せんせい あのね
桜木薫
せんせい あのね
9がつ7にち もくようび てんき はれ
わたしは、きょう、おともだちの、えみちゃんと、さやかちゃんと、いっしょに、こうえんで、あそびました。たのしかったです。
俺はそれを読んで苦笑した。まだ小学一年生なのだ。俺もこれくらいの時はこんな文章を書いていたような気がする。だが、やはり面白い。どうしても笑ってしまう。
そんな俺の様子を首を傾げて不思議そうに見ている少女がいる。神崎優里。小学一年生。さきほどの日記を書いたのはこの少女だ。
彼女と俺は27歳差だ。俺は彼女の父親ではない。優里から見れば、近所に住むおじさんである。おじさん、といっても、親戚ではないし、俺はまだ35歳だ。まあ8歳児からしてみたら立派なおじさんだろうが。
ちなみに独身で職業は教師。ここから電車で約2時間の私立中学校で歴史を教えている。大学の頃からしばらくは某塾で社会を教えていた。その後、今の学校に勤めはじめた。それが、優里の生まれた年だ。
優里のことは、彼女が生まれた頃から知っている。彼女の両親とは知り合いで、俺は学生の頃からここに住んでいて、ずっと変わらない付き合いが続いている。かなり珍しいことだろう。そのためか、俺は彼女の両親が出張などで家を空ける時、彼女の面倒をみたり、家の管理を頼まれたりしていた。だから、優里からすれば、ずっと一緒に遊んでくれている兄弟、もしくは親戚の人のような感覚になっているのだろう。今日も、いつもと同じように、俺にあの懐かしい「あのねちょう」を見せにきていたのだ。
「それね、せんせいがほめてくれたの」
彼女は言って、にこやかに笑った。子供の笑顔には邪気がない。こちらまで毒気を抜かれそうだ。
「そうか、よかったな」
俺が優里の頭をくしゃくしゃとなでると、優里は嬉しそうに笑った。
あれから5年。優里が俺の勤めている学校に入学した。
なんと彼女は俺が担任をするクラスの学年の子だった。
彼女のクラスの担任ではないものの、毎朝顔をあわせることになる。だが、彼女は昔のようには笑わない。俺と会っても会釈するだけ。
中学一年生の時は、俺が歴史の授業で彼女のクラスに教えに行くことは無かった。中学二年生になり、教えに行きはしたが、彼女の変化にはあまり気付かなかった。何となく覇気がないというか、疲れているのか、そういう暗い雰囲気が漂っているなあ、と感じるだけだった。彼女の両親からも何も言われなかった。
そして、中学三年生になった時のことだった。
この時も彼女のクラスの担任ではなく、歴史の授業を教えるだけだったが、5月に入り、彼女が去年より生き生きとし始めたように見えた頃だった。
彼女の両親が怒鳴り合っている声が、斜め前にある俺の家まで届いてきた。
俺が驚いて、様子を見に行こうとしたところに、電話がかかってきた。
優里の家からだった。
電話に出ると、優里の声がした。
「やめて! お父さん!」
彼女は間違って電話のダイヤルボタンを押してしまったのか、すぐに電話は切れた。
俺は家を飛び出して斜め前の家へ走って中に入った。玄関の鍵は開いていた。確か電話があったのはリビングだ。勝手知ったる家なので位置は分かる。
リビングに駆け込むと、血の臭いがした。優里の父親が、椅子を持ち上げている姿が目に飛び込んだ。
まずい。
俺は咄嗟に彼の名を呼び、腕と椅子をつかんで、彼の視界に無理矢理入った。
「何やってるんですか! 落ち着いてください!」
俺は頭を怪我した優里の母親を病院に送った。優里も付き添ってきたが、車内では二人とも口を開こうとはしなかった。
待合室にいる間、優里はうつむいて座っていた。
ジュースを渡すと、彼女は固い顔で礼を言った。
「大丈夫か」
「……先生にはこれが大丈夫に見えるんですか?」
一体いつから俺のことを「おじさん」ではなく、「先生」と呼ぶようになったんだろうか。たぶん中学校に入ってからだろうが。
「いや、そういうつもりで言ったわけではないんだけど」
「大丈夫です」
「そうか。一体何があったんだ」
「先生には関係ありません」
彼女はそう言って目を逸らした。
だが、関係ないわけではない。彼女の両親とは親しかったのだ。
そう思っていると、彼女がぽつりと呟いた。
「お母さん、浮気してたみたいなんです」
「浮気? 誰に?」
彼女の母親はとてもまじめな人で、浮気をするような人ではないはずだ。
「なんか……同じ職場で働いている人だって、お父さんは言ってました」
「いや、それって、お前の父親が勘違いしている可能性があるような気がするんだけど」
「それがどうも違うみたいで……」
彼女はその理由を語りだした。
ある日、母親が風呂に入っている時、携帯が鳴った。電話だった。父親は、机の上にあったそれに表示されている名前を見た。男の名前だった。それだけなら会社の連絡か何かだろうかと思うだけで終わっていただろう。出るものかどうか迷ったが、何度もかかってくるので、気になり、父親は電話を手に取った。男は酔っていて、母親だと思ったらしく、こう言ったのだそうだ。
「先輩、おれ、昨日メールしたはずなんですけど、まだきてないですよ」
父親は、何がきてないのかは分からなかったのだが、直後の男の言葉にギョッとした。
「この間のあれ、またやりたいなぁ。今度うちに遊びにきてくださいよ」
父親が呆然としていると、ちょうど母親が風呂から上がってきた。そしてすぐさま血相を変えて携帯を取り上げ、父親をにらんだらしい。そして、普段彼には聞かせないような甘ったるい声でしばらく会話をし、電話を切ったという。
父親はそのあと、母親に散々に怒鳴られたあげく、次の日から、会社へ持っていく弁当をも作ってもらえなくなったらしいのだ。
そしてその日から、夜遅くに酔って帰る日や、帰らない日が増え始めた。それが、優里が中学二年生の頃だったのだそうだ。
優里が中学三年生になった頃、母親は毎日帰ってくるようになった。
だが、昨日の夜、一人の男が母親を抱えてやってきた。
あの男だった。
父親は、男から事情を聞き、母親を寝かせ、丁寧に頭を下げて男に礼を言ったらしい。
しかし、翌日、つまり今日、父親が家に帰ってくると、母親とその男が一緒に寝ていたというのだ。
優里はその頃まだ家に帰ってきていなかったため、その場面は見ていないが、直後に家に到着したため、父親が男を追い出しているところは見たという。
「お父さん、かんかんに怒っちゃって……。だけどね、お母さん、反省する気が全くなかったみたいで。言い訳ばっかりして、あげくの果てにあたしの勝手でしょ、って言ったんですよ。ひどいと思いません?」
「まあ、そうだな……」
それよりも。
俺は優里がこれからどうなるのかが心配になった。
もし両親が離婚、なんてことになったら、どうするんだろうか。両親がともに天涯孤独である優里は、孤児院に預けられることになるのだろうか。いや、孤児院ではないか。どっちかが面倒をみるんだろうな。どうなんだろう。
俺はその疑問は口にせず、黙って彼女の母親の治療が終わるのを待った。
翌日、彼女はちゃんと学校に来た。
だが、昼休みの頃、職員室の電話が鳴った。
優里の父親からだった。
電話に出た彼女のクラスの担任が放送で彼女を呼び出し、家に帰らせた。
俺が彼女のクラスの担任にどうしたのか、と尋ねると、
「お父様が離婚するつもりだ、と言ってました」
俺は慌てて職員室を飛び出し、彼女を追いかけた。
「おい、神崎」
「はい?」
優里はぱっと振り返った。
「どうしたんですか」
「それはこっちの台詞なんだけどな」
「……なんかお父さんが離婚したいらしいです。それで一旦帰ってこいって」
「らしいな」
俺は手帳の白紙のページを千切り、自分の携帯の番号を書いて彼女に渡した。
「いつでも連絡していいからな」
優里は頷いて走っていった。
数日後、彼女は両親が離婚して、父親の方で養ってもらうことになったと言った。しかし、それは数ヶ月しかもたなかった。父親がリストラされ、自殺したのだ。
遺書には、俺に優里のあとを頼む、と書いてあった。
彼女の母親は、行方不明になっていた。つまり、優里は孤児になったのである。
俺は葬式で、優里に尋ねた。
「神崎」
「はい?」
「これからどうするんだ」
「私もそれについてどうしようかな、と思ってて……」
「お前が嫌じゃなければ、俺の家に来るか? お前の父さんに世話を頼まれてるんだけど」
「へ?」
彼女がものすごく驚いた顔をした。
「え、そんなことして先生までリストラ、とかない……ですよね?」
「たぶん……。つうか、お前今年ででうちの中学校卒業するだろ、気になるならほかの高校へ行けばいいじゃないか」
「まあ、お金もないですしね、そうしましょうか……」
「じゃあ早速、高校受験に向けで勉強しないとな。間に合わないぞ」
「はい、そうですね……」
「家のほうはいつまで住めるんだ」
「今月いっぱいだそうです」
それを聞いて、彼の父親が自殺しなければならなかった理由が分かった気がした。
彼女は私立中学校に通っている。当然公立の学校よりも授業料が高い。
だから彼女の学費を確保するのに、彼は自分の生命保険で、と思ったのだろう。
「じゃあ、それまでに片付けておけよ」
「はい」
彼女は泣いてこそいないが、きっとつらいに違いない。
今まで仲の良かった両親が離婚し、自分を育ててくれようとした父も亡くしたのだから。
だがそれでも彼女は泣かない。ひょっとしたら、泣けないのかもしれない。
それなら、ひどく哀しいことだと思った。
……もしかしたら何も感じていないのかもしれないが、それはあまり考えたくない。
一ヶ月後、彼女は俺の家にやってきた。
そして、本格的に彼女の受験勉強が始まった。
彼女は俺に社会の面倒を見てもらい、他の教科は学校で対策を行った。
その結果、彼女は見事志望校に合格した。
彼女が高校に入学した年、俺は43歳だった。
ある朝、彼女が言った。
「寝れないんです。最近、お父さんが夢に出てきて……」
「大丈夫だ。呪われたりなんかしないから」
俺はそう言って笑った。
その晩、俺は気になって彼女の寝室を覗いてみた。年頃の女の子の部屋なんて覗くもんじゃないだろうとは思ったが。
ちゃんと寝ているのか気になったのだ。だから大丈夫だと自分に言い聞かせながら、そっと扉を開ける。
彼女は寝ていた。落ち着いた寝息をたてている。
「なんだ、ちゃんと寝てるじゃないか」
呟いて、部屋を出て行こうとした時、彼女が大声で叫んだ。
「ぎゃあああああああ!」
俺はぎょっとして振り返り、彼女の肩を揺さぶった。
「おい、大丈夫か」
「……あ」
目が合った。顔色は真っ青だ。
「せんせい……」
「大丈夫か。何かあったかいものでも持ってこようか」
「……ううん」
彼女は首を振って俺のパジャマの裾を掴んだ。
「どうした」
「……またお父さんが出てきた」
「例の夢か」
「……うん」
彼女は頷くと、ぽつりぽつりと語り始めた。
「誰かに追いかけられてるの。最初の頃は、誰か分からないけど、逃げなきゃって思って、しばらく走ってたら目が覚めるっていうだけの夢だったの。でも、最近、追いかけてくる人の顔がお父さんになって……」
彼女は、今日は捕まえられそうになったの、と小さく続けた。
ああ、やっぱりこの子はまだ苦しんでいるのか。いつもは何事も無いかのように振る舞っているけれど。
「そうか……。どっか相談しにいってみるか?」
「ううん。大丈夫だから。ごめんなさい、起こしちゃって」
「いや、まだ寝てなかったからいいんだ。それより、落ち着いたか」
「うん。ありがとう。あたし、もう寝るね」
「ああ。おやすみ」
俺はそう言って彼女の頬に軽くキスをした。
「……え」
優里は目を見張った。
「寝るんだろ。ここにいてやるから安心して寝てろ」
そう言って笑うと、彼女は少しだけ顔を赤くして、布団を頬のあたりまで引っ張りあげて目を閉じた。
……可愛いな。
いやいや、30近く離れている子に何を思っているんだか。
しばらくして、彼女が呟いた。
「先生、あのね」
「ん?」
「私、昔、先生に『あのねちょう』見せたことあるよね」
「ああ、あの『せんせい あのね』からはじまるやつか」
「そう」
「あれがどうかしたのか」
「この間、掃除してたら見つかったんだ。こっちに来る時にちゃんと持ってきたみたいで……」
父親が死ぬまで彼女が住んでいた家はいま、取り壊されて、もうない。
勉強机や食器、本棚以外の家具は全て売り払い、彼女の受験のためのお金にしてきた。彼女の父親の遺書にそうしてほしいと書いてあったからだ。
「あれ、どうしようかな、と思って」
「捨てるのか」
「うん、まあそうしようかなって思ってたんだけど」
「捨てるなら俺にくれ」
「先生に?」
「ああ。お前が嫁に行く時にお前の彼氏に見せてやる」
俺が意地悪そうな笑みを浮かべてそう言うと、彼女は笑った。
やっぱり、女の子は笑った顔の方がいいな。
「ねえ、先生は結婚する気、無いの?」
「まあな、もう40越えてるしな」
「結婚したい人とかいないの?」
「いない訳ではないが、別に必ずしも必要な訳ではないからな」
「そういう問題かな?」
彼女はそう言って笑った。
もう大丈夫だろうか。顔色もだいぶ良くなったようだけれど。
「そろそろ寝た方がいい。明日もまた学校だろう」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
俺がそう言うと、彼女は安心したのか目を閉じた。
やがてかすかな寝息が聞こえてくる頃、俺は静かに部屋を出た。
彼女は大学卒業後、結婚した。彼女の結婚式に、俺は彼女の養父という立場で出席した。
そのとき、俺は53歳だった。
結婚式が終わったその夜、俺は懐かしい、あの「あのねちょう」を開いた。
せんせい あのね
9がつ7にち もくようび てんき はれ
わたしは、きょう、おともだちの、えみちゃんと、さやかちゃんと、いっしょに、こうえんで、あそびました。たのしかったです。
大っきくなったなあ、と一人で呟いた。
せんせい あのね 桜木薫 @Skrg_K
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