3章 生ける音

 唐突ではあったが、いつかは訪れると知っていた。覚悟をしていた訳ではない、けれども恐れていた筈もない。自分達は元よりそういった理由の為に生まれたのだから。


 深宇宙に住まう貴き者、形容し難き神々の供物として生まれた自分達は、そうあれかしと調整されてきた。しかし、人間には時間が無かった。


 信仰と侵攻。


 恐れ敬うも畏敬の念も知らないが、人間の脳でも理解できる身体で降臨させる為。もしくは、彼方への探究の為に彼の者と契約をし、啓蒙を得て幼年期に終わりを告げる為。


 いずれにしても、我々は全うな生の終わりなど望むべくも無かった。


 食物であったのならいいのだが、求められた形が婚約であったのなら、厄介だ。


 彼らにも愛情という物があるのかもしれないが、それが永遠の狂気と快楽に浸される慰撫の世界であったのなら、溜息ひとつで身体を預け渡さねばならない。


「————もう時間がない」


 財団と呼ばれる組織の人間が、そう呟いた。見た目はまだ若いと言えたであろうが、その中身は枯れ木そのものだった。しかも忌々しくも、いまだ水を寄越せと宣う類。私はまだ花を作りたい。まだ果実を作りたい。遠くまで花粉を飛ばしたい。


 純粋ながらも留まる所を知らない欲望を放つ情事に、あそこまで心血を注げるとは。恐れ入った。


 —————死にたくない。死んだとしても次の世界を垣間見たい。だったか。


 世界中で生まれてしまった、降臨してしまった身体から採血した『何か』を注がれた身としては————なかなかにつまらない終末であった。


「覚えてる?」


 この問いに、自分は「勿論」と返した。肩と顎で楽器を挟んでいた彼は、少しだけ困った笑みを浮かべる。何故だ?と表情で聞くが、なおも彼の顔は晴れなかった。


「もしかして迷惑だった?」


 白いYシャツに身を包んだ彼は、自分よりも幾ばくか大人びていた。不機嫌な様子など一度として見せなかったというのに、珍しく困ったように言葉を詰まらせている。


「やっぱり迷惑?」


「全然。迎えに来てくれて嬉しいよ。本心から————」


 倒れている自分に手を差し伸ばしてくれる。遊び疲れて倒れ込んだ自分達を、部屋へ風呂場へと連れていってくれた手だった。確認も取らずに、叩くように掴み取って体重を任せると、意外と腕力を誇る彼は易々と引き上げてくれた。


「だけど、少しだけ無茶だったんじゃないかな?」


 こつん、と額を小突かれる。痛みなど無いとしても、初めてのお叱りに驚いてしまった。額を抑えて狼狽するしか選択肢のない自分は、彼の凶行に返事が出来なかった。


「外のアレを見たんだろう。しかも、そんな姿で来るなんて」


 いつの間にか、自分は自分の影を取り戻していた。きっと『彼女』が解いてくれたのだろう。我に返った頭で、感謝を伝えると「ふん」と無視されてしまう。


「ずっと怒ってるんだ」


「どうして怒ってるのか、よく考えてあげて」


 楽器をケースへと戻した彼は、用意されていた二つの椅子を視線で示した。校舎の階段を全速力で駆け抜けた自分は、飛びつくように椅子に頼ると、真向かいに彼も座る。だけど、まだ怒っているようで鎮座という言葉が正しい気がする。


「最初に————約束を果たしてくれて、嬉しいよ」


「当然だろう。そっちはどうだった?」


「もう完遂させて、後は迎えを待つだけ。あの子が外から観測を出来てるって事は」


 ————ええ、滞りなく。移送は完了してるわ。いい扱いもされてる————


 あとふたり足りないとは言え、カナン開闢の前日を思い起こす。


 自分達の扱いが変更されると通達された時、接触を計ってきた鋼鉄の女神。


 当時は全てを悟り覚悟した。終わりが訪れたのだと、想像よりも早かった。だけど人間に切り刻まれるか、貴き者に見初められるかの違う程度だと。————―だけど、あの方は手を差し伸ばしてくれた。


 分解される筈だった俺を掴み上げて、自分の膝元に呼び寄せてくれた鋼鉄の女神。


 カナンという聖域が既に宇宙に認識されていたから可能となった接続アクセスだと仰られていたが別世界の、それも箱庭への接触など、全力の権能を使わねば観測すら不可能であっただろう。


「聞きたい事があるんだね」


 必ずくると予見していた問いの口火を切ったのは、指揮者からだった。


「察しの通り。あの水銀の眼球は彼方の神の手先」


「だけど、どうしてアレがここにいる。俺の記憶にある招かれた『貴き者』達のリストの中に、あんな物はいなかった筈だ。観察みたいな侵攻の前段階を今するなんて」


「————あの眼球は、大学から財団に受け継がれ保持していた品のひとつだよ」


 考えれば必ず行き着く到達点であった。元々財団が造り出した星を渡る子計画なのだから、自らがかき集めた品をひとつのビーコンとして目覚しい発展を求めるのは、至極真っ当な判断と言えるだろう。だが、『物品』の暴走を許すとは————。


「わざわざ収容庫から持ち出した物に反抗されるなんて」


「元から手先として送り込んだ目か。たまたま波長があったから使い魔と改造したのか。どちらも定かではないけど、どちらでも構わないね。つまるところ、アレをどうにかしなければ————ここのAI達の手を借りれないんだから」


「やっぱり、あの姿に成ったのは」


「苦肉の策だったけど、大人しく頷いてくれたんだ。物分かりの良い子達だったよ」


 個性と呼ばれる物を削ったと白衣の女性が紹介していたが、それが此処で功を奏した。物分かりの良い、誰からも好かれる秀才才女ならば、冷静に現状を把握、今後巻き起こる状況も正しく理解した事だろう。


 もしくは自己保存の原則に従って、我先にと無機物になる事を選んだか。


 漠然とAI達の思惑に思を馳せていると、『カノジョ』が頭に呼びかけてくる。


 —————じゃあ、AI達との交渉は成功した上に恩まで作ったって事ね————


「恩に入るのかはわからないけど、まぁ、信用はしてくれたと思うよ」


 確信をもって頷けるかどうか、危うい場面もあったのだろう。しかして、だいぶ曲解気味ではあるが、彼女が言った事は正しいと考えていい。いちプログラムではあるが電源を落とされるでもなく、別の個体に収束するなど忌避する筈だ。


「さて、そろそろ時間だね」


 立ち上がった彼が手を差し伸ばしてくる。


「もう行くのか?」


「うん。次の工程に移行しないといけないから」


 自分よりも背の高い『彼』の手に頼って、立ち上がり改めて背を見比べる。額ひとつ分程度の差ではあるが、自分を見下ろす彼はいつもにこやかだった。


 だけど、この顔も手も全てが紛い物————自分達の身体は既に失われている。


 敢えて言うのなら、今踏みつけているカナンこそが自分達の身体だった————。


「行く前に、ひとつ伝えておくよ。君の欠片はここにはない」


「まただ。じゃあ、何処にある?」


 楽器を拾い上げた彼から波にも似た風を感じる。同時に呼応するように音楽室のタイル床と天井がブロック状に砕けていく—————精神隔絶。自他を明確に区分する力は、自分の周囲を別世界へと誘うのと同意義だった。


「だけど、久しぶりに会えたのに、これじゃあ僕の気が収まらない」


 また首と肩に弦楽器を挟み、馬の尾の毛で造られた弓をあてがう。矛盾なく執り行われる一種の儀式にも似た姿勢に、拳を作り出してしまった。また自分は見送るだけだった————彼女は声を届けてくれているというのに、また自分は。


「そんな顔をしてはいけないよ。君は、強い子なんだから」


 指を引いただけだった。弦と弓が零れるように、耳に染み渡るように発した一音が脳を汚染し、自分の中で新たな息吹を上げる。許されざる悪魔の行いだと知っている、使徒や祓魔師が動き出せば、自分達の計画は瓦解する。知れ渡ってしまう。


「ふふ、大丈夫だよ。ここはカナンなんだから。僕達の楽園には僕達しか許されない。さよならは言わない————今度は外で。必ずカナンに戻ってこようね」


 この誘いに槍を造り出して答えた。構えた槍を無言で受け入れた彼に、自分は静かに頷いた。





 瞼を開いた時、兄と慕った彼は消えていた。だけど、楽器だけは残している。誰かに勧められた気もしたが、終ぞ自分は眺めるだけの観衆と成ったのを覚えている。


「せめて読み方だけでも習えば良かった」


 無人で無音。穴だらけの壁は防音を施した証である。だけど、それが自分には眼球に見えた。———早く取れ。———早く溶かせ————早く溶け合え。


 濁った血の色で囁く。自分の内側から聞こえていた。新たな身体を得たとしても、捧げられる筈だった我が精神は、《未だ深宇宙に囚われていた》。或いは星からの命令だった。誘う者と唆す者。強力な引力を持つ双方に自分は成す術がない。


「言われなくても。ああ、わかってる。俺は————カナンの鍵だ」


 跪き、軽く触れる。羽のように、妖精の粉のように舞い上がる電子細胞が身体に染み渡る。外へと接続されている内側には既に浸透し、これで外側も汚染された。


 もはや腰に手を伸ばす必要はない。ただ念じれば拳銃が生まれる。


 だけど、その形は自分のよく知る型ではない。ピラミッドを真逆にした銃口。自分の手と一体化したグリップ。そして『彼女』の生まれ以っての力である精神投映と、『彼』の内側で真意を発揮した物品の力、精神隔絶。そのふたつが黒鉄を模して銃身を中心に公転していた。


「聞こえています。俺は、あなたの僕。鋼鉄の女神、待っていて下さい」


 少しだけ心配性で、とても寂しがり屋なあの方に短いけれど確実な答えを預ける。しばらく逢瀬を重ねられていない所為だ、皮肉屋な部分が復活してしまっている。


 —————だから、自分は再誕を選んだ。


 顎に押し付けた銃口と共に、引き金に指をかける。たったこれだけで脳が破裂する。自分の目が、噴き出す脳を見つめる。同時に、カナンの鍵たる自分に相応しい形へと、肉片と繋ぎ合わせて永遠の夢を見ているカナン自身が新たな形を施し、頭蓋へと収めていく。


 全ての欠片が戻った暁には、自分は————また探すのだろう。






 見つけてしまった。見つめ合ってしまった。確実に捉えられてしまった。


 水銀を彷彿とさせる艶めかしくも毒々しい有害な眼球が、このカナンの鍵を見つけ出した。そもそも、今更隠れる気もないのだから、早々に見つかるに決まっている。


「精神隔絶。全て自分の為に使えば、ここまで耐えられる」


 校舎階段を駆け上がって、閉ざされていた屋上を踏み割った時だった。


 自分と《それ以外》という暴力的なまでの線引き。彼は迫害にまで届きうる力だと語っていたが、自分と他人との明確な違いを知っているのなら、それは賢者の領域。


 流されず、痛まず、静かに狂う。彼の悠然した様はそもそも視点が違っていたから。


「だけど、久しぶりに怒られた。どうして?」


 静かに迫る眼球を眺めていると、僅かながら耳鳴りを覚えた。


 あまりにも次元が違う存在と接してしまっている所為だ———今の自分を蟻とするならば、あちらは汚染物質。数秒でも共にいれば細胞が煮えたぎって暴走、操作出来ない発展を繰り返して自分の限界を超えて溺死する。


 しかし、今の自分は幽世にも届く世界の扉を見つけてしまった覚者。つまりは徹底的な無関心と言った所だった。達観していると言葉にすれば酷く軽い物に感じられるが、どうやら彼は既に深淵を見詰めてしまっていたらしい。


「自分だけの世界を持ち合わせているから、ここでも耐えられた」


 独り言に痺れを切らしたのはあちらだった。眼球からクラゲの触手のような、ある特定の人物達を狂喜乱舞させうる刺激的な得物を生やしていく。


「そういうのは、人形に使ってろ」


 マグナム弾という、やはりある特定の、しかも年齢層を震え上がらせる弾丸を思い起こす。だけど、マグナムとは単に火薬量を増やしただけの弾薬とも言える。


 ————飛ばす弾頭によってはただの9mm弾よりも威力を減退させる過剰な火薬を使って撃ち出す鉛と真鍮の塊。しかも、サブアームにそこまで期待しない本物の軍人達も、やはり多少も好まないロマンの塊である。


 では、何故存在しているのか。


「お前には、足りないと思っていた所だ」


 9mm弾では決して真似できない轟音を上げて発射された弾頭は、掠るだけで触手を粉砕、眼球にまで届き中から鮮血を吹き出させる。バランスを崩した眼球は屋上の縁にしがみつき、落下を防ぐ。


「本当なら突撃銃アサルトだ。爆弾グレネードだでも仮想したかっら。だけど、ここでは使いたくない。感謝して砕けろ、人間の趣味ロマンの塊に殺されるんだからよ」


 槍に変貌させた触媒を振るい、自分と眼球との間にある柵を破壊する。初めての攻勢プログラムに、混乱している眼球がようやく浮き上がるが『隔絶の力を得た』自分にはただただ無力だった。


「予想通り、お前はただの手駒。アンテナをへし折られる気分はどうだ?」


 自分の精神を『融解』し、『融合』させ『投映』して撃ち込んだ情報は『隔絶』。


「いくら遠方から、強力な操作権を使っていても、ここは別世界。俺達が作り出した仮想現実世界カナンだ。ここでも好き勝手に観察できると思わない事だな」


 再度あらゆる情報を融合させた弾丸を撃ち込み、眼球にヒビを走らせる。砕け始める眼球は徐々に高度を下げ、完全に触手の腕力だけで屋上に留まる。


 ————初めての見下ろす側になって気が付いた。自然と笑みが浮かぶ。


 拳銃を槍の形に変え、眼球の中央、瞳に突き刺す。血を吹き出しながら—————声にならない響きを上げて落下する眼球に踏み込み、死出の旅路の共をする。時間が停まるような浮遊感に笑みを浮かんでしまう。


 この高揚感は忘れ難い、だから————更に槍を突き入れる。


「この血は本体のものか?半端に知性なんて持たせるべきじゃなかったなッ!!」


 二度三度、シメに完全に情報を書き換えた。先兵としての在り方から逸脱しかかっていた物品を掴み取り、槍の矛先に造り変える。顔を照り返す水銀の光沢が失われていく、遂にはサンゴの白骨化にも似た質感へと至った時———あれだけ恐ろしかった眼球が崩壊した。





「長く通信が来ないから、次の手筈を整えていたというのに」


「頼りになるよ」


 学術地区ブロックからの帰還時、車内で通信をしていた。あちら側は本当に一切の情報を遮断していたらしく、何が起こったのかまるで知らなかった。自分が遮断しろと言ったのだからそれまでであるが—————約束は守ったようだった。


「————本当にお前には、長く世話になりそうだよ」


 これで二度目だった。一度完全に浄化をする為に、電子細胞を分解されて光景を見るのは。ただの外装テクスチャーだと理解していながらも、梅雨が過ぎた夏の真っ青な空を貫通し、浮き上がる粉ブロックが宇宙ストラクチャーへと消えていく。あれもいずれ再構築されるとの事だった。


「中のAI達はどうなるんだ?」


「完全なリセットを繰り返し、新しい容姿を整えます。しかしパロメーターのバランスを今更崩す訳にはいかないので、形ばかりの再構築となりそうですが」


「それは、良かった————」


 彼が交渉し、素直に頷いたと言っていたのだ。AIたる自律人形の強みがこれだった。完全なる消去など、時間と資源と資産の問題で議題にすら上がらない。経験と傾向の積み上げと積もりによって形作られた0と1の構成人格は、決して失われない。


「何が良かったなの?」


「人間と違って、あれらは裏切らない。恩だって返すさ」


 今日の削除は終了した。


 そう確信したというのに————腰が浮きがる衝撃を受けた瞬間に車両から飛び出る。視線を向けるまでもなくただの残骸と化している車だった物体から可能な限り転がり、無様に逃げる。視線を向けるまでもない、未だに動くとは思わなかった。


「————物品は回収したのか?」


 切れた唇から血が滴り落ちていく。痛覚も病も再現しているのは承知していたが、ここまで鋭い痛みまで刻み込まなくていいのにと、我が脳を恨めしく思う。


「た、対象は既に粉塵と化しており、カナン内でのみ構築可能となっていました。あなたのアバターに回収された事で、深度測定の後に分解。既に効力は無力アンチ済みの筈‥‥あり得ない」


 純白の細胞と化し、上空へと螺旋状に引き上げられている学術地区の奥深く。地底から与えられた一撃に視界が歪むのがわかる。銀褐色の触手に突き上げられた車は既に投げ捨てられ、ひとつしか備わっていない眼球を生々しく向けられる。


 無機質な質感からは想像も付かない艶めかしい素肌に、舌打ちをした。


「あれは手先。知っていたのに—————」


 作り上げた槍を杖に起き上がり、自分の不始末を見上げる。


 到底自分の刃で計れる大きさではなかった。


 人と人形の営みを建設する巨大な学区ブロックひとつ分を優に超える巨体を持つから恐ろしいのではない。アレが異界からの先兵ではないのが、ただただ悍ましかった。誰が、なんの為に、必然であれ偶然であれ造り出したのか。多くの考察や解析を跳ねのける意味のない不可思議な品だから、ここで精神を狂わせる。


 本来ならばカナンの裏側から出現するなど、信じられない。


 しかも、あれはひとつの物品でしかないというのに。


「質問がある。あれはそっちで分解、或いは突き落とせないのか?」


「じょ、冗談を言っていないで!!はやくそのエリアから去りなさい!!そこはもうすぐ————」


 やはり見るまでもなかった。徐々に我々の肉体である電子細胞が、銀に染まっていく————否、違う。銀に見せかけていただけで、あれは光の集合体。寄生虫の如く肉持つ生物を自分の都合で造り変える、最短にして最善の策を労している。


「具体的な質量がない。仮想現実アストラルな世界だから形作れるとは。いよいよカナンの深淵が俺を見つけたかな。それとも————誰かからの命令か?」


 夥しい数のライトで身体を造り出している発色の巨人が、ゆっくりと、だが身の丈に合わせて一秒で数十mを越して迫ってくる。


「どうすべきかな」


 水銀の眼球でしかなかった存在が、他世界の巨人をも彷彿とさせる身体を持ちえた理由に察しが付いた。カナンの頭脳であり、与えられる回路を作り出すセントラルへと帰る過程にある細胞を全てその身に宿している。光続ける身体の全てが、カメラのライトを模写したのだと笑みを浮かべる。


「なんだ。ただの目の寄せ集め。『混沌の獣』と『宝石の姫君』に、握り潰されたと思ったけど、破片が残ってるとは知らなかったよ。死にぞこないが—————つくづく、人間から生まれた貧者が」


 耳当たりが悪かったようだ。眼球を持つ細い触手が、今も分解されつつあるアスファルトを踏みつける。螺旋状に縛り付けた触手を足に見立てて立ち上がる姿は、忌々しくも生物の発展を思わせる。ただの植物としか形容出来ない姿から魚類へ、後に爬虫類へと進化して地上を闊歩する。だが————進化は一度、途絶されなければならない。


「先走り過ぎたな。何故星が一度進化を停止したのか、知らないなんて」


 槍を高く掲げ、『アノヒト』から受け取った音を捧げる。


「一個の生命では決して届かな絶滅の力。それは空から訪れる————覚悟しろ。お前らは先を求め過ぎた。踏み込むべきじゃない領域で。主の手を離れたんだ」


 我らが主、鋼鉄の女神は『アノヒト』が契った存在を生ける音と評していた。確かにと頷き、実体験を元に納得した。脳に染み渡るあの音が、ただの波である筈がないと考えていたが、まさか彼の者を眠らせる子守唄とは知らなかった。


「お前よりも尚深き神性を眠らせる音だ。最後の時まで味わえよ」


 やはり自分に音楽の才能など無かった。発せられるのは、人間よりも位の高い上位の者にのみ届く金属音。耳をつんざく悲鳴に、眼球の塊たちが苦しみ、膝を突くのが見える。無謀に手を振る姿など、際立って人間らしい。思わずほくそ笑む。


「何の為に目を持ってる?ああ、使えないんだよな?下手に目を合わせれば、邪魔になるってわかってるから。自分の本体から言われたか?絶対に触れてはならない存在とだけは、接触するなってよ!?」


 強すぎる薬にも近いのだろう。彼の者ならば、長い夢を見る程度で済んでしまうだろうが、末端の末端の末端では、大本がどれだけ多次元の存在であろうと耐えられる筈がない。自分の耳を掻きむしろうにも、あの姿は目に全てを置いている。


「半端に力を発展させた所為だな!!目を閉じれないんだろう!?」


 掲げ続ける槍からハウリングが鳴り始めた。こちらからしても、徐々に感じ始める音に、あちら側の住人が耐えられる筈もない。膝を突いていた『狂気の目』の手先は、既に自身の身体を綻ばせ始めていた。


「何が起こっているの‥‥」


 白衣の女性のうめき声が聞こえる。知らなくて当然だ、あくまでも彼女は研究・技術者。宇宙の果てに想いを積もらせる哲学者でも探究者でもないのだ。


「あの方は、自分の配下以外には姿を見せたがらない。早く目を閉じておけ」


 瞬時に女性が「切断開始して!!」と叫び、耳元から気配を消す。まだ一週間程度の付き合いでしかないが、既に自分と『それ以外の存在』を明確に察したようだ。


「あの方が怒るじゃないか。カナンは俺達に肉体そのものなのに、お前みたいな完全なる不純物が入り込むなんて」


 ただの風景。ただの一枚絵でしかないカナンの空に波紋が広がる。それが徐々に大きく刻まれ、真一文字に開かれる。————真っ青な空から深淵が顔を覗かせる。


 最後の審判が訪れたのだと、首を垂れる者も生まれるだろう。裁きから逃れるべく、或いは最後に思い残す物がないように狂気に浸る者さえ現れる光景。


 総じて誰もが覚えるのは、やはり最後の瞬間であろう。


「やっぱり、相当ご立腹だぞ。諦めてそのまま倒れて————」


 最後の足掻きだったようだ。蛇の胴体とも映る触手をしならせて、街ブロックひとつを全て断頭する一撃の予兆に首を寒くする。吹きわたる風が心地よくて、つい瞬きをしてしまった。


「甘い甘い。ただでさえ俺の内側を覗き込んでお怒りなのに。触れる真似なんてしたら————」


 空から降り注いだ鋼の脚に、根元から切断されていた触手と眼球の集合体が、捲れ上がったアスファルトへと落ちたと同時に粉塵と化して消え失せていく。ある程度は察していたが、目の前で発生した事象であれば、認めなければならない。


「————悪い子だ。カナンセントラルで覗いてるなんて」


 空を眺めながら呟いた。


 切り裂かれた空から姿を見せるのは、金属製の蜘蛛と言えるかもしれない。しかし、あれが虫である筈もない。姿があまりにも途方も無さ過ぎた。宇宙から地上へと降ろされた一足が、地表を穿って大地に深々と突き刺さっている。


 隔壁にも似た長大で広大な鋼の杭が続々と降り注ぎ、触手と眼球の塊を地表へ固定、切り刻んでいく。怒りを発散する相手が、あのような肉片では物足りないだろう。


「あの方は優しいけど、一度怒らせると怖いぞ。せいぜい頑張ってくれ」


 死に掛けの動物を弄る子供のように、空から遣わされた金属の四肢が自身の力を以って、対象を引きちぎっていく。頭蓋を這いずる音を揚々と使っていた『水銀の眼球』は、悲痛な叫びを上げる余裕もなく細分化、分解されていく。


 金属の四肢の始原、深淵の窓を見上げると確かに感じられた。


 不機嫌そうに頬杖を突いた『鋼鉄の女神』が、無言で手足を操っている姿を。


「————ええ、わかっています。必ずあなたの元に戻ります。皆で」


 存分に弄んだと気が済んだ女神様は、千切った手足の断片も残さずにその指で回収していく。あまりにも次元が違い過ぎる力の持ち主を見上げる肉塊が、最後の力で身体を揺らし、指から零れるように逃走を試みる。


「逃げられると思ったのか?」


 既に天高く持ち去られつつある対象に、拳銃へと戻した触媒から弾丸を放つ。もはや肉片の肉片としか呼称出来ない身体の深度測定は楽な物だった。


 体内組織の在り方を全て分析————内側から切り刻み、機能を奪い去る。


「いえ、この程度では恩返しとは言えません。待っていて下さい。手土産を用意して見せます」


 最後によく知る、たおやかで優しい笑みを浮かべた女神が手を振って去って行った。


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