第19話 星の金貨
女性としてサロンにデビューしたその日は、カテリナにとって不思議な夜だった。
子どもの頃から召使いの男の子たちと遊ぶ方が好きで、男の子の格好にも話し方にも、違和感は何もなかった。服の色を一つ決めるにも周りを気にする女の子たちの感覚は不思議で、男の子に比べて複雑でもあって、苦手な気持ちを持っていた。
でも肖像画の母がまとっていたドレスとやさしさに憧れていたのは本当で、チャールズたちがしきりに教えてくれる女性の所作や教養を嫌ってもいなかった。花を見たらきれいと思うみたいに、心のどこかでドレスをまとってサロンに行ってみたいとも思っていて、チャールズに誘われて立ち入ったその世界に、宝石みたいな輝きをみつけていた。
甘いお菓子と紅茶の香りも、心地よいと知った。チャールズと踊るダンスだって、家で冗談交じりに踊るのとは違う。
星々の下でいつまでも、この時に浸っていられたら。そう思う気持ちも嘘じゃなかった。
けれどチャールズと踊った後、カテリナは後ずさるような一言を口にしていた。
「お母さんだったら、早く帰りたいなんて言わなかったかな」
ここには国王陛下がいる。国王陛下と一緒に過ごすことがどうして嫌なのと自分に問いかけると、嫌じゃないよ、苦手なだけだよと子どものような答えが返ってくる。降臨祭の半分、毎日のように一緒の部屋でお仕事をしていたじゃないと言い募っても、それとこれとは全然違うと苦しそうに言い逃れる。
「ありがとう。チャールズが連れてきてくれて嬉しかったよ。でも……なんだか、自分が自分じゃないみたいで」
国王陛下の前で「カティ」として振舞えないのが、たまらなく気まずい。
せっかく連れてきてくれたチャールズに申し訳なくて、顔を伏せて言うと、チャールズは考え込む素振りを見せた。
チャールズはどうされたのですかと問い返すこともなく、ただ彼がいつもそうするように、カテリナの打ち明けた迷いに優しく応じた。
「リリー様にはお立場がございましたから、確かにいつでもご自分の意思でサロンを出られるわけではありませんでした。でも」
一度言葉を切って、チャールズは続けた。
「今のお嬢様のように、早々に立ち去りたいと仰ったときもありましたよ。……怖がっていらしたのでしょうね」
「誰を?」
「リリー様が怖がったのは、旦那様しか存じ上げません」
チャールズはちょっとだけ不機嫌に言ったが、すぐにカテリナの手を取って導いた。
「どうなのでしょう。星が定めているものなら私には留めようがないのでしょうが、今はお嬢様の小さなわがままを叶えてさしあげなければ」
彼はそう言って、王妹マリアンヌの方に足を向けた。
カテリナはチャールズにギュンターのことを告げなかったが、彼を気にしてサロンを後にしたいと考えたのは伝わっていたらしい。チャールズはマリアンヌからテーブルを三つほど挟んだところで待ち、ギュンターが彼女の側を離れたときを見計らって彼女に近づいた。
そのとき、マリアンヌはこの国の姫君としての名に恥じない、誰に不公平にもならないまなざしと言葉で訪れる人たちを迎えていた。
けれど歩み寄るチャールズを見てその意図を察したようだった。
マリアンヌはグラスをテーブルに置き、少し外すことを周囲の人に告げると、一人チャールズに近づいた。
二歩先でマリアンヌは立ち止まり、チャールズに声をかけた。
「まずはご令嬢にサロンへ来ていただきたかったの。感謝します、メイン卿」
マリアンヌはチャールズがこの場を辞すことを告げる前に、その言葉を読み取ったようだった。
「お気になさらないで。ご令嬢に、サロンを嫌いになっていただきたくないの。初めてサロンを訪れるときは誰でも緊張するのだから、とても自然なことよ」
マリアンヌは少し残念そうに目を伏せたが、すぐに微笑んで言った。
「これからですもの。またいらしてね」
出会ってからどんなときも、この方は微笑みを絶やさない。すぐに顔に出てしまうカテリナには到底及ぶべくもない姿に、ただ仰ぎ見ることしかできない。
カテリナはチャールズの腕から手を離して、初めて自分の言葉であいさつを述べる。
「殿下、お招きいただき光栄でした。星の祝福を受けたように胸がいっぱいです。今日はこれで失礼しますが、必ずまた御前に参上します」
せめてきっちりとお礼を述べて、騎士の誇りにかけて綺麗に礼を取る。
カテリナが顔を上げると、マリアンヌはそれでいいというようにうなずいてくれた。
ギュンターにもあいさつをするべきだとはわかっていたが、カテリナは彼には話しかける勇気がなかった。安心と寂しさの混ざり合ったような気持ちで周りを見回したカテリナを、マリアンヌが苦笑して見ていたのは気づかなかった。
まだサロンを訪れて一刻と経っていなかったから、ダンスもチャールズと一度踊ったきりで、来客と会話することもできなかった。ただここのサロンの来客はみな物静かで距離を心得ている人々だったから、折を見て訪れたときには輪の中に入ることもできそうに思えた。
陛下がいらっしゃらなければ今日だって、きっと何度もダンスができたもの。口をへの字にして思ったけれど、今までダンスにそれほどこだわっていなかった自分がダンスのことを残念がっているのは、今日が星のまたたく澄んだ夜だからに違いなかった。
チャールズに手を引かれて庭を出て、館の門扉までやって来たときだった。
「待って!」
まさか彼が追ってくるのは想像していなかったから、カテリナは呼び止めた声に硬直してしまった。
振り向かないという選択もできたのかもしれないが、カテリナはごくんと緊張を呑み込んで、恐る恐る振り向く。
そこに慌てて抜け出してきたのか供も連れず、ギュンターが立っていた。カテリナが知っているのは穏やかな王と不機嫌な上司で、少年のように性急に声をかけた彼は、知らない人のようだった。
「私は君に、何か失礼をしてしまったんだな。許してほしい」
気落ちしたように目を伏せた彼に、カテリナは首を横に振った。乱暴なことを言われたわけでもないのに彼と話ができない自分が不思議で、誤解を解きたいのに、それがまったくの誤解でもないような気持ちに呑まれてしまった。
「今度いつ会えるかは……訊いてはいけないことなんだろうか」
カテリナに訊ねるというより頼み込むような声音で、ギュンターは言葉をこぼした。
カテリナは考えがまとまらないときは、どこかに突っ走るか、潔く逃げるかのどちらかだった。今は走る場所が見当たらないので逃げる一択だとわかっていたのに、なぜか世間の女性たちがよくするように、占いに頼るような気持ちで星をうかがっていた。
星読み台で数式を書き上げて精霊の言葉を読み解くならいざ知らず、星は瞬間的に答えを出してはくれない。
そんなこと言ったって、私にだってわからないよ。カテリナはとっさに子どもがすねたような顔で、ギュンターを見返してしまった。
「……あ」
俗世を知らない精霊のようだったカテリナの表情に人間らしい不満が浮かんだのを見て、彼は閃いたようだった。
ギュンターは一呼吸も置くことなく、命令じみた一言を放つ。
「また会ってくれ」
瞬間、ギュンターがカテリナに言ったのは、いつもの声と同じだった。繕っている顔を一枚めくった、無神経だが的確で、有無を言わさない一言だった。
カテリナは反射的にむっとして、嫌ですよと言いかけた。ところがその一言を告げる前に、ギュンターは手を伸ばしてカテリナの手に何かを握らせた。
不思議ともう怖くなくて、カテリナはきょとんとして手のひらを開いた。そこに星の文様が描かれた金貨があって、それに息を呑んだのはカテリナではなく側にいたチャールズだった。
昔、カテリナの母と父が海の向こうの王城で出会ったとき、母にひとめぼれした父が、ヴァイスラントの先王から賜った金貨をその場で母にプレゼントしたらしい。
その逸話は娯楽新聞に載ってしまって、今でもサロンに出かける男性は、イミテーションの星の金貨をポケットに忍ばせていると聞く。
とはいえヴァイスラント公国の女性たちはたくましく、意中でない男性からイミテーションをもらっても、その場であっさり捨ててしまうのもよくある話だった。カテリナもとっさに考えたのがそのよくある方だったから、ギュンターの一手はそんなに成功したとは言えない。
ただ普段全然労わない彼が珍しく褒めたときみたいに、不意にぽとんと手に落とされた金貨は、カテリナの心に小さな音を立てて収まったようだった。
「はい!」
気が付けば子どもが得意げに胸を張るみたいに笑い返して、カテリナは答えを待たずに馬車に乗った。
走り出した馬車の中で手のひらの金貨をみつめて、カテリナはふふっと笑った。
星がまたたく夜は、そんな風に過ぎていった。
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