あの日も雨だった

春嵐

α

 曇り空。

 わたしが外に出るときには、たぶん、雨が降ってくる。

 あの日も雨だった。彼に出会った日も。彼がいなくなった日も。いつも、雨。

 普通の日々だった。なにもかも、普通にこなせる。普通の仕事。普通の生活。どこにも行けない。何もない。わたしではない誰かが暮らしていても、それと気付かないほどに。普通という鳥籠とりかごのなかで、飛ぶことを知らないまま、しんでいく。そういう人生。

 籠から出てみたくて。わたしの周りを囲んでいる普通から、逃れたくて。傘も持たずに外へ出た。雨に濡れて。歩いた。川沿いに行こうとしていたのだと、なんとなく思う。そのまま、しんでしまいたかった。

 道行く人なんて、いない。誰もいない。雨のなかを、ただただ、歩く。ひとりぼっち。みんな、雨のあたらない道を行く。わたしは、生きてみたかった。普通の生活のなかに、生きているわたしはいない。この人生のなかに、わたしはいない。存在していない。わたしは、わたしではない。

 やがて服が水を吸って。重くなった。まるで、わたしみたいだと、思った。普通という雨に打たれて。動けない。でも、この重い服を着ているかぎり、わたしはここにいる。この重い服だけが、わたしの存在を、ここにいたという感覚を、残す。こんな、どうでもいい、服が。

 どこへも行けない。歩いていたのに、立ち止まって。そして。

 彼に出会った。

 まったく、雨に濡れていないスーツ。黒くて、とても大きな傘。それに隠れて、顔は見えない。


「この道を行くひとがいたなんて」


 彼はそう言って、しゃがむわたしの上に、傘をかけた。


「大丈夫です。私とあなたの二人分ぐらいは、この傘の大きさなら」


 わたしは、しゃがんだまま。


「あ、そういえばお菓子あったな。食べますか。ポテトスナックです。食べやすい、細長いやつ」


 目の前に。お菓子。


「おっ」


 なぜ、自分でもそうしたか、分からない。おなかすいてたのかも、しれない。


「おっおっおっ。ハムスターにごはんあげてるみたいですね」


 彼の差し出したポテトスナックを、ぽりぽりと、ゆっくり、食べ進んでいく。


「おっと」


 指。うすしお味。


「それは指です。ちょっと待ってください。次のを。はい。どうぞ」


 目の前に現れた次のポテトスナックを、ぽりぽりと、ゆっくり、食べる。

 食べ終わったら、指を、ちょっとだけ舐める。うすしお味。

 何度も。

 何度も繰り返す。


「少しは立ち上がれそうですか?」


 十何回目かのポテトスナックを終えて、彼が、訊いてくる。

 それを聞いて、わたしは、今、しゃがんでいることに、気付いた。


「あっ。あらら」


 ひざ。しんどかったので。しりもちをついた。濡れていた服の、さらにおしりのところが、じわじわとしみる。ぐちゃぐちゃ。


「しかたないなあ」


 目の前。ちょっと遠いところに、ポテトスナック。食べようとしたけど、届かない。わたしの人生みたいだなと、思った。きっと、わたしの生活は、こんな感じで。届かないポテトスナックを見つめながら、濡れた服で地べたに座り込むような、そんな、普通。


「だめか。じゃあ、失礼しますね。よいしょ」


 おしりが。

 浮いた。

 抱えられたかも。


「はい、ポテトスナック」


 やさしくあてがわれたポテトスナックを、口でとりあえず受けとる。


「とりあえずホテルかなあ」


 見知らぬひと。ここで男のひとだと気付いた。彼。彼が、なにか耳につけてしゃべっている。


「私です。だめでした。ここの道にまさか人がいるとは。ええ。私はこの任務から降ります。はい。あとのことは任せました。ああ、あと、近場のホテル分かりますか?」


 喋っている言葉だけは、ちゃんと聞き取れる。区別できる。


「できれば、お風呂が広いところで。いえ。人は要りません。定期連絡は通信で。はい。分かりました。ではこれで」


 彼が、歩き始める。

 わたしは、小脇に抱えられたまま。

 ときどき、ポテトスナックが目の前に出てくるので。それをゆっくり、食べながら。

 ホテルの入口で誰何すいかされて。そのまま部屋に。

 普通じゃないホテルだった。

 どうでもいい。なぜか、安心だけが、あった。

 服をやさしく脱がされて。

 まず浴槽にひたされた。

 次に、浴槽から持ち上げられて。


「座れますか?」


 言われた通り、座った。雨の地べたではない。おふろの椅子。

 背中から、洗われる。身体。次に、髪。目を閉じていたので、たぶん顔も。そして、もういっかい、身体。シャワーが、あたたかい。

 次は、自分で浴槽に浸った。彼の腕も引っ張る。


「私も身体を」


 彼が身体を洗うのを、見てた。丁寧だった。

 彼が浴槽に来る。とても広いので、二人で入っても、かなり余裕があった。たぶん泳げる。


「どうぞ?」


 視線に気付いた彼が、うながす。

 平泳ぎした。泳げた。ちょっとだけ、水音がして。ほんのすこしだけ、たのしかった。

 満足したので、上がった。

 身体を拭こうとしてきた彼のタオルを奪って、彼の身体を拭いた。なんとなく。心が、安心している。

 そのまま。

 ベッドに向かって。大きなベッド。

 潜り込んだ。

 彼が、毛布をかけてくれて。

 そのまま。眠った。暖かかった。


 起きてから、自分の異常さに、正直びびった。

 なにしてたんだろう、わたし。

 見知らぬひとの出すポテトスナックにつられて。ホテルまで来て。一緒にお風呂まで入って。

 雨の音。

 身体からは、とてもいい匂いがする。お風呂と、ベッドの。それ以外の匂いはしない。あっおしっこいきたい。おしっこ。

 彼を探した。というか、ここはどこ。ホテル。ホテルなのは分かるけど。服。服はどこ。

 トイレ。普通だった。異常なし。水分不足でもない。

 洗面室に、服があった。手を洗っていて気付く。わたしの服。どれも新品みたいに、綺麗になっていた。濡れた痕跡すらない。とりあえず、着た。どうしようもない。他に選択肢もない。

 誰か、みしらぬひとに。これは。囲われた、ということなのか。このあと食べられるのか、わたしは。分からなかった。昨日感じた安心感は。あれは、なんだったんだろう。

 リビングの机の上には、ごはん。和洋折衷のやつ。そして。

 ポテトスナック。場違い感がすごい。ポテトスナックがそこにあるだけで、なんか高そうなごはんの面々が、なんか手頃に見える。

 おなかがすいていたので、食べようとして。

 思いとどまる。

 これ。

 お値段いくらですか。

 あっ。

 電話。

 電話どこ。

 ここか。


『おはようございます』


 しらないひと。女のひとの声。


『先ほど、お客さまのお連れさまがお出になりました。おかねは払っていくので、チェックアウトまで自由にお過ごしくださいとの言伝ことづてを預かっております』


 彼は。いなくなった。


『チェックアウトまで、あと7時間少々ございます。何かありましたら、こちらのお電話をお取りいただければ、すぐに応対させていただきます』


 電話。

 それだけ言うと、黙った。

 こちらが切るまで、繋いだままらしい。

 ようしゃなく、こちらから切った。

 どうしよう。

 せっかくなので、ごはんを、食べた。

 食べ終わったあと、いちおう再確認のためもういちどトイレ。普通だった。水分不足でもない。

 おなかがいっぱいになったら、眠くなったので。さっきまでいたベッドにまた潜り込み、また眠った。

 雨の音がする。

 きっちり、6時間で起きた。

 そして、自分の置かれている状況が、おかしいのだと、はっきり自覚した。

 なんだこれ。

 雨に打たれて歩いていたら、ホテルに連れていかれて。なんだこれ。なんだこれ。

 とりあえず、チェックアウトした。


「ありがとうございました。お連れさまとのまたのご利用をお待ちしております」


 誰ですかお連れさまって。誰。


「傘はこちらになります」


 差し出された、傘は。

 彼の、あの、大きな黒い傘だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る