖の一体、それが率いる軍勢と激突したからだ。


「此方には絵がありますね」


 白は記録の記された次の頁を一瞥する。そこに描かれているのは無数の魑魅魍魎共が人間を食らう光景。達筆かつ緻密に描かれているからか今にも動きそうな躍動感がそこにあった。


「えっ………?ひゃっ!?」


 次の瞬間、描かれていた妖共が一斉に白を凝視した。突然にして思いもよらぬ出来事に驚いた半妖は小さく悲鳴を上げてスッ転んだ。正確にはスッ転びかけたところをお茶汲みをしていた簡易式によって支えられて事なきを得る。その光景を見て葵は愉快げに口元を歪める。


「あらあら、何をやっているのだか」

「す、すみません。まさか絵が動くなんて………あ、ありがとうございます」


 主人に弁明してから、助けて貰った簡易式に礼を述べる白。尤も、簡易式は無言で何の反応もないが。


「本道式なら兎も角、簡易式にそんな事しなくて良いわよ。カラクリと同じよ。簡易式は事前に定められた設定に従い動くだけ、思考する能力なんてないし、感情だってありやしないわ」


 葵はそう宣い、そして本の中の絵に視線を向けて懇切丁寧に説明を始める。


「ふふふ、見てみなさいな。専門の絵師が描くとこういう風に絵を動かせるのよ。………まぁ、これも一種の簡易式ね。強いて言えば、この手の作品は文字通りの記憶の記録のためのものなのよ」

「記憶の記録、ですか?」


 意味を今一つ掴みきれずに半妖は首を傾げる。


「えぇ。口伝や書ではどうしても伝え切れないものはあるものよ。百聞は一見にしかずと言う訳ね」


 そして、それを解決するのがこの形式の書である。


「絵の中に絵師の記憶を転写しているのよ、この動く絵に触れたら文字通り執筆者の見たものを体験出来るわ。五感まで再現してね」


 尤も、それはあくまでも執筆者の記憶が追体験出来るだけであり、本当の意味で事実とは限らない。記憶を捏造する事は可能であるし、思い違いや劣化等のバイアスも想定しなければならない。故に書に封じられた記憶や五感も完全には信用は出来ない。


 尤も、そんな欠点を逆手にとって一昔前の朝廷では実際よりも痛覚や恐怖を増幅させた「拷問の記憶」を睡眠すら与えずに幾度も追体験させるという尋問が存在していた。余りにも非人道的であるとして名君として名高い玉楼帝の御世に公式では廃止されているが………。


「ふふふ、興味があるのなら一回覗いて見る?」

「ふぇ?い、いいえ!!結構です!遠慮します!!」


 ふと、思いついたように葵が提案すれば、白は慌てて、そして必死に否定する。当然だ、今眼前の書物の中ではおぞましい容貌の怪物共が逃げ惑う人々を次々と食い殺しているのだから。絵の癖に嫌な程に生々しい色合いで、鬼気迫る表情であった。


 墨絵ですら背筋が寒くなるような恐ろしさ、ましてや本物の記憶として覗くなぞ………白狐の少女には到底出来ない事である。


「あらそう?それは残念」


 口で言う程に残念にも思ってなさそうな口調で葵は書へと視線を戻す。絵の中では先程まで悪虐の限りを尽くしていた妖共が一変して狩られていた。頁の端より現れた鬼月の退魔士なのだろう人物達によって魑魅魍魎は次々と引き裂かれ、切り伏せられ、八つ裂きにされていく。駆除、されていく。

 

 そして、そんな妖共の軍勢の中心に陣取る一際大きな大魔が恨みがましそうに退魔士達を、そして頁の上の存在に過ぎない己を見下ろす読者を………鬼月の姫を殺意に満ちた眼光で睨み付けていた。凝視していた。それはまるで本当にその妖の魂でも画に封じられているのではないかという錯覚すら感じさせる。


 暫ししてから紙上の怪物は腹立たしげに怒り狂い、哮える。哮えた所でそれを見下ろす葵には何らの意味もない。


「ふふ、正に道化ね」


 約束された無残な敗北をひたすら繰り返すだけの哀れな「記憶」に対して葵は小さく嘲笑する。そして傍らに記された吹き出しに視線を移した。


 吹き出しには達筆な字でもって、その恐ろしき怪物の真名が書き記されていた。


【綾凪邦妖冦之大将 凶妖禍獣】と………。


 




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『禍獣』、あるいは『禍母』、端的に『禍』とのみで表記される事もあるその妖は仏教経典の説話集を原点とする怪物である。


 説話によればそれは楽土の国を治める高慢な王を諌めるために天神が遣わした災厄の塊であり、餌として針を食らう猪に似た、あるいは狼、もしくは虎頭牛胴の獣であるという。


『闇夜の蛍』における『禍獣』はそんな原典における記述を参考とした存在であるが、ある意味では一層救いのない存在である。


 傲り高ぶる人を誅するために創造し遣わされた鉄皮に包まれた神猪は、しかし神格が零落し、衰え、土地の肥やしにされるようになると多くの霊獣がそうであったように妖獣へとその身を落とす。


 しかしながらその生まれた目的は変わらず、寧ろ妖化した事でより一層人間に対する憎悪と敵意は増幅され、限り無く神格へと昇華していた空亡による人界への宣戦布告と共にこれに従い、その旗下の凶妖百将が一体として軍勢を率いて扶桑国の国土を蹂躙した。


 しかしながら何年にも及んだ大乱は結局は扶桑国の勝利に終わり、空亡に従った凶妖共もその多くが討ち取られる事になる。それ以前に当時の鬼月家が率いる討伐隊によって深手を負わされたこの猪妖怪は決戦に参列する事なく、それ故にこの官軍の追撃を逃れる事に成功した。


 尤も、それは怪物にとっては不本意そのものであった事だろう。猪突猛進で人間を人一倍憎むこの化物は知能はあっても理性はない。もし深手を受けてなければ空亡が命を無視して暴発、そのまま討伐されていた事だろう。皮肉にも鬼月家から受けた傷がこの怪物の命脈を繋いだ事になる。


 そして時は流れて原作の始まりに繋がる。漸く決起して、揃えた手下共を率いて怪猪はその原典宜しく北土の楽園に襲来する。傲り高ぶった人間共を誅するために………。


(それが豊穣祭の後の事、の筈なんだがなっ…………!!?)


 突如として眼前に躍り出てきたその件の怪物を見上げて、俺は表情を引きつらせる。内心に溢れるのは疑問、疑念、混乱。しかしてそれら全てを脇に押しやって次の瞬間に俺は反射的に行動に出る。


「失礼……!!」

「えっ!?うわっ………!?」


 真上から振り下ろされる蹄から、俺は環の腕を掴み上げると身を翻してこれを寸前で回避する。そしてそのまま唖然とする彼女を抱き抱えると地面を蹴りあげて後方に逃げ去る。逃げ去る直前に視界の端に襤褸を捉えた。同じように跳躍して、しかし俺達とは逆方向に逃げる蝦夷………。


「姫様!?」


 事態を理解したのだろう、驚愕に顔を青ざめさせながら俺達の方向に駆け寄る鈴音。俺は抱き抱えた環を見下ろす。視線が重なる。


「え、えっと………有り難う?」


 俺は未だ混乱する主人公様を下ろすと石段の時と打って変わって一礼もせずに無言で女中の元に押し付ける。


「うわっ!?」

「きゃっ!!?お前、何を………っ!?」


 環を乱暴に押し付けられた鈴音は俺の所業に対して抗議しようとして、しかし直ぐに黙りこむ。それは面の隙間から見える俺の眼光によるものか、あるいは背後の妖によるものか………多分両方だな。


「おい、姫様方をお連れしろ」


 彼女達に指示を出した所で荒事とも死線とも無縁な以上まともに呑み込めるか不確実だった。故に俺が命じたのは堅彦の付けた用心棒達であった。直ぐに環達を守るように駆け付けた彼らは此方を一瞥すると無言で頷く。そして抵抗する彼女らを半ば無理矢理に引き摺って連れ去っていく。その態度は先程まで賭け事をしていた不良ぶりとは正反対だった。漫画版でもそうだったが有事の際に腹を括るだけの覚悟はあるらしい。


「さて、どうしたものだかな………?」


 そして俺は怪物と相対した。


『禍獣』の状態は原作とはかけ離れていた。原作でも確かに祠に幾重にも張り巡らされた結界によってその表皮は焼けていたが明らかに表層だけだと分かる軽傷であった。しかし、眼前の猪は違う。


 嘗て鬼月家の退魔士との戦いで四本ある牙の内一つを砕かれ、更には隻眼となったのは原作設定通り。


 しかして、その腹には痛々しいまでの大きな風穴があり、そこからは多量の血を垂れ流していた。口元からも同じく吐血していて、フゥーフゥーと息を荒げている。その眼光は血走ったように見開かれていて、怒りと憎悪に満ち満ちていた。


 手負い、まさにそう評するに相応しい光景………。


(ここに来るまでに一悶着あったか)


 原作の猪も短慮ではあったが少なくとも今眼前の化物程には理性は吹き飛んではいまい。ましてや凶妖をここまで傷つけるとなると………。


「鬼月家の連中にかち合ったか?」


 設定的には恨み骨髄であろう。鬼月家が郷に滞在していると知って突貫してきたのだろうか?何にせよ、これでは原作が滅茶苦茶だ。非常に不味い。不味過ぎる。


「って、先ずは自分の心配かっ………!!?」


 此方を睨み付けて咆哮する『禍獣』によって、俺の意識は現実に引き戻される。全身の鉄針の毛皮を身震いさせて、凶妖は此方に迫る。


「避けるしかないな………!!」


 啼きながら突撃する妖猪に対して俺の出来る選択肢は身を翻して回避する事だけであった。防御なぞ不可能であるし、迎撃は更に非現実的であった。


 原典に従い、『禍獣』の毛皮には安物の刃は効かず、火も効かない。ましてや禍いそのものである故に呪術の類いも効果は薄い。相手取る退魔士の相性によっては碌に対抗するのも難しい化物であり、俺のような下人ではどうもしようもない。


(確か主人公様は神力ブッパで仕留めていたっけか………!?)


 闘牛士のように激突直前を狙って横合いに跳躍する。跳躍するが………。


「っ!?風圧だけでこれかよ……!?」


 避けたその刹那、化物とは最低でも五歩の距離は保っていた筈であった。あったが………突進の時に周囲に衝撃波のようなものが生じるのだろう。俺の衣装が裂けて、身体に幾つか薄い切り傷が出来ていた事に俺は気付く。


「当たってもいないのに、これでは洒落にならんな!!………っ!?」


 急いで姿勢を立て直し、背後の大木に激突して咆哮する『禍獣』を一瞥して、俺は必死に原作ストーリーを思い浮かべる。


 火力はパワーだぜ!!ではないが原作主人公様が『禍獣』を滅した方法は非常に単純明快である。食い潰した土地神の神力をそのまま使い回してカメハメ波擬きをぶちまけて消し炭にするという力業で攻略した。何か土地神から聖なる力を与えられたみたいに幻想的に演出していたが当然ただのミスリード狙いである。


「後は肉弾戦だったかね!?」


 製作陣曰く、後は頭に血が上りやすく小回りが利かないので怒り狂わせてからの肉薄格闘戦がお薦めとの事だったが………今の一撃を見れば分かる。こんな奴相手に近接戦闘しようなんてイカれている。


『ブオオオオオオォォォォッ!!!!』


 おぞましい咆哮と共に大木に顔面を埋めた猪は後ろに下がろうとする。しかしながら随分と牙が繊維質に食い込んでしまったようで、中々上手く抜けずに手間取る。正直この隙に逃げ出すのが吉なのだろうが………。


「殿務める手前、そうは行かないのでな。もう少し遊んで貰うぞ………!!」


 俺は『禍獣』に向けて手車を投擲する。直撃はさせず、その鼻っ柱の真上を通り過ぎる鉄の塊はそのまま落下すると自重によって数巻に渡って妖の顔面に絡まる。


『ブオオォォォォ………!?』


 己の顔面に嫌がらせをしてきたために、血走った瞳で此方を睨み付ける凶妖。そうだ、此方を見ろ。他の連中なんて気にするな…………!!


「よう。初めましてだな、豚。自己紹介をお願いしても?挨拶は大切だろう?」


 俺は片手で手車に繋がる糸を掴み、もう片方の手で槍を構えて尋ねた。そんな俺の姿を見た妖は嘲笑したように口元を吊り上げて眼光を細める。


 当然だろう。たかが下人が単独で一流退魔士でも命懸けの凶妖に仕掛けて来たのだ。遅かれ早かれ結末は明らかだった。そんな事は分かっている。俺が誰よりも分かっている。


 尤も、ただ殺られてやるつもりはない。


「おい。まさかと思うが、お前さん。こいつが焼豚を絞めるタコ糸とでも思っているのか?」

『グオッ!!?』


 俺が嘲るように嘯きながら警告するように糸を軽く引けば、漸く化物は己の顔面を絞めつける糸がただの繊維糸ではない事に気付いたようだった。目が驚愕に見開かれる。今度は俺が嗤う。嘲笑う。


「はっ!気付いたか?もう遅ぇよ猪頭………!!」


 罵倒の台詞と共に俺が手車の糸を引けば、化け物の鼻を中心に頭に巻き付いた糸が一斉にその肉に食い込んだ。プチッと筋繊維が弾けるような音と共に血飛沫が噴き出す。流石に全身を覆う筵のような針の毛皮でもってしても土蜘蛛の鉄糸を完全に無効には出来ぬようだった。


 尤も、逆に言えば蜘蛛糸で出来たのはそこまでであったが。


『ブオオオォォォォォォ!!!!』

「不味っ………!?」


 刹那、猪は食い込んでいた大木を根元ごと引き抜いた。そしてそのまま振り回し、放り投げる。俺の直ぐ傍らを通り過ぎた大木は粉塵と共に地面に叩き付けられ、そのまま一回転して他の木々を巻き込んで砕け散った。


「今の、俺を狙いやがったな………!?」


 反応出来なかった。樵が十人、一晩かけて伐り採れるか怪しい大木である。これがもし此方に投げつけられていたら間違いなく俺は潰れていた。文字通り今の攻撃が当たらなかったのは運が良かっただけに他ならない。


『ブオッ!!?ブオオォォォォッッ!!!!』

「うおおぅ………!?」


 禍獣が糸を切断せんとして暴れれば暴れるだけ肉に糸は食い込む。その痛みに堪り兼ねたように更に癇癪を引き起こし、糸は深く肉に沈んでいく。しかし同時にそれはまた、糸で繋がる俺もその衝撃を猪に振り回される事を意味していた。


「釣りじゃあるまいに………!!?」


 俺は糸を通じて猪に引き摺られ、何なら振り回される。腕が引っ張られて痛い!!?引っこ抜ける!?


「ふざけんな……このっ………!!」


 俺は必死に地面に踏ん張りながら、糸を手繰って禍獣へと迫る。するとギロリ、と憎悪に満ちた眼で此方を睨み付けて来る凶妖。あ、これヤバい。


『グオオオォォォォォ!!!!』


 轟くような咆哮と共に正面を向いた猪妖怪はそのまま此方へと空気を切り裂く轟音と共に一気に突貫してきた。ウッソだろうおい!!?


「逃げ……られないよなっ!?」


 手車の糸を切断してこの場から全力で逃亡するのは不可能ではない。しかしながら、ここで俺が逃げ出したら次の目標が何処に向かうか知れたものではない。土地神を封じる祠か、TS主人公達か、何にせよ阻止せざるを得ない。特に原作と違って絶望仕切っていない今の環に化物の相手をさせるのはリスクが高過ぎる。故に………。


「何とかなってくれよ………っ!!?」


 最早眼前にまで迫り来る猪を一瞥して俺は吐き捨てた。同時に向けるのは槍である。そして俺はタイミングを定める。………今だ!!?


『ブオッ!!?』

「よっしゃ!!成功した………って痛てぇ!!?」


 衝突の刹那、禍獣が頭を下げて牙で下方から此方を抉り飛ばそうとしたのと同時に俺は槍をその鼻っ柱に叩きつける。そして腕力と脚力を霊力で強化、化物自身が突進の際に生じさせる周囲への衝撃波すらも利用して、棒高跳びの要領で跳ねた。そしてそのままに俺は化物の顔面に抱き着くようにして張りつく事に成功した。


 しかしながら同時に俺の全身に激痛が走る。猪の鼻っ柱周辺は比較的毛が薄く、しかも結界を無理矢理突破した故に焼け焦げているとは言え、『禍獣』の毛皮は鉄針なのだ。何本もの針毛が衣服を突き破り、突き刺さっていた。そうでなくても、正面から衝撃波を食らったので全身に浅い切り傷が付く。


 槍?あいつは良い奴だったよ。


「そしてしかも、こうして抱き着いている間にも猪は暴れまわっている訳で………痛い痛い痛い!!?」


 先程よりも更に激しく頭を振り回す凶妖。文字通りに目の前に憎むべき人間がいるのだから当然であった。此方を鋭く凝視しながら『禍獣』は暴れ馬のように此方を振るい落とそうとする。その度に俺の身体に負荷がかかり身体に突き刺さる針が一層深くなっていた。俺は痛みに表情を歪める。歪めるが………ここで諦めるつもりもなかった。


「誰が落ちてやるかって………うおおおぉぉぉ!!?」


 妖は遂に痺れを切らしたのか、周囲の木々に次々と突っ込んでいく。俺を木々に叩きつけてしまおうというのだろうか。出鱈目に辺りの木々にぶつかって、押し倒して、破砕していく。俺は糸で体を支え、牙を陰にする事で耐え凌ぐ。寧ろ、妖側の方が元より手負いな事もあって疲弊しているようであった。


「良いぞ、良いぞ………!!そのまま自爆しやがれって………マジかっ!!?」


 猪頭の短慮な行動を小馬鹿にしてやった瞬間、俺はその判断を翻す。『禍獣』は俺を何時までも振るい落とせない事に観念したのか、優先順位を変更したようであった。最早俺の事なぞ見ずに祠に向けて突進していく。判断としては間違っていないのが笑えなかった。


「やらせるかよ………!!」


 この猪だけでも手に余るのに、封印された土地神まで復活されたら本当に収拾のしようが無くなる。


 俺は次の瞬間牙から飛び降りていた。そのまま地面に叩き付けられる寸前に手車の糸が伸びきってそれは妨げられる。そして『禍獣』は悲鳴を上げた。


 馬の手綱と同じ原理だ。妖猪は俺の体重を片側に掛けられた事で姿勢を崩す。顔面に食い込む糸の激痛もあってその突進の進路が逸れる。


『ブオオォォォォ………!!??』

「ははっ!!良いぞ!!おらおら苦しめ!!………がっ!!?」


 化物の悲鳴に、俺は喜悦の笑みを浮かべながらグイグイと更に体重を掛けていく。しかし次の瞬間に俺の足に激痛が走り抜ける。


「痛っ!?な、何が………!!?」


 涙目になりながら視線を向ければ俺の右足に化物が食いついていた。少しずつ圧迫感が強まり、足から軋むような嫌な音がし始める。


「ふ、ふざけんな!!痛てぇだろうがっ!!」


 俺は腰元から短刀を引き抜くと化物の歯茎にそれを突き刺してやった。毛皮は兎も角、流石に歯茎はソフトスキンだった。勢い良く噴き出す血飛沫。凶妖は悲鳴と共に口を大きく開く。


「このまま墜ちろ!!」


 祠を通り過ぎて、切り立った山際に猪が突っ込む直前、俺は手車の糸を切り落とした。そのまま砂利の敷き詰められた地面で転がりながら受け身を取る。そして………。


『ブオオォォォォ!!!???』


 山際に飛び降りた妖怪は、そのまま坂を転がり落ちる。恐らくは木々や岩に全身を叩き付けられた事だろう。無論、凶妖がその程度では死にはしないだろうが………元々の深手もあわせて徒では済むまい。というか平気だったら困る。


「これで時間稼ぎは………って、どうして戻って来ているんだよっ!!?」


 噛み付かれた足の痛みに耐えながら立ち上がると、俺は石段を駆け上がって来る一団を見て叫ぶ。その先頭にいる環は此方を見て慌てて駆け寄って来た。違う、そうじゃねぇ!?


「伴部さん……!?」

「馬鹿!?どうして此方に来やがった!?さっさと逃げやがれ!!人の努力無駄にするな!!」

「仕方ねぇだろうが!!下からも来ているんだよっ!?」


 用心棒の一人が俺の疑問に答える。俺が視線を奥に向ければ石段を上ろうとする数体の小妖を残る用心棒二人が刀と槍を振るって必死に払っていた。おいおいマジか!?


 それは『禍獣』が己の口内に潜ませて、郷に侵入すると共に辺りにばら蒔いていた手下共である事を後で知る。しかしながらこの時点ではそんな事はどうでも良かった。そんな事を気にする余裕なぞなかった。


「あ、足が!?早く止血を………!?」

「そんな事は気にするな!!自分の身の安全を優先しろ!!立場を考えろ!!」


 流血して、何なら多少肉が裂けている俺の足を手当てしようとする環。しかし俺からすれば彼女がこの危険地帯にいる方が面倒だった。彼女に死なれる事は避けなければならない。俺は周囲を見渡してそいつを見つける。


「鈴音!?おい、何しているんだ!?ご主人様をさっさと避難させろ!!……おい、鈴音!?」


 環を引き離して何処かに潜ませようと女中に呼び掛けるが、当の彼女はそれに反応する事はなかった。


 環の背後に突っ立った彼女はそのまま身体を震わせて此方を凝視するだけであったからだ。いや、より正確に言えば俺の足を、か?何にせよ、彼女は最早期待出来ない。


「糞、来た……!?」


 石段から登って来る連中とは別に、森林から駆け登って来る妖獣共を視認する。数は一、二、三………四体か!!


「畜生!姫様、御下がりを!!」


 残る用心棒が刀を引き抜き、迎え撃つ。しかし唯人では小妖一体を相手にするのとて命懸けであった。残る三体が横合いを通り抜けて迫り来る。


「させ、るか………!!」


 先頭の犬妖に向けて俺は短刀を手にして挑む。足を引き摺りながらも飛び掛かって来るのを避けきって、その喉元に刃を立てた。後は己の自重で喉を貫くのを、更に刃を振るい上げて頭蓋を縦に切り裂く。


「まだ来る……!」


 残る二体が肉薄する。俺は慌てて短刀を構えるが、しかしこれは……間に合わない!?


「何を、してやがる………!!」


 その罵倒と共に突風が吹き荒れる。そして奴は現れた。狼尾を振るいながら半妖はその腕を振るう。横合いから狼爪で顔面を殴り付けられる猿妖怪、鼻がへし折れ、前歯が割れる。そのままその顔面を掴み上げて後続の一体に向けて棍棒のように殴り付けた。


「てめぇ、入鹿か………!?どうしてお前がここにいやがるんだよ!?」

「質問する前になぁ!礼くらい言いやがれ!!」

「敵か味方かも知れねぇ奴に礼なんかするかよ!!」


 俺は叫びながら短刀を投擲、用心棒が相対していた小妖の顔面に突き刺さる。ぜいぜいと息切れしながら俺は膝をつく。


「入鹿!?どうして出てきて………」

「この状況で出て来ない奴がいるかよ!!それよりも早く逃げ………糞、もう復活かよ!!」


 環の言にそう言い捨てる半妖は、次の瞬間頭頂部の狼耳を立たせて苦虫を噛んだ。同時に山を震わせる轟音が鳴る。そして奴が再び現れる。


「分かっちゃいたがもうかよ……!!」


 木々や岩を吹き飛ばしながら坂を上り、妖猪は再び山頂に到着した。身体を震わせて、唸り、此方を殺意に満ちた瞳で射抜く。あからさまに此方を狙いすましていた。顔面は巻き付いた蜘蛛糸で血塗れで、それが余計おぞましさを掻き立てる。


『小癪ナ猿共メガ………儂ヲ虚仮ニシヨッテ!!』


無理矢理発声しているのだろう、訛りの強い声で此方を詰る『禍獣』。しかしそれ故により一層その言葉は聴く者に恐怖を与える。実際、環は怯えきって尻餅をついていた。


「立て!!立ってさっさと逃げろ………あぁ、糞!!やってられねぇ!!」


 環を引き立てようとするのも、ましてや女中に連れて行かせるのも望み薄で、俺は先程殺した妖の顔面から短刀を引き抜くと凶妖に向けて身構える。同じように半妖もまた環達の壁になるように前に出る。


 何故?その疑念が浮かんだがそれをこの場で問い詰める時間なぞない。そんな余裕なんてない。最早、怪物は眼前に迫っていた。


「畜生……!!」


 どうにかこの場を切り抜ける手段を考えるが、出てくる訳もない。怪我によって回避は難しく、そもそも主人公様に至ってはどうにもならない。つまりは、詰みである。


 それでも俺は前に出る。武器を構える。諦める訳に行かなかったし、許されなかった。他に選択肢なぞなかった。無意味と分かっていても、一太刀も浴びせずに唯々諾々と殺されてやる理由なぞ何処にもなかった。


 そして、文字通り猪妖に牽き殺される直前に俺は短刀で奴の頭を狙い、そして………直後に『禍獣』は横合いから蹴り飛ばされた。


「はっ?」


 俺は唖然としてローリングしながら地面に叩き付けられる凶妖を見やる。そして視線を移す。そこにいる人影に。


「ふむ、間に合ったようだな。手こずらせよって」

「このような詰まらぬ小細工で後手に回るとは屈辱ですな」


 一人は鬼月宇右衛門。恐らくは足蹴りでもって『禍獣』を吹き飛ばしたのは此方であろう。全身に返り血を浴びてその装束は血塗れであった。


 そして今一人は鬼月慧晴、此方は片腕に怪我をしているようで、片手のみ剣を手にする。


 俺達がただ茫然とする中、退魔士二人は悠然と進み出る。途中、宇右衛門が環に向けて「もう安全で御座います。御安心を」と一礼した。環はその返事に対して小さく頷く事しか出来ない。


『グオゥ………貴様ラ、鬼月ノ退魔士共カ……!!モウ来タカ。宜シイ、二人纏メテ此処デ食イ殺シ……!?バアッ!!?』


 凶妖の言葉は最後まで続かない。次の瞬間には慧晴の放った斬撃がその舌を切り落としていたからだ。


『ガッ……バアッ!!?』

「ふん、粋がりよって。下人如きに手間取るような獣が偉そうに言ってくれるな」

「貴様。その出で立ち、その言い様、彼の綾凪邦の猪妖であるな?死に損ないめ。ここで引導を渡してやるわ」


 鬼月の退魔士二人が挑発と侮蔑の言葉を吐き捨てる。


『グオオオォォォ!!!!』


『禍獣』は向けられた言に怒り狂い突進する。唯人ならば怯え竦み上がるような形相の怪物の猛進。しかし彼らはそれを詰まらぬものを見るように冷笑する。


 勝負は一瞬で付いた。宇右衛門の正面からの一撃の殴打はその顔面を打ち砕いていた。


 同時に慧晴は一瞬で横腹に迫り、その腹に空いた風穴に剣を突き立てた。刹那の瞬間、反対側の腹まで突き抜ける火柱が上がる。妖の血そのものを触媒とした火遁術式であった。内臓は焼けて、血は沸騰した。猪はそのまま尻餅をついて、そして横たわるように地にひれ伏す。


 全てはあっという間の出来事であった。暫しその場を支配する沈黙。俺は我に返って口を開こうとして………宇右衛門が叫ぶ。


「吉備!そやつを捕らえよ!!」

「えっ………?」

「ちぃ!?」


 反応出来なかった俺の代わりに身を翻すのは半妖の狼だった。しかしそれでも遅すぎた。次の瞬間、砂利の地面から黒い人影が数体飛び出すと手と手を繋いで奴を囲む。そして生じるは退魔の結界。


「あ゙あ゙あ゙っ゙!!?」


その身体に軽い火傷を負って悲鳴を上げる狼は膝を突く。そして蛇のように地面を這いずり回る数本の縄が奴の手足を、身体を捕らえる。目隠しする。口を猿轡して封じる。


「入鹿っ!?」

「蛍夜の姫君、御下がり下さいませ」


 駆け寄ろうとする環の眼前に現れるのは家人、吉備萩影である。周囲に人形の式神が数体現れて周囲を警戒し始める。


「こ、これは一体………!?」

「安心せよ、郷に潜入する間者を捕らえたまでの事よ」


 混乱しつつも鈴音が口を開けばそれに答えるのは鬼月宇右衛門であった。腕を組みながら此方に向かって歩を進める。


「裏切り者………?」

「左様、その半妖は扶桑国に仇なす危険人物。触れてはならぬ」


 宇右衛門は淡々と応じてそして俺を一瞥し、そして奴を、入鹿を見下ろす。


「吉備」

「はっ」


 家人が式神に命じれば、その身体を持ち上げられて背中の襤褸を剥がされる。そして晒されるのは刺繍であった。蝦夷独特の刺繍。


「ふむ、特徴は手配書通りだな。連れていけ」


 式神達が入鹿を羽交い締めにして連行している。当の入鹿は芋虫のように暴れるが手足も関節も全て縛られているとなれば無意味であった。


「な、何をするのですか!?入鹿は……入鹿は!!?」

「落ち着きなされ。あやつに何を吹き込まれたかは知りませぬが、姫君がお助けするべき者ではありませぬぞ」

「そうです。奴は大罪人。ましてや多くの人を食い、この郷を滅ぼそうとしたのですから」

「な、何を………?」


 宇右衛門、そして吉備の言葉に環は訳が分からないというように困惑する。動揺する。


「話については御屋敷に戻ってからに致しましょう。慧晴殿、後始末は頼めるかな?」

「任されました」


 宇右衛門が頼めば理究衆頭は恭しく答える。


「うむ。吉備、主は結界の修繕を。迅速にな」

「はっ」


 家人の返答に頷き、最後に宇右衛門は此方を見下した。


「良く働いた。誉めて遣わそう。流石に允職に任じられる程度の実力はあるようだな?」

「………恐縮です」


 俺は足の怪我から片膝を突いたままに答える。宇右衛門は暫く此方を見下ろし続けると、「手当てをするが良い」とだけ言い放ち、用心棒らに環達を連れて屋敷に向かうように命じる。命じながら己もこの場から去っていく………。


「…………」


 俺は無言でその場に留まる。項垂れるように足下を見る。余りにも多くの事が起こり過ぎた。分析するべき事が多過ぎた。これからの事を考えるだけで陰鬱で憂鬱だった。しかし………。


「兎も角は、手当てか………止血しないとな」


 何はともあれ、それをしなければ始まらない。式神を飛ばして部下を呼ぶ。その後衣服の裾を破いて足の怪我を絞める。止血作業を行う。


 後はその場に座り込んだまま脱力する。嘆息する。流石にあの長い石段を一人で下りるのは無茶だ。折角拾った命である、転んで死ぬのはご免だった。


「…………」


 ふと、視線が死に絶えた徹鉄猪に向かっていた。その大きさ、存在感を思えばある意味当然であった。


「………?」


 どうしてか、その死骸の口元が、嘲笑っているように俺には見えたのだった………。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「あれ、もしかして猪爺死んだ?………いやぁ、意外と呆気なかったねぇ」


 蛍夜郷の結界の外、鬼月の退魔士すら索敵出来ぬ遠方にて、しかしそれは郷内の異変を正確に把握していた。木上の幹に座り込むその存在は目を細めて再確認すると、頬杖しながら嘆息する。


「いやはや、爺さんも前のドンチャン騒ぎの際には結構派手にやっていたのになぁ。時代の流れというのは残酷だよねぇ」


 少年とも少女とも言えぬ子供は、いや子供に擬態した怪物は再度溜め息を吐いて世の移り変わりを嘆く素振りを見せる。尤も、そこに一欠片の心も込もってはいなかったが。

 

「………どうする?潜入はしている、よ?居なくなってから動く、の?」


 背後からの声に怪物が振り向く。そこにいるのは己よりも一回り大きな、しかしよそよそしく、おどおどとした人影であった。怪物は僅かに首を回して応答する。


「当たり前でしょ?見ただろ、あんな化物共と戦うなんて自殺行為だよ?」


 大乱以来五百年余り、退魔士共はより強くなった。家畜の品種改良のように互いの血脈を混ぜ合わせより強力な個体を産み出して磨き上げる。


「その成果がこれさ。いやはや怖い怖い…………」


 心底怯えるように、それでいて冷笑するように怪物は嘯く。本当、恐ろしい。人外の化物からしてみても恐ろしい。


 そしてそれ故に、唯人からなる朝廷からして見れば更に恐ろしい事であろう。そこに自分達の付け入る隙がある。


「…………」

「………?どうしたんだい?そんなムズムズして。発情期?」


 背後に控える此度の作戦の相方、その異変に気付いて怪物は問い掛ける。からかうような口調であった。


「………お腹減った」

「………あー、ここ数日は食ってなかったものな」


 人間共を、退魔士共を欺き、眩ますためにこれまで自由にさせていた食事をここ数日の間自粛させていたのだが、どうやらそれも限界に近いらしい。いや、自分達の有り様を思えば寧ろ良くぞここまで我慢出来たというべきか………。


 にしても困ったものだ。人が消えるという事象は意外と悪目立ちするものである。ここで折角の努力を無駄にしたくはないのだが…………。


「おや、あれは………」


 そんな風に悩んでいると、丁度それを見出して、怪物は口元を緩めた。口元を、残酷に歪めた。


 森林の中から現れるのは幾体かの小妖共であった。『禍獣』旗下の敗残兵共………恐らくは後衛に配されたまま恐れおののいて逃げ出した連中である。自分達の頭がいなくなったので指揮系統に基づいて合流して来たのだろう、卑屈に此方を見上げる無知蒙昧な妖獣共。


 馬鹿な奴らだ、少しでも知性があれば撤退ではなく逃亡した自分達に待つ運命なぞ分かりそうなものなのに………いや、ある意味では好都合か。


「質は悪いだろうけど、あれで我慢しなよ」

「良い、の?」

「敗北主義者は処断しないとね。全体の秩序に関わる」


 首を傾げての質問にそれがおどけるように許可を出す。そうすれば新参者たる相方はコクリと頷いて………次の瞬間には口を裂いて木下の雑兵共に飛びかかっていた。


『っ……!?』


 悲鳴は一瞬であった。抵抗も、逃亡も、命乞いも許さずに獣共は捕食されていく。喉を食い千切られ、足をへし折られる。骨が砕け、肉が裂ける音が響く。刹那の瞬間に生み出されるこの世の地獄……。


「潜伏がバレたら駄目だから、お残ししちゃ駄目だぞー?血も飛び散らさないように!」


 注意をすれば妖猿を頭から踊り食いしながらコクコクと頷く相方。そのまま口内でバキバキと頭蓋を押し潰して痙攣する身体を丸呑みしていく。


 素直な相方の態度に機嫌良くうんうんと頷いた化物は、そして再度郷の方向を遠目に見やる。見やりながら、嗤った。化物らしく、嘲笑う。


「ふふ。まぁ、僕も他人の事は言えないよねぇ。流石に滾って来ちゃったな。………まぁ、獣は所詮獣という事だよね」


 遥か昔、大乱に際して空亡に従った百の凶妖が一にしてその残党たる救妖衆が一角、妖獣鎌鼬はそう言って自嘲した。


 その背後に、同じように残虐な笑みを浮かべる無数の怪物共を従わせながら………。

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