第二二話

赤穂紫にとってその少女は理想であり、憧れだった。


 代を積み重ねるごとにより力がより濃縮され、より強力なものとなるのが退魔士の一族……ましてやその名門たる赤穂家の直系に生まれた彼女は、しかし余りにも非力だった。


 確かに唯人に比べればその力は強大である。しかしながら祖父母や両親、兄達に比べて遥かに劣る霊力。剣術の才能はなく、鍛練の度に酷評された。挙げ句の果てに言われた言葉は「到底実戦に出せぬ未熟者」である。故にこの年一三になろうというのに、彼女は未だ一度として妖退治の経験すらなかった。それこそ小妖一体すらも。


 それは父母や祖父母、兄らが十余りで大妖を幾体と撫で切りにしていたのに比べれば余りに遅れていた。異様とすら言えた。何の力も持たぬ平民の子であれば兎も角、生まれながらに膨大な霊力を授かり、人外の化物共を打ち払う術を学んで来た名門退魔士の子女としてはそれは有り得ない事であった。


 ましてやそんな実戦経験すらない身で一族に伝わる妖刀を、それも一番扱いやすく大人しい一振を受け継ぐ事になれば彼女の劣等感がどれだけ刺激されるかは明白だ。


『甘やかされた本家の御嬢様』

『家柄とお情けで天下の妖刀を受け継いだ七光り』

『一度も妖も斬ったことがない赤穂一族の恥晒し』


 名門に生まれ、その癖非力で、そうでありながら最弱とは言え古から伝わる妖刀を授かった彼女に対して嫉妬と羨望を交えたそんな陰口が叩かれるのは必然であったろう。


『私はもう戦えます!!』


 幾度家族にそう申し出た事だろう?厳しい鍛練を授ける厳格な父に、あるいは常に穏やかな微笑みを崩さぬ落ち着いた祖父、もしくは既に朝廷や地元で退魔士としての義務を果たし華々しい功績を立てる兄達に、時に強情に、時に甘え、時に泣きながら妖退治をさせてくれとせがむ。皆のように自分も戦いたい、と。皆と共に戦いたい、と。


 ……そしてその慟哭を聞いて、皆が皆口を揃えて冷たく言うのだ。『お前には早すぎる』、と。寧ろ妖退治よりも市井の町娘や公家の令嬢のようにしていろとばかりに衣装や装飾品、あるいは化粧品等を頼んでもいないのに次々と買い与えられる始末。その殆どは興味もないので自室の箪笥の中で埃を被っていた。


 惨めになった。悲しくなった。苛立った。何故私だけ駄目なのか。其ほどまでに私は頼りないというのだろうか……?


 そんな彼女の目の前に現れたのが彼女だった。


 多くの婚戚が集まった祝賀会の際であったか。一目見て、赤穂紫はその少女の雰囲気にまず見とれた。


 美しく、妖艶で、美麗な少女だった。まるで大人のような物腰に何物も見透かすような雰囲気を漂わせる瞳、誇り高そうで何処か傲慢そうな微笑……到底自身と一つしか歳が違わないとは思えなかった。


 その人が父の妹の子……つまり自身の従姉に当たる鬼月葵という名前であると知ったのはその少し後の事だ。そしてその才能の素晴らしさと力も伝え聞くと最初は嫉妬心が湧いた。自分は駄目出しばかりされるのに祖父も父も兄達も彼女の才能を称えるのだから。それに幼い少女が怒るのは当然だ。何故あんな女が!!と何度腹が立った事か。家族が彼女を褒め称える度に自室で怒り狂って地団駄を踏んだ。


 同時にその内心の奥底に憧れがあった事を誤魔化し続けて。その憧れを自覚したのはある日の事だ。


 力が弱いせいで周囲から軽視されていた事を子供達も、あるいは子供達だからこそその些細な機微に気付いていたのかも知れない。元々友達と言える相手が少なかったが……ある日、歳の近い他家の男子達に囲まれて、からかわれて、悪口を言われてしまった。


 紫は当初その気の荒さもあって反論していたが次第にその声も小さくなっていた。何せその言葉は全て事実であり、また彼らは皆その相手がどれ程弱くても確かに人食いの妖達を討ち果たしていた。対して紫は霊力が強い訳でなく、背も高くなく、そして何よりも女の子だった。


 最終的には涙声になって言い返し、それに怒った男子達に一斉に馬鹿にされて貶されて、殴りかかろうとしたのもいなされて、地面に手で押し倒されて、自身の無力感と押し倒された痛みで心の中がぐちゃぐちゃになって、遂には蹲って泣きじゃくっていた。退魔の名門の生まれにありながら余りに情けない姿だった。


『騒がしいわね。静かになさいな。……あらあら。貴方達、随分と情けない事をしているのね』


 その声と共に紫を虐めていた少年達は一斉に吹き飛んだ。紫も、少年達も唖然とした表情で声の方向を振り向く。


 その悠然と、超越した従姉の誇りに満ちた姿を、紫は今でも思い出せる。少年達の罵声に優雅に応じて懇切丁寧に言い返してより高く喧嘩を吹っ掛ける。少年らが怒り狂って襲いかかるのをいなして、弄び、いたぶると、最後は泥だらけにして追い返す。泣きながら逃げ散る彼らを口元を隠して残酷に嘲る桃色の少女。実に尊大で、傲慢で、加虐的な姿……。


 それはあるいは紫を助けたのではなく、単に目障りな弱者共の騒ぎが不愉快なだけだったのかも知れない。いや、少なくとも葵にとって紫の事には大した興味はなかっただろう。下手すれば紫が誰だったのか気づいてもいなかったのかもしれない。しかし……しかしそれでも、確かに赤穂紫はその時に鬼月葵に『憧れ』たのだ。


 強く、美しく、教養がある正に才色兼備……自身が持たぬ何もかもを兼ね備え、そして同じ年頃の少女、そしてこの一件……それ以来、赤穂紫は鬼月葵に夢中になり、幼心にも必死にその関心を得ようと尽力したのは可笑しくない。


 ……ある意味ではそれは一族に代々伝わる業であったかもしれない。赤穂家の者達は口下手が多い。祖父母に父母、兄達がその深い愛情を紫に分かりやすく注ぐ事が出来なかったように、紫もまたその特徴に限って完璧に受け継いでいた。故に彼女は空回る。


 必死にその趣味や嗜好を調べて、勉強して、話題を提供して一個上の従姉との仲を縮めようと……しかし、紫のそれらの目論見はほぼ完全に失敗した。紫のアプローチが悪く、葵もまた何をやらせても不器用で中途半端な従妹に『特別性』を感じ得なかった故に。


 それでも諦めきれない紫にとって再三の嫉妬心を芽生えさせたのはあの事件からか。


 これまで年のために精々数体の中妖を相手にしかしてこなかった鬼月葵が本格的な妖との戦い……化物共の巣に向けて足を踏み入れる……その話を最初聞いた時、紫も、当然赤穂の家の者達も誰も心配しなかった。


 確かに初めての本格的な妖共の大掃討、しかしながら鬼月の次女のその力を知っていれば心配するに値しない。これまで安全のために加減はしていたが、あのいつも詰まらなそうにしている桃色髪の少女が有象無象の妖共相手に後れを取るとは思えなかったし、それは事実であった。……だからこそ、彼女が手傷を負って、命からがら生き残ったその一部始終を又聞きし、そして仕掛けられた罠を知った時、赤穂の一族はどよめいたし、紫の顔からはさっと血の気が引いた。


 慌ててお見舞いを父にせがんで、その願いを叶えて貰う。両家の複雑な関係から父や兄らが同行し、屋敷の大部屋で大人同士で対応している間に紫は半ばひっそりと憧れの従姉の元へと向かう。


 ……ある意味ではそれが間違いだった。彼女はその時、偶然にも見てしまったのだ。恐らく腕に怪我をして包帯を巻いていた桃色髪のその幽霊のような後ろ姿がひっそりと屋敷の端の一室に忍び込んでいたのを。


 そして見てしまったのだ。その存在を。


 全身血の滲んだ包帯姿の人形ひとがた……粗末な敷物の上で呻くそれが人間だと気付くのに紫は数秒の時間を要した。直後に感じたのは恐怖だ。退魔士の屋敷で手当てされた死にかけの人間となれば例外はあろうが基本的には妖との戦いで負ったものであると相場は決まっている。


 おぞましい、そして恐ろしい……幼い少女がそのぼろぼろの存在をそう意識するのに無理はなかった。


 鼻孔を擽るのは余りに強過ぎる血と膿と腐った肉の混ざりあった臭い、混濁した意識のままに痛みで言葉にならない悲痛な呻き声を鳴かせながら芋虫のように時たま蠢くその姿は少女にとって鮮烈に過ぎた。


 そう、仮令それが化物との戦いで負った傷であろうとも、その姿は余りに気持ち悪過ぎた。部屋中に溢れるのは死の香りで、その人物の命が最早そう長くない事を証明していた。いや、寧ろ死なせるために敢えて世話役も置かずにこんな人気もない外れに捨て置いている……?


 そんな死にかけの人形ひとがたを、文字通り目の前で見下ろす従姉に、最初紫は助けを呼ぼうとして、しかし直ぐに止めた。彼女の第六感がそれをしてはならないと告げていたからだ。


 息も殺して佇む紫に気付いているのかいないのか、桃色髪の少女はその場で座りこんだ。そして一言も発する事もなくその苦しみ蠢く人形の顔に近付く。暫しの間その顔を見ていたのだろうか……?紫の角度からは従姉の表情は窺い知る事は出来なかった。


『……死なせはしないわ、絶対に。貴方は私の特別なのだから』


 異様な程に静か過ぎる空間で、その冷たい一言は不自然な程に良く響き渡った。そして包帯をした腕の方の袖口から何かの薬瓶を取り出す少女。それが何なのか紫は知らなかった。ただ、退魔士の一族の末席に連なる身として、それがただの薬の類いではない事だけは察していた。


 次の瞬間、それを一気に呷る少女。そして………。


『あっ………!!?』


 その光景を見た瞬間、紫はまず、自身の目を疑い、次いで従姉の正気を疑った。赤穂紫にとって余りにもそれは衝撃的過ぎる光景だったからだ。彼女の知る常識からしても、恋愛もうろ覚えにしか知らぬ未成熟な少女としても。


 そう、薬を仰いだ桃色髪の少女が死にかけの肉の塊に乗り掛かるように身体を寄せるとその血の滲む頬にその白い手で触れ、顔を近付けて……そして行ったその行為を見た瞬間、紫は衝撃の余り目を見開いて、顔を赤く染めて、口をあんぐりと開けてしまっていた。


『はぁ……はぁ……はぁ……ふふっ、許さないわ。私を置いていくなんて………許せる訳がない。約束を破るなんて許さない……っ!』


 何秒か、何十秒か、どれだけ経ったかも分からぬ内に口元から銀糸の線を引いて漸く離れた少女は上気しつつ執念と情念に淀んだ言葉を囁き……そしてまだ行為は終わらない。


『はむ……んっ……んん……はぁ……はぁ……そうよ、許せる訳がないわ。……もう、私を守ってくれるのは……私を見てくれるのは貴方しかいないのに、それを……それを………!!』


 激しい情動と衝動に突き動かされるように別の薬の瓶の蓋を外して少女は再度仰ぎ、それを躊躇いもなく醜い肉の塊に顔を近付けて口移しする。先程よりも長い時間をかけて、幾度となく艶かしい水音を奏でながら少女は体を捻る。そして、次に口元を離した時には後ろ姿越しに分かる程激しく肩を揺らし呼吸していた。間違いなく興奮していた。それは酸素不足も一因だろうが、それだけが原因ではないのは明らかだった。


『はぁ、はぁ……はぁ……あはっ!あははっ!!あははははっ………!!!そうよ、許さない……絶対に許さないわ。この家も、あの男も、あの女も、一切合財何もかも……貴方以外の、私を捨てた何もかも………!!』


 その限りなく呪詛に近い狂った声に耳を傾ける余裕はなかった。三度目の濃厚な口移しが始まった際には紫は遂に障子の影に隠れて見るのを中断してしまった。そして恥ずかしさと衝撃と恐怖に顔を、耳を、身体全体を真っ赤にして、息を荒げて震わせる。


 何だ?何なのだ今のは?あの人は、従姉様は今何をした?あんなに顔を近付けて、頬に手を添えて、あのような音を奏でながらあの人はアレに何をしていた……!?


 純情で、純粋で、幼くて、何よりもこの世界の常識に染まりきっていた少女にとってその光景は余りにも刺激的に過ぎた。


『嘘……あ、あれって……け、けど確かに……!?』

『………そこで何をしているのかしら?』

『ひっ……!?』


 いつの間にか背後にいた人影に、紫は身体を震わせて振り向く。そこにいたのは憧れのあの人だった。どんよりと濁った、光のない瞳で此方を詰まらなそうに見下ろす。それは紫に何らの価値も見出だしていないように思えた。


『あ、あう……あ………』

『………貴方はここに来ていない』

『えっ……?』


 その突然言われた言葉に紫は一瞬困惑する。目の前の従姉はそんな紫の反応を無視して続ける。


『貴方はこの部屋に来ていない。貴方は何も見ていない……分かった?』

『えっ……その………』

『分かった?』


 その有無を言わせぬ言い様に紫ははい、と答えるしかなかった。そして、紫は困惑と恐怖、そして先程の光景から生まれた内心に渦巻くその妬ましい心情を持って部屋の奥で未だに苦しみ呻く人形ひとがたに視線を移して……。

 

『勝手な事しちゃ駄目よ?分かるわよね?』


 直後全てを見透かすようにかけられた何処までも冷たく無機質な言葉が従姉からのものだと気付くのに一瞬紫は時間を必要とした。そして恐る恐ると顔を上げる。そこにいたのはにこりと微笑む憧れの人の姿。


 ……何処までも底冷えする笑みだった。


『あっ………』


 突如、急速に薄れ行く意識……それが何なのか、紫は意識を暗転させながらも察する。言霊術だ。仕掛けられたのは恐らくは先程の………。


『眠りなさい。忘れなさい。忘却しなさい。……今の私は機嫌が良いからそれで許してあげるわ』


 そう言い捨てて、自身から視線を逸らして血塗れの肉の塊の元へと視線を戻す少女。愛おしげにその頬を撫でて、これまで見た事のない程に穏やかで慈愛に満ちて、熱に浮かされた瞳を向ける憧れの人………。


 ………幼いながらも、紫はその瞬間、この人が自分に愛情を向ける事はもうないのだろうと悟った。悟ってしまった。この人の愛は最後の一欠片すら一人の人間にしか向けられる事はないだろう。そしてそれは間違いなく自分ではないことも。


 そしてその時抱いた特大の絶望も、しかし彼女が次目覚める時にはその欠片の記憶すら失われていた。強いて言えば残るのは胸の内にある形容し難いざわめきだけだった。そして時は流れ……………。






 少女は言い様のない心のざわめきを感じつつ、刀を振るう。


「はあぁぁ!!」


 全力ではない、しかし殺意も含んだ彼女の一撃をまたもや目の前の人影は紙一重で受け流す。その事が一層彼女の自尊心を傷つける。


 どうして………!?


 赤穂紫は目の前の幾度目かの光景に、一見平静を装いつつ、しかし内心で動揺し、絶望し、怒り狂う。


(たかが下人程度にこれ程……!!?有り得ない……!!)


 確かに相手を殺さぬように手加減と寸止めが必要で、男と女の性差に年の差、槍と刀の間合いの差……それがあるとしても今まさに起きている事実は紫にとっては理解の範疇を超えていた。


 それはほんの余興に過ぎぬ筈だった。本来ならばほんの二、三振りで相手は手を上げて降参を口にする筈だった。それが……!!


(有り得ない……有り得ない……有り得る筈がない、有り得て良い筈がないのに………!!)


 そう、本来ならばあり得る筈がない。少なくとも紫にとってはそうだった。それだけ下人と彼女の間には明確な実力差があった。霊力の差である。


 どれだけ他の要因で不利な内容があろうともそれが全てを解決する。それだけ彼女の一族、その末席である彼女は確かに一族の中では弱者ではあったがそれでも十分に人外染みていた存在であった。


 そんな彼女の斬撃が、受け流される?それも一度や二度ならば偶然と切って捨てる事も出来ようが三度、四度ともなればそれは必然であった。そして、それは彼女の剣撃が読まれている事を意味していた。

 

「ふざっ……けるなぁ!!」


 激情と共に少女は叫ぶ。同時にもう一段階力を解放した。一秒を数える間に振るわれる斬撃は五回に増え、その足運びは音速を超えていた。中妖程度であれば十体相手にしても十数えるうちに皆殺しに出来ただろう程の激しい動き、それを……!!


「なっ……!?」


 目の前の下人はその刃の嵐とまともに付き合う積もりはなかった。次の瞬間、霊力で足を最大限に強化したのだろう、足下の土や砂利を大量に彼女に向けて蹴り飛ばす。土や視界を阻み、砂利は礫となって少女を襲う。だが………。


「この程度の小細工で………!!」


 刀の横一文字の一振り、その風圧だけで土も砂利も、全てが吹き飛ばされた。明瞭に開ける視界。その先には一瞬の隙を突いて距離を取った肩で息をする仮面に作務衣姿の男の姿。


「どうしましたか!?不遜にもたかが下人の分際で格別に従姉様に目をかけられているというのに、貴方の力はその程度なのですか……!!?」


 刀を構えて少女は敵意と憎悪を含んだ声で叫ぶ。彼女は、目の前の男の姿に苛立ちを募らせていた。


 元より彼女はこの男が嫌いだったのだ。最初に聞いたのは風の便り、雑用係の、所詮は頭数を揃えるだけの存在である下人……その中に尊敬する従姉が御気に入りを見つけたという話だった。


 あの移り気で、気紛れな従姉の御気に入り……それだけで紫は嫉妬した。それも気紛れに物を下賜して、呪いの手解きをしてやってるとなれば余程の事だ。普通の退魔士は下人にそこまで目をかけない。


 それでも、それでも元より家同士が離れていて碌に顔合わせしない間は耐えられた。だが………。


「忌々しい……!!」


 下人がボロボロの槍を構え直したのを見て、赤穂家の娘は自尊心を傷つけられたように顔を一層険しくして吐き捨てる。


 そうだ、この男のせいだ。全てこんなぽっと出の男のせいだ……紫は歯を軋る。


 父達と共に上洛していた紫は数ヶ月遅れて都に従姉が訪れたのを知って幾度となく、面会を申し出た。親族の訪問を、本来ならば謝絶する事なぞない筈だったが………結果は何ヵ月にも渡って面会を拒否された。いや、正確にはもてなされたがそれは形式的で、何よりも目的である従姉には殆ど顔を合わせる事すら出来なかった。


 そしてある日の帰り際、また同じようにもてなされて、しかし目的の相手には会えずにとぼとぼと帰り支度をし始めた時、彼女は見てしまったのだ。庭先で愉快げに何かを嘯くあの人の姿を。


 喜怒哀楽豊かに浮かべるその姿は彼女は初めて目にするもので、その相手は傍らに控える………。


 ちくり、と頭に痛みを覚えた。同時に募るのは苛立ちと嫉妬と羨望で……紫自身、いざ件の男を『初めて』目にしてこれ程の激情を感じるのは意外であった。


 止めは今日この日、数年ぶりの面会であっただろう。常に部屋の隅に控えるあの男が心底不愉快だった。会話中も、そちらに意識が取られて仕方なかった。漸くあの男が湯飲みを手にして部屋を出て安堵した時に掛けられた言葉が全てを決定付けた。


『彼が気に食わないのかしら?』


 見透かすような一言に肩を震わせて、次いで『彼』という物言いに紫は衝撃を受けた。『あれ』ではなくて『彼』……?


 咄嗟に否定しようとして、しかしそれを遮るように桃色髪の親族は嘯く。


『構わないわ。確かに下人にしては過分に目をかけてあげている自覚があるもの。まぁ、貴女や周囲がどう思おうがそんな事はどうでも良いのだけれど………』


 お前達がどう思っていようが気にしない、と宣い……そして従姉は従妹を見て、挑発するように、しかし何処までも甘美に、犯すように、這い寄るようにこう嘯いたのだ。


『そうねぇ。折角の可愛い従妹の御願い、聞いてあげない事もないわよ?』


 但し、と妖艶に、蠱惑的、扇情的に鬼月葵は口元で指を立てて………。


「っ……!!?」


 そこまで脳裏に過って、紫は一拍反応が遅れた。刹那、彼女は目の前まで迫る人影を確認し、再び憎悪に支配されて刀を振るう。


 彼女の放った斬撃の衝撃波は計三発、限りなくタイムラグなく放たれたそれは五十歩先の鎧を着こんだ相手であろうとも無傷では済まないだろう。相手を殺さないように手加減はしているものの、常人には不可能な所業であった。無論、同じ……いや、この百倍は威力のある斬撃を山一つ越えた先まで放てる兄達や、そもそも『時間』を置いてけぼりにしてくる剣技能を殆ど概念攻撃にまで昇華させている父のそれに比べれば子供のお遊びでしかなかったが。


(それでもこいつ相手には十分だ………!!)


 そう、仮令家族と比べれば児戯に等しくても目の前の男相手ならば十分だった。手加減した斬撃の衝撃波の速度と軌道は到底回避出来るものではない。故に………目の前の男は避けなかった。


「えっ……」


 一瞬の困惑、次いで動揺が彼女を襲った。斬撃を受けた下人は、しかしそれでも止まらずに突進を続ける。その事実に紫は衝撃を受けた。


 ……正確には回避しきれない事を理解していたがために急所等に直撃しないように避けただけで、今の斬撃で左肩が外れて、脇腹が軽い内出血を引き起こしているのだがこの時点で気付く事はなかった。


 どちらにしろ、いつまでも考えている余裕はなかった。慌てて近距離戦に備える紫。次の瞬間に下人が何かを投げつけるのを確認すると殆ど条件反射的にそれを切り刻む。


 煙玉か?それとも閃光玉か、臭い玉か?切り刻んだ後にそれが何なのかを思い巡らして身構える紫。


「………はっ?」


 切り刻まれた袋から目の前にばら蒔かれたのは……金平糖だった。白に赤、黄色に緑、子供が喜びそうな色とりどりの鮮やかな砂糖菓子……下手に動体視力が良いせいで、その事をはっきりと認識してしまい、それ故に余りこの場に似つかわしくないそれを目撃した少女は思わず動きを止めてしまう。  


 そして……その一瞬の隙を突くように地面を疾走する影。いや、正確に言えば地面にめりこみそうな程身体をくぐめて肉薄しようとする人影があった。


 眼前の金平糖の雨に気をとられた紫はコンマ一秒後にその気配に気付くと視線を動かす以前に刀を振り下ろしていた。視線を動かしてから刀を振り下ろしては間に合わないと分かっていたからだ。しかし………。


「違う!?」


 真っ二つに切り落とされた人形ひとがたの式神はそのまま実体から紙に還る。直後その背後から続くように躍り出る下人。そのままボロボロの槍で突きを食らわせに来る。


「ちぃ!?この程度……!!」


 振り下ろした刀をひらりと返して下から上へと切り返す。俗に言う燕返しである。下からの攻撃は人間にとっては認知しにくいものであり、また状況から見て最適解であったが、それ以上に彼女にとっては同じく下方からの一撃という事で一種の意趣返しの意味合いもあったかもしれない。


 しかし、そこで生まれるのがリーチの差であった。つまり……。


「痛っ……!?」


 次の瞬間、ボロボロの槍の先端が刀の鍔を突き、その衝撃が少女のか細い指に痛みを走らせた。出血も打撲もない、しかし確かに激しい痛みに思わず紫は刀を取り零す。槍は刀より長い得物であり、突き方次第ではより一層間合いを伸ばす事も出来る。銛の要領で燕返しをされる直前に槍を両手から片手持ちに切り替えた事で間合いを延長させた事が不意討ちに繋がった。そしてそのまま槍の刃は上向きに少女の首に向けて振り上げられる。


「なめるなあぁぁぁっ!!」


 しかし、直後に取り零した刀を足で空高くまで蹴りあげて持ち直した紫はそのまま刀を振り下ろす。目標は相手の頭部。それは明確な殺意があってのものであり、最早彼女は手加減なぞしている余裕はなかった。


「やべっ……!?」


 小さな呟きと共に少女に向かう筈だった槍を構え直してその柄で振り下ろされる一撃を寸前で下人は防いだ。……鉄製の柄の半分まで刃が食い込んでいた。


「ぐっ……!?」

「おや、小狡い手はもう使いませんか……!?」


 苦悶の声を上げて必死に刀の攻撃を防ぐ下人の姿に紫は思わず口元を吊り上げていた。決して重くはない体重を乗せていく紫。それに応じるように刀の刃はグイグイと悲鳴に似た金切りを上げながら槍の柄に切り込んでいく。下人はそれに対して何らの対策もしない。いや、出来ない。少しでも意識を逸らし力を抜けば次の瞬間に頭を真っ二つにされる事を理解していたからだ。  


 つまりは、この時点で目の前の下人は詰んでいた訳だ。そして、紫も、そして下人もそれを理解していた。故に……。


「降参……」


 槍の柄が完全に切り捨てられる直前のその嘆願が聞こえていなかった訳でも、ましてや反応が遅れた訳でもなかった。しかしながら、この時赤穂紫は敢えてその声を無視して………。


「残念だけれど、勝負はお預けね」

 

 刀が下人の頭蓋骨を叩き割る直前、それを止めたのは白魚のような白い手であった。鈴の鳴るような声と共に紫はふと正気に戻る。そして、目の前の事態に目を見開く。


「お、御従姉様………」


 刀の刃を掴んだ掌から地面にポタポタと流れ落ちる血に紫は顔をさっと青くする。当の従姉はそんな紫の事なぞ気にも留めずに下人の方向を見て、口を開いた。


「それなりに面白い見世物だったけど……残念時間切れよ」

「……いえ、姫様がお止めなさらなければ負けておりました。紫様の勝利です」

「貴方が溝鼠みたいにしぶといのは承知済みよ。謙遜はおよしなさいな」


 下人の言葉をそう切り捨てて、鬼月葵は騒ぎに集まり出した使用人や警備の兵、そして何よりも驚いて走り寄る逢見家の当主の方を流し目で見る。そして短くも激しい『戦闘』で荒れ果てた庭先を一瞥して小さく溜め息。


「後処理は私に任せて頂戴。伴部、貴方はあの狐と部屋に戻るように。……紫、貴女は今日の所は家に戻りなさいな」

「あっ……その………」

「帰りなさい」


 有無を言わさぬ言い様に、紫はびくりと身体を震わせる。同時に彼女はその感覚に既視感を感じ取った。まるで、昔似たような会話があったような……。


「……何をしているのかしら?さっさとしなさいな」


 しかしそれを深く考える時間はなかった。敬愛する従姉の言葉に紫はそそくさと従うしかない。余裕のない表情でその場を立ち去る紫の背中を一瞥する葵はゆっくりと目を細める。


「姫様、此度の件に関しては……」

「承知していると言っているでしょう?けしかけたのは私よ、後片付けも私がするわ。無駄な心配をしなくても良いわよ?」

「いえ。私は兎も角、紫様の方は余り良い噂が立たないでしょう。そちらにも御留意頂ければ、と」


 面倒げに言い捨てる葵は、しかし下人の思いがけない指摘に一瞬動きを止める。そして下人の方を向いて口元を不気味に歪める。


「自分ではなく他人の心配?随分と偉くなったものねぇ?」


 自分で言っていて刺のある言い様であると自覚する葵。しかしながらそれでも彼女は思わずそう口にしてしまう。


「僭越ながら、流石に暇潰しのために従妹様に言霊術を御使いになられるのはどうかと」

「…………」


 剣呑な視線で一瞬自身の御気に入りを睨む葵。しかし……直ぐに手にした扇子を広げ、口元を隠す。


「お行きなさい。これは命令よ」

「……了解致しました。ですがその前に……」


 葵の掌を掴み、その刀で出来た浅い切り傷に布地を巻いて止血する下人。後程再度治療をして下さいませ、と言い残して恭しく一礼して下人はその場を去った。


「………誰に対してもそうやって良い顔して、嫉妬しちゃうじゃないの」


 掌の簡易な止血を見つめて、葵は小さく呟く。そしてその発言が心の内に渦巻く嫉妬から来るものであると理解して、一層不機嫌になる。全てが『予想通りの展開』であると自覚しつつも、やはり腹は立つものだ。


「けど、惚れた弱みだものね。仕方無いわね」


 あれに好意を抱く要素も、慮る要素も彼には一欠片もない筈であるし、そう仕向けた筈なのだが……仕方無い。本来ならば彼のただの成長の糧にする積もりだったが計画は軌道修正だ。但し………。


「粉をかけるなり手を出すだけなら兎も角、入れ込んだら駄目よ?」


 私は寛大だけれど、無分別ではないわ……そう内心で宣いつつ鬼月葵は恐る恐ると近づく逢見家の当主に対して微笑んだ。


 ……それは何処までも空虚な、社交辞令用の空っぽの笑みであった……。

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