握手②
僕はミサリィと数十分ほど話をして、喫茶店の前で別れた。そのあと黒いリュックを背負って向かったのは、駅近くのオフィスビルだ。
今までバイト先をいくつも転々としてきたが、現在は清掃スタッフをしている。
月〜金の週五日。土日祝日は休み。時給千円。丸々貰える交通費込みで、月給十万円程度。
仕事はゴミ出し、掃除機かけ、カーペットの染み取り、机上拭き。
計四時間の仕事で、合間に十五分程度の休憩がもらえる。
その休憩時間。僕は六畳ほどの狭苦しい詰め所でパイプ椅子に座りながら、周りがしているギャンブルや野球の話を無視して腕を組み、仮眠するかのように目を瞑っていた。
この十五分間は妙に妄想が迸る。その妄想は、そのとき書いている小説の続きだったり、次に書こうと思いたくなるような小説のネタだったりした。
ここ最近の妄想は、僕の平穏な日々を揺さ振っているミサリィがヒロインとなるドラマだ。
舞台は四畳半のボロアパート。僕は畳の上にあぐらをかき、アイロン台の上に乗せたポメラDM30で、小説を書こうとしていた。
だが、最初の一行が全く思い浮かばない。画面は真っ白のまま。
我慢できなくなった僕は、発泡酒の缶を開けようとしたが、それを女性の手が止めた。
リクルートスーツ姿のミサリィが、隣で正座をしていた。
「お酒を呑んだら、もっと書けなくなりますよ」
「呑まなくても書けねぇんだから一緒だろ!」
そう言い放ってミサリィの手を振り払い、発泡酒を呑んでみるも味はしない。
「あれから十年が経ちました。なのに小説は一行も進んでいませんね」
「うっせぇなぁ、いつまでも待ってるって言っただろうが!」
呑みかけの缶を壁に投げつける僕。
「もう先生には愛想が尽きました。出て行きます。さようなら」
スーツ姿のミサリィは消え、途端に心細くなった僕はアパートを飛び出した。彼女が入っていったのは、ボロアパートの隣に建っていた超高層マンションだ。
彼女を追ってエレベーターに乗り、100階のボタンを押すと、目の前に仰々しい門を構えた家があり、その玄関のドアは開いていた。
土足でその中に入ると、頭の禿げたバスローブ姿の小太りのおっさんが、ミサリィの肩を抱いて立っている。
「先生、私はこの人と結婚します」
「その人、何の仕事してる人?」
「今大人気のYTuberです。裸踊りをしながら、背中に乗せたラムネを食べる達人なんです」
「ほんとに、何の仕事だよ!!」
インドカレー料理店で流れていそうなBGMに合わせて、バスローブを脱いだおっさんが全裸で踊りだした。
「これが、時給百万円のお仕事ですよぉぉぉ!」
「ちくしょおおおお!!」
僕は大声でツッコみながら二人の間を走り抜け、輝く夜景を一望できる全面ガラスをガッシャァァンと突き破った。
そこで僕は、本当にガラスが割れる音を耳にして、我に返った。
周りの光景は、横長デスクの並んだ広々としたオフィス。足元のカーペットには黒い染みが広がりつつあり、その中央には割れた赤ワインの瓶が倒れていた。
やっちまった。もう清掃作業を再開させていたにもかかわらず、妄想から抜け出せなかった。
業務用の掃除機を持った僕は、担当している飲料メーカーのオフィスの一角で、全方位からチクチクとする視線を向けられていた。
「すみません、気が抜けてました」
僕はテナント先の社員に謝り、雇用元の会社の社員に謝り、バイトの同僚たちに謝った。
「まぁ、弁償できるもんだったからまだ良かったよぉ。社長室の骨董品とか割っちゃったら、『すみません』じゃ済まないからねぇ」
清掃の仕事で最もやってはいけないことは、物品の破損だ。これをしてしまうと社員は始末書を書かされ、全国にある系列会社の現場に事後報告書を回されてしまう。
「本当にすみませんでした」
僕は腰を、床と平行になるまで折り曲げた。
「これは採用に響くかもなぁ……一応、フォローしとくけどさぁ」
「あーあ。せっかく社員さんになれるかもしれなかったのにね」
「でも志枝さん、ここ最近ボーッとしてることが多かったですよ」
「体調悪いんか?」
「恋でもしてるんじゃない?」
「松野さんにぃ?」
「あたしみたいなオバサンじゃなくて若い子に!」
「以後、気を付けます」
僕は愛想笑いを浮かべながら、ようやく落ち着いてきた冷や汗をハンドタオルで拭い、パイプ椅子に座って溜め息をついた。
今までの妄想では大企業の社長、医者、弁護士、スポーツ選手に寝取られてきたが、今日はYTuberか。
何度妄想しても悲劇的結末を迎えてしまうのは、本心から彼女との幸福な将来を思い描けないせいだろう。
ミサリィは、僕みたいな底辺WEB小説家なんかとは天と地ほどの市場価値の差がある。
正直な話、可愛い子が来るんじゃないかという予想はしていた。目元を隠した写真や、男心をくすぐるようなリプライの数々から、モテる女の子なんだろうなとは思っていた。
でもそれは、『平均レベル以上の容姿で、愛嬌のある子』というくらいの予想であって、なにもモデルや女優並の特権階級に位置する女の子に対するものではなかった。
二十九歳、フリーター、フツメン未満、貯金六万円未満の僕なんかとミサリィでは、市場価値が釣り合わない。
いやいや、そうじゃなくて、なんで僕はミサリィに対して勝手な期待をしてしまってるんだ?
そもそも彼女は生身の僕になんか興味ないはずだ。適当におだててやれば、自分好みの小説を書いてくれる、都合の良いWEB小説家くらいにしか思われてないのに。
「志枝くん、恋してるんでしょ?」
バイトのメンバー五人の中で唯一の女性スタッフが、仕事中には見せないような満面の笑みで聞いてきた。
「恋してるっていうか……ストーカーに悩まされてて――」
「ったく、ロクでもねぇ男だな!」
「自業自得ですね」
「まだ若いからねぇ」
「ねぇねぇ、それって不倫なの? それとも、ヤッて捨てたの?」
僕はバイト終了時刻までの十分間の待機時間、中高年スタッフ四名が繰り広げるドロドロの愛憎劇の主人公として弄ばれた。
自転車に乗って逃げるように職場をあとにして、近所のスーパーで半額になった寿司盛りを二パック買って帰ると、アパートの僕の部屋の前にミサリィが立っていた。
服装は喫茶店で会った時のまま。首元に黒いリボンを付けた、透け感のある白いワンピース姿だ。
「『自宅に来る前にアポ取って』って言ったはずだけど?」
「えっ? 先ほど喫茶店で『今日お家にお邪魔してもいいですか?』とお聞きしたら、『いいよ』って言ってくれたじゃないですか」
「そんなこと言ったっけ?」
「はい、そうお聞きしました」
つい四時間ほど前の音声記憶を検索していくも、絶対に言ってないという確信が得られない。
描いてもらったイラストに夢中で、空返事をしてしまったかもしれないし、そんな上の空な僕を見抜いたミサリィのブラフかもしれない。
「で、何の用?」
「えっとぉ、箱庭先生の創作意欲を復活させるための秘密兵器を持ってまいりました」
そうだよな。やっぱりミサリィは、生身の僕になんか興味ないんだ。
『箱庭創』という、自分好みのニッチな作風の小説創作AIくらいにしか思われてないんだ。
当たり前だろ。知ってたよ。生身の君に出会う、ずっと前から。
「寿司、食べる? 半額だったから二人前買ってきちゃったんだよね」
「いただきます」
その声は小さかったが、無理やり喜びを抑えつけているような声だった。
僕は玄関のドアの鍵を開けて、このアパートに入居してから初めて女性を迎え入れることにした。
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