第2話 歌声

 それからクリスティアンは、少しずつ歩く練習を始めた。

 全ては自らを、湖の底へと沈めるために。

 訊き慣れた足音が近付いてくるのが分かって、クリスティアンは練習をやめて寝台に戻る。世話をしてくれる修道女達から安静を言いつけられていたからだ。

 控えめなノックのあと、

こんばんはグーテン・アーベント、司祭さま」

 呼びかけてきたのはしわがれた声――予想通り彼女だった。火事に巻き込まれたクリスティアンが初めて目を覚ました時、傍に居た修道女である。

 入室を促すと、彼女はゆっくりと部屋に足を踏み入れる。彼女は〝静か〟なのが特徴だ。どんなに慎重に歩いても古い床は軋むが、彼女が立てる音は他の誰より小さい。

「司祭さま、調子はいかがですか? 包帯を取り替えに参りました」

 クリスティアンは体が強張るのを感じた。それを彼女に気取られないよう口許だけで微笑んでみせるが、唇が引き攣っただけかもしれない。

 彼女が不思議がる様子はない。それでは失礼致しますと断ってから、頭の包帯を外していく。はらり、はらりと布が剥がれ落ちる。

 

 鼓動が早鐘を打つ。冷や汗が背筋を伝う。息が苦しい。手足が、唇が、震え出す。

 頭の包帯を取り替えられるのは初めてではないが、何度されても気が狂いそうだ。僕の顔はどうなっている? 彼女は僕の顔を見てどう思っている?

 何とか気を紛らわせようと、包帯を巻き直す修道女の、手の動きに神経を集中させる。彼女に包帯を替えられるのは初めてだ。その手つきもやはり他の修道女よりもひっそりとしていて――……と、違和感を覚えた。

「あの、失礼ですが貴女は……見習いの修道女ですか?」

「えっ……どうしてお分かりに? もしや何か不手際が御座いましたか?」

「いいえ。、ご立派だと思いまして」

 有り難う御座います、と言った彼女の声は、相変わらず老婆のようにしわがれていた。けれど、クリスティアンの顔に微かに触れた指は瑞々しく、張りのある肌だった。若い女性――まだ少女と呼べる年齢かもしれない。彼女が〝静か〟なのは、本人の性情もあるだろうが、まだ見習いという立場で周囲に遠慮しているからか。

 塞がれた視界を補うべくか、クリスティアンの感覚はこのようにかつてより鋭敏になっていた。聴覚、味覚、触覚――特に聴覚の発達は目覚ましかった。人のざわめき、足音、あるいは気配そのもの。耳に届くあらゆる音が意味を持つ事を知った。

 体は少しずつ、回復してきていた。

 しかしそれは、クリスティアンが唯一の誇りを失った事を思い知る時が近付いて来ている事も意味している。

 早く、しなければ。

 湖まではおそらく遠くない。きっともうすぐ、一人でも辿り着けるほどになるだろう。

 包帯を替え終えた修道女が辞去すると、クリスティアンは再び歩く練習を始める。次の日もその次の日も、来る日も来る日も、聴覚を活かし誰の気配もない時にこっそりと体を動かし、外に出る為の練習を重ねた。

 もそうだった。

 けれどその日がそれまでと違ったのは、初めて外へ出られた事だった。

 手探りで壁を伝い、一番近い窓に触れていると、それが掃き出し窓である事を初めて知った。病室が一階なのは既に理解していたから、窓を開けて、恐る恐る足を踏み出す。

 柔らかな草の感触に受け止められてほっとする。素足なので、汚せば修道女達に外出が知れてしまうだろうが、地面は乾いているようでその心配もなさそうだ。

 久しぶりの外でまず感じたのは、淀みのない清澄な空気。柔らかく降り注ぐ、陽の光の温もり。土や草花の匂い。それから、室内とは全く異なる、無限の音の響きだった。

 木々の葉のこすれ合う音に、風の囁き、大気の唸り。

 静かに思えるこの村でも、耳をすませば常に無数の音が連なり重なり合っていた。


 ――ふとその中に、特異な震えが混じっている事に気付いた。


 異なる音階の連なり。流れるような音の運び。

「うた、ごえ……?」

 それも、どこかに懐かしさを感じさせるような、郷愁の旋律。

 気が付けば導かれるように足を踏み出していた。何も見えない世界を、ほんの少しずつ、足を擦るようにして。

 不思議と恐怖はなかった。音色を追って動く事だけが、この瞬間の自分の運命的な使命だというかのように、ただ歌声を目指して、その〝震え〟の許へ歩む。

 ふと――歌声が止んだ。

 さく、さく、と草を踏む音がして、ふ、と空気が動くのを感じた。

どうかしたのケスキ・チュ・ア、お兄さん?」

 少女のような可愛いらしい口調で、誰かが喋った。

「もしかしてお兄さんが、みんなの言ってた司祭さま?」

 相手の話す内容は、クリスティアンにはほとんど届いていなかった。

「今の、歌は?」

「歌? ああ、あれはね……」

 答え終わる前に、司祭さま! と修道女の声が聞こえた。

「まだ一人で歩いてはいけませんわ! すぐ近くには湖もあるんですから」

 万が一があったらどうするのだと心配そうにしながら、そっと背を優しく押される。

 ――彼女との一度目の邂逅はそれで終わりだった。


       ‡


 急がなければ。

 日に日に力を取り戻していく体とは裏腹に、焦りが、恐怖が、募ってゆく。早く、早くこの絶望から解放されたい――

 けれど何故か。先日聴いた歌声を思い出す度、クリスティアンは自分の中でそれまでにはなかった何かが疼くのを感じていた。これは何なのだろう。生きる事にはもう、未練はない。神の教えに背いてしまう事にも、もはや抵抗は感じない。だとすればこの感情の濁りは一体何で説明がつくというのか。


 ……み……さい、……い……や


 はっと、息を詰める。歌声だ。

 先ほど掃除をしていた修道女が、窓をきちんと閉め忘れたのかもしれない。

 クリスティアンは耳をすませる。誰の気配もない。今なら、外に出られる。

 先日よりもしっかりとした足取りで土を踏んだ。外へ出ると、はっきりと彼女の声が聞こえた。

 ……なさい、わたしの――

「お兄さん、また出て来たの?」

 歌声が止まった次の瞬間、彼女の声が聞こえた。

「駄目よ、みんな、また心配してしまうわ」

 軽く腕に触れられる。クリスティアンは、相手の声の出どころに合わせて顔を少し傾けた。

「……貴女は、修道女スール、ではないのですか?」

 口に出してから、自然と母国語で喋っていた事に気付く。けれど、そう言えば彼女が話していたのもクリスティアンの母国語だった。あの歌も母国の歌なのだろうか。だから、感情が揺さぶられるのだろうか。

いいえノン、わたしはここで世話になっている者なのよ」

 彼女はそれだけ答え、クリスティアンもそれ以上は尋ねなかった。

「さっきの、歌は?」

 ふわり、と気配が動いた気がした。彼女がこちらに背を向けたのかもしれない。

 彼女は言った。

「あれは、私の罰なの」

 どうしてだろう、クリスティアンには彼女の見つめている先が、あの美しき湖の水面に違いないと、そう思えてならなかった。


 結局、その時もすぐにクリスティアンは連れ戻された。

 修道女達からは愛のある説教を頂いたが、彼女達はせいぜいクリスティアンがベッドの上の生活に飽きてきたが故の行いだと思っているようで、こちらの回復ぶりを裏付ける事として喜んでもいるようだった。つまり、深刻には捉えていないのだ。

 好都合だ。けれどこれ以上となると、流石に厳重な態勢になってしまうかもしれない。

 その晩も、クリスティアンは頭の包帯を取り替えられた。

 クリスティアンは瞼を落としたまま、平静を装う。本当は、醜い傷痕の事を考えるとおぞましくてどうしようもなく、吐き気がして、何も考えたくなくなった。叫ぶのもいい、暴れるのもいい、けれど自分の中に一滴だけ残っている理性や尊厳というものが、衝動をどうにか押し留め、阻止していた。

 ――でももう、限界だ。

 クリスティアンがそう思った時、微かな水音が耳朶を叩いた。


       ‡


 湖は澱んでいるのだろうか。

 激しい雨音は、天から恵みを得た大地の、歓喜の声のようだ。ほとんどの音を消しさる、その圧倒的で規則的な調べが時に人の心に安堵をもたらすのは、人智を超えるものの存在を感じさせるからか、それとも、遥か原初の記憶を思い起こさせるからなのか。

 クリスティアンは濡れそぼった体を動かして、湖を目指していた。

 全身が冷えて、足の裏には血の流れ出ている感覚もある。でも、そんな痛みもあと少しで終わるのだ。やがて、何も感じなくなる。何も――。

 雨の音に紛れる別の水音を、耳をすませて聞き分ける。まっすぐに、という訳にはいっていないだろうが、それでも少しずつ近付けているようだ。

 ぴちゃ、とつま先に動く水の感触を得た時、クリスティアンは寒さではない震えに包まれた。ようやく自分も還る事が出来るのだ。揺るぎなく存在する、普遍の場所へ。

 ちちよ、と思わず呟く。

「……さようならアデュー

 クリスティアンは十字を切った。裏切りの言葉を吐きながらでも、そうせずにはいられなかった。

 そしてゆっくりと、深みへと進んでいった。

 水は冷たかった。でも、決してクリスティアンを拒む事なく受け入れてくれる。

 まるで優しい、母のように。


 ――おやすみなさい、かわいいぼうや……


 クリスティアンは、

 水を含んで質量を増した包帯が、解け落ちてゆく。

 視界は暗闇に堕ちたまま。雨音と水音がぶつかり合い、風が鳴る。腰許までもある水が、クリスティアンを更に奥へと引き摺り込もうとする。何も見えず、誰も居ない、冷たく凍える水底へと――

 クリスティアンは絶叫した。

 けれどそれすらも容易く掻き消されて、水面を震わせる事もない。舌の根が合わず、息すらままならない。どうして自分はこんなところに居るのだろう。どうして自分はここへ来たのだろう。どうして自分はどうして自分は自分は自分は――

 クリスティアンの内に一滴だけ残っていた理性と尊厳が弾け飛び、全てが恐怖へと転じていた。

 死。水底の、湖底の死。

 たった一人で、永遠に、終わる事のない闇に沈む――


 その夜、湖畔の修道院で、一つの命の灯火が消えた。

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