見えざる手

桜木薫

見えざる手

 世界的に大流行した感染症TellLoveが、変異した。愛を伝えずにはいられなくなるというこのウイルスは、その病毒性の低さ故に水際対策が行われず、全世界にあっという間に広がり、街にはその症状のために恋人を得られたものたちで溢れかえっていた。一方で、浮気をしていた者や実は愛していなかった者たちはその心を自らの意思に反して明かさなくてはならなくなり、利を得た人間と害を被った人間とで日々激しい言い争いが起こっていた。

 私は、いわゆる非モテである。しかし、このウイルスには絶対に感染したくなかったし、たとえ自分を好いてくれる人がいたとしても、ウイルスによる愛の告白など、聞きたくなかった。そしてこのウイルスは、接触感染と飛沫感染が主だという研究が初期の段階からなされている。そのため、私はもう一年以上も部屋に篭り続けている。

 通信販売で食材を得て、仕事はリモートワーク。職場の上司はいい顔をしなかったが、自らの意思に反した行動を取らざるを得ないことがどんなに苦痛かを滔々と説明した上に、上司の弱点である浮気の証拠をチラつかせたところ、無事にリモートワークをさせてもらうことができた。当然、同じ部署の同僚も同様である。外出は最小限、ゴミ出しと通信販売で購入することができないあるいは間に合わない場合においてのみ、近所のスーパーへ買い出しに行く程度である。

 もともと私は、引きこもることが苦ではない。一人で過ごす方が、他の人に気を遣うことが少なくてラクである。もちろん世の中には正反対の人もいるだろうし、ずっとは嫌だという人もいるのは知っている。だが、私は苦ではない。交流したい場合はSNSでもいいし、顔を見たい場合はカメラを使った無料通話アプリで会話できる。買い物もネットでできる。外出する必要性が、私にはなかった。

 そうして、どちらかといえば快適に過ごしていた私だったが、あるニュースを聞いてから、危機を感じるようになった。それが、このウイルスの変異である。伝播性が大幅に高くなり、これまであまり注目されなかった空気感染が起こりやすくなることがわかったのだ。そしてその変異したウイルスは、同じ建物で感染者が出た場合に、換気を行っていても換気扇等を通じてウイルスが運ばれてくるのだという。それはつまり、私の責任の及ばぬところから自身に感染の危機が起こりうるということである。

 冗談じゃない。私は恐れ慄いた。だがしかし、私が所有するのはこのワンルームのみであり(しかも所有ではなく賃貸である)、他に住むところなどない。今から買って引っ越しするか? いや、そんな蓄えもない。

 連日、隣だか上だか下だかわからないが、近隣の部屋から人が集まり騒いでいる声が聞こえる。あいつらは、私とは違う人間だ。思想も違う。おそらく、私のようにこの感染症にかかりたくないとは思っていないのだろう。命に支障があるわけでもない、とたかを括っているのだ。今はそうでも、今後はどうなるかわからないというのに。そしてあまつさえ、この感染症にかかることを非常に恐れる私のような人間を指して嘲笑う。怖がりすぎだ、と。別にいいじゃん、感染したって怖くないよと。なぜ自分とは異なる人間がいるかもしれないと考えないのだろう。なぜ異なる意見を尊重しないのだろう。私は疑問と憤りを覚えるがどうしようもない。憤りを覚えたところで、その憤りを投げつけたところで、彼らは受け止めない。聞いてくれと嘆願したところで、彼らは真摯に向き合わない。否、向き合ってくれる人もいるが、全員が全員そうではないというだけだ。私は自分に言い聞かせる。一部の人なんだ、彼らは見えてないだけだ、自覚してないだけだ、そしてそれはきっと、私も同じなのだと。そうして私は自身のやり場のない怒りを少しずつノートや時にSNSに書き出す。そうすることでしか、この怒りは解消できない。

 私はまだ、部屋に篭り続けている。毎日は無常に過ぎていく。職場からそう遠くない位置で、一軒家の購入を検討し始めた。だが、目標金額に達するにはあと何年もかかる。私は通信販売で購入する食料品の量を減らし、貯蓄に回し始めた。

 私はまだ、部屋に篭り続けている。いつからか、それまで毎週のように部屋で大騒ぎをしていた音が聞こえなくなった。何かあったのか、あるいは単に苦情が来てやめたのか、わからないがもうどうでもよかった。私は疲れていた。

 件の音が聞こえなくなったことに気がついてから数日後の夜、ゴミ捨てついでに郵便受けを確認し、エレベーターに乗ろうとしたところで私はそれに気がついた。エレベーターの乗り口に張り紙が貼ってあった。

「302号室で、TellLove感染者が確認されました。現在、この建物は隔離されています。外出は法律により禁止されています。必要なものは、宅配ボックスなどに専用の業者が納入します。通信販売は以前と同様にご利用いただけます。」

 私は絶叫した。「私は私が大好きだー!」

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