第四三話

それは蹂躙そのものであった。


 商人が、それも個人で行商するような者であれば兎も角、大商会の幹部になるような立場の者が態態己の身体を鍛える事も、ましてや妖と戦える程に鍛練するなぞまずもって有り得ぬ事である。いや、商会の警備部門の幹部であればまた話は違ってくるが少なくともこの場においてその役職に該当する者なぞおらず、故にそれを論じるのは無意味であろう。


 ……兎も角も、商人達の集団の中に妖を一体放り込めばどうなるか、この状況はその貴重な一例というべきであった。


「ぎゃ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!?」

「畜生!こいつ速くて……ゔがっ゙!!?」


 突如生まれた化物に飛び掛かられて、ある男は肩を踏み潰されて悲鳴をあげる。その傍らにいた別の男は咄嗟に拳銃を発砲して反撃するが即座に拳銃ごと手を切り裂かれる。銃身と共に切断された指が地面へと落ちて男は血の噴き出す手首を握って踞る。


「ひっ……逃げっ………!?」


 恐怖の余りに背中を見せて逃げ出すのは悪手だった。ぐちゅぐちゅと現在進行形でその身体を変異される妖は獅子のような素早さで駆けると一気に距離を詰めてそのまま爪を一振りして逃げ出す者の身体を切り裂く。神経を切断されて半身不随となった男はびくびくと地面に倒れて痙攣する。


 馬のようで、獅子のようで、蜥蜴のようで、狼のようで、昆虫に似ているし、魚の面影もある。今も尚その内に二つの要素が複雑に絡み合い、一瞬ごとに肉体が破壊されて、再生されて、再構築されているその化物の姿に皆が皆嫌悪感を含んだ視線を、そして恐怖に犯された視線を向ける。


『グウウウウウゥゥゥ……ギャオォォォォ!!!!』

「あっ……う………」


 振り向いた化物は轟くような咆哮を上げる。事態の変化について来れずに呆然とその姿を見つめる佳世にはその咆哮は怒り狂っているようにも、絶望しているようにも、嘆いているようにも、苦しんでいるようにも見えた。


 ……尤も、残る者達からすればおぞましさしかないのだが。


「くっ……!?おのれぇ………!」

「えっ……?きゃっ…いやっ!?」


 化物がその場の男達を近場から、手当たり次第に襲う中で、倉吉はその混乱に乗じて行動を開始した。


 弾正台から裏から手に入れた勾玉で化物の死角に隠れて、佳世の口を塞ぎ、そのまま闇夜の中を引き摺るようにして逃げ出す。倉吉からすれば佳世さえ確保出来れば幾らでもやり様はあった。部下ならばここに連れて来た者共以外にも幾人もいるのだ。佳世という人質だけがこの場で代替の利かぬ存在で、故に倉吉は彼女を拐ってこの場を逃れようとして………。


『グゥオオオオオオオォォォォ!!!!』


 次の瞬間、化物は天を駆けるように飛び、倉吉の行く手を先回りした。身体の動かし方に不慣れなのか勢い余って着地とともに豪快に土を抉り、そのまま粉塵を上げながら滑り、漸く足で踏ん張り停止するとまるで複数の存在を混ぜ合わせたかのような化物は獰猛で狂暴な唸り声を上げた。殺気を放つその異形の怪物の眼光に思わず倉吉は、そしてそれを直接向けられた訳ではない佳世すら身をすくませる。


「ちぃ!?誰かこいつを……えぇい糞っ!」


 さっと振り向いて誰かをけしかけようとするが無駄だった。背後の惨状は凄惨の一言だ。鼻や耳を、あるいは指や手首を切り落とされて、あるいは腹部や背中を切り裂かれて、肩や足を潰されて、血塗れとなってその場に崩れて呻き苦しむ部下の中にその命令を実行出来る者は誰一人としていなかった。


『グルルルル………!!』

「ぐぅ……!!?」


 背後の惨状に瞠目していた倉吉はその唸り声に我に返る。正面を向き直せばじわりじわりと四つ足で彼と佳世ににじり寄る化物。それは少しずつ獲物を追い詰める肉食獣の所作そのもので………。


「く、糞、糞、糞、糞!!化け物め!!こ、こいつがどうなっても………あぁっが!!!??」


 咄嗟に脅迫するように佳世の首元に向けて脇差を引き抜いて構える倉吉は、しかし次の瞬間に裂けるように開いた口元から伸びた舌に左肩の肉を左耳ごと持っていかれる。化物の様子見の仕草はただの欺瞞だった。実際は飛び道具なぞを持たぬ自身の身体を「作り変える」ための時間稼ぎに過ぎなかったのだ。そして倉吉が恐怖に動いた隙を狙っての一撃は完全な不意討ちであった。


「うぐぅぅぅ………!!?」 

「ひぃっ!?」


 肩肉と耳を吹き飛ばされて、その激痛に脇差を落とす老商人。飛び散る鮮血は佳世の衣装にもかかり、小さく悲鳴を漏らす少女……。


 一方、化物は短期間の内に自身の頭部を「再生」させて、「変質」させて、その構造を変えたためにその感覚に慣れていないようであった。伸びきった舌を戻す事も出来ずに粘液をてらつかせた赤黒いそれをだらりと垂らして、あんぐりとある種間抜けに開き切った口の中に呑み込むように収容しようとして悪戦苦闘する。そして、倉吉は戦士ではなくとも商人である。その機会を見逃さない。


「ぐおっ………!おのれぇもののけがぁ!!」


 痛みに耐えて予備の拳銃を引き抜いた倉吉は肩を押さえつつ引き金を引いて発砲する。口蓋の中にで、であった。


 発砲音とともに血飛沫が飛び散った。化物のであった。表面は兎も角、口内までは流石に強靭ではないようで次の瞬間悲痛な叫びを上げて怯む。


「はっ!効いておる!効いておるではないか穢らわしい下人め!糞っ!ふざけよってからに!次はその脳天を今一度吹き飛ばしてやるわ!!そして……そして……はははっ!切り裂いてばら売りしてくれる……!!」


 漸く怪我らしい怪我を与えた事に倉吉は嘲りの笑みを浮かべる。それは恐怖と痛みを誤魔化す意味もあって狂気に満ちていた。


「死ね、死ねぇ……!!」


 そして連装の銃身のもう一方に込めた弾丸を撃ち込もうと引き金を引いて……。


『………』


 刹那、誘拐からこの時まで、同じく式神で随行していた牡丹の目すら掻い潜ってずっと忍んでいたその式神が隠行しつつ倉吉の拳銃にまで近付いた。そして、次の瞬間に軽い呪いをかけて……。


「ぎゃっ!?」


 引き金を引いたと同時に発熱して爆発した黒色火薬によって拳銃は暴発する。銃身が砕け散り、鉄片が飛び散り倉吉の指が吹き飛ぶ。


「指が……儂の…儂の指がっ……!?うわっ!!?」


 血塗れの手を押さえて苦しむ倉吉はしかし、次の瞬間に突如とした浮遊感におそわれる。そしてそれは思い過ごしではなくて事実であった。


 化物は既に伸びきった舌を自ら噛みきっていた。その上で血を垂れ流すままに老商人のその衣服に噛みついていたのだ。老商人はその身体を咥えられるようにして持ち上げられる。


「や、止めろ!止めるんだ化物が!!?ぎゃっ……!!?」


 じたばたと暴れる倉吉を怪物は振り回した。何度も何度も乱暴に振り回し、そして………周囲の蔵屋敷の壁に叩きつける。


「ぎゃあ!?止めろ!!いがっ……やめ……あぎぃ……!!!?」


 バキッと骨が折れる音が何度も響く。ビリビリと衣服が破れる音がする。身体が擦れて、打撲して、手の傷口から四方に血が飛び散る。そして………。


「がっ………!!?」


 そのまま乱雑に、塵のように放り捨てられた老商人は最早呻き声を上げながらぴくぴくと痙攣するのみだった。死んではいないが瀕死だった。少なくとも最早彼一人の独力でこの場から逃げる事は出来ぬ程にぼろぼろだった。


「…………」


 そんな化物を見下ろして、小さく不快そうに唸る化物は、しかしもうくたばり損ないの老商人に対しての興味を失うと踵を返す。そして………その視線の先に橘佳世を定めた。


「っ……!?」


 その眼光に思わずびくりと肩を震わせて、しかし佳世はその場から逃げなかった。いや、逃げられなかった。目の前の存在相手に震える足で逃げようとも直ぐに捕まるだけなのは言うまでもない事だ。


『グルルルルル…………』


 唸りながら、一歩一歩、ゆっくりとそれは佳世に向けて歩みを進めていく。距離が縮むのにそう時間はかからなかった。いつの間にか妖は佳世の目の前に立ち、そのまま彼女は見下ろされていた。しかし……それだけだった。


 静寂……そう、静寂だった。怪物の小さな息遣いのみが木霊する。佳世は目の前の圧力に気圧されて、しかし勇気を振り絞ってゆっくりと口元を動かした。


「伴部……さん………?」


 此方を見下ろす赤い眼光、首を傾げ観察するような仕草に佳世は一縷の望みを掛けて、嘆願するように、祈るように呼び掛けた。


 だが………。


「何をしているのですか、貴女は!?」

「えっ!?ひっ……!?」


 耳元で響く叱責、次いで次の瞬間目の前の化け物は獲物を見つけた肉食獣の如く佳世に飛び掛かり……不可視の加護によって遮られる。


『グオオオオォォォ!!!??』


 鉄が引き裂かれるような金切音、次いで鳴り響くは化け物の悲鳴と怒声であった。結界によって少女の捕食を阻止された妖は怒り狂いながら今一度突貫し……尚も結界によりその目論見は妨げられる。


「良いですか!!?その髪飾りに腕珠、絶対に手放さないで下さい!!」

「えっ!?で、でも……!!?」

「食い殺されますよ!?」


 肩に乗って命令する式神に佳世は狼狽えるが、牡丹は厳しい口調で釘を刺す。目の前で退魔の結界に食らいつき引き裂こうとする化け物に話が通じるとは到底思えなかった。もし佳世が呪具を放り出せば次の瞬間に彼女は間違いなく食い殺されてしまう事だろう。故に牡丹は厳しく叱責する。


『グウウウウゥゥゥゥ………グオオオォォ!!!!』

「ひっ……!?」


 一方、佳世は目の前の光景に怯え、恐怖し、震える。それはおぞましい容貌の怪物が目の前で明らかな殺気と死気を帯びて襲いかかっている事も一因であるが、それだけではなかった。


 呪具は露店で売られている物にしては相当に品質が良いものだったのだろう。多くの場合安物の御守りや呪具なぞ低級の妖共に忌避させる程度の効果しか望むべくもないものである。それを佳世のもとにあるそれは中妖級はあろう化け物に対して物理的な守護を働き、あまつさえ化け物に傷を負わせてすらいたのだから。


 佳世を守る呪具の結びし結界は銃弾や弓、あるいは槍や刀には何らの意味もない。しかし相手が穢れし獣であれば話が別で、現在進行形で結界は化け物の牙を、あるいは爪を防ぎ、寧ろ触れた部分からその妖力を焼くように浄化していた。結界に躍りかかる妖は、しかしその接地面から肉の焼ける音と臭いを放ち、泡立つように焼け爛れていく姿を佳世は確認していた。痛々しい傷からは赤い血が滲むように染み出して結界を汚し、それすらも薄い白煙を放ちながら蒸散していく。


『グオォォォッ!…グルルル…グオオオオォォォォォォ……!!!??』


 獰猛で、狂暴で、しかし何処か悲痛そうに獣は雄叫びを上げる。叫びながら更に爪を立てて、牙を立てて佳世に襲いかかるがその凶器は少女には届かなかった。


 尤も、だからといって佳世は安穏としていられるような図太い性格ではなかった。特に自身に襲いかかっているその化け物の正体を知る身からすれば。


「い、いや……やめて下さい!!い、幾らやっても無駄ですから!お願いです、もう止めて下さい!!止めて下さい……やめてぇ………」


 恐怖だけではない感情を含んだ悲痛な声音の懇願………佳世にとって今正に自身を噛み殺さんと、食い殺さんとしている穢らわしい怪物は、しかし彼女にとって確かに恋をしていて、傷つけたくない存在だったもので…………。


『グオッ!!ググググゥゥ……グオオオオォォォォォォォ!!!』

「いやぁ……おねがい……やめてよぅ…………」


 赤い血に濡れる結界越しに妖を見ながら佳世は呟く。それは哀願であった。


 苦しかった、妖によって傷一つついていない佳世はしかし苦しくて痛かった。心が痛かったのだ。目の前の妖が……彼が傷付く姿を見るのが辛かったのだ。


 そして、ふと佳世は違和感に気付いた。今更のように気付いた。目の前のその化外の物と化した存在のその不自然な行動に。


 思えばそうなのだ。ここまでの動きからして、目の前の存在がただの知恵のない怪物である訳がないのだ。優先順位や相手の隙を窺う程度の脳はあるのだ。そんな存在が先程から結界に対してまるでがむしゃらに爪を立てて、牙を突き刺すだけの行為をするだろうか?そんな事が無意味であるなど直ぐに分かるだろうに?


「なら………」


 ふと、怯えて視野が狭くなっていた佳世は冷静になるとともにそれに気付いた。目の前の存在のその爪に、その牙に皹が入っている事に、その付け根から滲むように血が流れている事に。その爪牙の動きは佳世を襲うというよりも寧ろ結界そのものに叩きつけるためのようで………。


「っ………!!?止めて下さいっ!!そんな事………!?」


 佳世は叫ぶ。悲鳴を上げる。漸く、今更のように佳世は気付いたのだ。その動きは佳世を傷つけるためではない事に。それは彼自身が自らを………。


「ばっ……よしなさい!貴女、死にますよ……!?」


 咄嗟に自身の髪飾りを外そうとする事を止めようと牡丹の式神は叫ぶ。しかしそんな声は届かない。彼のやろうとしている事を理解してしまって、彼をこれ以上傷つけたくなくて……故に佳世は半泣きのまま衝動的にそれを両手で投げ捨てようとして………しかし、既に機は逸していた。何せ………。


「あらあら、これはまた随分とやんちゃしたものね?こんなに散らかしちゃって」


 刹那、透き通った鈴の音のような声音と共にそれが佳世の目の前に現れていた。桜色の鮮やかで艶やかな和装に、それよりも美しい髪がたなびいている。その姿は幻想的で、空想的で、全身血塗れの醜い怪物との対比もあって見る者により一層強い印象を与えるもので………。


「さぁ、貴方。もう随分と夜分を過ぎたわ。……道草はここまでにしてそろそろ家に帰るわよ?」


 少女の目の前に現れた桃色の主君は、変わり果てた自身の部下に、そして最愛の相手である男に対して嘯いた。妻が長年愛して連れ添う夫に語りかけるように堂々と、当然のように、そう口ずさんだ………。





ーーーーーーーーーーーー

「…………」


 一瞬、その場を静寂が支配した。突如として現れた闖入者に対して佳世も、そして化物も硬直した。しかしその意味合いは全く違う。


 佳世が純粋な驚愕で固まっていたのとは打って変わって、化物のそれは獣の第六感から来る危機管理能力からだった。


 妖としての本能が、感覚が、そして僅かに残る記憶の断片が訴えていた。目の前の存在がどれだけ危険な脅威なのかを。


 彼は混濁した明瞭としない思考の中でも自身の状況を把握していた。彼の中では今二つの力が絡まりあい、呑み込みあい、食いあい、そしてどうしようもない状況に陥っていた。


 ………その種族の基盤こそ神霊の獣とは言え、既に化物は半ばそれとは言えぬような醜い混合獣に堕ちつつあった。


 その身体の均衡は崩れ去り、蛹のような人間の外面は完全に剥がれ落ちていて、けれどもその内面は全くの未成熟で……しかも無理に目覚めたがために、身体を作り変えたがために、その存在そのものが未熟な、未発達な奇形児のようであった。こうしている間にも精神は人妖を激しくさ迷い、その性質は霊妖の合間を行き交い、その細胞は刻一刻と死滅と再生と、変質と滅却を繰り返していた。全身を激しい激痛が襲い、気が狂う。その中で微睡みのような理性が思考を巡らして、そして………化物はそれを選択した。


『グゥオオオオオオオ!!!』


 次の瞬間獰猛な咆哮とともに飛び付いた妖。しかしその動きは肉体と精神の疲弊から精彩を欠いていて、唯人であれば兎も角葵にとっては何処までも緩慢なものであった。実際その気になればその手の一振りでこの醜い怪物の命を刈り取る事が出来ただろう。そして………葵はその顎の一撃を無抵抗に受け入れた。


「馬鹿な!?正気ですか!!?」


 怪物の噛み付きを肩に受け入れた葵の選択に、式神越しに牡丹は叫ぶ。それは彼女には到底理解し得ないものであったから。避ける事も、受け流す事も、それどころか反撃も許さず塵に還す事すら出来る葵が怪物の牙を何もなく自身の肩に受け入れる意味が全くその理由が分からなかった。


 そして、それは佳世も同様で目の前で無抵抗に噛み付かれた桃色の少女に向けて唖然とした表情を浮かべる。いや、違う。それは違う。本当に驚いているのは無抵抗に噛み付かれた事なんかじゃなくて…………。


「あら可哀想、訂正しなさいな。別に噛み付かれたなんて大層なものじゃないわ。精々が甘噛みって所ね」


 葵は二人に向けて悠然と、堂々とそう言い放つ。そして良く見てみればその言葉は嘘偽りではない事が分かった。何せがっつりと噛み付かれたにもかかわらず葵の着込む装束の肩部分からはじんわりと赤い染みが浮き出ているだけであったからだ。


 もしこれが本気であったとすれば出血はこんな可愛いものでは済まなかっただろう。いや、それどころか間違いなく肩肉を腕ごと食い千切られていた筈だ。恐らく、その布地に浮き出る血の幾割かは葵の血ですらなかった。化物が自ら切り落とした舌の傷口から溢れ出る血であったから。


 成る程、確かにそれらを考えれば今の傷は精々甘噛みの範疇と言っても間違いではなかった。とは言え、そんなもの噛まれる前から分かる事でもなかろうに………。


「分かるわよ。私には、ね」


 力を込める事もなかった。ただただ当然のように確信を持って、常識を、詰まらぬ事実を語るように葵は嘯く。それは彼女が「彼」をどれだけ信じていたのか……いや、信じているのかを証明していた。


「あ……う…………」


 そしてその発言は、事実は佳世の胸を不可視の剣で貫いていた。目の前の彼女が何らの躊躇もなく恐れを抱く事もなく、前後の情報も分からぬままにそれを決断した事を、自身は出来るのか?


 ……答えは未だに手元にある呪具の存在からして明らかで、それを理解した佳世は襲いかかる劣等感と敗北感の前に思わずその場に座り込んでいた。


「…………」


 葵はそんな佳世を一瞥すると、直ぐに興味をなくしたように視線を戻す。実際それは事実だった。今の彼女にとって佳世を慰める事なぞ優先順位の最底辺に近かった。そんな事よりもやらねばならぬ事がある。


「やれやれ、貴方って目を離したら直ぐにこれなのだから。もう一層鎖で繋いだ方が良いのかしらね?」


 冗談とも、本気ともつかぬ事を口ずさみくすくすくすと笑う葵。妖は、彼は答えない。ただただ彼女の肩に触れるか触れないかといった状態のままに固まって何かに耐え続けるのみだった。いや、それが何かなぞ分かりきっていた。妖にとって目の前に霊力に満ち満ちた無抵抗な娘なぞそのまま放置するなぞ論外で、彼が激しく訴える本能を抑え込む事だけにその少ない理性を全て注ぎ込んでいる事を葵は理解していた。


 だから…………。


「あの女のものなんて腐肉みたいに臭いし不味いでしょうけれど……まぁ、我慢なさいな」


 その頭を愛惜しげに撫で上げて、嘯いて……次の瞬間懐からその黒い丸薬を取り出した葵は鋭い牙の隙間に腕を捩じ込みながら怪物の喉奥にそれを飲み込ませた。


『グオッ……!!?』


 刹那、嘔吐反射的に丸薬を吐き出そうとした神獣の出来損ないの顎を、葵は無理矢理に閉じた。自身の肩に牙が食い込む事を一切気にせず、顔色一つ変えず、ただその白くか細い両腕で条件反射で開こうとする口を抱くように閉じさせる。丸薬はあれ一つしかないのだ。吐き出させてしまったら今度こそどうしようもない。それだけは葵は阻止しなければならなかった。


『グウウウゥゥゥゥゥゥ……グオッ……オオ……ェッ!!?』

「駄目よ。吐いちゃ駄目。飲み込みなさい……飲み込んで」


 苦し気に首を振るって暴れようとするのを抱き締めて、葵は嘔吐を阻止する。牙の間から大量の唾液と胃液が垂れ流れて、葵の手元や衣装を汚し、何なら苦しみに悶えるが故にその牙が深々と彼女の肩に食い込み始める始末で………。


「良いわよ。私で良かったら構わないわ。だからまだ吐いちゃ駄目よ?」


 しかし、葵は不快感も、肩の痛みも少しも気にせずに淡々と宣う。どうせこの後の事を思えば同じ事であるし、何よりも彼女は彼のために汚れる事や傷つく事なぞ厭う事はない。いや、汚れや怪我とすら認識していなかったかも知れない。


 そして……その瞬間が遂に来る。


「来たわね………」


 彼が丸薬を呑み込んだ事と、次いで腹の内から苦し気に呻き始めたのを確認した葵はそれに備える。そして……次の瞬間、葵は強く彼の口を締めていたその両手を離した。


『グオオォォォォォ…………ッ!!?』

「ひっ!?」


 化物の口から湧き出るかのように大量の血が吐き出される光景に思わず佳世は悲鳴を上げた。


 いや、それは血だけではなかった。血の洪水の中に交じって吐き出されるのは内臓であり、骨であった。まるで腹の中のものを内臓も含めて粗方ぶちまけるかのような凄惨な光景………。


 一方、それを正面で受け止めていた葵は顔色一つ変えずその機を見計らう。そして、それが遂に来た。

 

「っ……!」


 何か大きな物が吐き出されたのを血と肉を頭からぶちまけられながら葵は抱き抱えるように掴んだ。ほぼ同時に化物は文字通りその内にあるもの全てを吐き出した事で絶命して倒れる。血の海に……沈みこむ。


「あ………」


 余りの凄まじい光景であったためにただただ言葉もなく凝視しているしかなかった佳世は、ふと、ここで漸く葵が抱えているものの正体に気づいた。


「伴、部……さん…………?」


 葵の手の中で俗にお姫様抱っこされた姿勢で倒れるその姿を見て、佳世は呟いた。全身赤黒い鮮血にまみれていて、一糸も纏わぬ姿で、その髪はほんの少し前のそれに比べて伸びていて、何よりも意識がなかったものの、確かにその人物は佳世が恋をした人物で…………。


「伴部さ……」

「橘の御家の娘よね?」


 佳世が思わず彼の名前を叫ぼうとして、しかしそれは冷たい質問の言葉に遮られる。決して大きな声ではなかったが、底知れぬ程に冷たく何処か意地の悪いその言葉は佳世の叫び声を止めて、彼女の意識と注意を集めるに十分過ぎた。


「安心しなさいな。ここに来る前に貴方の父親には式で知らせておいたわ。そう遠くない内に貴女の下に到着する筈よ。ごまんと人手を連れてね」


 それは何処か嘲るようで、冷笑するようで、しかし悲しそうで羨ましそうにも聴こえる声音だった。


「白」

「ひゃっ……は、はいっ!!」


 その呼び掛けにここまで物陰に隠れるように命じられていた子狐が慌てて駆け寄る。その腰には小刀が、その手元には外套があった。双方共に彼の装備していたもので、下手人共に没収されていたものを葵らが回収したものだ。


 葵は自身の上着で血塗れの彼の身体をある程度拭き取り、そのまま外套に包んでその姿が、その風貌が分からないように隠す。


「さて、後処理は……」

 

 ふわり、と上着の袖口から無数の護符……簡易式を繰り出す葵。その式は彼方此方で呻きながら倒れる男らの頭に貼り付くと彼らの意識を奪い取っていき、同時にその記憶の一部をも改竄していく。また、残る式は血の池に沈むその怪物の死骸に纏わりつくと同時に……発火した。


「きゃっ!?」

「流石にこれは残せないもの。仕方無いわね」


 突如生じた業火は瞬時に「抜け殻」となった化物の血肉を炭化させた。生前ならば兎も角本体を吐き出した今となっては唯の肉の塊に過ぎない。妖気も、霊気も、そして仄かに漂っていた神気も今やなく、それを焼き尽くすのは容易であった。


「ひ、姫様………」

「えぇ。思いの外早いものね。面倒事になる前に行きましょうか」


 その狐耳をぴこぴこと動かして白が遠慮がちに主君を呼べば、葵も伝えんとする事を察して命じる。佳世もまた遠くに複数の足音を聞いた。恐らくこれは………。


「ああ、そうそう。忘れる所だったわね」


 佳世の思考を強制的に止めたのは葵のその言葉であった。


「あ………?」


 瞬間、佳世は金縛りに遭う。言霊術による一種の催眠であった。意識ははっきりしているものの、身体は動かない。そして、その事に驚いて困惑していた佳世は、直前にそれに気付く。


 くいっ、と扇子が佳世の顎を持ち上げた。目の前にいるのは桃色髪の美少女であった。どんよりとした瞳に酷薄な口元を吊り上げて、まるで家畜の育ちを吟味するように佳世を見つめる。


「あっ……うぁ…………」

「あら、そんなに怖がる事はないわよ。安心しなさいな、私は寛大だから取って食いなんてしないわよ。私はね、ただ約束をして欲しいだけなのよ」

「約……束…………?」

「えぇ」


 葵の言葉に一層困惑する佳世。何を言われるのかそわそわと緊張して、一瞬だけ彼女が片手で抱き抱える彼を一瞥して、そして視線を戻してその言葉の続きを待つ。


「……彼の事が心配なら今夜の事は、彼にあったあの事は黙ってなさい。そうね……あの塵芥共が蔵屋敷に隠していた売り物の妖が逃げ出した、とでもしておきましょうか?どうせ似たような事はしてるでしょうしね」


 背後で倒れる男らを顎で指し示してそう状況を捏造するように命じる葵。


「そ、それは………」

「出来るわよね?でなければ彼を陰陽寮にでも引き渡さないと行けないもの。言っておくけれど、あんな所に引き渡したらもう二度と人間に戻れないわよ?」


 ほんの少しの間見ていただけで葵は見抜いていた。よりによって取り込んだ因子が二つ共に貴重なそれであったから。あんなものもし陰陽寮の理究衆に見られたら嬉々として実験と解剖をされる事請け合いだ。二度と日の光を見る事は叶うまい。


「えっと……そ、それはつまり嘘を………」

「出来るわよね?」

「あぅ………」


 細められた瞳から込められた圧は佳世をすくみ上がらせた。何なら少しだけ失禁してしまっただろう。幼く、しかも戦いの技術も覚悟もない彼女が葵の殺気をこれ程間近で受けて気絶しないのは単に手加減されているだけに過ぎない。


「返事は?」

「………は、はい」


 そして、三度目の葵の催促に佳世は葵の望む言葉を口にする以外の選択肢はなかった。それが最後の勧告……否、警告だと本能で察したがために。そしてそんな不条理すらも目の前の女の気性からすれば相当に寛容なものなのだと察するがために………。


「ふふ、随分と毒気が抜けた事。私、素直な子は好きよ?………本当なら無理矢理に記憶を書き換えても良いのだけれどね。彼がそういうのは余り好まないでしょうし、許してあげるわ」

「あっ……!?」


 金縛りが解けて、ふらりと倒れて尻餅をつく佳世。


「では積もる話は後日聞かせて貰うわね、橘のお嬢さん。……ごきげんよう」


 そんな彼女を見下ろした桜色の姫君は最愛の男を抱き抱えたまま小さく冷笑すると、序でに肩の噛み傷を見せつけるようにして踵を返す。


 ………勝ち誇った美しい微笑みで踵を返す。


「あ……あぁ…………」


 まるで絵物語に出てくるお姫様のような優雅な振る舞いで立ち去る葵。その背中を見つめる佳世に残るのは、ただただ言い様のない無残な敗北感で、罪悪感で、無常感で、絶望感で、虚無感で、喪失感だった。


 だってそうではないか?折角恋を自覚したのに、二度も……いや三度もその身を挺して自分を守ろうとしたのに、それなのに自分自身はいざその時になって遂に彼を守るために決断が出来なくて、恋した人を血を流してまで助けたのは別の女で、そして彼を連れていかれる事に何も言えず、そんな権利もなく、余りに愚かで、余りに無残で……これでは………これではまるで自分は恋愛小説に出てくる主人公達に横恋慕して邪魔をしてくる分を弁えない嫌な恋敵役みたいではないか。


 ………三下の、決して結ばれる事のない惨めな存在ではないか。


「ひぐっ……う……うぅ………うあぁぁぁ……………」


 これは自分の恋の物語ではない、その権利がない………それを自覚してしまった少女はひきつったような嗚咽と共に自覚したばかりのその純情な初恋に破れたのだった………。





ーーーーーーーーーーーー

「ひ、姫様………」

「捨て置きなさいな。どうせ直ぐにあの親馬鹿な商人がやって来るでしょうから」


 皮肉げに冷笑する葵。そうだ、別に心配してやる必要はない。あの娘にはちゃんと味方がいるのだ。ちゃんと心配してくれる家族がいるのだ。だから態態此方がこれ以上心配してやる必要なぞない。


 ………私よりもよっぽど恵まれているのだから。


「………」


 ぎゅっ、と彼を手の内に抱く力が強くなる。それは憎悪であり、歓喜であり、嫉妬だった。結局、今日の今日まで自分のためにいてくれた家族なんて誰もいなくて、彼が自分を助けてくれた事が何処までも嬉しくて、そんな彼がしかしあの娘のためここまで襤褸になった事が悔しくて………。


「い、いえ……そうではなくて、姫様の肩の怪我の方が………」


 よそよそしく、遠慮がちに尋ねる子狐。


「………ふふふ、やっぱり小狡いわね」

「ふぇぇぇ!!?だ、だから違いますよぅ……!?」


 意地悪に対して慌てて弁明する白をからかい、歩みを再開する葵……と、思い出したように彼女は足を止めて何もないその場所を見つめる。睨み付ける。凝視する。そして………警告する。


「そうそう、あの忠告は貴女に対してもよ?あの爺に要らない事言ったら容赦しないから、良く良く覚えておきなさい」







「………っ?」


 式神と視界を共有して翡翠の勾玉の回収をしていた松重牡丹は思わず身体を仰け反らせて、そして背後の椅子に尻餅するように座り込んだ。


「くっ……!?式神越しに瞳術ですか……!良くもこんな器用な事を……!!」

 

 痙攣する手元を一瞥して牡丹は舌打ちする。佳世のとは違い此方の金縛りは瞳術によるものであったが………式神越しでかつ霊術に対して対抗手段があるというのにここまで呆気なくやられる事になるとは………!


「それに………お祖父様には黙っていろ、ですか。馬鹿馬鹿しい。あんなものを見て見ぬ振りをしろと……?」


 あの下人の変貌した姿を思い出しながら牡丹は表情を歪ませる。論外な要求だった。あの悪名高い堕神の血が寄生している以上最期は碌でもない化物に行きつくとは想像していたがまさかあんな斜め上の結果に行きつくとは驚愕だった。恐らくは薬の、その材料の影響もあるのだろうが………。


「未成熟の出来損ないの状態だからあの程度で済んだとはいえ……あれをずっと放置なんぞ出来る訳ないではないですか!」


 人は人以外のものになれないし、なるべきではない。そんな事をしても碌な未来なぞ有りやしない。


 故に、治療法もなく、延命すら手間取るあんな存在なぞ牡丹からすれば状況さえ許してくれれば直ぐにでも処分するべきだと確信していた。あのような脅迫に誰が屈すると………。


「いやいや、それは困るなぁ?」

「ひっ……!?」


 耳元で聞こえたその言葉とともに牡丹は首元に腕を回して後ろから抱き着かれている事に気付いた。高度な隠行術で五感すら騙した事による所業であった。


 咄嗟に牡丹は室内で転た寝していた鬼熊を術式で強制的に起こす。大妖は頭の中に捩じ込まれている札の効力で即座に覚醒、とほぼ同時に牙を剥き、爪を立たせて飛びかかり………。


「飼い犬は黙ってな」

「ぎゃう!?」


 次の瞬間に顔面に錨を叩きつけられてぶっ倒れた。


「うきゅ~~~………」

「ちっ、役立たず!」


 へし折れて血が垂れる鼻を押さえて涙目になる鬼熊。この時点でこの獣の闘争心は完全に萎えていた。そんな情けない熊の姿を穀潰しを見るように蔑み舌打ちする牡丹。


「さて………。まぁ、俺からも頼むよ?あの爺さんにチクるのはちょっと待って欲しいなぁ?」


 鬼熊をぶん殴った張本人は何事もなかったかのように牡丹の方を向き直った。そして何処か色っぽく、酒臭く、牝臭い臭いを遠慮もなく漂わせながら碧い鬼は、赤髪碧童子は牡丹に嘆願する。………その気になれば何時でも首を引き千切れる状態で嘆願する。


「っ……!?臭いが強過ぎますよ!?それが人にものを頼む態度ですか……!!?」

「そうさ。鬼が他者にものを頼む時の態度だぜ?」


 鬼がものを頼むという事は実質的には脅迫に等しいようだった。


「辞書に意味の追加が必要のようですね……!?というか何でそんな発情しているんですか!!?」


 その臭いに対して牡丹は気持ち悪そうに、吐き捨てるように言う。実際問題余り身体の強くない彼女にとってその臭いは長く嗅ぎたくなかった。そして同時にこの鬼がこれ程の臭いを放つ程に発情している理由も訳が分からなかった。


「いやいやいや、寧ろ興奮するのも当然だろ?あんな良い光景見られたらねぇ。見てみるかい?また下着がぐちょぐちょで………」

「見ませんよ!?……ていうか貴女の式神も生き残っていたのですか?一体何処に?気付きませんでしたよ?」

「いや、お前さんの式の視覚に横入りして見てた」

「っ……!?」


 平然ととんでもない発言をされて牡丹は押し黙る。他人の式神の視覚を横から覗き見だと?簡単に言ってくれるものだ。この鬼の言葉でなかったら法螺吹きだと相手にすらしてなかったろう。赤髪碧童子が霊術の類いにも明るい事は記録にも残っている。


「………まぁ良いでしょう。それにしても意外ですね。貴女があんなもの見たらぶち切れると思っていたのですがね?」


 この鬼が英雄に殺されたいという訳の分からない願望を公言しているのは此処に勝手に住み着いた時から分かっている。だからこそ化物になったあの下人を見たらぶち切れて何をしでかすか分からなかったし、だからこそ知られぬ内に始末しようと考えていたのだが………。


「?ああ、そう言えば最初あの変貌を見た時には少し失望したのは確かだねぇ。折角目をかけてやったのに手酷く裏切られたと思ったよ。やっぱりあのふざけた化物の血なんか取り入れるものじゃないと心底思ったぜ。…………けどな?」


 そこまで言って、鬼は笑った。口元が裂ける程に吊り上がり、蕩けるように興奮して、だらだらと口元から涎を垂らして笑った。極上の御馳走を見たように、嗤った。


「あの目を見た瞬間に確信したさ。流石俺が見込んだだけはあるね!!」


 妖に転じた人間の大半は、事前の準備や一部の特殊な種族でなければ基本その野生の、邪悪の、獣のような欲望に理性も人格も塗り潰されるものだ。ましてや欲望の化身とも言うべきあの妖母の血が寄生しているともなれば………肉欲と食欲だけの怪物に転じるのが普通だ。


 それをどうだ彼は?恐らくは丸薬の因子もあるのだろうが………それを考慮しても変貌した時のあの姿、そしてあの行動、妖の癖して、凄まじい衝動に駆られていただろうにあの行動、何よりもあの無理な変貌自体恐らくはあの小娘を救い出すためで………。


「いいよ、いいよ、いいねぇ!いいさ!そうさ!素晴らしい!!最高だ!!!絶頂さ!!!!ちゃーんと元には戻ったし、俺としては少し不満はあれども概ね大満足さね!!とても良いものを見せて貰ったよ!!」


 心底ご機嫌そうに碧鬼は宣う。実際、それは彼女にとっては何処までも輝かしく思えたから。短期間でのあれだけの変貌、恐らく精神的な負担も相当なものだった筈だ。それを……それをあれだけ人間的な振る舞いをして見せた事は鬼にとって称賛に値した。どれだけガワが化物になろうとも、その瞳は最後まで人間の意思を残していて、最期まで自らを律していた。それは彼女にとって狂おしい程にいとおしいものだった。


 …………憧憬すら覚えるものだった。


「………どうかしましたか?」

「?いやぁ。少し昔の事を考えていてねぇ。って……んん?」


 急に押し黙った鬼に不信感しかない目で牡丹が尋ねれば鬼は我に返り普段通り何処か道化染みた自分勝手な口調で答える。そして同時に、何かに気付いたようにふんふんと急に鼻を嗅ぎ出す。


「ふんふんふん………」

「な、何ですか?さっきからコロコロと……んっ!?し、正直とても気持ち悪いのですが……?」


 外見だけは美女な鬼がおっさんのように無遠慮に自身を、それこそ脇や首元、項等に鼻が接触しそうな程近付いて犬みたいに嗅いで来る行為に心底嫌な顔をする牡丹。一方鬼はそんな彼女の言葉を完全無視して念入りにその匂いを嗅ぎ続ける。そして………目を細めた。


「へぇ……」

「な、何ですか、人の体臭嗅いでいきなりしたり顔なんて……」

「いやいや、随分と面白そうな事になってるなって思ってね?」

「ひっ!?うわっ……!?」


 次の瞬間ベロリ、と当然のような所作で鬼は牡丹の首筋を舐めた。余りの自然な動きに一瞬牡丹は何をされたか分からず、一瞬置いて動転して悲鳴を上げる。そしてそのまま離れようとして……未だに継続していた金縛りの効果でずっこけた。


「ははは、ではでは俺はそろそろ寝るとしようか、夜更かしは御肌に悪いからな。お前さんも注意しろよ?若いからって油断しちゃあいけないぜ?」

「五月蝿い化物!!」

「きゃう!?」


 愉快げに笑って立ち去る鬼を、頭を打って涙目になる少女は憎悪を含んでそう罵倒した。


 ……尚、腹いせとばかりに牡丹を起き上がらせようとした熊が踵で蹴られて涙目になったのはそれはそれで別の話である。






 


「………さてさて、この味はまた随分と懐かしいものだなぁ。おいおい、あいつまだ生きてたのかよ」


 書籍が棚にみっちりと詰まった廊下を歩きながら、碧鬼は赤い舌で艶かしく唇を舐めながら呟く。


「この独特の酸味と凭れるようなしつこい甘味、うわ不味………ひでぇ呪いだな。五年、いや六年前って所か?相変わらず性格が悪いなぁ。寛容で心優しい素直な俺様とは大違いだぜ」


 舐め取った汗の味から鬼はあの小娘に掛けられた呪いを分析して見せる。分析しながら聞けば誰もが顔をしかめるだろう戯れ言をほざく。


「まぁ、これはこれで筋書きとしては悪くないな。あいつには悪いが……俺の英雄誕生計画の材料に使えるしな」


 くくく、と鬼は嗤った。その脳裏に過るのは公式には討伐された事になっている嘗て共に「四凶」と称された妖、その中でも飛びきり性格が捻曲がった底意地悪い亡霊の姿であった…………。

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