10 同志
宥が校舎に戻ってきたのは夕方になってからである。
「宥先輩…」
桜花が見た宥は、涙の跡が残る顔の宥であった。
「自分のことでもないのに、こんなに悔しかったのは初めてで…」
いわばこれがスクバンの残酷さでもあるのだが、それ以上に悲しかったのは、実穂子に会えなかったことであったらしく、
「あんなにお世話になったのに…あんなに優しくしてくれたのに…最後の挨拶すらかなわないなんて」
宥はそれが寂しくもあったらしい。
「…でも、仕方ないよ。だって3年生は受験あるし」
カンナは静かに述べた。
「それは分かってるんやけど…」
そのとき、宥のスマートフォンが鳴った。
ポケットから宥はスマートフォンを取り出し、
「はい、篠藤です…えっ、はい…私です」
少し間があって、
「はい、分かりました。それではのちほど」
そう言って通話は終わった。
「誰から?」
貴子が問うた。
「新島さんから、今からちょっと来るって」
「…えぇーっ!」
全員が同じタイミングで驚いた。
「何でまたこんな時に来るんやろか?」
江梨加が怪訝そうな顔をすると、
「私が代表して行くってことだけは連絡をしてあったから、そのことかなぁ」
宥が思い当たるのはそれしかない。
ともあれ。
「今出川浄福寺のバス停で待ち合わせましょう」
実穂子にLINEだけ入れておいた。
宥が今出川浄福寺のバス停につくと、対向車側に実穂子がすでに着いていた。
青信号を渡り、
「新島さん!」
「あ、篠藤さん…お久しぶり。今日は来てくれたみたいでありがとう」
実穂子は紙袋を持っている。
宥は例の智恵光院通の、実家の京町家カフェまで実穂子を案内し、到着すると別働でメンバーが来ていた。
「ここね、宥ちゃんの家やねん」
江梨加は言った。
「素敵なカフェですね」
「例の抹茶ロール出したら? あれ、美味しいから」
貴子がいつも演奏後にオーダーするロールケーキのことであろう。
席につくと実穂子は、
「みなさんがいるとは思わなかったけど…でも篠藤さん、忙しいときに来てくれてありがとう」
「新島さんのパフォーマンスを見たかったので」
実穂子にはコーヒー、宥には紅茶が出た。
「でもあんな結果で…ごめんなさいね」
実穂子は苦笑いを浮かべた。
「けど、テンポミスで時間オーバーして失格なんて」
宥が続けようとした言葉を遮るように、
「あれは仕方ないって、ドラムは1年生で初めてのスクバンで緊張してたみたいだし」
穏やかに笑みを浮かべながら語るものの、実穂子の頬を一筋の涙が伝い落ちていくのを、宥は見逃さなかった。
──内心は悔しいはずなのに。
3年生の最後のチャンスで、しかも勝てば全国行きが決まる──そんな滅多にない好機を、いわば凡ミスで掴み損ねてしまったのみならず、後輩が足を引っ張る形になってしまったのである。
にも関わらず、おくびにすら出そうとしない。
実は実穂子は物凄く負け嫌いなのかも知れず、だからこそ感情的になるのは、実穂子のプライドが許さなかったのかも知れなかった。
思い出したように実穂子は紙袋を宥に手渡し、
「これはね、みんなに渡したかった物なんだけど…もし良かったら」
中を見ると、1冊のファイルが入っている。
「これは…」
「これは私が作詞作曲した楽譜なんだけど、全国に行けたら歌うつもりだった。でももう使えないし、けどこのままお蔵入りさせるのももったいないから、だから練習用とか文化祭とか、そんなときにでも使って」
「でも後輩の皆さんに託したほうが」
「みんなにはもういっぱい委ねてあるから、これはあなたたちにって負けが決まったときに決めたの」
学校もチームも違うけど──実穂子は続けた。
「だってあなたたちは、合宿で同じ釜の飯を食った仲間というか、同志というか戦友みたいなものだから」
実穂子の涙は乾いていた。
「ありがとうございます」
入れ替わるように宥が泣き出してしまったので、
「ほら、泣かないの」
実穂子は宥の髪を撫でた。
バスで帰る実穂子を、智恵光院
「おかえり」
こんな時にいつも寄り添うのはカンナである。
「…それにしても、カッコよかったね」
「あんな素敵な先輩になれるかな」
「なれるよ」
カンナは言い切った。
「…でもこれでもう、うちら負けられへんで。託されたんやし」
しょうがないな…というような顔を江梨加がすると、
「そうやね、これで仮に負けたら絶対に顔向けでけへんくなるもんね」
桜花が応じた。
「どうする?」
貴子が問う。
「…そりゃ、やるしかないでしょ」
やらなきゃ女だって廃るでしょ──宥は笑顔で返した。
オープンスクールのライブは、ユズ先生が撮影した動画がホームページにアップロードされた。
「…ね、聞いた?!」
宥が動画の確認をしていると、貴子が息せき切って部室に駆け込んできた。
「何が?」
のんびりした調子で宥は返した。
「ユズ先生、3月いっぱいで異動するんやて」
宥は眉間にシワを寄せた。
「うちの高校、系列校なかったよね?」
「なんかね、北海道に帰るみたい」
ユズ先生の地元は札幌である。
「…シブコ先生に訊いてみる!」
部室の隣の職員室へ転がり込むように宥が来た。
職員室にいた、担任のシブコ先生こと渋川綾乃先生を宥が直撃すると、
「紺野先生、札幌外国語大学の講師に呼ばれたらしくて」
確かユズ先生は京大の国文科を出ている。
それが小さな私学の教師では釣り合わないのは宥も察しがつく。
「でも最初は、軽音楽部の面倒は誰が見るんですかって何度も断わってたみたいやし」
それでも要請が10回以上も来たので、とうとう断わり切れなくなってしまい、根負けしたユズ先生は条件をつけて招聘を受け入れたようである。
「それがね…優秀な顧問を新しく呼んできて、つけてくれるならって言ったらしくて」
だから新しい顧問は凄い人が来る──シブコ先生こと渋川先生は述べた。
「…凄いって?」
「だって桜城の東久保先生って言ったら、スクバンの世界ではかなり有名な人やって」
宥は一瞬、思考が止まった。
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