第七五話

「にぃちゃん!!」


 その声に俺は振り向いた。振り向いた先にいるのは泣きじゃくって此方に手を伸ばす良く見知った幼い少女の姿であった。下人らに塞き止められ、両親からも引き留められつつも、それでも尚彼女は涙目で此方を見る。見つめ続ける。泣き叫ぶ。必死に、求める。


「………」

「やはり家族は恋しいかな?」


 唖然として妹の醜態を見つめていた俺に傍らの若い男がひと声を掛けた。俺は見上げる。微笑みを湛えながら此方を見つめるのは色彩の異なる一対の瞳、魔道の、異能の眼光。それが俺を見定める。俺を試す。


「………いえ、もう決まった事ですから」


 俺は男の言葉を否定する。断定する。既に全ての契約は決まった後の事であった。最早何も覆せない。身体の内にある霊力同士に呪いを掛けて為されるその約束は一方的な理由で覆す事は許されない。


 故に俺は否定する。半ば諦念を含んだ、しかし確かに納得した微笑を浮かべて。


 そうだ、これで良い。これで良かったのだ。寧ろ最善であった。これで家族は飢え死にする事は恐らくないだろう。そして俺もまた………強いて言えば彼処まで妹に大泣きされるのは予想外であったが。


「行きましょう。貴方は義務を果たしてくれた。なら俺も果たさないと」

「その先が茨の道だとしても、かな?」

「その先が無間地獄だとしても、ですよ」


 俺は男と視線を交わらせる。互いに見定める。すぅ、と男は目を細める。そして………眼を閉じて小さく嘆息する。


「分かったよ。ならば私も容赦はしないよ。君には支払った代償分の仕事はきちんとして果たして貰おう」


 そして手を引かれる。力を込められた手は、しかし同時に凍える寒さの中では温もりを感じた。………だから俺はそれに逆らう事なく足を進める。

 

「にぃちゃん!?いや!いかないで、いかないでよにぃちゃん!にぃちゃん……!いや、いやだぁぁぁ………」


 必死に此方を呼び続ける妹の咆哮。最早獣の声のようで、断末魔の叫びのようなそれにいたたまれなくなった俺は口元を歪める。しかし、振り向く事は出来なかった。決意が揺らいでしまいそうだったから。それだけは、あってはならなかった。


 だから俺は振り向かない。顧みない。俺に出来る事はただ後腐れなくその声を振りほどく事で、そして……そして………!!


『あぁ。何て可哀想な坊やなのでしょうね?』

「あっ………?」


 突如、世界が止まった。世界から色が失われた。同時に気付く。その存在に。


「おま………」


 振り向いた俺が何かを言う前に背後から柔らかい物が俺を包み込む。植物を思わせる青々しい香りが鼻腔をくすぐった。まるで阿片のように何処までも甘美な美香。慈愛に満ちた両の手が俺の頭を抱き締める。包み込む。頭の中が微睡み始める。思考が粘ついた泥のように停滞していく………。


『思い出しましたか?貴方の本当の記憶を』

「な、何……を………?」


 俺の怯えを含んだ呟きに、それは微笑む。優しく微笑む。


『ふふふ、やっぱり最後の記憶は特別に固く封じられていますね?本当に哀れな子。心の支えすらあちこち好き勝手に荒らされて、弄ばれて、何て酷い仕打ちな事』


 悲しげに嘯いて、悲しげに此方を見つめ、地母神は俺を慈しむように抱擁する。暖かい愛情の温もりが俺を包み込む。


『思い出して下さい。先程までの貴方にこの記憶の心当たりはありましたか?こんな会話をしていましたか?』

「そ、れは………」


 そうだ。何だこの会話は?この意味ありげな会話は?こんな会話した覚えは……俺は確か問答無用で連れて行かれて………いや、違う。そうだ、この記憶こそが本物だ!真実だ!!


「そうだ。俺は確かこの後あいつを見上げたんだ。そして許可を貰って振り向いて………そして………そして………!!!」


 混沌して、混濁する記憶の海の中で俺はその記憶を思い出す。そうだ。俺は振り向いて!!そして何かを言ったんだ!!言った筈なんだ!!妹に!あいつに!それは……それは確か………!!


 文字通り、後一歩の所まで浮かび上がろうとしていた封じられた記憶は、しかし最後まで蘇る事は許されなかった。緑髪の地母神が天を見上げる。


『あら、残念。もう時間?今日はここまでね』

「えっ!?」


 彼女の心底残念そうな呟きと共に俺の意識はふわりと浮遊する。急速に覚醒する。身体が宙に浮く。突風が吹き荒れる。空に吸い込まれる。周囲の景色が歪む。霧散する。溶けていく。


「あっ……!!?」


 天空に放り出されようとしていた俺は、咄嗟に奴の手を握っていた。地母神の手を、固く握っていた。すがり付くように、掴む。


『ふふふ、私の可愛い坊や。私の哀れな坊や。私の愛しい坊や。良く覚えておいて下さいね?記憶とはその存在を形づくる根幹、価値観と人格を形成する基盤、根そのものなのですよ?』


 何処までも憐れむように、何処までも悲しむように、何処までも慈しむように、万物の母はただ俺を見上げて囁く。忠告する。警告する。


「何、を…言って……!?」

『安心して下さい。貴方が何者でも、貴方が何物でも、少なくとも母は絶対的に貴方の味方ですよ?その事だけは忘れてはいけません。分かりましたか?』

「なっ……?」


 意味の分からぬ戯れ言を口にして、脳内に巣くう寄生虫はそっと俺の手を離した。優しく手を解した。何か言おうとする前に俺は吹き飛ばされる。そして俺は遠ざかる大地を見つめながら気を遠くして、そして…………そして…………。






「護衛が何寝ているのですか?」

「………寝てはいませんよ?」


 覚醒と同時に掛けられた刺だらけな言葉に、俺は可能な限り平然とした態度で嘯いて見せた。嘘も方便である。尤も、傍らに立つ女中はあからさまに顔をしかめて此方を訝しんでいたが。


(それにしても不甲斐ないものだな。まさか居眠りとは………)


 実際、気付いたら寝ていたようだ。任務中に呆れたものだった。こんな馬鹿をやらかしたのはかなり久し振りの事だった。下手したらそのまま食い殺されているというのに。………半刻位意識が飛んでいたか?


「そんな酷い事言うものじゃないよ。折角守ってくれているんだからね。………お早う、御勤め有り難う」


 女中に続いて障子から現れたのは女体化主人公様である。もう朝支度は終えたらしく、既に正装に着替え終えていた。髪を整え、薄く化粧もしている。


「姫様、お早う御座います」

「ふふふ、姫様って呼び方は好きじゃないんだけどね。………朝餉の用意が出来てるそうだから、君も早く朝支度してね?」


 ぎろり、と女中の叱責するような視線を受けて環は誤魔化すように最後にそう宣う。そしてそそくさとその場を後にする。


「………姫様が甘いからって調子に乗らないで下さい。私はちゃんと見ていますから」

「………承知致しております」


 その場から去り行く主人の後を追い、そして一旦立ち止まって釘を刺す女中に向けて、俺は恭しく応じた。ふん、という蔑みに満ちたように鼻を鳴らして、鈴音は去る。いやはや、原作ではおしとやかでおどおどしたキャラだったと記憶しているのだが………。


「四月馬鹿版だからか?それとも何処かでバタフライエフェクトでもあったか?分からんな」


 何処まで考えても中々答えが出て来ない。本人に聞いてみるのも手ではあるが……あの好感度では簡単には行くまい。


「………取り敢えず歯を磨いて飯にするか」


 何はともあれ、先ずは言われた通りに腹を満たす事が先決であった。腹が減っては戦は出来ないのだから。


「そう言えば………」


 そして、若干痺れていた足を立たせながら俺は気付いたのだった。


「そういや………何の夢を見ていたんだ?」


 








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 護衛という事で、いざという時に直ぐに駆けつけられるように屋敷本殿に設けられた控え室にて俺は支給された飯を食べる。障子一枚先では屋敷の主人一家が給仕らを側に置いて談笑しながら食事を摂っていた。


 屋敷の主人一家は元より、俺に宛てがわれた朝食も十分豪勢だった。雑穀が混ざってなければ水で嵩ましもしていない白飯に根菜の味噌汁、卵焼きと焼き魚、煮豆、梅干しと漬物である。


 The 昔ながらの和食とでも言うべき献立であるが、それは前世基準での話である。飢饉や餓死が普通にあるこの世界においてはこんな古臭い献立でも自作農や町人では中々食べられぬような品揃えだった。


 何より驚くべきはこれが客人専用ではなくて屋敷に仕える使用人ら皆が同じ献立である事だろう。この郷村に来て早一週間近くになるがやはり驚かされる。


「お、玉子残ってるじゃねぇか。一つ貰うぞ?」


 膳の上に盛られた料理を見てそんな事を考えていると、横から声を掛けられてほぼノータイムで箸が伸びて俺の玉子焼きが一切れ誘拐された。


「…………」


 視線を斜め右方向へと向ける。そこにいるのは心底旨そうに玉子焼きを頬張る南土人………猪衛堅彦の姿。此方の視線に気づいたのか満面の笑みを浮かべる。


「悪く思うなよ?飯時だって戦の内だ。とっとと腹に納めねぇとこんな風に略奪されるって事さな。良い勉強になったろう?」

「流石にその言い訳は情けなくないですかね?」


 良い年した男が随分と子供染みた事を宣うものである。そも、欲しいのならお代わりしろや。お前の立場なら幾らでも出来るだろうが。


(いや、これは………)


 そして、ふと俺は堅彦の狙いに気付いて目を細める。面越しでも分かったのだろう、猪衛もまたニヤリと笑みを浮かべる。


「食い物の恨みは怖い、と?」

「そのまま怒りに任せて決闘でも申し込んでくれれば嬉しいんだがな?」

「んな馬鹿な」


 流石に呆れた発想である。初対面の時から手合わせを望んでいるこの男、事態が事態なために中々認可が下りない事に痺れを切らし始めたようだった。だとしてもこれは………。


「ははは、頭がここまでお気にいるなんて珍しいですなぁ」

「全くだ。こんな体つきの何処が良いんだかな。見ろよ、腕力なら俺の方があるぜ?」

「馬鹿、霊力持ちの筋力を見た目で判断するなよ。てめぇの腕なんざ下手したら片手でへし折られるんだぞ?」

「へぇ、そりゃあ凄いな。俺も一度手合わせしてみたいものだぜ」


 周囲の堅彦の手下共………武士崩れかヤクザ者みたいな連中ばかりだ……が次々と口を開いて彼らは俺達を煽っていく。


「………私は蛍夜家の姫様の護衛が任務なのですが?」

「そんなのとっくに分かっているさな。だから俺なりに頭を回して理由を作ってやってんのさ。ほれ、俺の頭に一発ぶちこみたくなったろう?」

「いや、それは可笑しい」


 正確には血の気の多い南土人ならばそれでも良いのだろう。しかし、俺はそんな喧嘩早くもなければ騒動を起こす積もりもない。


 尤も。このまま求愛を無視し続けても碌な事にもなるまい。なので、俺はその案件について伝える。


「………昨日、護衛の夜番に就く前に蛍夜の旦那様より頼み事が御座いました。怪我や仕事への支障がない範囲でお願いしたい、との事です」

「お、遂にか!!?」


 俺の言に即座に目の色を変える堅彦。


「後程、旦那様よりそちらへ連絡がある筈です」

「流石旦那だぜ。話が分かるな」


 ニヤニヤと笑みを浮かべる南土人。彼の部下達もまた同様であった。既に手合わせの順決めと誰が勝つのかの賭け事を始めていた。こいつら………そんなに手合わせしたいなら宇右衛門辺りと戦えば良いのに。


(いや、それだと瞬殺されるか?)


 集団でならば、手段を選ばぬのであれば兎も角、正々堂々と一対一で戦えば一線の退魔士に唯人が勝つのは不可能だ。そんな分かり切った戦いなぞ詰まらぬのだろう。俺のような微弱な霊力しか持たぬ手合いだからこそ楽しめるという事なのだろう。此方からすれば良い迷惑であるが。


「下人、得物は何が良い?」

「普段は槍を使っています」

「そう言えばそうだったな。結構あれも逸品だったな。分かった、鍛練用のものがある。それを使え。槍か、久し振りだな」


 堅彦は手合わせに使う武具についてそう命じる。


「久し振り、ですか。堅彦殿は槍を余り使わぬので?」

 

 奇妙な物言いに、俺は思わず尋ねていた。武士というものは刀の印象が強いがそれは偏見だ。


 実際問題、刀のような間合いの狭い武器なぞ、実戦に使うとするならば退魔士のような例外を除けば閉所戦闘くらいでしか使いようのない武器だ。兵器とはより遠方から、より安全な場所から敵を一方的に攻撃するために進化した。唯人同士であれば弓や槍を持った兵士が刀を持った兵士に負ける道理はない。化物相手ならば尚更肉薄しての戦いは無謀で、可能ならば火縄銃や大筒を使うべき相手だ。


 更に言えば費用対効果では単純に投石するのが一番だ。現実の戦国時代においては刀なぞより余程重要なメインウェポンだったという論すらある。


 刀、日本刀の類いが重宝されるようになったのは前世の歴史においては江戸時代以降の事だ。太平の時代となれば常日頃より弓槍を持つ必要はないし、持てない。そして護身用に帯刀する機会が増えれば必然的に大多数の武士にとっては剣術が最も身近な武術になる訳だ(尚、上級武士の間では槍術、弓術の方が盛んであったとも言われている)。


 ………まぁ、挙げ句には護身用としてすら軽視され、末期には刃が潰された刀、ただの工芸品、軽くするために刀身がないものまであったらしいがね。末期の武士はただのお役人になってたからね、仕方無いね。そりゃあ新政府の市民兵に負ける訳だよ。


 残念ながらこの世界では前世の歴史における江戸時代程の太平には程遠い。余りにも死がありふれ過ぎている。武士だって薄く工芸品のような刀を観賞する暇も金も有りはしない筈だ。そんなもの用意する位なら全身黒鋼の大鎧を拵えている。


「いやな、旦那の餓鬼共の指南役もしているものだからな。特に末のお嬢ちゃんが熱心でな。困ったもんさ。俺としては薙刀の方が姫様らしいと言ったんだがなぁ」

「成る程」


 口では何気なしにそう言ったものの、内心では舌打ちする。確かに庄屋なり郷司一家が直接に弓槍を使う機会なぞ無かろう。ましてや妖を相手にする事もない。護身用には対人向けの剣術を多少嗜む程度で良いだろう。しかし………主人公様までもか。


(婦女子は薙刀だって相場が決まってるのだがな)


 退魔士ならば兎も角、公家や武家となれば婦女子の武術と言えば薙刀道である。次点で弓道か。何にせよ鉄の塊である刀を女が振り回すのは難しい。下手したら己を斬りかねないので奨励されていないのだが………しかもバッドエンドの条件の一つである。笑えない。


(確かゲーム開始時での初期武器適性はランダムだったか。流石は四月馬鹿版だな)


 実物なぞ知らぬが、俺には製作陣の悪意があからさまに透けて見えた。恐らく本当にゲーム化していたらあの主人公様の初期武器適性はきっと刀で固定されている事だろう。あの製作陣ならやりかねない。何で刀をメインウェポンにすると霊力の暗黒面が誘惑して来るんです?


「まぁ、安心しな。確かに最近は刀ばっかだがな。槍の腕だって鈍っちゃあいねぇぜ?」

「………それは結構な事で」


 俺は可能な限り淡々と応じた。朝から溜め息を吐きたくなるような情報に、俺はただただ脱力しそうであった………。






 

 朝餉を終えて、部下達の所に顔を出して仕事を手伝い、それを終えたのは巳四つ半時……午前一一時……頃の事であった。


 身体を解すようにストレッチを行い、徒手格闘の鍛練を行い、私物の槍を振るう。槍舞と言うには野蛮で泥臭い。実戦のみを想定した型だった。


 それは代々鬼月の下人衆が無数の犠牲を払って洗練させ、受け継いで来た槍術に己の経験と性質と癖から来る修正を練り込んだ動きである。俺が学んだ相手は俺よりかは霊力があったのでもう少し剛に寄った力業が多かったが、俺の場合は省エネも出来るよう考えて力を逸らし受け流す省エネ……柔に寄った槍捌きとなっている。


 そうやって一頻り槍を振り回し、身体が目覚めて勘を取り戻した所で俺は屋敷に設けられた道場へと向かった。野外ではなく屋内なのは義徳の提示した条件の一つだった。野外に比べれば怪我はしにくい。


 そして準備を整えた俺は道場に足を踏み入れる。踏み入れるのだが………。


「おい、何だ?この人の数は?」


 俺は思わず対面する堅彦に向けて問い掛けていた。見物人なぞ、てっきり堅彦の手下共くらいと思っていたのだが、これは五十、いやそれ以上いるかも知れない。というか今も増えていた。その中身は様々で、郷の村人だけでなく、駐在する橘商会の者や鬼月家の雇った人足もいる始末である。中には弁当やら菓子やらを食べながら見物してる者までいた。

 

「ここは田舎で、しかも今は妖のせいで出入りが厳しいからな。それに賭け金は多い方が儲かる」

「見世物ですか」


 というかお前の仕業かよ。集まる連中も集まる連中だ。………いや、昔は処刑が娯楽だったりするからまだこれは穏当な方なのか?何にせよ、晒し者にされて良い気分はしないな。


「因みに賭けを仕切るのは其処の商会のご令嬢様さな。商会は朝廷から賭博経営の免状を貰ってるみたいだからな。手数料支払って仕切って貰ってる次第さ」

「マジか………」


 堅彦が指差す方向を見て、俺は思わず嘆息する。良く見たら蜂蜜色の髪をした少女が黒板に試合のオッズを記入していた。傍らの桶には賭け金であるのだろう硬貨……殆どは銅銭……が小山のように盛られている。完全にゲームマスターであった。


「いや、笑顔向けられても」


 此方の視線に気付いたのか、にこりと微笑む佳世。え?俺に五両賭けた?止めろよ、やりにくいだろうが。


「んじゃあ、そろそろ始めようか?ほれ、お前さんの得物だ」


 そう嘯いて、堅彦は穂先に刃の代わりに幾重にも布が被せられた槍を放り投げる。それを受け取った俺は一頻りに槍を振るいその感触を、その重みと間合いを確かめる。


 穂先こそ保護されているが、柄も同じく鉄製のそれは十分な固さと重さを持っていた。穂先を使わずとも、叩きつけるだけでもかなり危険な代物だと素振りをするだけでも分かる。……ふむ、こんなものか。


「互いに降参するか、身体の何処かを突かれたら負けだ。それ以外は自由さな」

「体術も、ですか?」

「実戦なら目潰しも金的も良いのだがな。流石にそれは勘弁してくれ」

「此方もこれは勘弁して欲しいですね」


 俺は面越しに苦笑しながら槍を構えた。堅彦もまた同様。そして、静寂が訪れる。


 ………先程まで周囲から響いていた喧騒はいつの間にか静まり返っていた。そして俺は眼前の男を黙って見据える。


「…………」

「…………」


 互いに動かない。いや、動けなかった。互いに相手の出方を窺っていた。


 槍は、突きを基本として斬る、払う、叩く、薙ぐ等多機能的かつ扱い易い武器である。そしてそれ故に奥の深い武器でもある。刀と違いある程度間合いを変化させられるのと攻撃手段の豊富さからその攻撃を読み切るのは決して簡単ではなかった。だからこその、睨み合い。


 無言、静寂、静寂、沈黙………それが何れだけ続いたのだろうか?流石に観客の一部が焦れて何か言い出そうとした刹那、それは始まった。


「っ………!!」

「ちっ!!?」


 真っ正面から繰り出された突きを俺は槍の柄で防いだ。同時にそれを払って突出、斜め様に薙ぎに行く。


 十合余りの切り結び、それは僅かに五数える間に行われた。そして互いに数歩下がる。僅かにそれだけ、それだけで俺達は深い息を吐いていた。観客達からは小さなどよめきがした。


「ちぃ……!!?やりにくい!!」

「なんつう重い一撃だよ。こりゃあ、きついな……!!」


 この時、俺と堅彦は互いに相手の実力と強味、弱味を理解した。


 俺の強味は霊力と切り抜けた死線の数から来る咄嗟の判断力であった。槍は筋力と腕力の差が如実に現れる武器の一つである。そして霊力によって得られる腕力は、筋肉を鍛える事により得られるそれよりも遥かに強大だ。霊力の多寡次第では下手すれば筋肉達磨の男を幼子が一方的に打ち据える事すら有り得るのだ。そして手数の豊富な槍での打ち合いは刹那の判断力が求められる。


 一方で、眼前の南土人の強味は対人戦の経験値と度胸であり、それは同時に俺の弱味でもある。


 武士とは違いその必要性の低さ、そして反乱防止のために下人の扱う武術は基本的に対妖戦を前提として対人戦を考慮していない。多少は応用出来ても武器を持つ人間の相手は不得手であった。そこに来て、特に勇猛な南土の武士は危険を恐れない。それは下手を打ったら直ぐに死ぬ故に危険を冒さない俺の戦い方とは方向性が真逆といって良い。


 問題は妖と違い、それがただの知恵無しの獣の蛮勇ではない点だろう。堅彦の荒々しく激しいが、同時に巧妙な攻めであった。


「………」

「………」


 再度の沈黙、しかし互いに相手の力量と、その得手不得手を把握していた。故に互いに足運びして相手の死角を取ろうと動く。間合いを取ろうと槍の穂先を互いに打ち合う。回る。渦を巻くようにして、槍先を向け合いながら、回る………。


「っ………!!」


 先に痺れを切らしたのはまたしても堅彦であった。叫びながら槍を下方から掬い上げるように突き出して、更に払う。そこまでは先程までと同じで、しかしそれを阻止されるとそのまま身体を回転させて槍を叩きつけるように振るった。


「くっ!!」


 咄嗟に身体をしゃがませて回避したのは悪手であった。そのまま正面を向いた堅彦は跳ね上がると投擲するように上方から槍を突き出した。俺はそのまま後方にバク転する。先程まで俺のいた場所に槍が突きつけられる。同時に出来た隙を俺は見逃さない。


「貰った………!!」


 直後に脚部を霊力で強化して、兎が跳ねるように俺はバク転を終えてしゃがみこんだ姿勢から一気に肉薄した。


 オリンピックの走者並みの速度で疾走して瞬時に堅彦の槍の間合い、その内側に入り込む。そのまま堅彦の胸元に向けて槍を構え、突き出そうと試みて………左肩を守るように俺は槍を構えた。


「うおぅ……!!?」

「おいおい、今のを受け止めたのかよ………!!」


 棒術のように横合いから叩きつけられた槍の柄を、俺は反射的に防御していた。足が止まる。そして堅彦はそのまま肉薄してきた俺に対して………回し蹴りを仕掛けた。


「危ねっ!?」


 明らかに顔面を狙っての一撃を仰け反って回避する。おい、人を殺す気か!!


「嘘つけ!!避けやがった癖によ……!!」

「紙一重だよっ!!」


 御返しとばかりに俺は槍を堅彦に向けて振るう。堅彦もまた同じく槍を以って俺の攻撃を次々と受け止め、塞き止め、時に反撃を仕掛けて来た。道場内に幾度も鋭い金切音が鳴り響く。


「埒があかないな……!!」


 鍔迫り合いにもつれ込みながら俺は苦虫を噛む。このまま霊力で腕力を強化して一気に押し込む事も出来ようが、そうすれば恐らくは逸らすようにして受け流されるだろう。そして姿勢が崩れた隙を狙われる。悪手だな。となれば………!!


「なっ!?」


 一瞬の腕力の強化、そして鍔迫り合いを押し出して………俺は槍を捨てた。手放した。俺の押し出しに呼応して力んでいた堅彦は空回りするように身を乗り出す。そこに俺は足払いを仕掛けた。姿勢が崩れた所を転がしにかかる。


「不味っ………!?」

「マジかっ!?」


 転げる直前に堅彦は槍の柄で俺の横腹を叩きつけに来た。崩れた姿勢で繰り出される一撃は、その癖鋭かった。生身で受け止めるのは霊力で強化しても避けたかった。


「こん、の………!!」


 俺は咄嗟に先程手放して床に自由落下中の槍を曲芸のようにして捕らえ、それを以って振るわれる槍を受け止める。真っ正面からではなくて受け流すように。しかし………。


「ぐっ………!?」


 逸らし切ったが、その勢いまでは殺し切れなかった。俺もまた姿勢を崩して床に倒れこむ。


「貰った……!!」

「やらせるかよ!!」


 同時に俺と堅彦は槍を投擲。空中で互いの槍が衝突して吹き飛んでいく。激しい音が鳴り響く。僅かに観客達から悲鳴が上がった。


 一方で、稼いだ時間で俺は立ち上がり突貫する。動きが一瞬遅れて膝立ちの堅彦に襲いかかる。


「甘い!!」

「うおっ!?嘘だろ!!?」


 対人戦では堅彦に分があった。飛びかかった俺はそのまま腕を掴まれて背中から床に叩きつけられる。巴投げの変型であった。受身を取るが激しい音が響く。咳き込む。観客達から再び小さなどよめきと悲鳴。ミスった。少し受け損ねたか………!!


「やばっ……!?」


 此方を見下ろすようにして飛びかかる堅彦。俺は腕を振るう。手刀だった。霊力で強化した手刀が飛び掛かる堅彦の首筋を狙った。腕で受け止められるが堅彦は苦悶の表情を浮かべた。籠手をしているなら兎も角、生身の身体で霊力強化された手刀を受け止めるのは決して良い判断ではなかった。だが、堅彦はそのまま今一方の手で俺の顔面を狙い、俺はそのまま反応するのに遅れる。そしてそのまま堅彦の拳は俺の顔面に迫り、そして………。


「甘いんだよ!!」


 手刀した腕でそのまま堅彦の負傷した手首を掴み上げる。そしてそれを振り回して堅彦の拳に横合いから叩きつけた。拳の軌道が逸れる。俺の頬を堅彦の拳が掠める。そして俺は腕を手首から離して真っ直ぐに南土人の喉元に向けて突き立てた。寸止めであった。


「………こりゃあ駄目だな。参った」


 暫しの沈黙、そして堅彦は心底残念そうに降参の言葉を口にした。同時にこれ迄とは比較にならない程のどよめきが響き渡る。


「おいおい、マジか」

「あの堅彦さんが負けたのかよ!?」

「嘘だろう?俺五十文賭けてたんだぞぅ?」


 観客達からはそんな声が漏れ聞こえる。主に堅彦の部下達からだった。


「いやぁ、凄いな。なぁ、予想出来たか?」

「いやいや、まさか」

「村の相撲大会や武術大会でも負け知らずだったのになぁ」


 純粋に驚いているのは村の農民達だった。彼らにとって、用心棒の元締めたる堅彦は文字通りに郷一番の強者であった。その堅彦が降参したのだ。驚天動地の出来事であった。


「やはりな。一対一で霊力持ちに勝てるものかよ」

「いやいや、唯人にしては中々善戦したんじゃないのか?」

「所詮下人だろう?対人戦の教練なぞしてないし、霊力量もたかが知れてる」


 そんな風に辛口の評価を下したのは鬼月家の雑人や、商会の護衛として雇われていたモグリの退魔士達である。彼らからすれば試合の結果は順当そのものでしかなかった。唯人が腐っても霊力を持つ存在に対等の条件でぶつかればこうもなろう。実に詰まらない予定調和だった。


 俺が起き上がろうとすると、堅彦が手を差し出す。俺はそれを受け取り、引っ張られながら立ち上がる。


「いやはや、一本取られたな。まさか槍を捨てて来るとはな」

「良く良く考えれば槍の手合わせには相応しくありませんでした。申し訳ありません」


 ぜいぜいと息切れしながら俺は謝罪する。自分自身、気付けば頭に血が上っていたようだった。入れ込み過ぎてた。というか途中からただの肉弾戦になっていた。何をやっているのだか………。


「いやいや、何やろうが自由と言ったのは俺だからな。そも、武士道は畜生道ってな。寧ろそれくらい予想するべきだった」


 ゲラゲラと愉快そうに、満足げに笑う堅彦。何が楽しいのだか、残念ながら俺には分からない。分かりたくもない。


「腕の方、申し訳ありません。少々力を入れ過ぎました。直ちに手当てが必要かと」


 俺は頭を下げながら提案する。全く手加減なぞ出来なかった。手加減してたら間違いなく負けていた。しかし、防具無しで霊力を込めた手刀を受けたのだ。打撲は確実で骨に皹が入っているか、最悪骨折すら有り得た。其ほどまでに霊力持ちと唯人の身体能力には差がある。


「あ?いやいやこの程度の怪我気にするな。痛いがどうせ数日もすれば………」

「いえ、確かにその通りですね。さっさと医者の所に行って下さい。堅彦様」


 南土人の言葉を遮って冷たい言葉が浴びせられる。俺は視線を向ける。道場の入口に彼女はいた。


「げ、鈴音かよ?」

「何故私がそんな顔で出迎えられなければならないのですか?」


 ずんずんと道場に大股で入り込み、ジト目で女中は二回り以上大柄な男を睨み付ける。堅彦は苦笑いを浮かべる。心底やりにくそうな表情だった。  


「郷の守り手として!旦那様御一家をお守りする身として!自覚を持って下さい!!賭博試合?それで怪我をして!!いざと言う時どうするお積もりなのですか!?」


 鈴音は詰るように堅彦を責め立てる。


「いや、しかしな。その旦那から許可は貰っていて………」

「怪我するような手合わせをしろとは言っていない筈ですよ!!?」


 大声で叫ぶ女中。そしてその怒りの矛先は此方にも向く。


「貴方も!!姫様を御守りする立場として軽率な行動は慎んで貰いたいものですね!!何ですか先程の戦いは!?あのような手合わせをして怪我人が出ないと思っていたので!?」


 怒りと不快感に満ち満ちた眼光が俺を射抜く。小柄な少女で、武術も武器の扱い方も知らぬ筈の子供に、しかし俺は思わずたじろぐ。其程までの迫力であった。


「おお怖い怖い」

「本当、良く口が回る女中だよなぁ。頭もタジタジだぜ」

「奉公に来てる身にしては気が荒いよなぁ。おっかねぇ」

「顔は悪くないんだから可愛げがあればなぁ。まるで暴れ馬だな。あれで貰ってくれる男がいるのかね?」


 その荒れ具合を見てこそこそと話す郷の用心棒達をギッと睨む鈴音。慌てて彼らは知らん振りをして見せた。女中はそんな彼らにムスッとした表情を浮かべる。


「………軽率な行いでした。申し訳御座いません」

「………相変わらず、口だけは達者ですね。誠意は言葉ではなく行動で示して欲しいのですがね」


 取り敢えず俺は素直に謝罪するが返って来る言葉は辛辣な嫌味であった。尤も、全て事実なので言い訳のしようもなかった。何処ぞのゴリラ様と違ってユーモアや洒落を交えても許してくれなさそうだ。


「その辺で許して上げたらどうだい、鈴音。手合わせでの怪我なんて珍しくも無いんだからさ」


 荒れに荒れているそんな鈴音を宥めるようにして背後からの声。そちらに視線をやって、俺は僅かに目を丸くして嘆息した。それだけ彼女の出で立ちが鮮やかだったからだ。


 純白……白衣に緋袴、それは典型的な巫女の衣装だった。何の代わり映えもしない、アレンジもない伝統的とも言える巫女の出で立ち、巫女服ではなく巫女装束。


 その青みを帯びた黒髪は後ろでポニーテールのように纏められていた。頭で黄金色に輝くのは天冠だ。


 緻密な金細工はそれだけで宝物としての価値があった。恐らくは窃盗対策に相応の呪いも掛けられている事だろう。


 その白魚のような細い手に持つのは神楽鈴だった。その形から実った稲穂を象徴するそれは豊穣を祈るための小道具である。


 生来の整った顔立ちもあって、主人公様は神聖にして侵し難い空気を纏わせていた。


「おお、姫様……」

「何と神々しいお姿か……」


 俺と堅彦の手合わせを観戦していた村人達は、特に年配の者達は次々と跪いて礼をしていく。郷を支配する庄屋の娘に対して当然の態度であったが、恐らくそれ以上の意味合いがそこにはあった。


「あ、良いよ良いよ。別にそんなかしこまらなくても!もう、何時も通りにしてって!!」


 跪く老人達に環は慌ててそう言うが、効果はない。それだけ村の人々にとって今の彼女の出で立ちは敬意を示すべきものであった。いや、大地と共に生きる百姓であれば誰でもそうであろう。豊穣を感謝し、祈る巫女は百姓達にとって正に生命線だ。俺だって元小作人なのでその気持ちは痛い程に分かる。


「よう、姫さん。もう練習は良いのかい?」

「一旦休憩だよ。皆集まっているから何しているのかと思ったら………僕も誘ってくれたら良かったのに。仲間外れは寂しいな」


 堅彦が問いかければ僅かに拗ねるように環は口を尖らせる。堅彦は苦笑しながら肩を竦める。


「野郎同士の手合わせなんざ高貴な身分の娘さんが見るもんじゃねぇさ。ましてや巫女ともなればな。怪我だってあり得る。言って置くが穢れだぜ?」

「だから最近僕の刀の稽古もしてくれないのかい?」

「流石に勘弁して下さいや。俺だって食い扶持は惜しいんですよ」


 不満そうに主人公様が宣えば堅彦は弁明する。流石の彼も郷の豊穣祭の巫女役に手合わせを見せる事は、ましてや怪我の恐れのある稽古はさせられないようだった。


「むぅ。仕方ないな……それにしても凄いね、君。堅彦相手に降参させるなんて。信じられないな」

「いえ、条件付きの手合わせですので」


 感嘆するように俺を誉める環に、しかし俺は謙遜する。いや、謙遜ではないな。実際、先程の手合わせは決して実戦には則した代物ではない。


 態態霊力持ちに同じ武器で戦う必要も、ましてや一対一で戦う必要も、真っ正面から相対する必要もないのだ。飛び道具は当然として罠でも毒でも使えば良い。複数人で何も知らぬ内に背後から奇襲してしまえば良いのだ。朝廷の軍団ならば並べた大筒と火縄銃の弾幕で対処しても良い。ゴリラ様のような一流の退魔士ならば兎も角、下人衆程度なら、俺程度ならそれで確実に殺せる。(何なら朝廷は対退魔士特化改造妖や紫………霊力持ちだけを殺す毒瓦斯を隠し持ってたりもしている)。


 兎も角も、互いに殺す積もりのない手合わせでしかないのだ。スポーツと同じである。素人からすれば迫力があろうが、何処までいっても所詮は遊興に過ぎない。実戦なぞ欠片も考えていない以上、実力の指標にはなり得ない。


「む、そういう風に卑下するのは感心しないな。僕なんか毎回良いように弄ばれてるんだよ?手加減されてるのに一回も勝てた事がない」


 子供っぽく環姫は宣った。いや、そもそも退魔士でもない姫君が武士に鍛練して貰う事が可笑しいからね?これが少年ならば心強いのだが………あ、刀での鍛練は止めてくれ。


「へいへい、それで姫様。此方には何用ですかい?物見見物ならもう試合は終わりましたぜ?何時までもここに居られる程暇でもないでしょう?」


 面倒臭そうに堅彦が尋ねる。鈴音は不愉快そうな表情を浮かべるが、環の方は思い出したように此方を見つめる。


「あぁ、そうだった。休憩が終わった後に祠まで行かないと行けないんだ。巫女としての職務さ。だから何人か護衛をと思ったのだけれど………その分だと堅彦は難しいかな?」


 俺の手刀で痛めた手首を擦る堅彦の姿を一瞥して蛍夜の姫は問う。その表情は心底心配そうであった。


「この程度の怪我、と言いたい所だが………そっちの女中は不満そうだな?」

「利き手を怪我した用心棒なぞ役立つと思いますか?」


 冷たそうに鈴音は質問で返す。誤魔化すような苦笑いをして堅彦は此方を見る。


「だそうだ。そちらもそれで此方に宛てがわれたんだろう?俺の手下を何人か付けるから代わりに頼まれてくれや」


 堅彦は俺に代理をするように要請する。元より俺は主人公様の護衛であるので構わないが、問題は………。


「僕は構わないよ。全部は見てないけど、堅彦相手にあれだけ立ち回れるんだ。心強いよ」 

「………背に腹はかえられませんね」 


 環は賑やかに、鈴音は致し方ないと言う表情で其々に了承する。


「承知致しました」

「だそうだ。おい、弥助。源太、七郎!!鬼月の下人殿と一緒に姫様達を御守り申し上げろ!!最悪てめぇらが餌になってでも守れよ?」

「えぇぇ、マジですかい?」

「そりゃあありませんよ、頭。頭のせいで折角の貯金すっちまったんですぜ?」

「そうですよ。負けた分、賽子で取り戻そうとしてた所なんですよ?」

「五月蝿い、仕事しろ。仕事を!」


 指名された用心棒らの内の三人が非難の声を上げるが残念ながら無意味だった。不承不承で最終的には受け入れざるを得ない。


「まぁ、そういうこった。姫様らを頼むぜ。ヤバくなったらあいつらを囮にしな」

「いや、それ洒落になりませんが?」


 堅彦の言葉は冗談なのか本気なのか判断がつかなかった。ついでに言えば原作では堅彦の手下共は愚痴や罵倒を叫びつつも何だかんだ言って最後まで自分達の仕事は果たしていた。………残念ながら全て無意味であったが。残念ながらこの無情な世界は努力が必ずしも結果に結びつくとは限らない。


「………では、後程お願いします。姫様」

「あ、うん。行こうか。じゃあ皆も、怪我とかしないようにね?」


 鈴音が呼び掛けると、主人公様は皆にそう伝えてから退出する。屋敷に戻って休息するのだろう。鈴音も続く。


「俺も手当てに行こうかね?んじゃあ、後はお前ら適当に試合でもしてな」

「頭はもう賭けないので?」

「さっきので有り金全部溶かしたんだよ」


 堅彦もまた、そう嘯き道場を出ていく。出ていく直前に俺に向けて笑みを浮かべ「また今度手合わせしようぜ?次は勝ってやるよ」と宣う。いや、それ自己破産する奴の台詞だからな?


「仕方ねぇな。今度は誰がやる?まだ賭け金はあるだろう?」

「商会の連中もどうだい?どうせずっとこんな田舎で泊まっていて体が鈍るだろう?」


 俺と堅彦の手合わせが終わったが、だからと言ってそのままお開きとは問屋が卸さないらしい。用心棒らはまだ暴れていないし、賭博試合を止める積もりも無さそうだった。何なら集まった佳世の護衛達もそれに参加し出す。それを止める者はいない。


 無理に我慢させて燻ぶらせるよりもこの機会に瓦斯抜きさせてやった方が良いと言う事なのだろう。村人達からもここで止めればブーイングが入ろう。外界との出入りどころか村の周囲の森に入るのすら制限されて、夜中は外出禁止である。他所の村であれば当然の事でも、平和呆けしたこの郷ではそんな事でも既に不満が続出していた。


「伴部さん」

「ん?うおっ!?」


 そんな事を考えていると、ふと名前を呼ばれて視線を向けると共に僅かに俺は驚いた。いつの間にか目と鼻の先に、俺を見上げるようにして佳世が佇んでいたからだ。此方を覗いて悪戯っ子のように朗らかに微笑む商家の令嬢。


「そんなに驚かないで下さいよ。寂しくなってしまいます」

「い、いえ………申し訳ありません。して、何用でしょうか?」


 視線を一度先程まで彼女がゲームマスターをしていた席に移す。部下であろう奉公人らが賭け金の支払いと次の試合に向けての集金を募っていた。


「ふふふ、此方差し上げます」


 視線を戻すと同時に佳世が差し出すのは手拭いだ。橘紋様の編まれた絹布の手拭い。恐らくは汗を拭き取るためのもの。


「祠に御同行されるのでしょう?巫女の側に控えるのでしたら身嗜みは整えませんと」


 佳世は至極尤もな事を宣う。確かに堅彦との試合は短く、命賭けではなくとも苛烈だった。気付かぬ内に自身の額や首に淡く汗粒が流れている事に今更に気付く。このまま汗臭いままで主人公様と同行するのは流石に良くない。


「有り難う御座います。では御厚意に甘えて………」


 俺は礼と共に手拭いで汗を簡単に拭き取っていく。そして、直ぐに気付く。折り畳まれた手拭いの中にあるその異物の感触に。


「………?」


 その違和感に気付いた俺は怪訝な表情を浮かべて手拭いを広げる。そして見つける。和紙に包まれた小さなそれを。俺は佳世を見る。


「これは?」

「御覧下さい」


 促されるままに布を解く。するとそこにあるのは数枚の銀貨であった。朱銀、それも銀含有量が多く高品質であると評判の玉楼二朱銀である。額にして十二朱はあろう。小判にして一枚、一両分にも満たぬが銅銭換算で三千文……三千枚に匹敵する。庶民にとってはまごう事なき大金であった。俺は更に怪訝な表情となる。佳世は悪戯成功、というように笑みを溢す。


「佳世様?」

「ふふ、先程のお手合わせ御苦労様です。お陰で稼がせて貰いました。此方はお礼です」

「あぁ、そういう事ですか」


 郷の連中は殆ど堅彦に賭けていた。そして佳世は一人で五両も俺に賭けていたのだ。オッズは言わずもがなである。佳世の護衛には俺に賭けていた者もいたが、全体的には殆ど彼女に利益は分配された。手数料を含めれば限りなく総取りだ。成る程、利益の分配か。一人勝ちは印象も悪い。


「でしたら手下方にばら蒔いても良かったのでは?」

「無論、残りは全部配っちゃいます。別に大した利益でもありませんし。それで忠誠心を借りれるなら安いものです」

「……それはそれで剛毅ですね」


 種銭五両まで捨てるとは思い切ったものだ。、いや、確かに彼女からすれば端金なんだろうが。


(にしても……『借りる』か。随分とませてる事だな)


 その言葉が意味するのは、佳世は手下の忠誠心なぞ信頼していないという事であった。所詮はビジネスライクな、金の関係と割り切っているのだ。


 ………もしかしたらこの騒動に首を突っ込んだ事自体が金を手下共にばら蒔くための建前に過ぎないのかも知れない。更に言えばそのばら蒔いた金をこの郷内で使ってくれれば彼女からすれば更に都合が良かろう。幾らこの郷の住民らが御人好しでも何時までもタダ飯を食らうだけの余所者を置いておきたく無かろう。娯楽の提供、そして手下共を消費者にする事で郷からの悪感情を誤魔化そうとしているのかも知れない。だとしたら随分と強かな事だ。………となると、ここで遠慮するのは宜しくないだろう。


「分かりました、佳世様。恐縮ながらお受け致します」


 再度の一礼と共に俺は恭しく分け前を受け取る。この臨時収入はこの村で使い切った方が良いかな?


「ふふふ、助かります。御遠慮為さらず、お好きなように使って下さいね?」


 にこり、と機嫌良さそうに微笑む佳世。やはりそう言う事か。全く、豪商の御嬢様も楽ではないな。


「承知致しました。………因みに、もし足りなければ借款しても宜しいので?」

「無利子貸付がありますが……それもお嫌でしたら御贈呈でも致しましょうか?」


 彼女の立場を思って、肩の力を抜かせるようにおどければ、直ぐに切り返される。流石に商人である。ユーモアのある返答だった。


「商人から見返り無しで金銭を受け取る程怖いものはありませんよ」

「ふふふ、金銭の御相談でしたら何時でもお受け致しますね?橘佳世両替商店は、一年通じて朝昼夜、何時でも年中無休で営業しておりますから。どうぞご遠慮なくご利用して下さいませ」


 くすくすと小鳥の囀りのような笑い声と共に佳世は宣う。何ともまぁ、サービスの良い事で。


「それは素晴らしいですね。尤も、使う事は無さそうですけど。………では、失礼ながら私はこれにて」

「はい。どうぞ、御仕事頑張って下さいませ」


 程々に雑談を切り上げて、手拭いを返却する。それを受け取った佳世からの一礼に応じて俺も御辞儀をした。そして俺は踵を返してその場を立ち去っていく。同時に切り替えた思考、面の下では顔を険しくする。脳裏に浮かぶのは先程の一つの単語であった。


「…………祠、か」


 それが意味するものは分かっている。祠とは何かを祀るものであり、そしてこの郷の場合は土地神である。より正確に言えば開拓団がこの土地を訪れた際に捕らえて封じた土地神の祠………それはこの土地の霊脈に君臨していたに相応しい有力な土地神であり、故にこの郷は救妖衆の目標となった。


(少なくともこのタイミングでは問題ないとは思うが………)


 そしてそれは、其処に祭られている存在こそが原作における主人公の力の原泉………否、『燃料』なのだ。人妖、それどころか神格すらにとっても凶悪な脅威となる彼の異能。それが覚醒する現場。贄を食らう地。ふと、俺は足を止めて深く考え込む。思慮する。思考を整理する。


(覚醒のタイミングが一番大事だ。中途半端な時に中途半端に覚醒されると面倒極まりないからなぁ)


 前世の記憶を思い返す。それは同時に主人公にとってトラウマでもあり、原罪であり、運命次第では彼が狂った女共に悪辣に捕らわれる理由でもあり、力を渇望する理由でもあり、悪堕ちするための免罪符にもなり得た。だからこそ、その力が目覚める瞬間が大事なのだ。そのために原作の流れから逸脱させたくはなかった。


「様子を見ておくだけでも意味はある、か………」


 折角の機会だ。祠まで護衛として付いて行けるならば見ておこう。主人公様が性転換しているのだ。念のために何か変更されていないか確認はしておいた方が良い。最悪異能が想定外のタイミングで覚醒しないかの監視も出来るだろう。して欲しくないけど。皆が生きている時に覚醒されたら主人公様は追放一直線、別の意味で闇堕ちしかねない。


 俺はそんな事を考えて己を納得させる。納得して、歩みを再開した。


 背後では次の賭け試合に向けて、人々の喧騒が鳴り響いていた………。


 




「ふふふ、はい。またのお越しを。何時でも、何処でも、何でも、お幾らでも、私は喜んで御用意させて頂きますので」


 賭け試合を巡る喧騒の中、手拭いに顔を埋めた少女の小さな、しかし満足感に包まれた甘い囁きを聞き取れる者は一人としていなかった。    


「うふふ………」


 ………そして、その蜂蜜色の髪と手拭いの隙間から垣間見える瞳が泥のようにドス黒く濁りきっている事実もまた、指摘出来る者はいなかった。


 ころりころり、と少女は口に含んだ「飴玉」を幾度となく舌を絡ませて転がしていた………。

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