フィーリングカップル☆猫又
さて梅雨間の快晴の日曜日、衛はたまった洗濯物と格闘していた。
「ほれ、これ干しといて」
「はい、衛さん」
藍はそんな衛を手伝っている。そして翡翠は宿題をする瑞葉を興味深げに覗き込んでいた。
「あさごはんをたべる……あ、線が一本足らないんじゃない?」
「もう、翡翠くんはあっち行ってて!」
瑞葉はちゃちゃを入れてくる翡翠を邪険に振り払っている。
「もう干すとこないな、こりゃ……コインランドリーにでもいかなきゃか」
残った洗濯物を手に衛はコインランドリーに赴き、乾燥だけして戻って来ると来客があった。
「衛、どこ行ってたんだい」
「あ、涼生さんちょっとそこのコインランドリーに。お客さんですか」
衛が居間を覗くと金髪のギターを持った若い男が座っていた。涼生が客というからには人間じゃないんだろうが、あやかしってイメージじゃない。
「どうも、俺は鍋島。よろしく」
金髪の男が短く挨拶をした。人好きのする雰囲気の鍋島だったがその目は裸眼で緑色で、やはり人ではないのだと衛は確信した。
「こちらの鍋島さんは猫又でね、今年で生まれて五十年のベテランさんだ」
「はぁ……」
「いや、そんな固くならないで欲しい。めでたい事だからな」
「めでたい……?」
衛がいぶかしげにそう言うと、鍋島はにこにこと笑顔で答えた。
「いやあ、蓄えがある程度出来てな。ここらで俺も所帯を持とうと思って」
「蓄え?」
「ええ、これで」
そう言って、鍋島は少し得意気にギターを手に取った。
「弾き語りってやつだ。昔は三味線で弾き語ってたんだが今時はこれだろう」
「へー」
「この鍋島さんがね、お見合いが成立したら十万円払うってさ」
涼生がにまにましながら衛に耳打ちをした。単価十万円の仕事。こりゃ確かにおめでたい。
「それじゃあ、次の大安の日に」
「涼生さん、あんたは腕利きのよろず屋と聞いた。頼みますよ」
そう言いながら、鍋島がくるりとバク転すると煙が上がりそこには金茶の縞模様の猫がいてギターは跡形も無く消えていた。猫はにゃーと一声鳴くと八幡様の方向に走り去って行った。
「さて、お嫁さんを探さないとな」
それを見届けて、涼生はうきうきとしながら二階へと去っていった。
「そして、我々を頼ってこられたと……」
衛と涼生は白玉の両親、この一帯のボス猫とその妻に鍋島の見合い相手を頼んでいた。
「こちら、依頼料の鰹節です」
「これはかたじけない」
「それでどのような猫、いや猫又がご希望なので」
生真面目な様子で、黒猫が涼生に問いかけた。
「素直で健康であればよろしいとの事です」
「では我々に混じっている猫又にその旨伝えましょう」
猫の夫婦はそう言って、鰹節を抱えて去って行った。
そして来たる大安の日、『たつ屋』にてお見合いの準備が進められていた。そわそわと待っている鍋島は不安そうに衛に聞いた。
「俺、どこか変じゃないだろうか」
「いいえ、雑誌から抜け出したようです」
「そらそうだ。雑誌を丸写しにして変化したんだもの」
あやかしとは便利だな、と衛は思った。それじゃあ被服費もいらないのかと。
「嫁さんを貰ったら、家を買って白い犬を飼うんだ」
これまた古風な家庭像である。しかし、実年齢は五十を超えるというのだからそれも仕方の無い事なのかもしれない。と、衛が考えていると涼生がやって来てこう告げた。
「それじゃあ、お相手さんが来たのではじめましょうか」
鍋島の要望で、秘匿性の高い『たつ屋』の二階の客間でお見合いは行われる。あやかし同士、多少くつろいでもここなら人の目も無い。この日の為に居候の付喪神、藍と翡翠は徹底した掃除をさせられていた。
「は、はい」
鍋島は涼生の声がけで、改めて正座をし直した。するとふすまがするっと開く。
「ではこちらが、サダさんです」
「どうも、鍋島と申します」
居間に通されたのはふわふわとした茶の髪色の女性……猫又である。
「よろしくお願いします」
「あの、こちら鰹節の出汁です」
衛がお茶……では無く出汁を二人に出した。
「それじゃああとはお二人で……」
そしてそそくさと衛と涼生は笑顔で客間から出て行った。――ように見せかけてふすまの前で聞き耳を立てていた。
「どうだい、うまく行きそうかい?」
「しっ……今、はじまったばかりですよ」
ふすまの所には涼生に瑞葉、藍に翡翠まで勢揃いで事態を見守って……否、興味本位で待機していた。
「サダさんはお好きな食べ物はおありですか」
「鰹のナマリなんかは好きですね」
「ああ、あれは美味しいですね」
順調そうにお見合いは進んでいるようだ。茶猫の猫又のサダは鍋島に聞いた。
「鍋島さんはお住まいはどちらの方で」
「神奈川の山の方に住んでおります。いいですよ、自然が一杯で」
「まぁ、山。私はずっと人に飼われていたので街中でしか生活した事がありません」
鍋島はそれはもったいない、と言って山を駆け巡る楽しさと野の野鳥を捕るコツなんかをとうとうと語った。
「サダさんにも是非チャレンジしてみて欲しいな」
「それは楽しそう」
話はうまく弾んでいるようである。それを聞いてドアの外の一行は胸をなで下ろした。
「それで、うまくすれば家が一軒手に入りそうなんです。そこに一緒に住んでくれる方と所帯を持ちたいと思ってまして」
「まぁ、家を」
サダは驚いて声を上げた。山の中とはいえ、持ち家を持つ猫又などそういない。
「そこで、白い犬を飼うのが俺の夢なんです」
「……犬?」
鍋島が犬の話をしだした途端、場の空気が変わった。
「今、犬とおっしゃいました?」
「ええ、あいつらは単純だが気の良いやつらです。狩りの手伝いもしてくれますし」
「……犬だなんてとんでもない!! 私は猫ですよ!!」
サダは犬を飼うという提案を大声を出して否定した。
「私、小さい頃に吠えつかれてから犬が大嫌いなんですの……申し訳ないですけれど、この話は無かった事に……」
「ええっ……」
そして鍋島を一人残して立ち去ってしまった。途端、客間のふすまが大きな音を立てて開かれる。
「ちょっと、犬なんかあきらめりゃいいじゃないか!」
「さっきまで良い感じだったじゃないですか!」
涼生と衛に問い詰められて、鍋島はだらだらと冷や汗を流す。
「いや、その、犬を飼うのは俺の夢で……」
「ああ、また探し直しだ!」
衛は頭を抱えた。どうやら風向きはよろしくない方向に向かっているようである。
「ごめんなさい……やっぱり犬を飼うのは無理です……」
そしてあれから何人の猫又との見合いが行われただろう。黒猫の猫又が立ち去った時、鍋島は地面を叩いた。
「どうして……みんな!」
「犬だよ、犬」
涼生が冷たく鍋島を見下ろしている。
「鍋島さん、犬を飼うのはどうしても譲れないですか」
崩れ落ちる鍋島に衛が気の毒そうに声をかけた。
「大好きな歌の歌詞に出てきて……歌おうか」
「結構です」
「それにしても、どいつもこいつも勝手な事ばかり……」
そう、鍋島が玉砕したのは初日と今日だけではない。すでに五人の猫又にお断りをされていた。それでは、彼女たちの言い分を聞いてみよう。
・三毛の猫又さゆりさん
「都会暮らしが長くて、今更山で暮らそうと思えません」
・アメリカンショートヘアの猫又アリスさん
「男らしさをはき違えてる気がするわ。とにかく生理的に無理」
・サビの猫又小麦さん
「年老いた両親のそばを離れて生活したいと思いません、今回はご縁が無かったという事で」
・キジ虎の猫又ももさん
「やっぱり、犬と生活するのはおっかなくて……猫又になったからには面白楽しく暮らしたいですから」
鍋島の脳裏に浮かぶ数々の断り文句。鍋島は歯がゆくて頭を抱えた。
「思えばあっちは性格はキツそうだったし、こっちは毛並みが良くなかった……」
「ねー、やっぱり犬は諦めましょうよ。結婚生活には妥協も必要ですよ」
「む? お前、伴侶がいるのか? 一度も見た事がないが……」
「ああ、まあ……そう、出かけてるんですよ。出かけただけ……」
伴侶というか同棲相手の彼女だが、鍋島のシンプルな疑問が衛に突き刺さった。出かけただけであればどんなに良かったか。
「さて、困った。この辺りの猫又にはもう声をかけてしまった。西の方の猫又にも頼むかね」
涼生も思案顔でお手製の猫又のリストを見ている。そこにボス猫夫婦がやってきた。
『西のボスに話を通すなら我らを介して貰おうか』
「ああ、もちろんさ。いい人を紹介してくれたら液状のおやつをつけてもいいよ」
『おお、噂のあれか……なるほど、承知した』
打ち合わせを続ける涼生とボス猫夫婦を横に、鍋島はふらりと立ち上がった。
「あっ、どこ行くんですか?」
「ちょっと散歩してくる……」
「じゃあ瑞葉も!」
衛と瑞葉は憔悴した鍋島の様子が気になって後を追った。歩きながら鍋島が呟く。
「なにがいけないんだろうな」
「だから犬じゃないですか?」
「本当に俺と一緒になりたかったら犬くらい我慢できるだろう」
「それもそうかも知れませんけど」
「逆に俺もどうしても一緒になりたい相手が居たら、犬くらい諦めるさ……」
ということは鍋島の方もピンと来た相手は居なかったという事だ。鍋島は人もまばらな不動尊の境内まで来ると、ため息をついて腰を下ろした。
「すまん、つい息苦しくなって……」
「いいえ、きっといい人が見つかりますよ、頑張りましょう」
「ファイトだよ、鍋さん」
瑞葉は鍋島の肩を慰めるように叩いた。
「なんだ、しけたつらをした男共だな」
そこに話しかけてきたのは、出世稲荷の使いの葉月である。
「あ、葉月さん」
『あー、よろず屋のおにいさん』
「白玉ちゃん!」
瑞葉が嬉しそうな声をあげる。葉月の足下から姿を見せたのは白玉である。白玉は足腰もしっかりして少し小柄ではあるものの、もうほとんど成猫と変わらないくらいに成長していた。
「おー、白玉大きくなったな」
『こんにちは。そっちのおにいさんは』
「ああ、よろず屋のお客さんだよ」
『ってことはあやかしなのね』
白玉は鍋島があやかしと分かるととてとてと近づいて行った。
『なんだか近い匂いがするわ』
「ああ、俺は猫又だからな。名は鍋島という」
『へぇぇーっ』
すると、葉月が白玉を抱き上げてからかうように言った。
「そうだ、白玉の特技をこいつらに見て貰うといい」
『えーっ、まだ下手くそだよ?』
「私が手伝ってやるから」
『母様が一緒なら、白玉やってみる』
そうか、と葉月が返事をして白玉を撫でると白い煙が辺りに満ちた。
「どうですか、おかしくないですか?」
そこには白い着物に白い髪の十二歳くらいの少女がいた。こちらを見る青い瞳で白玉が変化したものと分かる。
「おお、すごいな。猫又でもないのに」
「白玉ちゃん、すごい!」
『母様と練習しました!』
「ふふ、どうだ。稲荷の加護で変化の術まで覚えたのだ。さすが我が娘」
葉月は衛と瑞葉と鍋島に鼻高々に自分の養い子を自慢した。葉月はただ単純に白玉の成長を見せびらかしたかっただけなのだが、それで終わらない男が一人いた。
「……かわいい」
「本当ですかー。よかった」
鍋島は惚けたように、白玉に向かって呟いた。褒められた白玉は単純に嬉しそうである。
「すごいかわいい。え、いくつ」
「まだ、八ヶ月です」
衛はおいおいと鍋島に心の中で突っ込んだ。それではまるでナンパである。そして実年齢はともかく、鍋島の見た目は金髪の若い男であり、白玉は中学生くらいにしか見えない。
「まだ変化がうまく無くて、髪が白いままなの。これだと街中は歩けないって母様が」
「ああ、毛色を隠すのは大変だものな。俺は普段からこのままだ」
「へぇ、キレイな金色……」
白玉が鍋島の髪を撫でる。お返しに、とでも言うように鍋島も白玉の髪をなでる。この絵面はちょっとやばいんじゃないの、と衛が思った瞬間けたたましいベルが皆の耳を襲った。
「なっなんだ!?」
「ロリコンがいたらー! これ鳴らせってー! お兄ちゃんがー!」
騒音の元凶は瑞葉の防犯ブザーだった。
「わかった、わかったから音をとめよ?」
衛はとりあえずうるさくてたまらないので瑞葉の防犯ブザーの音を止めた。そんな二人を鍋島と白玉がきょとんと見ている。一方白玉の保護者の葉月はどうしているかというと。
「ははは、鍋島殿。白玉が気に入ったか」
そう言って、腹を抱えて笑っている。
「笑っている場合ですか……!」
「ふふん。まぁ白玉は美しい子だからな。目を奪われるのも当然だ」
「母様、ちょっと」
白玉が恥ずかしそうに葉月の袖を引いた。そんな葉月に鍋島は問いかけた。
「そこな狐様が白玉の母御かい」
「そうだぞ、いかにも私が白玉の養い親だ」
「白玉を妻に迎えたいがどうか」
その時、白玉が息を飲むのが聞こえた。頬を抑えた顔は真っ赤である。
「めんどくさいお姑様がついとるぞ」
「かまわん」
「私は白玉を遠くへ手放す気はないぞ」
「一向にかまわん」
「ふーむ?」
衛は子供相手にふざけているのか、と思ったが鍋島の様子は至って真面目である。そして葉月もだんだんとその本気であることが分かったのだろう。からかうような口調はやがて真剣なものに変わっていった。
「のう、鍋島。白玉は見ての通りまだ子供だ。おぬし、他のおなごにうつつを抜かさず待てるか」
「無論、待てる」
「そうか、では白玉が猫又になった頃、また来るがいい」
葉月は鍋島にそう条件をつけた。鍋島はその言葉に力強く頷いた。
「衛さん、俺は一度『たつ屋』に戻る。涼生殿に謝らなくては」
「えっ、あ……はい」
鍋島はそう言い残すと、来た道を駆けていった。
「……いいんですか、あんな事言って。猫又になるのに二十年もかかるんでしょ」
「そうさの、白玉は稲荷の加護があるからもう少し早いと思うがな?」
「……意地悪ですね」
衛が責めるようにそう言うと、葉月は首をすくめて言った。
「まあ子供の恋路を邪魔するような無粋はしたくないのでね」
「……はぁ? 白玉があの猫又に恋してるとでも??」
衛が驚いて、白玉を見ると白玉は顔を真っ赤にして頷いた。それを見ながら葉月はこう付け加えた。
「知っておるか。猫は雌が恋をしてはじめて雄が恋をするのだぞ」
いたずらっ子のように笑った葉月が姿を消した後、衛と瑞葉はその場に取り残された。
「ねー、つまりどういう事?」
瑞葉がポカンとした顔で聞いてきた。衛はどう答えたものか、と思案して瑞葉にも分かりやすいように説明する。
「白玉は鍋島さんのお嫁さんになる約束をしたという事かな?」
「えー、白玉はまだ子供だよ?」
「大きくなったらって事だよ」
「そうかー。じゃあ蓮くんと瑞葉も結婚しよーっと」
瑞葉は納得してくれたのはいいが、聞き捨てならない台詞を吐く。思わず声を上げそうになるのをぐっと堪えた。ここで変な事を言ったら瑞葉との信頼関係が崩れかねない。
「瑞葉、結婚は大人にならないと出来ないから瑞葉も大人になるまで待とうな」
「うん、わかったー」
衛は蓮君がどんな男の子なのか聞きたいのを我慢しながら、家路へと着いた。
「おかえり、お二人さん」
家に帰ると、涼生が不機嫌そうに出迎えてくれた。
「涼生さん……怒ってます……?」
恐る恐る、衛がお伺いを立てると、涼生は噛みつくように返答した。
「怒ってねぇよ! まぁ事故みたいなもんだしな。それに一応鍋島も金は払うって言ってるんだし」
「それじゃあ……」
「ただね! 成婚の後に支払うって……それじゃ、俺はじじいになっちまうじゃないか……!!」
単価十万円の仕事は支払いが随分先になるみたいだ。ピリピリしたオーラを放つ涼生から逃れて、『たつ屋』の店頭に衛は逃げ出した。
「にゃー」
「お?」
『どうも、こんにちは』
そこに居たのは白玉の実の母猫だった。
『白玉の嫁入り先が決まったとか』
「あ……はい」
『子供の大きくなるのは早いですね……思えば私が一番最初の子を孕んだのも丁度一歳の頃でした』
「寂しいですか?」
『いえ、白玉はもう私の手を離れていますし』
そう言いながらも白猫は寂しそうだ。
「白玉の結婚式には呼びますよ」
『まぁ……そしたら長生きしないと……猫又になってしまうわね』
衛の言葉にふふふ、と笑って白猫は立ち去っていった。
――翌日、いつものように朝食の準備をしていた衛だったが、瑞葉がなかなか階下に降りてこない。涼生が首を傾げながら様子を見に行った。
「瑞葉ー、もうご飯できるよー」
「ううーん」
瑞葉は布団を被ったまま答えた。
「どうした……わ、お前熱くないか?」
「ふう……」
抱き上げた瑞葉の身体はほかほかと温かかった。衛が体温計を当てて測ると、三八度の熱が出ていた。
「ありゃ~、こりゃ学校は休みだな。連絡しておくからな」
「うん……」
苦しげに瑞穂は頷いた。衛が電話をしようとしていると、涼生が様子を聞いてきた。
「瑞葉はどうしたんだい?」
「熱があるみたいで、学校は休ませます」
「そうかい。気温差でやられたかね、それともあやかしの気に当てられたか」
「怖い事言わないで下さいよ。とりあえず病院でしょう」
さっと朝食をすませて、衛が大学に行っている間に涼生が瑞葉を小児科に連れて行くとただの風邪だろうという事だった。
「たっぷり水分とって、早く元気になろうな」
ぐったりとして寝ているいる瑞葉を衛はそうはげました。
「じゃあ店開くからな。大人しく寝ているんだぞ」
「はーい……」
衛は瑞葉を寝かせると、店のシャッターを開けた。そして仕込んでいたクッキーを焼き上げる。
「いい色ですね。衛さん」
「藍」
決して美味しそう、と言わない所が付喪神らしい。
「瑞葉ちゃん、熱を出したとか……私には分からない感覚ですけどきっと辛いのでしょうね」
「まあね、でも子供なんてすぐ熱を出すもんだよ」
「へえ……一応、翡翠が様子を見てますから安心して下さいね」
「そりゃ助かる」
「それじゃ、私はお掃除してきますから」
そう言って藍は去って行った。衛はオーブンから黄金色に色づいたクッキーを取り出した。付喪神達は居候ながら自分の出来る家事を率先してやってくれている。
「家の中に家政婦と保育士がいるようなもんか……贅沢だな」
普通に考えれば暮らしやすい毎日なのだが、衛はどうしても穂乃香がここに居ないのがひっかかる。穂乃香がいなければ、やはり本当の幸せとは言えないのだ。
「わぁ!?」
衛がビニールに包んだクッキーを店頭に並べ終わった時、翡翠の慌てた声が二階から聞こえた。
「翡翠―? どうした!?」
「お、お化けが……」
自分もお化けみたいなものなのに、と衛が少し呆れながら二階に上がると腰を抜かした翡翠と眠る瑞葉が居た。
「なにもいないじゃないか」
「いや、そこから手が出てきて……」
翡翠は壁を指さして、腰を抜かしている。するとふっと瑞葉が目を覚ました。
「りんご……」
「りんご? これか?」
瑞葉の頭の上にはりんごが転がっていた。
「ああ……良かった……これ、お姉ちゃんがくれたの。衛くん剥いてきて?」
「あ、ああ……」
衛はそのリンゴを受け取って、台所で剥いてすり下ろしてやった。
「母もね、熱が出た時こうしてくれたわ」
いつだったか、衛が熱を出した夜に穂乃香がそういいながらりんごをすっていたのをは思い出したのだ。
「まさか、な」
衛は一階に居たし、もし穂乃香が来たのなら気が付かない訳がない。もし、翡翠の言うようにお化けで出たとしても……そこまで考えて衛は首を振った。もしお化けならなぜ真っ先に自分に会いに来て来てくれないのか。
「ほれ、すりりんご」
「わー、衛くんありがとう」
瑞葉は喜んでりんごを食べて眠った。そして目を覚ました時には嘘のように熱が引いていた。
「明日は学校いけるね!」
「ああ。ところであのりんごどこから持って来たんだ?」
「え? えーと、お仏壇の所にあったんじゃないかな」
瑞葉は自分が熱の時に言ったうわごとには気づいていなかった。衛はもしかしたらやっぱり衛には分からない方法で、穂乃香がりんごを持って来たんじゃないのかと考えた。
「本当に穂乃香は帰ってくるんですかね」
「ああ? なんだいいきなり」
その日の夜、風呂上がりにふと衛は浴衣姿で晩酌をしている涼生に聞いてみた。
「一本貰いますよ」
衛は珍しく飲みたい気持ちになって、冷蔵庫から発泡酒をちょうだいした。
「涼生さんは……穂乃香の居場所を本当に知らないんですか」
「それを聞いてどうするんだい。俺は知らないよ。最初に言っただろ」
珍しく、涼生の歯切れは悪い。いつもならはねつけるように返されて終わりなのに。衛は少しだけ抵抗してみる事にした。
「……知っているんですか」
「……しつこいね」
「どうして穂乃香は帰ってこないのでしょう」
「さあねぇ、帰れない理由があるんだろ」
衛はそこまで聞いて、発泡酒を一口飲んだ。
「では、いつかは帰ってくるんですね」
涼生は衛のその確信めいた口ぶりにしまった、という顔をした。涼生は明らかになにかを知っている。けれどそれを衛に伝える気はないようだ。しかし、涼生の口ぶりから確実にいつか帰る、という確信が持てた。
「余計な事言うんじゃ無えよ」
「はいはい」
それだけで、これから彼女の帰りを待つ気力が沸いてきた。
「えっ、近くって門前仲町? ああ、はい」
翌日、突然かかってきた電話に衛は驚いていた。
「近くですけど、こっちもバイトが……ああ、はい」
電話の相手はかつてのバイト先のレストランのオーナー、佐伯だ。突然、近くに寄ったからと連絡を寄越してきたのだ。衛はポリポリと頬を掻くと、藍を呼んだ。
「すまないけど一時間ばかり店番をお願い出来ないか?」
「ええ、構いませんけど。お買い物ですか?」
「いや、知り合いが近くに来たので飯がてら話をしてくる」
衛は藍に店番を任せて駅に向かった。
「おおい、ここだ」
「佐伯さん、久し振りです」
「やあ、彼女見つかったか?」
色黒でがっしりした体型の佐伯は、見た目通りの体育会系でさっぱりした性格ながら無神経な所がある。
「いいや、まだ……」
「その口ぶりだと、諦めてないみたいだな」
「はい」
昨晩涼生と話していなかったら、佐伯と会う気にはならなかったかもしれない。こうなる事は半分分かっていたから。
「あー、腹減った。氷川、飯まだだろ」
「はい。あ、そこのうどん屋おいしいですよ」
「うどんかー、せっかくはるばる来たんだし名物でも食べたいんだが」
「はるばるってそんなに遠くないでしょう。そんな、名物なんて……」
そこまで言って、はたと衛は思い出した。そういえばそんなものがあったような。
「ああ、深川飯だ」
「深川飯?」
「うん、僕も食べた事ないんですが、ほらそこの八幡様の所に」
衛が指さした先には『深川宿』という看板があった。深川めしというのぼりも。
「あそこでいいですか?」
「ああ」
二人でのれんをくぐると、落ち着いた和風の店内が迎えてくれた。
「どうしようか」
佐伯がメニューを広げて迷っている。というのも深川飯には炊き込みご飯タイプのと本来の形であるぶっかけ飯のタイプがあるからだ。
「僕も食べるの初めてだし、この『辰巳好み』ってセットにしようかな」
「おおそうだな」
二人でセットを注文して、お茶をすする。
「どうして急に訪ねてきたりしたんです?」
「うーん、どうにかしてお前に戻ってきて貰えないかと思ってな」
「……」
「実は急にバイトが辞めてしまって……店も回らないし、客足もなんだか……」
衛は考えた。家事は食事以外付喪神がやってくれるし、涼生もいる。三鷹の店まで通いで働く事も不可能ではないのだが……。
「ごめんなさい、まだ穂乃香も見つかってないですし……」
「そうか、いやそんな気はしたんだ。さ、食おう」
供された、『辰巳セット』はあさりの炊き込みご飯の浜松風、それからあさりの味噌汁をかけたぶっかけの二種のセットだ。
「ほっ、このあさり国産だな。身が厚い」
ぷりぷりのあさりの炊き込みご飯は貝の旨味がご飯に染み渡っていて上品な味わいだった。ぶっかけの方は濃いめの味噌の味が染みたあさりをネギの香りともに啜るワイルドな味だ。
「ふうー」
デザートのくずきりも頂いて、二人は満足げに口を拭った。
「どうだ、ちょっとうちに寄りませんか。食後のコーヒーでも」
「ああ」
衛は佐伯を連れて、『たつ屋』へと向かった。
「衛さん、お帰りなさい」
「はい、ただいま」
衛の姿を見つけて、藍が声をかけた。佐伯は衛と藍を見比べて、焦った声を出した。
「氷川、あの子はなんだっ」
「え? 店番ですけど……」
「すんごいカワイイじゃないか。お前まさか……」
「え、あ、まぁ親戚みたいなもので……」
人型の藍が他人にどう見えるかを忘れていた衛はそんな事を言いながら適当にごまかした。実態が皿であるのを知っていると忘れがちである。
「さあ、コーヒーです」
衛はまだ訝しげな顔をしている佐伯にコーヒーを出した。
「ああ、ありがとう」
その時、佐伯の肩に何かが乗っているのを衛は見つけた。
「佐伯さん、虫が付いています」
衛がそれを払おうと手を挙げると、とんでもない大音量のしわがれた声が聞こえた。
『やめんか――――』
「!?」
衛がびくっとして手を止めた。佐伯は何があったのか分からない様子できょとんとしている。
『まったく最近の人間は礼儀がなっとらん!』
衛が佐伯の肩に乗っている小さなものを目をこらして見ると、小さな青ざめたやせっぽちの老人であった。衛はそれこそ虫を捕まえるかのようにしてそれをつまむと、コップを伏せて閉じ込めた。
「虫、とれたか?」
「ああ、はい」
佐伯はコーヒーを飲み終わると、気が変わったら連絡してくれと言い残して去って行った。
「涼生さーん!」
衛は佐伯の姿が見えなくなると、弾丸のように涼生を探した。
「なんだい」
二階で内職をしていた涼生はめんどくさそうに衛を見た。
「なんか変な物を捕まえました!」
衛にせかされて、階下に降りた涼生はコップの中の老人を見てこう衛に言った。
「これは貧乏神だね」
「……貧乏……」
「せっかくなら福の神を拾ってくればいいのに」
「ええーっ、どうしましょう」
衛は貧乏神に祟られないかそわそわしだした。別に裕福でもないのに、こんなものを拾ってしまうなんてとことんついていない男である。
「貧乏神も神様だ、ちゃんとお祀りすればいいんだよ」
涼生は別段慌てる風でもなく、ご飯と味噌を焼いて折敷に並べると小さな貧乏神を乗せた。
『やあやあ、ここの主人は気が利くのう』
小さな老人はそれをぱくぱくと平らげると、ではと言って裏口から去って行った。
「な、簡単だろ」
「涼生さん……ありがとうございます……」
尊敬のまなざしで涼生を見る衛。涼生は居心地悪そうにこう付け加えた。
「まぁ、うちにも貧乏神がついているからね」
「え?」
「俺の部屋の押し入れにでっかいのがいるよ。だから『たつ屋』は繁盛しないのさ」
なんと、衛の経営努力を涼生は鼻で笑う訳である。
「なんで追い出さないんですか!?」
「貧乏神がいると、貧乏以外の厄災が近寄らないからねぇ……繁昌しない喫茶店でもやってりゃそっちに取憑くし、害もないからね」
どこに貧乏神を警備員代わりにする者がいるだろう。ははは、と笑う涼生を衛は初めて恐ろしいと思った。
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