湖底の子守歌
千夜野
第1話 失われた寵愛
――この美貌こそが、僕の全てである。
若き司祭クリスティアンにとって、それは何よりも深い信仰だった。
夜色の
そして、長い金の睫毛に烟る、碧き湖面を思わせる澄んだ双眸。
誰よりも美しいその容姿が、彼の唯一の持ち物だった。
他には何もない。親も、兄弟も、友人も。
自分の美しさ以外に愛すべきものは何も。
それでもそのただ一つの持ち物は、老若男女すべての者の目を惹き付けてやまなかった。
彼の美貌は、まさに神からの贈り物。
人々はそう囁き、妬みすら抱く事も出来ずに、ただ悩ましげに息をつくのだった。
……や……さ、……う……
お……い、か……
クリスティアンは、光のような闇の中を漂っていた。光のような闇。母親に後ろから抱き締められ、そっと目隠しされたような。そんな、優しい闇。
あるいは、水のような闇にも思えた。あたたかく、まっくろい水にくるまれている。
不意にクリスティアンは〝光〟を感じた。暗闇の果てに灯が見えるように、あるいは水底に陽が射すように。〝光〟……いや、これは、音……?
「――えますか?」
その途端、闇がただの闇と化した。つめたい闇。突然、母親から捨てられたように。
「
同じ響きが何度か繰り返されていた。しかし、それが言葉という、意味を持つ音の連なりなのだと理解するまで時間が必要だった。しわがれた声の、恐らくは年老いた女性の質問は、クリスティアンの母国語ではなかった。
「聞こえますか、司祭さま?」
「……
母国語から彼女の使う言語に翻訳して、口に出す。辛うじて声は出たが、自分のものとは思えないほど弱弱しかった。
そこでようやく、おかしいと気付く。
体を動かそうとしても、シーツと思しき布を掻く事しか出来ない。
そして何より、
「何も、見えない――」
クリスティアンの視界は、依然として闇に鎖されたままだった。
‡
物心つく前から、クリスティアンは二つの事を学んでいた。
一つは、自分の容姿が人より優れている事。
そしてもう一つは、優れた容姿は人にとって美徳に映るという事。
かつてのクリスティアンは、孤児院でもある寂れた修道院で暮らす惨めな子どもに過ぎなかった。けれど修道女達は、事ある毎に彼の美貌を褒め、称えた。
そう、修道女達だって自覚があった訳ではないのだろう。それは無意識の嗜好なのだ。
人はどうしようもなく、美しいものに惹かれるものなのだ。
だからクリスティアンは、己の容姿を存分に利用して生きる事に決めた。そうして最初にしたのは、偶然孤児院を訪れた篤志家に微笑みかける事。ただそれだけで彼はクリスティアンを気に入り、隣国の立派な神学校へ通わせてくれた。
隣国を選んだのは、〝惨めな子ども〟であった自分を知る人間が居ない場所へ行きたかったから。聖職者を志したのは、自分に美貌を与え賜うた神の道だから。異国の学校での寮生活は、言葉の問題など戸惑う事もあったが、容姿を活かしさえすれば上手くやれない事などなかった。
そしてクリスティアンは、若き司祭となった。
赴任先は峻険な山々に囲まれた清らかな湖畔の村で、慎ましい人々の暮らす良い土地だった。小さくとも由緒正しいという、可愛いらしい木の教会が住人達によって大事に手入れされていた。
――この顔さえあれば、ここでも僕は上手くやっていく事が出来るだろう。
温厚な村人達に歓迎された時、己の幸運と、顔も知らぬ両親に感謝する気持ちをようやく少しだけ抱く事が出来た気がした。
――だがやはり、神はそんな自分の全てを見ていたのだろう。
その晩、クリスティアンが慎ましくも温かい村に赴任した、まさにその晩。
村にあった、小さくとも由緒正しい、可愛いらしい木の教会は、前例のない突然の落雷によって燃え上がり、跡形もなく焼け落ちてしまったのだった。
‡
思い出した。
クリスティアンはあの夜の火事に巻き込まれ、意識を失って……
「っ、
鋭利な痛みが頭部に走る。思わず上げた声は、掠れてほとんど音になっていなかった。
でも、聞こえた。やはり、音は聞こえる。自分は目覚めている。呼吸もしている。なのに何も見えない。
これまで自分は、どうやって瞼を開いていたのか?
「司祭さま、司祭さま、大丈夫です」
ほど近い距離から、労わりに満ちた、しわがれた声が降ってきた。彼女は言う。ここは村外れの修道院で、自分は
修道女はそれだけ告げてどこかへ行ってしまったようだった。ぎしぎしと、木製の古い床の音が遠ざかってゆく。
クリスティアンは大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。そして、まるで錆び付いているかのように動かしにくい腕をなんとか持ち上げ、折り曲げて。
そっと自分の顔に触れる。
指先に感じたのは、やや粗めの布の手触り。それはクリスティアンの目許を覆うように巻かれた――包帯、だった。
そう、後々詳しく尋ねたところによれば、どうやら自分は光と――美しい顔を永遠に失おうとしているところのようだった。
‡
まだ希望を失った訳ではない、とも告げられた。
だが、クリスティアンには何の慰めにもなっていなかった。顔を、美しい顔を失って、一体自分に何が残るというのだろう。
ああそうだ、自分は光を失う事よりもずっと、美しい顔を失ってしまう事の方が怖いのだ。何故ならそれだけが己の誇りだったから。神に愛された証とすら思っていたから。
自分は、唯一縋れる神の愛を失ったのだ――
奇しくもクリスティアンは修道院という祈りの場所に舞い戻り、病人や弱り切った老人達の一人として過ごす事になった。元々静かな村の外れとあって、まるで悲鳴のように鳴る床の音を除けば、小鳥のさえずりや微かな水のせせらぎくらいしか耳に届かない、長閑な環境だ。
水のせせらぎはきっと、山からの雪解け水が、湖へと注ぎ込んでいる音に違いない。冷たく澄んだ水がまるで帰るように湖面へと流れゆき、湖の一部となるのだ。きっと何十年も何百年も繰り返されてきた自然の営み。それはまるで、人が生まれていつか土に還るかのような。そんな、普遍的な営みなのだ。
湖畔であり、山の裾野でもあるこの地を初めて目にした時、クリスティアンはそのありようにたまらない羨望を覚えたものだった。山と湖という〝揺るがないもの〟に見守られながら、ここで生きて死ぬ事が約束されている村人達は、何て幸せなのだろうかと。
海も山も見えない、常に何かがうつろいゆく街中で育ち、肉親という存在も持たない自分にとって、確かなものなど何もなく、帰る場所などどこにもなかったからだ。
その時だった。まるで啓示のように、クリスティアンの脳裡をある考えが貫いた。
――醜い顔を晒す前に、あの美しい湖の底へとこの身を沈めてしまおう。
寝台の上で、クリスティアンは久方ぶりに生きる目的を持った。
せめてあの美しい風景の一部になるのだ、と。
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