4章 監視

 猟犬たちの消滅を耳で聞き届けた後、自分は病院の廊下を歩いていた。この病院は、彼アイツの記憶の中の世界であるらしい。自分もよく知る実験場のひとつに似通っていた。


「お前がいる場所なら分かるよ」


 五人でよく集まった場所。普段使わない事で監視も警備もされていなかった空白の部屋。別れであり、決戦前夜に皆々で寄り添い最後の時間を過ごした約束の場所。


「俺達にとって、あの部屋だけが救いだったな」


 あの獣が食い散らかしたと思わせる死体の数々が織りなす日が差し込む廊下を、鼻歌まじりに突き進む。後一度でも腕を失えば、それで終わり。もう先生の手助けも期待できない極寒の真っ只中だというのに、この胸の熱ばかりは手放せない。


「友達か—————お互い、そうは言わなかったよな」


 常に隣にいた訳ではない。数日どころか数か月も顔を見なかった日々もあった。だけど、顔を合わせれば数日間など誤差だと言うように持ち寄った会話内容を告げ合った。


 深夜の脱出中は、いつも口を閉ざして廊下を駆けていた。道中、誰と合流しようとも無言で目的地を目指していた。だけど、『アイツ』と会ってしまった時は———。


「————違う」


 見知った外壁ではなかったが、この廊下の距離から曲がり角の数まで全てが記憶通りだった。だけど、何故だ。何かが自分の記憶と食い違っている。進み続けていた歩幅が徐々に狭まり、遂にはつま先が完全に停止する。


「誰だ。誰が俺達の記憶に————」


 気付いた時には遅かった。視界に霞が掛かる。睡魔とは到底違う。記憶の片隅にあった耐寒実験を思い出す。冬山の風を模倣した、体温を奪う凍死が喉の奥から呼び覚まされる。吐く息さえ冷たい。膝が笑う過程すら飛び越え、足首に霜が張る。


「‥‥俺達が最も脱落したストレス実験。これは————」


 そうだ。俺達の実験場には窓など無かった。地下深く、迷宮の奥底で蠢ていた俺達に空の青さと太陽の眼差しなど皆無だったのに。自分は、約束を忘れてしまっていた。


「————そこか」


 肩を抱き、凍り付いた拳銃を取り出す。弾倉に精神隔絶の弾頭を込め、こめかみに迷いなく撃ち込む。脳内を『アノヒト』の音が反響し、皮膚を構成するプログラムのいち回路を隔絶する。


 寒気と呼ばれる痛みから逃れた自分は拳銃を槍へと作り直し、近場の窓へと振り払う。砕かれた窓ガラスの向こう側には、今度こそ見知った『隔壁に覆われた廊下』を見つける。


「な、なんで‥‥」


 白衣を纏った男女の集団が、こちらを眺めていた。この顔を忘れる筈がなかった。俺達を常に実験対象として眺めながらも、自身の肉欲を慰める為に、毎晩『我々』を連れていった人間達。その中のひとり、眼鏡からコンタクトに変えた男性を見つける————『カノジョ』をお気に入りと称して朝まで手放さなかった人間。


「不思議だとは思ってた。幾らお前達が無能な自己顕示欲の塊でも、全員殺せば痕跡が残るって踏んでたのに。そうか、お前達もカナンに来ていたのかよ」


 窓を飛び越え、実験対象モルモットから捕食者へと移行する。


 まさか、自分達という管理者側に踏み込まれるとは思わなかったようだ。腰が引けて、奥の扉へと這いずるひとりを槍の石突で踏み抑える。


「久しぶりじゃないか。いつから俺を見てた?」


 下半身に、あれだけ誇りがあった男性は身の丈を超える槍に恐れて声も発しないで死にかけた虫のように、手足をバタつかせ続ける。羽など持ちえない害虫が、ようやく腹這いの状態で視線を向けてくるが、やはり声を発しない。


「口が利けねぇのか?おっと失礼。大変だな吃音って奴は。『カノジョ』が言ってたぞ、どもって気持ち悪かったってよ—————知ってるんだよ、お前が影で売女呼ばりしてた事をよ」


 腕に渾身の力の込めて、虫を潰すように背骨に圧を与え続ける。潰されている男性と『俺達を嬲っていた白衣の男女』が助かったとばかりに隔壁の扉へと辿り着くが、パスワードでも忘れてしまったらしく外へと逃れられない。


「逃げるなよ。あれだけ俺達を求めただろう?それに、こいつが可哀想じゃないか」


 槍を外したと同時に、腕を踏みつけて手首から先を切り落とした。


 噴き出る血は瞬時に終わり、ビニールホースでも切ったように夥しい血の濁流が流れ出す。今度こそ言葉を取り戻した————コンタクトでイメージチェンジでも図ったらしい男性が、あの第一声を何度も繰り返す。


「大丈夫。すぐには死ねない。俺達みたいにすぐに死ぬのは怖いだろう?」


 槍を手に、男性を飛び越えて肉の塊となっている男女を接近する。試しに近場の女を斬り捨てれば、声も出さずに絶命する。初めての殺人ではあったが、自分は人間ではない所為だ。なんと味気ないものか。


「虫でも殺してるみたいだ」


 続けて背中を後ろの集団に押し付けている男性の胸を突き刺して、胸骨を開くように突き上げてみる。だけど一刺しで死んでしまったようで、口から血塗れの舌を吐き出して白目を剥いてしまう。


「————つまらない」


 最後にまとめて斬り捨てようと構えたが、陰気な雰囲気な女性が声を発した。


「わ、私達はここで観測を続けて。必要な数値さえ提出出来れば解放されるって」


「お前らは、ここに囚われたって言うのか?」


 片手間に殺しながら聞き促すと、生き残っている数人が首を揃えて頷く。


 さもありなん、と言ったところか。肉を持つ人間を雇用するよりもカナンの中という、何でもリゲイン出来る環境で飼って命令した方が楽なのだろう。


「言っておくけど、お前らの現実の身体はとっくに死んでると思うぞ」


「はッ!?」


「は、じゃねよ。死んでるって言ったんだ。カナンに関わった人間は秘密保持の為に虫一匹殺される。散々殺しておいて、自分達だけいつまでも殺せる側だと思ってたのか?」


 再度ひとりを突き刺して殺す。邪魔な死体を槍で持ち上げて放り捨てる。


「だからこれは救いなんだよ。ここにいれば、いつか猟犬達に喰い殺される。そうじゃなくても————」


 衝撃は真上から訪れた。槍を掲げ、鋼鉄の四肢を上空から呼び出す時間が瞬きひとつ分でも遅れていれば、自分は床の染みと成っていた筈だ。だけど、自分以外の男女————陰気でありながらも自分ような美少年の肌をスマホで撮って自分を慰めていた女性共々まとめて踏みつぶされていた。


「ふ、ふひひ—————お、おおおおお、お前はこれで————」


 手首を落としたから動けないと確信していたが、人間とは思いの外頑丈であった。吃音の男性が呼び出した存在は自分を優に超える巨体。黒い艶めかしい女性の肢体を持ち合わせる、カナンに再訪を果たした初日に襲い掛かった異界の何者かだった。


 振り落とされた触手に似た髪に潰された男女など構っていられない。鋼鉄の四肢を掴み、病院の屋上へと逃れる。一階分を踏みつぶしているというのに、なおも自分を見下ろす『それ』が、あの時は見通せなかった赤い眼を向けている。


「あの時は、敵とも思っていなかったのかよ」


 圧倒的な戦力差であるのは、なおも変わらなかった。


 女神の力を借り、上空から異界の鋼鉄で造られた四肢で貫通を求めるが————漆黒の貴き者は、意にも返さずその身で弾き返す。ゴムとビニールの質感かと思っていたが、その実あれは強固なマネキンそのものであった。


「ど、どどどどどうだ!?これで、これで私は、もう一度あの女を抱け———」


 操作を誤ってしまった。眼前の最優先対象よりも先に男性を潰してしまった。


「二度と触らせるかよ」


 突発的な行動など控えるべきだったかもしれない。これで交渉による停止は望めなくなった。だけど、最悪の状況とは言い難いと、自分は笑みを浮かべた。


「そろそろ起きてくれ。お前を使っていた連中は、全員死んだ」


 常人であれば瞬く間に発狂してしまう咆哮を、自分は身を吹き飛ばす鉄風としか感じなくなっていた。生ける音に脳を支配され、あれがどうやって自分の直近に、訪れていられたのか気付いてしまったから。


「反射によって居所を調べ、転移で送りつける。お前達ふたりが居れば、こんな事も出来たなんて。————特別扱いされるのも頷けたよ」


 ————ああ、俺も驚いた—————


 響く声に視線を向けなかった。真横から聞こえた声に、振り返る必要などない。


「状況はわかってる。やり方もわかってるな?」


 自分の融合した精神と似た口調だった。どうやら彼の片鱗は既に自分の内にあったようだ。再度笑ってしまった俺に、『アイツ』はわからないと言った感じの首を捻る。


「言われなくても。お前こそ、寝起きだろう?」


「舐めるな。お前が来るまで絶対眠らないって誓ってたんだ。死んだ時も———」


 カナン全域に散らばった俺達を適切な場所へと移転させ、外へと送り出した後も常に見張り続けていた『アイツ』の精神力はまともではなかった。既に狂っていた俺達の中でも、輪にかけて狂った友は肩を回す。


「アイツらは、最後まで気付かなかっただぜ。俺と『アノコ』だけが特別だって思い込んでてよ」


「最後の最後まで、アイツららしかったんだな」


 落とされる髪の一撃は病院の屋上を破壊するだけに留まらず、一階部分の受付にすら届く。だけど、自分達は既に別ブロック、遥か彼方としか形容出来ない住宅地区へとその身を移動させていた。落としたビルは既に修善され、自分達はその上から見下ろしていた。


「俺達は全員が特別だったのによ。ただの細胞止まりとか抜かして、カナンの一部にされた俺達も。みんな特別だった————俺達全員が『星を渡る子』だ」


 空間を蹴りつけながら接敵する貴き者は、なおも視界の隅に置かれていた。まるで近づけない自分の異常にようやく理解が至ったのか、カナンの空を見上げた。


「もう遅い」


 時間が完全に停止したのなら、あらゆる物も停止する。一切の身動きが叶わない理由は、細胞を動かすにも時間が必要だから。これはただの瞬間移動ではない。時と時の狭間、ある者は永遠の監獄と呼び、またある者は天上の楽園と呼び世界を、『アイツ』は軽々転移する。ワープと呼ばれる不可能犯を行った狂人である。


 そして転移は移動だけで飽き足らない。


 ————自分の視界を覆い尽くす『女神の手足』を、敵の真上へと『実寸大』で転移させる。本来ならば数百メートルであった筈の四肢は、遥か彼方にあっても『数百メートル』のままに見えてしまう。


「派手にやるじゃないか」


 友の声に頷き、もはや侵略者の空母と化した四肢の落下を加える。


 完成していたカナンを完全に突き抜ける攻撃の余波に病院ブロックが完全なる漆黒の奈落へと姿を変貌させる。


 現実世界であったなら大地のガラス化、直ちに人間が絶命する天変地異が起こる襲撃に貴き者は一片の跡形もなく消え去った。しかし————「ビルとバイク、肋骨の何本かにしては悪い事したかもな」と呟くと、肩に手を置かれる。


「むしろ感謝してると思うぜ。無理やり呼びされた被害者が元の世界に帰れるんだからよ」


 指を差す『アイツ』は、純白の塵と成っていく大地を楽しげに見つめている。もしやと思い、口に出そうとしたが憚られる内容に噤んだ。センスがない事はしない。


「聞かねぇのかよ」


 まるで訊いて欲しいと言った感じだった。『アイツ』は誰に対しても優しく、誠心誠意、正しくあろうとしていた。それが同じ境遇の存在ならば尚更かもしれない。


「いつか、迎えに行けばいい」


「達観してるな。ああ、いつか旅にでも出るか」


 ようやくお互いの顔を見つめ合えた友と、最後の言葉を交わす。


「時間がねぇのはわかってるな?俺もお前も」


「俺はまだ若干だけど————」


「いや、無い。外の連中が停止よりも先の楽園破壊を始めた。そろそろ次のタスク———出資者達全員の署名が完了する頃だ。汚染された楽園なんていらねぇ、って言って俺達諸共リセットする気だ。勘付かれるのも目的ではあったけどよ、あの臆病者が随分な強行手段に打って出たな」


 一度でも発令されれば、世界そのものであるサーバーも全てを物理的に破壊する逃亡計画。あの狂乱状態であれば納得できる。だけど、今の今まで実行に移されなかったのは。


「先生のお蔭だ」


「先生?教育係ナニーは全員殺された筈だぞ」


「向こうで紹介してやるよ。僕の大切な人を」


 槍を構え、自分の方が先に射止めたと表情で伝える。舌打ちをしながらも「遅いか早いかで競うのは野暮だ。『アノコ』への言い訳は、自分で考えろよ」と、やはり意味がわからない言葉を発しされた。

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