第六二話
洞窟の最奥で吹き荒れるのは、正に破壊の旋風であった。
『グオオオォォォォォォ!!!!』
辛うじて人の形を維持しているに過ぎない異形の咆哮、そしてその口内より放たれる紅蓮の業火の炎を、扇子の一振るいで生じる嵐が無理矢理に消し飛ばす。その嵐に紛れて突貫する怪物の鋭い爪の一撃は、しかし彼女の持つ扇子でもって受け止められた。
………扇子に僅かな傷がつく。
「ふふふ、中々にやってくれるわね。じゃあ今度は私よ」
刹那、彼女がふぅと嘆息するように吐き出した吐息、本能的に感じた危険に異形は慌てて後方に跳躍する。同時に彼女の吐息は灼熱の炎と化して視界一杯を焼き払った。薄暗い洞窟が炎の光に怪しく照らされる。視線を動かして探せば彼がいた。天井に四つ足になってしがみつき葵を威嚇する。炎の光に当てられて異形の影が蠢くように照らし出される。
「さてさて、困ったわね。これじゃあ手詰まりだわ」
狐の尾の幾本かを足代わりにして、更に残る何本かを椅子と脇息代わりにして宙で足組みしつつ頬杖をする狐璃白綺……否、その身体を使役する鬼月葵の分霊は嘆息する。
彼を見送ってから暫しの間、向かってくる雑魚共を千切っては投げ千切っては投げを繰り返しつつ上層からの救助を待ち構えていた葵がこの場所に来た理由は件の隠行衆の青年が必死の表情を浮かべてやって来たからだった。助けを呼ぼうとして上層に向かおうとしていた彼を捕まえて問い詰めた葵は、吐き出させた情報を元にその明晰な頭脳にて起こりうる事態を瞬時に想定すると、瞬時に計画を大幅変更した。彼の帰りを待つのではなく、迎えに行く事にしたのだ。そして、それは正解であった。
「いえ、遅かったわね。せめて今少し早かったら私一人でもどうにかなったのだけれど」
天井を踏み台にして飛びかかる彼が繰り出す爪の連撃を扇子で次々と受け止めつつ、葵はちらりと洞窟内の状況を観察する。そして彼女は自身が来るまでの間にこの洞窟内で何があったのかを限りなく正確に推測していた。
(せめて、腹に穴が空く前なら………いや、今更言っても詮無きことね)
自身の判断の甘さを呪いたくなるが、過去を何時までも後悔するほど葵は愚かではないし、独善的でもない。失態の責任も罰も、彼が助かってから、彼に求められてからすれば良いのだ。自分を自分で罰そうなぞ、自己陶酔以外の何物でもない。自分はそんな馬鹿な女ではない。
………それにそんな事に思考を割ける程に余裕もなかった。
「っ………!?これは中々!!」
幾度目かの鍔迫り合いの瞬間、彼は葵の目と鼻の先でその口をガバリと勢い良く開いた。同時に彼女はそのまま彼の身体を土台に後ろに跳んだ。直後に彼の目の前は文字通り火の海になる。先程の紅蓮とは違う、蒼々しい白い業火………。
「っ!?これは………!!」
その危険を察知した葵は直ぐ様目の前に薄い結界を二十枚、一瞬でそれらを重ねて展開する。彼女を呑み込もうとしていた炎の津波は結界を十枚目までを飴細工のように溶かした所で止まり、火の粉もまた結界の十八枚目までで全てが受け止められる。
「この火は『滅却』……いえ、それよりも厄介ね」
洞窟内を蒼白く照らすその炎が先程のような唯の高熱の炎でない事を葵は第六感で確信していた。あれをまともに受けるのは不味い。火の粉ですら受けるべきではない。ちらり、と洞窟内に山のように積み重なる蜘蛛の死骸を一瞥する。成る程、あの塵の山を作り上げたのはあの炎か………。
『グオオオォォォォォォ!!!!』
「っ!?随分とガツガツしている事ね!何時もそれくらいに肉食でいて欲しいのだけれど……!!」
蒼白の炎を吹き飛ばしながら獣のように四つん這いになって飛び掛かる異形。展開していた結界を力業で全て貫いて肉薄してくる。
「あらあら、荒っぽい事」
そう困ったように嘯いて、葵は扇子の巻き起こす旋風で彼と火の粉を受け止め、吹き飛ばす。その表情は笑みを浮かべるが、流れ出る冷や汗までは誤魔化し切れなかった。
今の彼が相手では葵も手加減は出来ない。しかしながら分霊に過ぎない彼女の使える霊力には限りがある上、余り全力を出し過ぎると憑りついているこの身体に要らぬ負担を強いる事にもなりかねなかった。
いや、葵自身はこの狐の半妖の肉体が多少傷んだ所で気にはしないのだが、彼は気にするであろうし、何よりも彼が結ばされた呪いを思えばこの身体を傷つけるような行いは得策ではないだろう。
「そうなると、中々難しいわね………」
風の守りでその突貫を封じ込めた葵はそのまま間髪入れずに連続して扇子を振るう。その一閃で生じた風の刃が彼の身体を、腐り肥大化した贅肉を切り落とす。飛び出す血飛沫に悲鳴を上げる彼。その姿に葵は若干顔をしかめるが………ここは耐えねばならない。この我が身を切り裂くような、それよりも苦しい所業もまた、彼を救うためなのだから。
彼の身体中から溢れ、肥大化し、増殖しているあの肉塊はある種の癌細胞のようなものだ。あの忌々しい堕神の因子の溢れだしたものだ。妖気を含んだそれを放置してしまえば彼の中にある霊気と神気を呑み込んで消費して彼は完全に怪物に堕ちるだろう。事実、贅肉を切り落とした端から新たな腫瘍が膨らみ肥大化して彼の傷を無理矢理塞いでいた。彼の内にそれだけ多くの妖気が渦巻いている事、彼がどんどん人からかけ離れていっている事の証明である。
当然、それを許す訳にはいかない。故に零れ出る妖気の肉塊を間引きして彼の内にある三要素の均衡を是正しなければならない。そしてその上で彼の内にて暴走する妖気と神気を鎮めなければならない。
そう、鎮めなければならないのだ。荒御霊を鎮め、静め、沈める。そう、儀式をしなければなるまい。無論、儀式をするという事はある意味では厄介な事でもある。薬で力尽くで変貌を抑えるのと儀式でもって鎮めるのとは意味合いが全く違うのだ。当然、背に腹は代えられないのは百も承知である。しかし問題は………。
(今の私一人じゃあ彼を抑えながら鎮めるのは無理なのよね………)
こういう事もあろうかと儀式の方法くらいは習熟していたが、鬼月葵の分霊に過ぎない彼女では目の前の異形を抑えつつ儀式を行うのは流石に不可能であった。かといってこの事態を知らせに来た隠行衆の少年は当然として、あの祖母も霊力が枯渇している上に足を折られているとなれば足止めとして役に立たない。彼の動きを封じられるのは彼女だけであった。仕方無い、主役はあの子供に譲るしかない。尤も………。
「荷が重くなければ良いのだけれどね」
ちらりと横目に件の人物を覗いて紡がれた言葉、それは少年に対してではなく、彼のための心配であった………。
「な、何だよあれ……一体どうなって………?」
眼前の戦いに元稚児の少年は唖然として、困惑して、そしてたじろいでいた。
当然であろう。文字通りそれは破壊の嵐であった。余りにも凄まじい速さで行われる攻防は当然のように音を置き去りにしていて、残像すら見えそうであった。周囲の地面や岩壁が突如として抉られ、砕かれて、爆散して、四散する。正直彼の今いる場所が無事な事が不思議なくらいであった。
そして、それ以上に白若丸を困惑させるのはそれを引き起こしている存在であった。
自由気ままに尊大な白狐の女も何が何なのか分からないが、それと相対している黒い異形はもっと訳が分からない。いや、正確にはどうしてああなっているのかが分からない。
最早殆んど原型を留めていまい。しかしながらあれは…………。
「嘘、だろ?あれって、もしかして………」
「えぇ、あの子よ」
白若丸の言葉を肯定するように背後で響く言葉に彼は振り向く。そこにいるのは悲しげで、苦しそうにしている妙齢の女性の姿であった。地面に座り込み、若干着物が着崩れていて目のやり場に困る彼女が誰なのか、少年は彼に教えられていて、少年はどうにかその名前と役職を思い出す。
「え、えっと………御意見番、様?」
「あら、自信無さげね?他の血族相手なら今頃折檻よ?ちゃんと指導してもらったのかしら」
本当、もっと厳しくしないといけないのに、あの子は何時も甘いのだから………胡蝶は仕方無さげに呟く。仕方無さげに、しかし何処か愛おしそうに、愛でるような口調であった。その物言いに少年は更に困惑し、そして僅かに不快感を感じる。そして、直ぐに今の状況を思い出して動揺した。
「って………あ、あいつなのか!?本当に、何であいつがこんな………どうして戦って!!?」
異形の正体に白若丸は困惑する。当然であろう、最後に見た時の彼と今目の前で暴れる怪物とでは余りに姿が違い過ぎる。ましてや一応味方として認識していたあの狐の女と激突しているのだからさもありなんである。
「どうしてこんな…………」
「今の彼は、内側にある妖の因子が暴走している状態よ。あの分だと殆ど自我もないでしょうね。獣そのものよ」
白若丸の疑問に胡蝶は端的に答える。より正確に、専門的に答える事も出来るのだが、どうせ今少年の頭の上で隠行している式神相手なら兎も角、少年自身に言った所で理解出来ないだろう。説明するだけ時間の無駄だ。それよりも、胡蝶には確かめるべき事がある。
「丸薬は……この分だとないのでしょうね」
もしあるのならば今頃孫娘が飲ませている筈だ。それをしないという事はそういう事なのだろう。誰に使ったのかは知らない。知らない方が良い。その相手を恨んでしまうだろうし、そんな事はあの子が望まないだろう事を胡蝶も理解していた。故にあの孫娘は自身に助力を乞い、この少年を連れてきたのだろう。幸い、この少年は艶麗寺の稚子の出である。ならば…………。
艶麗寺の稚子の出である。ならば…………。
「貴方にはやって貰わないといけない事があるわ」
「やって貰う事………?」
孫娘と異形との戦いを横目にちらちらと見ながら、白若丸は胡蝶の言葉を困惑するように反芻する。
「えぇ。そうしなければここで私達全員が死ぬ事になるわ。全員、ね」
嘘ではなかった。地上からの助けが来る前に孫娘の霊力は切れるだろう。そうなれば分霊は消滅し、残るは何の力もない狐の半妖の子供のみである。今の下人は獣そのもの、あっという間に食い殺されるであろう。そして、異形がそのまま胡蝶や白若丸を見逃すとも思えない。
「……言っておくけれど、一人で逃げるのは無駄よ。彼が大分減らしたけれど、巣穴にはまだ幾分か蜘蛛や河童が彷徨っているでしょうから。救援と合流する前に捕まるでしょうね」
念のために胡蝶は脅迫する。すると白若丸は不愉快そうに顔をしかめさせる。
「それくらいの事、俺でも分かるさ。………それよりも、俺に何をさせたいんだよ?」
胡蝶の言葉に大分機嫌を損ねたようで口調を悪くさせる白若丸。青いと胡蝶は思った。直ぐに顔に出るばかりか声を荒げるとは……尤も、それを指摘する程胡蝶も子供ではない。今はそれよりもやって貰うべき事がある。
「………そうね。鎮魂の舞い、とでも称しましょうかしらね?」
「鎮魂の、舞い?」
胡蝶の発した言葉に、少年は一瞬その表情をきょとんと呆けさせていた…………。
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『ギャ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ッ゙!!!!』
「っ!!」
洞窟内に轟く咆哮、次いで放たれるは一閃の光条であった。銀の狐は桃色の瞳を見開くと身を翻す。緊急回避であった。
寸前で射線から離れる事に成功した葵は見た。放たれた光線がその先の岩壁を貫通する光景を。そのまま周囲の岩を融解させていく光景を。そして光線はそのまま射線をズラしていき………。
「不味いっ……!!」
迫り来る熱線の光筋にぼうっ、と自身の衣服が袖口から発火したのに気付いた葵は尻尾を使って更に跳躍、急いで熱線から距離を取る。同時に口より冷気を吐き出して衣装から燃え上がる炎を掻き消した。幸い、今の肉体は見た目こそ肉感的な女に過ぎないが、その実態は凶妖に近い程に頑強な筋肉の塊である。衣装の発火の熱程度では火傷すらしない。しないが………。
「それにしても、本当に厄介な事ね」
葵は呟く。彼女の視線の先では熱線を咳き込みながら射出し終えようとする異形の姿があった。ゲホゲホと噎せながら、熱線は次第に光を失い蒼白い炎から紅蓮色のそれに代わり、最終的には竈から出るような唯の黒煙に変わる。
どうやら、彼自身未だ自らの肉体と能力を制御出来ていないようであった。寧ろ、振り回されていると言って良いかも知れない。そして、その動きもまた本能的で衝動的で………。
「付け入る隙がないわけではないのだけれど、ね………っ!!」
黒煙を吐き出すのをどうにか止めて、飛び道具を使うのを諦めた異形が、しかし四つん這いの疾走で当然のように音を置き去りにして突撃して来るのを葵は受け流す。止まる度に衝撃波が空気を押し潰す轟音が響き、文字通り足下の地面を抉り取りながら無理矢理に踵を返して突貫する彼を、まるで舞うようにして葵は次々と避けきって見せる。
その姿は西方の闘牛士を思わせた。一見して可憐にして優美な舞い、しかしながら当の葵にとっては決して余裕がある訳でもない。寧ろギリギリであっただろう。それだけ異形の突貫を避けるのは難しかった。より正確には掠り傷すらなく避けきるのが難しかった。
(っ……!?このままだと流石にじり貧ね。距離を取ろうにもその隙もないと来てる。向こうの準備は………!?)
横目に此度の要となる二人を覗き見る。どうやら首尾は上々……とはいかぬまでも最低限形は整えられつつあるようであった。宜しい、ならば後は此方である。さて、どうやって彼に動きを止めて貰うべきか………。
「いや、………あぁ、そういう考え方もあるわね」
打開策のない状況で天啓のように葵の明晰な脳裏に浮かんだその手段に、しかし彼女は依代の表情を僅かに硬くさせる。しかし、それがこの場において最も確実な手段であるのもまた事実。故に………。
「………後で怒られるでしょうけれど、仕方ないわ」
小さく、覚悟を決めるようにして呟かれる言葉。彼も自身も時間は有限で、背に腹は代えられない。ましてや彼のためならば葵は自身の財も、名誉も、命も、好意だって惜しくはなかった。だから決断する。だから決心した。
………故に彼女は、正に受け流していたその爪の一撃を敢えて受け止めた。直後、彼女の白く透き通るような腕にそれは浅く食い込んだ。赤い血飛沫が周囲に飛び散る。
『グオッ!!?』
同時に異形は目を見開いて驚愕する。それは理解出来なかったためだ。
これまで幾度となく受け流され、回避されてきた攻撃………正にこの瞬間も振るっていた爪の一閃もまた同じように回避されるだろう事を異形は理解していた。理解した上で目の前の存在に時間制限がある事を本能的に察知していた彼は焦りから決定的な隙が生まれるのをずっと待ち構えていたのだ。それを……何故こいつはこの場面で敢えて傷を受けた?
言語化されていなくとも、異形は限りなくそのように思考して、驚愕した。目の前の狐の女の、否、それに憑りついた存在の狙いに思わず身構える。動きを止める。警戒する。尤も、それは無意味な行動であっただろう。何せ………次の瞬間には異形はその全身を痺れさせて、痙攣させていたのだから。
『グオオオォォォォォォッ!!!???』
それは驚きと痛みから来る絶叫であった。千年土竜の電撃ですらも受け止める黒い鱗と強靭な筋肉で包まれた身体は、しかし全身に駆け巡る激しい痛みの前には無力であった。当然だ、痛みは外的要因ではなくて、内的要因から来ていたのだから。
元陰陽寮頭である吾妻雲雀が下人に対して掛けた呪いは絶妙であった。絶妙な力加減であったと言えるだろう。
相手を殺さずに、後遺症を与えずに、しかし神経を直に刺激して生み出される激痛は保護対象者が害を与えた者から逃げられる時間的猶予を与えるためもあって容赦のないものであった。それこそ唯人であれば一時的にとは言え泡を噴いてのたうち回り、白目のまま気絶しかねないもので、それは相手が黒い異形の人外相手でも十分な効果を持っていた。ましてやその激痛が不意を突くような想定外のものであれば尚更である。
『グオッ、グッ……ヴォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙!!?』
前後不覚になって苦しみのたうつ異形。それは葵にとってこの上ない隙であった。そしてそれを見逃す彼女ではない。間髪入れず、満を持して葵は命じる。
「今よ。おやりなさい」
『グオッ!!?』
葵のその言葉を口にしたのと同時に異形は漸くその気配に気付いたが遅かった。余りにも目の前の女狐との戦いに意識を割かれ過ぎていた異形はいつの間にか復活していた神鷹、颯天の存在に気付けなかったのだ。
次の瞬間、背後からの衝撃に異形は吹き飛ぶ。颯天の突貫であった。自身の数十倍の質量の激突に、異形はしかし唯でさえ呪いの激痛で受け身も取れず、何度も何度も跳ねながら地面に叩きつけられる。
『グッ、グオ゙オ゙オ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙!!?』
「御免なさいね」
悲鳴を上げる彼に謝罪の言葉を呟いて放たれるのは風の刃であった。細切れにでもするのかという程の風の刃が扇子から放たれて異形の血肉を切り裂いていく。下手な大妖ならば一撃で即死するようなそれを前に異形はしかし致命傷には至らない。多くの肉を切り落とされてよたよたとふらつくが、それでも尚人の原型を留めていた。粉塵の中で浮かび上がる全身血塗れの不恰好な人影が怒りの唸り声を上げる。
無論、それもまた葵の計算通り。畳み掛けるように彼女の攻勢はまだ続く。
「さぁ、お行きなさい」
それは符であった。無数の封符が葵の、狐の依代の袖口から現れると、それらは一斉に血に塗れた異形の身体中に隙間なく貼り付いていく。白い符が傷口を塞ぐように貼り付き、赤く染まる。彼の内側から膨れる腫瘍の成長に無理矢理蓋をする。封じる。
………こんな事もあろうかと鬼月葵が夜なべして一枚一枚丹念に呪いをかけた封符、それは一枚が下手な大妖程度ならば封印出来るような上等な代物である。その性能は葵の技術の高さもあるが橘商会から仕入れた札や筆、墨に至るまで特上の呪具で揃えられているが故のものであった。
使い捨ての消耗品としては採算度外視の破格の性能の封符、それが凡そ千枚。幾割かが咄嗟の反撃で切り刻まれ、焼かれたがそれでも大半が異形を捕らえ、その身体に貼り付いて、不可視の力で彼を拘束したのだ。そして、彼を呑み込む妖の力を封じたのだ。
止めとばかりに颯天がその爪で異形の頭と身体を押さえつけて、その質量をもって物理的に異形の動きを完全に封じた。颯天の足下で怨めしそうに唸る異形は、しかし何も出来ない。出来ないが………。
「まぁ、時間稼ぎにしかならないわね」
漸くの思いでどうにか封じられた彼を見て、葵の分霊は呟く。確信を持って呟く。実際、彼の全身に貼り付き拘束する封符は一枚ずつ、少しずつ焼けていき、腐食していき、塵と化していた。それも彼の血で赤く染まったもの程優先的に………それを確認して颯天が一層自身の体重を乗せるが、その効果は怪しいものであった。
忌々しい堕ちた地母神の呪い、網膜から侵入した僅か数滴の返り血ですらこれ程のものとは………。
「持って半刻、いえその半分も持ちそうにないわね」
注いだ労力と時間と資産を思えば大赤字と言える結果……しかし、それでも構わなかった。今の葵達にはこの短い時間が千金に値するのだから。
………そしてその時が来た。必死に拘束を解こうと暴れ、咆哮する異形は刹那、沈黙した。沈黙して、符の隙間から覗く赤い眼光はそれを見た。それを……凝視した。
「祓え給え、清め給え………荒ぶる怒りを鎮めたまりて、静め給え………」
暗闇の中で、その祝りと鎮魂の言は洞窟内に響き渡った。幾重にも反響し、魂に直接言い聞かせ、染み渡るような言葉………。
「ち、鎮魂し、守り給い、幸与え給え荒御霊よ………和魂に転じ給わんとここに乞い願う………」
震えつつも、美声でもって祈りの言葉を口にするその人影はゆっくりと異形に近付く。そして、異形はその姿を認識して僅かに唸った。
嘆息し、驚愕するような唸り声であった。
「御柱を慰めんといざ、我此処に神楽の舞いを捧げ奉らん………」
女物の紫色の着物を着こんで引き摺り、扇を翳して、少年は………白若丸は緊張に強張った表情で彼の眼前に立つのだった………。
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神楽……それは文字通り神を楽しませるための舞である。より正確に言えば招き寄せた神を舞を奉納する事でその魂を鎮魂させる儀式を指す。
扇を手にして、同じく女物の着物を着込み、少女のような声音で舞い始める白若丸。艶麗寺の保護する憐華流扶桑舞踊の神楽舞………稚子時代に仕込まれたそれを少年は唄い、舞う。
「っ………!」
清らかな調で反響するように唄いつつも、少年の声音は震えていた。唄いながら、舞いながら少年の脳裏に浮かぶのは寺院で暮らしていた頃の汚らわしい記憶であったから。
そもそもが寺でこの舞踊を仕込まれた事自体が余興であったのだ。少女のような容貌であるが故に巫女の服装に化粧までさせられて、大勢の前で舞うのはただの見世物で、舞が終われば手を引かれて衣装を剥がされるのが常であったから。少年にとってこの舞に対して何も良い思いなぞなかった。その唄に対して何の祈りもなかった。これまで少年はただただ機械的に舞い踊るだけであったし、鬼月の屋敷に連れられてからはそれすらもしなかった。寧ろ舞う機会がない事に安堵した程であった。
それが……まさかこんな所で舞う事になろうとは少年は思ってもいなかった。
『グヴヴヴヴゥ゙ゥ゙ゥ゙ゥ゙…………』
「………動きがかたいわ。もっと滑かに、物腰を柔らかく舞いなさい」
「っ!?」
不気味な唸り声、そして背後からの囁くような声による指示に、少年は歯を食い縛る。屈辱と悔しさから食い縛る。食い縛るが………文句を言う事は出来なかった。そんな暇はなかった。黙々と、言われた通りに舞う少年。
唸り声は次第に静かになっていく………。
「そうよ、それで良いわ………」
鬼月胡蝶は眼前で踊り舞う少年を一瞥してそう呟く。足は折れているのでしなだれたまま、その出で立ちは下着としての白装束に身を包む。着物は少年に着せてしまった。大きさが合わないがこの際仕方なかった。あんな汚れきった出で立ちに比べれば自分の着物の方が素材が良い分幾分かマシであろう。相手は一応神気を纏う身である。宥めるのならば粗相してはならない。
そして彼女もまた手元の式札から笛を召喚するとそれを吹き鳴らし始める。戦闘開始前に孫娘が手渡したそれの中に封じられていたその笛もまた橘商会経由で入手した呪具である。
即興の、そして間に合わせの人と道具を使った神楽儀式は、しかし葵との戦いで消耗していた異形には効果があった。あれだけ封印に抗おうとしていた異形は静かに黙りこみ始める。うとうとと、その瞼を微睡ませ始める。睡魔が彼の精神を蝕む。
(ここまでは良い。問題はここからよ。上手く彼の神気を封印しないと………)
妖としての側面を物理的に削り落として消耗させて、代わりに神楽をもって神気を肥大化させ、同時に睡魔を導き、鎮めていく。そしてそのまま鎮魂した神気を封印する………それが彼女らの狙いであった。
その漢字の意味合いとは逸脱して、扶桑国においてはその神楽の儀式は神を楽しませるのではなく、寧ろその逆に活用された。元々は各地にて独自に生み出された人々に災いをもたらす気紛れな神に媚びて宥めるための舞………扶桑国はその儀式を周辺の集落や人里を併合していく中で神を縛り付けて、貶めて、屈服させる方向に発展させた。扶桑国における神社の役割とはその土地に封じて、閉じ込め、無力化した神を管理する事である。
そのための神楽………彼が鎮まるのを見計らうように葵は符を飛ばして術式を形成していく。宙を飛ぶ符は五行を結ぶように五ヵ所で静止すると結界を形成していく。その者の身体に巣食う神格のみを封じるための術式結界である。
至難の業であった。普通に考えれば分かる事だ。態態その肉体に渦巻く人と妖と神の因子を切り分けて封印するなぞ手間でしかない。モザイク状に散らばり混ざり合う癌細胞と正常な細胞を区別して切除するのが相当な手間がかかるように、そんな事するくらいならばその者の魂ごと纏めて封じ込めてしまう方が百倍簡単である。実際、これが扶桑国の指導部であれば迷いなく依代の下人ごと封じるか、殺処分していたであろう。
葵にとっては論外な選択であった。彼女にとって何よりも優先すべきは彼の命であったから。そのためならば葵は他人の命も自身の命も気にせず生け贄にするだろう。そして実際葵の分霊に過ぎぬ狐に憑依する魂は、唯でさえ短い自らの寿命を豪快に削りながら彼の中で絡まり合う人と妖と神の因子を慎重に切り分けていく。そして妖と神の因子を封じ込めていく………。
「っ……!?中々、簡単にはいかないわねっ!!」
魂を切り刻み、切り分けていくその作業はさしもの葵とて相当な精神力を必要とした。失敗は許されない。そして下手に削り過ぎると彼の精神が壊れる。あるいは寿命を大きく失う事になる。ましてや分霊たる彼女に残された時間は長くはない。故の難しさであった。額から緊張に汗が流れる………それでも彼女は完璧な仕事をしてみせる。既に魂の裁断は三割方終わらせていた。
そうだ、状況は順調に推移している。このまま行けば何の問題もない。そう、このまま行けば。
「そうは問屋が卸さないって訳かしら……?」
刹那、封印の儀式に意識を集中させていた葵は漸くその気配に気付いた。同時に振るわれる風の刃、しかし………。
「効果がない?……いえ、これは!!」
中妖程度ならば容易に一撃で仕留める事の出来る扇子の一振るいに闇の中からにじり寄る気配が一つも消えていない事に葵は怪訝な表情を浮かべ、同時に苦虫を噛む。彼女はその正体に既に気付いていた。そして自身の攻撃が通じなかった理由も………。
「これは、河童……!?」
闇の中から現れる無数の人影共を前に胡蝶は驚愕して絶句する。同時にその存在が今更のように現れた理由に舌打ちする。
考えても見れば当然であった。土蜘蛛が呼び寄せて、彼が焼き払ったのは全てが土蜘蛛の眷属であった。いくら地上で退魔士達を迎撃してるとはいえ一体もいないのは明らかに可笑しい。何の事はない。単に蜘蛛共の方が先に到着したに過ぎないのだ。河童共は単に足が遅いので遅れて来ただけなのだ。
そして葵の攻撃が通じなかったのもまた当然。風の刃は霊術である、河童共に効く筈もない。いや、そんな事はどうでも良い。問題は………。
『グヴヴゥ゙ゥ゙ゥ゙ゥ゙!!』
「っ……!?駄目よ、舞を続けなさい!!」
再び始まる唸りの声に胡蝶は叫ぶ。視線の先には同じように河童の存在に気付いて動きを止める白若丸の姿。神楽の舞を止めた事で彼が再び目覚めて暴れ出そうとしていた。
『キキッ!!』
『キキキッ!!』
同時に河童共が一斉に駆け始める。その数凡そ数百体。後続を含めればその倍はいるかも知れない。
「なめないで欲しいわね。両生類共がっ!!」
軽蔑の言葉と共に振るわれたのは狐尾であった。蜘蛛やら鷹やら土竜やらが暴れたお陰で其処ら中に散乱した無数の礫を地面から掬い上げるようにして吹き払う。
『キッ!?』
『ギェ!!?』
尻尾の巻き起こした衝撃によって高速で叩きつけられる無数の礫が河童共の先頭集団を引き裂いた。頭を吹き飛ばされて、腹の肉を持っていかれて、足を引き千切られて、身体を二つに切断される。軽く五十を超える河童が一払いで肉塊となり絶命した。しかし、河童共の突撃は止まらない。舌打ちする葵。
「させるか!!」
その声と共に胡蝶達に迫る河童達を横合いから現れた人影が切り捨てた。短刀を構えて胡蝶達の前に立ち、河童共と相対する。
「貴方は……!?」
「伴部さん、只今戻りました……って、貴女は!?」
葵から遅れて戻ってきた隠行衆の少年は、胡蝶の姿を見つけて困惑する。状況が掴めずに動揺する。
「いいから貴方はその化物共を足止めしなさい。彼を助けたいのならね」
「えっ!?どういう………そんな、まさか!?」
白狐の言葉に戸惑う少年は、しかし次の瞬間に神鷹に押さえつけられる人形の姿を認めて驚愕する。経緯は不明であるが……この場の状況から見て、葉山にはそれ以外には考えられなかった。
そして、葉山は白若丸の姿を見て、彼が助けに来た下人がどういう状態になっているのかを確信する。
「余所見しないで、来たわよ……!!」
「っ……!?」
一瞬唖然としていた葉山だが、胡蝶の言葉に我に返ると迫り来る河童共を迎え撃つ。一体の喉を切り裂き、一体の顔面に足下の石礫を蹴りつける。三体目は膝蹴りを腹に叩き込んで仰け反った所で切り捨てる。隠行衆らしい最小限の動きで急所を狙い打つ鮮やかな手並みであった。しかし……河童共の波を止めるには不足していた。
「これは覚悟を決めるしかないかしらね………」
この場において白若丸と葵は彼を救うためには必要不可欠な存在であった。二人を失う訳にはいかない。そして葵は霊力に限りがあり、封印の儀式のためにその場を動けず、白若丸に至っては戦う力そのものがなかった。そして助けに来た葉山一人では河童共全員の相手は不可能。故に最悪胡蝶は自らを人柱にする覚悟を決める。河童共にとっては自身は実に魅力的な獲物だろう事を胡蝶は自覚していたから。
「ちぃ、小賢しい!!」
吐き捨てるような言葉と共に再度、封印の儀式に意識と力の大半を行使する葵の支援の礫の攻撃が行われる。再び数十単位で四肢が吹き飛び絶命する緑色の怪異共。
しかし、止まらない。止められない。止めきれない。
先頭集団が胡蝶達に迫る。葉山は咄嗟に胡蝶の前に出て河童共に立ち塞がる。尤も、悪足掻きに過ぎない。葉山と胡蝶は覚悟する。この直ぐ後に始まる悲惨な自分達の運命に。歯を食い縛る。時間を稼ごうとする。そして………。
「なっ……!?」
「っ!?どうしてっ!!?」
覚悟は呆気なく裏切られた。自分達をまるで存在しないかのように通り過ぎる河童の群れに胡蝶と葉山は絶句する。当然であろう。二人共霊力持ちであり、胡蝶に至っては先ず有象無象の妖共がまず放っておかないような極上の御馳走なのだ。それを何故……!?
「えっ……!?」
そして驚愕するのは今一人、白若丸であった。何故ならば緑色の怪物共が真っ直ぐに目指す獲物は彼であったからだ。涎を垂らして、何かに先導されるかのように、誘導されるように向かってくる河童の群れ………!!
「させないわっ!!」
咄嗟に葵が狐尾で地面を抉った。掘削された民家程あろう巨大な岩盤がそのまま河童共に向けて回転しながら突っ込む。先頭の十体余りを磨り潰して、そのまま後続集団に突っ込んだ岩盤。軽く十数体が押し潰された。だが………止められない。
『キキキキッ!!』
『キカカッ!!』
落下した岩盤の左右から潜り込み、あるいはその上から跳躍しながら河童共は尚も突き進む。がむしゃらに、脇目も振らずに一心不乱に突き進む。既に少年と怪物共との距離は十歩もなかった。
「逃げなさい!!」
誰が言った言葉だったか、しかし恐怖で立ち竦む白若丸はその場を動く事が出来なかった。出来よう筈もなかった。此方を凝視して突き進んで来る無数の怪物共を前に唯の子供がどうして的確な判断が出来ようか。そも、逃げた所で子供の足ではあっという間に追い付かれてしまう筈だ。森の中で後ろから飛び付かれた破落戸共の姿を少年は良く覚えていた。もう逃げられない事を少年は悟る。
『キキキッ!!』
不揃いの汚い牙を見せて正面から飛び掛かる先頭の河童。少年は殆ど本能的に頭を守る。しかし、無意味な行いである。河童のその顎の力は少年の頭蓋骨を腕ごと砕いてしまうだろう。思わず顔を伏せる。身体を丸める。そして、自身の死に身構える。
……………少年が覚悟していた瞬間はやってこなかった。
「………?」
ゆっくりと、恐る恐ると少年は目蓋を開く。そして少年は気付く。自身が巨大な何かの影にいる事に。そして見上げる。それが何なのかを確認するために。
「えっ?…………嘘?」
困惑と驚愕の言葉を呟いたのは葵であった。そして彼女は思わず自身の形成した結界を一瞥して、再び視線を戻して目を見開いた。目の前の状況が信じられなくて、絶句する。
『キッ……キキ………?』
白若丸に飛びかかっていた河童は空中で小さく呻く。正確には横腹を咥えられてその場で小さく悲鳴を上げていた。何が起きたのかも分からず困惑しながらもがき苦しむ。そして…………。
『ギッ……ギキィ………?』
ミシミシと肉の潰れる音が響き………そしてその牙で河童は二つに切断された。どちゃりと二つの肉の塊が地面に転がる。白若丸はその光景を唖然としながら見つめ、そしてそれを起こした存在を直視した。全身血塗れの符に身体を覆われたそのおぞましく醜い存在を。そして………呟いた。
「とも……べ……あに、き?」
少年のその言葉に、異形の怪物はすっとその瞳を細めた。それは人間らしい、澄みきった理性を宿した穏やかな瞳であった………。
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