第四二話

 橘佳世は複雑な境遇の少女であった。


 扶桑国でも十指に入る豪商橘商会の会長である父親と、南蛮移民の二世でその美貌と性格から人気のあった商会本店の看板娘である母親の間に生を受けた彼女はその血筋からして周囲から必ずしも祝福された存在とは言い難い。


 かといって商会に多くの大陸系や南蛮系の商会員を取り込み国外との結び付きを強めた関係上、何よりも商会を一代で立て直した立役者たる橘景季に溺愛されているがために軽んじて良い存在なぞでもない。


 故に大多数の者達からすれば彼女の存在は慎重に、敬して遠ざけるような存在に落ち着いた。あるいは腫れ物を扱うかのように、か。無論、一方で勇敢に、無論無謀にも彼女の立場とその母親譲りの天性の魔性故に接近を図る者達も少なくはなかったが。


 橘佳世は利口な少女であった。


 確かに甘やかされて我が儘で、自己中心的な側面があった。けれども、同時に周囲が自身をどのように見ているのかを把握出来る程度には周囲を観察するだけの知恵がこの少女にはあった。近付く者も、距離を取る者も、それが自身の立場を見ての事であり、それはどうにも変える事が出来ない事である事を良く良く理解していた。……流石に色目を使ってくる輩まではどうにもならなかったが。


 ……しかしそれでも、橘佳世は恋に恋する少女であった。


 自分の立場を理解している利口な少女であったが、少女はあくまでも少女であり、何処までいっても年頃の、甘い箱入り娘である事に変わりはなかった。


 何よりも、周囲の者達があれこれ詮索して推測して、穿った眼差しで観察しているが、彼女の家庭環境は何処まで行っても良好で、両親の仲もまたそこに薄暗さや打算が一欠片もなかった事が彼女の性格を良くも悪くも形成していた。多くの者達が彼女の両親の結婚に、その身分と立場が釣り合わぬがために何か裏があると見ていたが………その実態はただただ、甘ったるいまでの恋愛結婚に過ぎなかったのだ。


 だからこそ常日頃両親の仲睦まじさをその目で見て、結婚に至るまでの交流を聞き入っていたがために、橘佳世の恋愛観もまた大きな影響を受けていた。良くも悪くも、彼女は恋愛に対して必要以上に幻想を抱いていたし、多くの貴人の娘のように半ば達観して、あるいは諦観して、もしくは疑問にも思わずに政略結婚を当然のように受け入れるという感覚に乏しくて、しかしながら利口であるが故にそれが自身にとって限りなく困難である事も分かっていた。


 だから彼女にとってあの時、両親と共に化け物に襲われて、自分自身もまた食い殺されようとした時に颯爽と現れた………少なくともその時の佳世にはそう見えた……青年に対して佳世は子供らしさがあるもののそれなりに好感を抱いたのは事実であるし、丁度他に適任もいなかったので自身の趣向に合わせて理想を押し付けたのも事実だ。


 ………繰り返すが彼女は子供ながらにしては利口だ。どうせ自分には恋愛婚が出来ない事を心の奥底では理解していたし、目の前に現れた青年が自分を助けたのが仕事だとも理解していた。その上で佳世は青年を自分の理想のための代用品として消費しようとしていた。


 知ってしまえば詰まらぬ事だ。恋をしたいがためにその相手として鬼月の家の下人の青年をその相手として立てた……それが橘佳世がたかが一下人に対して贔屓して、執着した真相である。


 そう、確かに釣り橋効果的に思う所がなかった訳ではないが、あくまでも自分の理想と欲望を満たすためのものであり、その恋は恋するためのものに過ぎず、本気で相手を好きになっていた訳ではなかった。そうだったのだ。


 ………少なくともこの日の早朝の時点では。







「えっ………?」


 橘佳世が目の前で生じた事象を理解するのは数秒の時間を要した。


 彼女にとってこの日はこれまでの人生の中でも余りに濃厚過ぎる一日であった。半ばお遊びと分かっていても柄にもなく朝早くに目が覚めて、身嗜みを整えて化粧をして、そうしてお昼頃になってからは御忍びのデート……それが実質的に唯の護衛であったとしても佳世は構わなかった。


 どうせその内に何処か良家の子息と見合いをしていつの間にか結婚しているのだ。せめて一度くらいは恋愛の気分だけでも味わってみたかった。相手は正直誰でも良かったのだ。誰でも………。


 其ほど期待してなかった事もあるが、少なくともデートの前半は彼女にとって思った以上に楽しかったのは認めるしかない。


 流石に自身の心が読める訳でも無かろうが、件の青年が絶妙に佳世と興味があった、やってみたかった、理想としていた物事を良く要点を押さえて実践してみせてくれたのは嬉しかった。この日の「デート」はこれまで彼女がしてきた御忍びでのお出掛けよりも遥かに自由で、遥かに楽しくて……確かに満足していたのだ。少なくともあの瞬間までは。


 デートの後半、佳世が書店に行きたいと思ったのは、ちょっとした出来心で、ちょっとした悪戯心で、ちょっとした遊び心から来たものだった。確かに五月蝿い老女中や両親に知られる事なく興味ある本が欲しがった事もあるが、この書店に向かうという行為自体が一種の自己投影であった。


 彼女の読んだ事のある恋愛小説に書店を舞台にした場面があって、佳世は自身がやってみたかった事半分、自身を楽しませてくれたこの青年に対する御褒美扱い半分にその場面を再現してみたかったのだ。佳世は自身の顔立ちが世間一般で価値あるものとして扱われている事を良く良く自覚していた。


 だからこそ、彼が何処の馬の骨とも知れぬ女を床に押し倒していて、しかもその女と自分よりも何処か親しそうな雰囲気を醸し出していた光景を見た佳世の心は自分でも驚くくらいに冷えきっていて、その胸の内にこれ迄感じた事のない程の怒りと不快感を覚えていた事を認識した時、彼女は内心戸惑いすら感じていたのだ。


 ………その直ぐ後に始まった恐ろしく、非日常的な経験を彼女は忘れる事はないだろうと確信していた。


 佳世が明確に誰かに殺気を向けられた事はこれで二度目であり、人間に限定すれば初めての事だった。


 青年への拷問が始まれば佳世は完全に怯えていた。おおよそ暴力沙汰とは無縁だった彼女にとってその光景は刺激が強過ぎた。つい先程まで青年に感じていた怒りや蟠りはあっという間に消えてしまい、後に残るのはある種の罪悪感のみであった。半ば狂乱状態にあっても佳世は愚かではない。青年だけでこんな事が起こるなぞ有り得ない事は分かっていた。


 人が殴られる音も、酸欠まで溺れる音も、筋肉が千切れる音も、佳世は初めて聞いた。青年の衣服の下に刻まれた無数の生々しい傷跡を見た時、佳世は青年と自分とが本当の意味で全く違う世界を生きていると理解させられた。


 部屋の隅で怯えていた所を突然頭に着地していた青年のものだと自称する式神……元々佳世はその分野について然程詳しくはないが自意識を持つ式神の声を初めて聞いた……からの助言を聞いた時、佳世は恐怖を感じたものの、それを拒否する気にはなれなかった。ただただ目の前で苦しむ青年を助けられるならそれで良かった。


 次に目覚めた時は青年に抱えられていた。次の瞬間に佳世はその身体に感じる鍛えられた筋肉質な感触と、鼻腔を擽る男の汗の匂いに思わずドギマギと言い様のない感覚に襲われて恥ずかしくなってしまったのは秘密だ。


 青年があの妖の一部を取り込んだおぞましい男と戦っていた時はひたすらに祈っていた。祈るだけで何も出来ない自分がどれだけ無力な存在なのかを自覚すると、更に絶望した。


 だから、最後の最後に彼の役に立てた時、漸く佳世は安堵したのだ。自分が足手纏いの役立たずではない事に。………本来、その身分からしても職務からしても当然の義務を果たしただけに過ぎず、何ならこのような事態に陥った時点でその義務も果たせず責任を糾弾されるべきは青年である事を分かっていても。


 全て終わった後になって自分がどれだけ危険な事をしたのか理解して、足が震えて涙が出そうになるのを恥ずかしくて誤魔化した。そして同時に、佳世は今日一日が台無しになった事が悔しくて、悲しくて、苦しく思っていた事を自覚して……だから強がりつつも、それでも最後は不安に押し潰されそうになりながら彼に次の機会を御願いして、それに勇気を振り絞ってのお願いに彼が応えてくれた時には佳世は天に昇る程に嬉しかった。


 幼心にこれが恋なのだと佳世は確信していた。そうでなければ声をかけられただけで、笑顔を見せられただけで、その汗の匂いを嗅いだだけで、身体が触れあうだけでこんな気持ちになる筈がない。まるで恋愛小説に描かれた描写そのままなのだから。


 そう、確かに佳世は恋をしたのだ。恋を自覚したのだ。恋を知ったのだ。身分違いで、きっと困難で、けど諦めたくない恋を。だから、だから………。


「あ………?」


 佳世は唖然とした表情を浮かべる。最初は代用品で、しかし少し気に入って、その次には罪悪感を覚え、最後は確かに想うようになっていた彼の横腹から溢れだす赤黒い血に………。


 次いで鳴り響いた二回目の発砲音とともに佳世にとって確かに信頼していた青年の頭が弾けた。頭から飛び散った何か温かいものが頬に当たったのを佳世は気付く。しかし……彼女の意識はひたすらに目の前の光景にのみ集中していた。


「あ……あぁ……ぁ…………」


 あうあうと、信じられない、信じたくない光景を見るように佳世は凝視して、その口元を呻くように動かし、その白い顔はいっそ青く見えるまで血の気が引いていた。そんな、馬鹿な、どうして?物語ならここで一旦幕引きであろうに、ハッピーエンドであろうに。それが、こんな、こんな………!!?


「い、いい、い…い……いやああぁぁぁぁぁぁっ!!?」


 全てを理解したとともに、佳世は気が狂ったような金切り声を上げていた。いや、理性は理解しても心が認めるのを拒否していた。拒絶していた。


「や、止めなさい……危険ですよ!?」


 咄嗟に式神越しに投げつけられる牡丹からの制止の声も無視して、佳世は彼のもとに駆け走っていた。そして近付いた事でより鮮明になった惨状に佳世は更に顔を青ざめさせて、目を見開く。


 腹に出来た傷はだらだらと壊れた蛇口のように鮮血を豪快に地面に流し込んでいて、土はそれを染み込ませ切れず赤い池を形づくっていた。


 頭に出来た傷はより深刻だ。弾丸はその頭を明確に打ち砕いた。頭頂部からやや右斜めに着弾した鉛弾はその表皮を引き裂いただけでなく頭蓋骨を吹き飛ばした。砕け散った白い破片はあるものはそのまま桃色の中身に捻りこんでいて、あるものはそのまま中身を巻き込んで地面に散乱していた。


 虫の息……そう、正に虫の息だった。限りなく死んでいた。死んでないが死んでいるも同然の状況だった。


 余りに血生臭く、余りに凄惨で、余りに衝撃的過ぎるその光景は、特に相手が幼心に仄かで、しかし明確に好意を意識し始めていた青年であるが故により一層悲惨で………。


「伴部さん!?伴部さん!!伴部さんっ……!!?」


 半狂乱になって佳世が行ったのは地面に飛び立った骨肉をかき集める事だった。文字通り甘やかされて箸より重たいものを持った事のないか細く白い指先で必死の形相で佳世は青年のぐちょぐちょとなった血肉を拾い集める。その手が真っ赤に染まっている事すら自覚出来ずに。


「嘘っ!嘘嘘嘘!嘘ですよね!?そんな……どうして!?いやです!いや、いやあぁぁ!!?」


 泣き叫びながら佳世はひたすらに彼の一部を集める。彼女自身最早何をしているのか分からなかった。しかし、彼のために何か出来る事がしたくて、このままだと彼が死んでしまう事は分かっていて、このままだと彼が二度と戻らないような気がしていて、だから………。


「いや!いやだぁぁ……!!そんな、伴部さん!?大丈夫……大丈夫ですから!集めるから!頑張って全部集めますから!だから…だかっ……かはっ!?」


 泣きじゃくりながら彼を集めようとする佳世の声は、しかし横合いから来た腹部への足蹴りによって中断される。元々華奢で身体が軽い故に少しだけ吹き飛んだ佳世は地面に転がりながら咳き込み、涙目になりながらも視線を彼に向けて………。


「ふん、少し狙いが逸れたな、まだ息があるとはな。………ならばこの距離ならどうだ?」


 刹那、彼を踏みつけた人影がその柘榴みたいになった頭に止めの一発を撃ちこまんとする光景を佳世は目撃した。


「いやあぁぁぁぁ!!?止めててえぇぇぇ!!!??」


 佳世の懇願を、叫び声を打ち消すように、何処か底意地の悪そうな銃声が無慈悲に響き渡った。


「あ…あぁ……………」


 ぐちゃり、と飛び散る血肉を佳世は呆然と見つめる。一瞬後にはその瞳には明確な憎悪と敵意が宿っていた。目に涙を浮かべ、地面に倒れつつも到底少女とは思えぬ剣呑な殺意を持って佳世は下手人を睨み付けようとその顔を上げて………。


「えっ……なん、で…………?」


 震える口元で佳世は呟いた。その瞳は信じられぬものを見るように困惑し、愕然としていた。


「倉吉の叔父様……?一体これは………」


 遠縁とは言え父の下で働き、何度も顔を合わせた事のある倉吉の叔父の姿を捉え、それが彼を撃ったのだと理解するのに佳世は数秒の時間を要して、そして何かを口にしようとする前に更なる腹蹴りが佳世を襲った。


「あがっ……!?お゙ゔぇ゙……!!??」

「喚くな、小娘が」


 ゲホゲホ、と腹を押さえて咳き込む佳世に向けて、橘倉吉は淡々と吐き捨てた。それは到底身内に対する態度ではなかった。侮蔑と、嫌悪と、言い様のない感情が混合された色の瞳で彼は佳世を見下した。


「さて、この分では奴らめ。逃がしたな?所詮蛮族は蛮族という事か、役立たず共め……!!」


 未開の野蛮人共が小娘とたかが下人一人捕まえておく事が出来なかった事に対して、倉吉は冷淡に罵倒した。下人は兎も角、人質として、交渉の材料として回収する予定であった佳世までこんな所にいるとは………。


「げほっ……けほっ………ど、どう…じ…て…………なん、で……こんな…………」

「ふむ、どうして……か。無自覚な小娘というものは本当に厄介なものだな」


 涙目で呻きつつ尋ねる佳世に対して、倉吉は杖で佳世の頭を軽く叩いて嘯いた。そこには明確に嘲りの感情が見てとれる。


「少し前から観察させて貰っていたぞ?全く油断ならんものよ。親子揃って悪食で淫売な悪女な事だ」


 倉吉は首に下げた勾玉の首飾りを思い出したように弄りながら佳世にそう吐き捨てる。


 倉吉の脳裏に過るのは心底不愉快な記憶だ。二十年以上も昔、年甲斐もなくたかが店の看板娘に魅了されて、しかし当時の自身の立場を良く良く理解していたがために妻にする事も出来ず、しかしその無自覚でありながら見る者の心を揺さぶる魔性の蠱惑………。


「ふん、確か南蛮ではそういうのを魔女と呼ぶのだったか?正にお似合いだな」


 南蛮では怪しげな呪術を使い、人外染みた美貌で男を惑わせて、何処までも性根の腐った霊力や妖力持ちの女共をそう称するのだと倉吉は若い頃国外の港街で仕事をしていた時に聞いた事があった。そのおぞましき集団が内部で暗躍して今は亡き西方の帝国崩壊の一因となったとも。人妖問わず群雄割拠状態のかつての帝国領域では文字通り人を家畜のように使役する冷酷な魔女が幾人も君臨しているとか………。


「けほっ…けほっ、な……何を、言って………?」


 一方、佳世は然程親しかった訳ではないとは言えれっきとした親族から此処まで敵意を向けられている事に、罵られている事に理解が追い付かない。挙げ句の果てには魔女扱いと来たものだ。佳世自身魔女の事なぞ舶来品の絵物語の悪役くらいでしか知らないが、少なくとも自身がそんな風に言われる理由が分からなかった。精々が母親から南蛮風の香や薬について少しばかり教えて貰った事がある程度である。


 ……実際問題、それは半ば八つ当たりだった。かつて身分や立場もあってその感情を抑え込んで、誤魔化して来たこの老人は、しかしあの魔性の看板娘が立場を弁えて其処らの男と添い遂げていればここまで執着する事もなかったかも知れない。


 様々な思惑があったとは言え、確かに継承順位ではより本家に近かったとは言え、二十歳を越えたばかりの何らの実績もなかった若造が商会の頂点に据えられた事に対外的には兎も角内心まで無関心でいられる訳ではなかったし、そんな若造が最終的には結果を出したとは言え商会に多くの部外者を捩じ込んだ事も、これ迄彼が親しんで来た仕事を粗方変えてしまった事も、倉吉にそれに対応するだけの十分な能力があったとしても愉快な事ではなかった。


 止めはそんな内心で気に入らなかった若造が周囲の圧力や反発を完全に無視して身分違いの娘を妻にした事であろう。よりによってあの女を!しかも妾でも側室でもなく正妻に!


 夫妻の間に生まれた一人娘も彼にはどうしようもなく憎らしく、疎ましかった。よりによって母親と瓜二つであの魔性迄受け継いだと来たものだ。本人に自覚があろうと無かろうと、その仕草一つ一つが、表情の変化一つ一つが、その全てが艶かしく、魔性で、蠱惑的で、見る者の精神を揺さぶると来ていた。


「ちっ………正に天性だな。余所者の寄生虫めが」


 ああ魔女だ……倉吉は足下で咳き込み涙ぐむ少女を一瞥して思った。この小娘は、この母娘は橘の御家に潜り込み、寄生して、乗っ取る魔女に違いない。優秀ではあるが何処までも古臭い因習と偏見が骨身に染み込んだ老商人は自身を揺さぶるこの少女をそう決め付けていた。


 自身の嫉妬や後悔、羞恥と執着、体面と名誉、愛憎渦巻く感情を求められない老商人にとってそう決めつける事が一番楽であったから………。


「館長、流石に余り乱暴にやったら死んじまいませんか?折角の人質なんでしょう?」

「そもそも回収ならば我々に任せて下されば良いでしょうに。態態館長が出向かずとも………」


 ふと、倉吉の背後から声が響く。老商人がその声に反応して振り向けば、そこにいたのは秘書官を始めとした彼の直属の部下達であった。同時に彼らは老商人が裏で行っている異民族共との裏取引の共犯者でもある。全員が老商人同様に勾玉の首飾りを掛けていた。


「貴様らだけに任せられんわ。こういう重要事は自分の足で出向かんと信用ならんからな」


 不機嫌そうに倉吉は吐き捨てる。腐っても彼も敏腕の商人であり、発覚すれば極刑物の裏取引をしている以上、その胆力と猜疑心もまた一級のものであった。実際これ迄も幾つもの裏取引で自らが足を運んでその推移を見届けて来た前例もある。彼は余り他人を信頼していなかった。


 無論、今回に限ってはそれだけが理由ではないのも確かではあるが。


「それよりも、さてどうしたものかの。まさかあの蝦夷共から逃げ出しているとは思わなんだ。危なかったな」


 そういって杖の先でくいっと佳世の顎を持ち上げる倉吉。


「秘書官、二、三人連れて奴らを探して来るが良い。何処をほっつき歩いているかは知らぬが景季の奴もまだこの辺りは捜索しておるまい。さっさとずらかる準備をさせよ」


 この辺りの蔵屋敷は橘商会の、倉吉の所有であり景季もまさか商会の倉庫に娘が閉じ込められていたとまでは思うまい。世間体からして内々に解決したがっている事もあって朝廷の検非違使共にもまだ此度の一件を伝えてはいない事は本店に忍ばせた手下からの連絡で把握していた。鬼月の家には連絡が行っているようだが……主だった者共は帝の出席する園遊会に出席しているという。流石にこれを途中退席するような無礼は出来まい。今のうちに証拠も全て回収して別の隠れ家に撤収するのが良かろう。


 ………流石に倉吉も鬼月の次女がとんでもない言い訳で無理矢理退席した事も、たかが下人を常時ストーキングしているが故に直ぐ様隠れ家を捕捉していた事も、ましてや誘拐実行犯らが既に無力化されている事も予想出来なかった。出来る訳がなかった。


 尤も、此処までならまだやり様もあったかも知れない。故に、本当の意味で倉吉の失敗はここからの選択で、それは彼の性分から来るある種の自業自得であった。


「物の序でだ。貴様ら、少しばかりこの生意気な餓鬼を仕置きしてやれ」

 





「館長……いえ会長殿、本当に宜しいので?」


 倉吉の命令に対して部下の男の一人は確認するように宣う。下卑たような嘲りの笑みを浮かべるその男を佳世は何度か見た事があった。一時は商会本店で勤める程には有能な商人であったが、粗雑で利己的な性格と立身出世の野心のために佳世に近付いた結果、父である景季の怒りを買って東土の支店に飛ばされた男だった筈だ。


「構わん、生意気な小娘だ。自分の立場を分からせてやらんと道中も五月蝿かろうて。どの道、商会を手に入れた暁には接待役に使うのだしな。………後、まだ会長はよせ」


 最後にそう軽く叱責するが、倉吉のその口元は僅かに歪んでいて、その決定は変わらなかった。


 ………生娘ならばそれはそれで価値があろうが、相手が相手だと粗相があっては堪らない。ならば、ここで軽く「教育」させて立場を分からせてやろうという訳だ。


 佳世の魔性の美貌は実際魅力的で、その手の接待に有用であったのは確かだった。更に言えば景季の子が彼女一人だけでしかも耽溺しているという事もあり順当に行けば彼女の夫か子供辺りが将来商会の会長を継ぐ事になる筈だったのもこの下劣な命令を発した大きな要因だろう。


 彼女を汚辱して、侮辱して、凌辱してそのような立場に押し込める事は佳世の血筋が商会の頂点に舞い戻るのを永遠に阻止する意味合いがあった。幾ら希有な美貌だろうが、景季の直系の娘だろうが、遊女のような汚れた扱いをされた汚れた娘なぞ派閥の旗印にすれば求心力は不足するし、後ろ楯になるような公家や大名家も二の足を踏む。もし子供が出来ようが何処の誰の子供か知れたものではないと軽視されよう。佳世を辱しめるのは景季の血統を貶めるという単なる下世話な目的以上に商会乗っ取りの後を見据えた必要性が確かにあったのだ。


 ………尤も、倉吉にとってはその命令に別の意味合いもあるのかも知れないが。


「了解しましたよ。……だそうだ、お嬢様。何時も何時も色気出して男誘ってたんだ。そろそろもう一段程大人の階段を昇るとしましょうや?俺達が懇切丁寧に先導してやるからよ?」


 倉吉と共にこの場に残った者全員が嬉々としてその命令を受け入れた訳ではないが、少なくとも半数余りは佳世の運命に対して冷笑ないし嘲笑を浮かべていた。そこには単なる欲望だけではなく、明確な憎悪や悪意が含まれていた。


 彼らの中には出世街道を進んでいたり、あるいは分家筋とは言え橘家の生まれだったにもかかわらず会長の怒りを買って僻地送りや首にされた者も少なくない。能力はあっても店の公金横領や職権乱用、あるいは娘に近付いて利用しようとしたり商会の改革時に親兄弟の粛清等の余波を受けた結果である。そこに余所者の南蛮系の血筋が流れている癖に本家の頂点にふんぞり返る御嬢様面している事もあって景季や佳世に恨み辛みがある者も少なくはなかったのだ。倉吉からすれば商会乗っ取りのための都合の良い駒であり、この手の者共を密かに、しかし慎重に集めて商会内で派閥を拡張させて来た。景季は敏腕であったし先見性もあったが余りに強引過ぎたのだ。


 兎も角もそういう訳で、彼らとって倉吉の命令は佳世自身の美貌もあって長年の恨みを晴らす絶好の機会であり、渡りに船であった。


「ひぃっ……!?」


 数人の男のそのあからさまに猥褻な視線を向けられた瞬間、佳世は小さく悲鳴を上げた。これ迄も下心がある視線を向けられた事は幾らでもあるにしろ、流石に佳世の立場もあって最低限の外面を取り繕うくらいの事はしていたものだ。此処まであからさまで剥き出しに近いものは初めてだったのだ。その意味で佳世は利口ではあっても結局は世間知らずの箱入り娘である事に変わりはなかった。


 そして怯えて震える佳世の姿は、見る者の同情と罪悪感を植え付けるというより、寧ろ見る者に嗜虐心を芽生えさせる類いのもので、その恐怖に戦く仕草すら言い様のない魔性の魅力を孕んでいた。


「おっと逃げんなよ餓鬼が。大人の言う事は素直に聞くものだぜ?」

「ひゃっ……!?」


 慌てて立ち上がろうとする佳世は、しかし直ぐに押し倒されて尻餅をつく。高圧的に見下ろされる状況は佳世は初めてだった。これから起こる事態を子供心に察して鳥肌が立つ。ぼろぼろと涙が零れて、それが普段の彼女の態度との落差もあって男達の幾人かの加虐心を一層逆撫でした。


「い、いや……やめてくださいっ!!いやっ!………いやぁ……やめてぇ…………」


 がくぶると肉食獣に取り囲まれた小鹿のような状況の佳世は懇願するが………それは無意味だ。男の一人が彼女のその鮮やかな若草色の袴を無理矢理に剥ぎ取ろうと手を掛ける。何をする積もりなのか察した佳世は瞳を震わせながら必死に暴れて抵抗するが、歳と性別の差もあってその抵抗が長くは持たないのは明白だった。


 ………そして、その様子を蔵の屋根に止まった蜂鳥は淡々と、沈黙して観察していた。


(勾玉の首飾り………あの刻まれた紋様から見て弾正台所属の隠行衆の装備ですね。良くもまぁあんな古くて希少なものをたかが商人共が手に入れたものです)


 恐らくは朝廷成立前後の時期に製作されたその所有者を任意で他者の視界の「盲点」に潜り込ませるあの勾玉は、嗅覚や聴覚、その他強力な第六感を持つ妖共に対しては然程脅威となり得るものではないが、視覚に頼る所の大きい唯人に対してはかなりの効果を発揮しよう。ましてや所有者が妖力や霊力を持たぬ者であればその隠匿性は下手な退魔士でも却って探知に苦戦するだろう程の代物だ。


(先程の蛮族共の拷問の遣り口といい、やはり裏で協力者でもおりますか)


 事態の深刻さにもかかわらず、牡丹は冷静に、あるいは冷淡にそう推理する。彼女にとってこの場で最も大切な事は未だにその存在が気付かれていない事を利用してこの場において少しでも多くの情報を集める事であった。よりによって弾正台で蛮族や商人と繋がっているなぞ、今目の前で起きている事柄からしても到底表沙汰に出来る事では無かろう。


 さて、それは兎も角………。


(油断したのは私の落ち度ではありますが………)


 牡丹は目の前の惨状……佳世が泣きじゃくりながら少しずつその衣装を剥ぎ取られていく様を無感動に見つめ、次いで視線を一度地面に転がる死骸に移して小さく舌打ちする。


 ………そもそも式神越しでは直にその場で索敵するよりも精度が落ちるのはやむを得ない事で、しかも隠行以外の能力がその大きさもあって高くない蜂鳥で、止めはあんな貴重品で相手に隠れられていたら油断やら不注意なぞと言われようがどうしようもない。そもそも牡丹の、松重の一族の使う術は基本的に対妖戦を前提としており、対人戦対策は二次的なものなのだ。故に失敗を責められようと仕方がない事だ。


(このまま見殺しにしても然程問題はありませんが………)


 元より退魔士という職業は他者の見殺しなぞ珍しくもない。妖という存在が理不尽で不条理な存在である以上それを駆除する者らもまた相応の態度を取らなければ足を掬われるのだ。故に妖共の数や能力を知るために目の前で襲われる村を放置して観察する事も、罠に誘い出すために奴卑を化け物の巣穴に放り込む事も、下人や隠行衆を捨て駒に使役する事も許される。目的のためならば、命令を遂行するためならば、扶桑国全体のためならば有象無象の犠牲は容認されるのだ。


(……さて、如何様にしますかね)


 既にくたばった下人はどうしようもないとして、佳世の方はどうするか牡丹は考える。正直彼女がどうなろうが自分達にとっては其ほど困る事ではない。話を聞き耳する限り少なくとも命までは取られないようだ。ならば自分達の存在隠匿のためにこのまま放置という手もあるにはある。手もあるが…………。


(義理くらいは果たして置くべきですか………)


 仕方無さげに牡丹は式神を操作して目の前で正に凌辱を受けようとしている少女を救助せんと飛び立とうとして………そしてそれを中止した。無論それは佳世を見捨てる事を決めたためではない。軽挙な行動を行うには危険過ぎる事態が発生したからだ。


「ちっ、これは………下人、貴方くたばった後の癖に厄介な事をしてくれますね………!!」


「それ」の姿を認識した牡丹は、心底面倒そうな口調でそう吐き捨てていた………。







 それに最初に気付いたのは仲間達の暴虐を一歩引いて鑑賞していた倉吉の部下の一人だった。


 橘の家の末席に座るその青年は、しかし親の不祥事……商会の公金の私的利用……によって閑職に回された経緯のある人物であった。その立場上今の商会長に恨みがあるのは事実であるが……確かにその娘たる佳世が愛らしい顔立ちなのは理解していても小児性愛的趣向がある訳でもないので仲間達の佳世に対する仕打ちに対して離れてそれを見るに止めていた。


「い、いや……!!いやぁ………!!?」

「ちっ!余り騒ぐんじゃねぇじゃじゃ馬娘が!!」


 バシン、と佳世の頬を力強く叩く音が鳴り響く。青年は僅かに嫌悪感を含んだ表情を浮かべた。とは言えその嫌悪は相手の暴力そのものに対してではなかった。


 ……確かあの男は奉公人からの生え抜きだったか。口八丁で客を言いくるめて乗らせるのが上手く、一時は支店長の候補にもなる程には優秀だったが同時に金使いも荒く、何よりも店の金で遊郭で遊んだ挙げ句暴力沙汰を起こしたせいで解雇されたような問題児だった筈だ。


(全く粗暴な奴め。これだから下賤な輩は………)


 景季の代になってから実力主義の傾向が強くなった商会では大陸人や南蛮人だけでなく貧民を始めとして元々商人の家系でない者、商人の家系でも家柄の良くない者でも能力があれば幹部に引き抜かれる事例が多くなった。無論、それは粛清の結果経験豊かな古参の幹部が減少した事も理由であるし、そうして引き抜かれた者らも皆が皆大成した訳ではない。


「おいおい顔は止めろよ、傷がつくだろうが」

「良いんだよ。こういう高飛車な女には立場ってものを分からせてやらねぇとよ」

「そういって花魁の鼻へし折って出禁になったんだろうがよ。てめぇ」

「…………野猿共め」


 とは言え青年の侮蔑の目付きはそんな公正なものではなくて、そのぽつりと呟かれた言葉は単に家柄の悪い者が幹部連中に成り上がった事に対する軽蔑と偏見そのものだった。青年からすれば優秀だろうが人格者だろうが家柄が悪い連中が歴史ある商会の幹部である事が許されざる悪逆であったのだ。景季の一族の裏切り者を隠居させたら次はこいつらを消す番だと青年は固く決心した。と、その時だ。


「ん………?」


 背後で何か気配がした。蠢くような音がした。青年は訝るような表情を浮かべつつ背後を振り向く。そして見た。その異形の存在を。


「なっ………!?」


 唖然とした表情を浮かべる青年は、しかし動く事が出来なかった。「それ」に対して刃傷沙汰や暴力沙汰に慣れている筈もない富裕な商家の子息には余りに酷な話であろう。ただただ彼は口を開いたまま立ち尽くすしかなかった。


「ん?どうした……うおっ!?」


 傍らにいた別の男が青年の異変に気付いて振り向き、同じように凍り付く。そして別の男達も次々と振り向いては………。


「…………」


 集まる視線を気にも止めず「それ」は蠢き始める。それに対して存在に気付いた男達は咄嗟に道を開く。その先にいたのは佳世の袴を丁度剥ぎ終わりその下の装束も肩の辺りまで毟り取っていた男であった。


「お、おい!後ろ見ろ後ろ!早くそこから離れろ!」


 仲間の一人がはっと我に返って叫んだ。しかし……それは余りにも遅すぎる判断であったと言わざるを得ない。


 「あ?今からお楽しみって時に何だよいった…い…………?」


 佳世を組伏せていた男は仲間の声を訝しみ不機嫌そうに振り向いた。………次の瞬間、彼が見たのは巨大な腕の姿であり、一瞬後に激しい衝撃と焼けるような熱とともに彼の視界は永遠に闇で覆われた。


「ぎゃ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!?」


 突如として顔面を切り裂かれた男は顔を押さえながら悲鳴を上げる。片耳と鼻が削げて、両目の眼球も損傷して永遠に光を失った男は顔から血飛沫を撒き散らして地面をのたうち回る。残る者達はその惨劇をもたらした存在を一斉に凝視する。


 ………腕であった。巨大な腕であった。まるで鎌のような鋭い爪の生えた五本の指に、魚の鱗のような外殻に包まれた鈍色の巨大な腕。それは五本の指をカタカタと昆虫のように蠢かしていた。その腕の先に視線を移せばそこにいたのは撃ち殺されて倒れたままの鬼月の下人の死骸………。


「な、何だ……これは………?」


 倉吉は唖然とした顔でそれを見ていた。余りにも予想外の事態に彼の思考は一瞬停止する。


「ひっ!?ば、化物!!?」


 最初に反応したのは部下の男達の一人だった。日焼けした筋肉質の男が懐にしまいこんでいた拳銃を発砲する。銃身が二つある連装式の拳銃を一発撃ち込む。……しかし弾丸はその強固な鱗に命中するとともに弾ける。


「なっ!?ちぃっ!?」


 もう一発も発砲し、それでも効果がないと分かると懐にしまいこんでいた残る二丁も引き抜いて連発する。黒色火薬の先込め式の銃では次弾装填までに時間がかかるがために、特に拳銃の類いでは態態再装填するのではなく事前に弾を込めていたものを複数用意して撃ち捨てる場合も少なくないが………。


「な、何で効かねぇんだよ……!?」


 一発、二発、三発………連続で発砲しているにもかかわらず腕は怯む事すらしなかった。カタカタと鎌のような指が虫の足のように動き下人の死骸を引き摺りながら男に迫り来る。その動きは何処か蜚蠊の疾走を思わせた。


 四発目の発砲……最後の弾であった。当然のように何の効果もなく跳ね返る弾丸。腕は男の目と鼻の先にまで迫っていた。


「ひっ……く、来る……」


 最後まで言い終える事すら出来ずに男は腕に、正確にはその指の一本に殴り倒された。胸に深い傷を負って男は地面に叩きつけられる。血を流しながら呻き苦しむ男……。


「糞ったれがぁ………!!」

「化物くたばりやがれ………!」


 ここに来て残る倉吉の部下達は一斉に反撃を開始する。拳銃を持って一斉に発砲する。しかし………。


「糞!糞!糞!何で効かねぇんだよ!?中妖でも怯みくらいはするぞ!!?」


 拳銃を撃ち込みながら男の一人は叫ぶ。一部の実体を持たぬ、あるいは液体状や粘体状、あるいは概念化している妖であれば兎も角、大多数の妖に対しては火縄銃を始めとした火薬兵器は一定の効果はある。寧ろ下手に槍や刀で戦うよりも遥かに安全であるがためにかなり値の張る高価な装備で、その生産から管理まで厳しく監督しているものの朝廷の国軍は特に精鋭部隊等には積極的に配備をしている程だ。


 無論、炸薬量が限られ、弾丸の大きさも限定され、銃身が短いがために速度も遅い拳銃は火縄銃よりも威力は低い。それでも数発も撃ち込めばちょっとした小妖ならば殺せるし、何十発も撃ち込めば中妖でも無傷とはいかない。その筈なのだが………。


「きゃ゙あ゙!!?」


 また一人、鎌のような爪の犠牲者が増える。右肩から左横腹まで痛々しく斬られた男はどくどくと傷口から血を流して悶える。


「駄目だ!!何発撃っても効かねぇ!」

「腕に撃っても無駄だ!糞っ、此方ならどうだ………!?」


 男の一人が震える手つきで拳銃の銃口を血にまみれた腕からそれが引き摺る死骸に向けた。腕に撃っても弾かれる。ならばあの死骸に撃ったら何か違う反応があるのではないか………?一縷の望みをかけて拳銃の引き金を引こうとした男は……しかし次の瞬間、その手首が切断された。


「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙っ゙!!!??」


 いっそ惚れ惚れする程綺麗に切断された傷口から噴き出す赤い飛沫、手首を失った男はその激痛に獣のように絶叫する。


「ひぃ……!!?な、何なんだよ、一体何なんだよこりゃあ!?」


 残る男達は怯える。彼らの凝視する光景は余りにもおぞましく、唯人にとっては理解の範疇を超えていた。


 ………死骸が起き上がっていた。まるで上方から糸で吊るされた操り人形のような異様な立ち上がりかたで。粉砕された頭から中身を溢しながら。先程まで何らの変哲もなかった今一つの腕は、しかし一瞬後には同じく異形化していた。今一つのそれと同じように鎌のように鋭い五本の爪の生えた巨大な腕に………そして、変化はそれだけではない。


 めきめきと、筋繊維が肥大化し、膨張していく。その足はいつの間にか猪のように頑強で筋肉質になっていた。蹄が出来ていて、灰色の獣毛が皮膚を覆い隠すように伸びていた。


 バキバキという骨が砕けるような音とともに首が伸びる。頭部の傷口が泡立ちながら盛り上がる肉によって塞がっていく。


 頭蓋骨は変形していた。異様に首の長い馬か、あるいは龍にも似た形状の細長い頭、夜中であるが故に吐き出された吐息が白くたなびく。その歯は既に人間のものではなく、寧ろ牙と呼んだ方が良いくらいに鋭利だった。


 ……最早その彼の形状は人間から大きく乖離していた。


 その闇夜色の髪の毛は何時しか頭部から頸椎に沿って鬣のように長く伸びている。余りに長く伸びてしまっていたせいで目元が隠れてしまっていた。しかし、僅かな隙間からは確かに妖しく光る紅色の眼光が男達を覗いていた。


 ………狂気と、野生と、本能と、ほんの僅かな理性の光が混濁した虚ろな眼光だった。


『グオ゙オ゙オ゙オ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙!!!!』


 月夜の空に何処までも醜く、何処までも疎ましく、何処までもおぞましい怪物の咆哮が鳴り響いたのだった………。

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