こんな自分が信じられなーい!

 ずっと脳内をリフレインする声。


『この俺が、思わずキスしてしまうなんて、おまけに忘れられなくなるなんて』


『次は、もう自分を止められない』



 いや、これセリフ違うよね!? とツッコミしながらも、頭の中で千野せんの先生の声が途切れず。


 あの後、呆然として作法室に座り込んでいたら、遠藤先輩がやってきて。


「……ちゃー! どうしたのその格好?!」

「え? あ……」


 胸元まで開いたブラウス。

 一応片手で押さえ込んでいたので、谷間とか見えていなかったんだけど。


「もしかして、あの人に?!」


 千野先生がここに来たのを知ってる遠藤先輩は、鋭い指摘をする。


 先輩に言っちゃえば。


 もうこんなこと、されないかもしれない。


「……違いますよ。何だか息苦しくなっちゃって。自分で開けたんです」


 口から出たのは、真逆の言葉。


「大丈夫? ちゃー、持病とかあったっけ?」

 遠藤先輩の気遣いが、胸に痛い。


 いつも怖いけど、本当にツラい時は、こうやって労ってくれる。

 だから、何だかんだと言いながらも、私は遠藤先輩が好きなんだ。


「大丈夫です。休んでいたら、落ち着きました」




 体調が悪いなら、今日は帰って休みなさい、という遠藤先輩の言葉に甘えて、私はすぐに帰宅した。


 家に近づくと、店舗裏の工場から甘いお菓子の香りが漂ってきた。

 店の人気商品である酒饅頭さかまんじゅうとは違う。

 かすかなお芋の匂い。


 薯蕷饅頭じょうよまんじゅうだ。


「お疲れ様です。お葬式?」


 工場の裏手で道具を洗っていた若い職人さんの秀さんに声をかけると、大きくうなづいた。薯蕷饅頭は、うちのお店では主に冠婚葬祭に使われる高級品。最近は、あまり結婚式に使われることは少なくなって、もっぱらお葬式での注文が多い。

 あと、大分少なくなったけど、入学式に配ったり。今日明日そんな大口のスケジュールが入っているなんて聞いていない。突発で作っているなら、たぶんお葬式だ。

 


「小さい嬢ちゃんの先輩のお宅って聞きましたよ? とりあえず今夜の通夜つやに50組、明日の本葬用に200組注文いただきました」

「そっか、高村先輩のひいおじいさま……」


 小さい嬢ちゃん、というのは、私のこと。


 昔からいる職人さんや店員さんは、私のことを「小さい嬢ちゃん」、もう成人して今は若女将修行をしているお姉ちゃんのことを、「お嬢さん」と呼ぶ。

 それに倣って、若い人達まで、同じように呼ぶから、いつまでたっても私は「小さい嬢ちゃん」と呼ばれてしまう。


 同じようにお店の「お嬢さん」なのに、私だけ区別されているのは、まあ後から産まれてきたので、仕方ない。


「ええ。ピンコロの大往生だいおうじょうだそうですね、坂下のじい様。最近、よくうちにもみえていたんですよ。週末になると、ひ孫さんにお茶を立ててもらうから、って。上生菓子じょうなまがしやらなにやら二つ、三つ買って、元気よく帰って行って……この間は、長命寺ちょうめいじ道明寺どうみょうじのセット、好物だからって多めに買って行かれて。小さい嬢ちゃんのおすすめだって言ってましたよ」


 畑仕事が趣味だけど、実はこの辺りの大地主。

 高村先輩と仲良くなる前からのご贔屓ひいきさん。

 

 だから、高村先輩がひ孫さんだって知ってびっくりしたけど、ご縁も感じた。


 桜餅、おすすめまでした覚えはなかったけど、でも、そっか。高村先輩に話したから、きっと先輩がひいおじいさまにお話ししたんだ。


 好物なら、なおのことよかった。


 高村先輩の立てるお茶はやさしい味がするから、きっと穏やかで楽しい時間を過ごせたに違いない。


「そっか、寂しいね。常連さんがいなくなっちゃって」

「そうですね。でも、幸せだったと思います。最期まで元気で、可愛いひ孫とお茶を飲んで過ごして。俺もそういう余生を過ごしたいもんです」

「孫の前に、先にお嫁さんでしょ? 早くプロポーズしないと。お姉ちゃん、待ってるよ?」


 とたんに顔を赤らめる。

「一人前の職人になるまでは……せめて、薯蕷饅頭、一人で作らせてもらえるくらいにはならないと」

「そんなこと言っていたら、お父さん、意地でも作らせてくれないよ。お姉ちゃん手離したくないんだから」

「いや、親方はそういう人じゃないです。仕事は仕事として、キチッと分けています。俺が未熟なだけですから」


 こんなにお父さんを尊敬している和菓子職人さんが、お店の跡取りのお姉ちゃんのお婿にきてくれるなんて、我が家としては万々歳なんだけど。


 ゴメン、お父さん、意外とヤキモチ妬いてるのよ。

 秀さんの技術うでなら、もう一人立ちできるってお母さん、言ってたもの。

 他に引き抜かれる前に、早く身を固めてもらいたい、ってグチっていたの聴いてる。


「せめて、約束だけでもしてあげてよ。ただ待たされるのは、やっぱり不安だよ」

「……そういうもんですか?」

「そういうもんよ。秀さん、イケメンなんだし、余計に心配」

「俺なんかより、サエ……お嬢さんの方が、ずっと美人だし……」

 ますます顔を赤らめてモジモジする秀さん。

 サエ……茶映は、お姉ちゃんの名前。

 

 お母さん、安心していいよ。

 秀さん、お姉ちゃんにベタぼれだから。

 

 ニマニマして見ていると、工場からお父さんの声が聞こえる。

 慌てて真顔になって、工場に駆けていく秀さんを見送って、私も家に入る。店舗と工場のさらに奥に、自宅がある。お店が営業中だから、誰もいない。

 私は自分の部屋に行き、制服を脱いでベッドに仰向けに寝そべる。


 そう言えば、お姉ちゃんと秀さんも、年の差があるよね? 

 秀さんが製菓の専門学校を卒業して、しばらく大手の菓子工場で働いてから22歳くらいでお店に就職して。その頃お姉ちゃんは、高校生になったばっかり、15歳?


 それでも6、7歳差か。

 千野先生と私と、そう変わらない。


 ……って、思い出しちゃった!


 高村先輩のひいおじいさまの話をしたり、秀さんをかまっていて、せっかく忘れていたのに。


 また、あの言葉がリフレインしてきた。


 こんな風に、仰向けになって、先生が私に覆い被さって……うわっ! 情景までよみがえってきちゃった!


 あんな、いきなりの、乱暴な……でも、熱っぽい、眼差しで……って、情景まで脳内補正されてる!


 あの時、そんなこと観察している暇なかったから!

 とにかく逃げようと必死だったんだから!


 でも。


 何で、私、遠藤先輩に言わなかったのかな?

 

 恥ずかしいから?


 言えば案内を命じた先輩が自分を責めるから? 


 茶道部の顧問がいなくなっちゃうと困るから?


 ううん、違う。


 そんなんじゃない。

 違わないけど、違う。


 それらを含めて、知られたくなかったから、だ。

 もし、千野先生が生徒を押し倒して無理やりキスをした、なんて知られたら、学校を辞めさせられちゃうかもしれない。

 そこまでいかなくても、担任や顧問からは外されるかも。そうしたら、先生居づらくて辞めちゃうかも。


 イヤだ!


 千野先生に会えなくなるなんて。


 あんな目に遇わされたのに。

 あんな無理やり、唇も、体も触られて。


 なのに。


 ……こんなに、好きなんだ、先生のこと。


 クリーニング代や口止めのためにキスしたくせに。

 それが「間違い」とか「失敗」とか言うくせに。


 でも。


 先生も、私のこと、好きになった?



『この俺が、思わずキスしてしまうなんて、おまけに忘れられなくなるなんて』


『次は、もう自分を止められない』


 だからこれは違うって!


 ……でも、大筋は合ってるよね?


 


 そのあと。


 お夕飯を食べても。

 

 お風呂に入っても。


 ベッドに入って電気を消しても。



 先生の声と顔が何度もよみがえってきて。



 やっと、うつらうつらすると、実際とは違う、思い切り優しい笑顔が夢に出てきて。

 何度も、優しくキスをして。



 そのたびに、私は恥ずかしくて、飛び起きて。

 


 全然眠れなかった……。



 最悪。



 何が最悪って。


 こんな寝不足のくまができた顔で学校に行かなくちゃいけないのが、最悪。


 その理由が。


 先生にこんな顔見られたくないから、だなんて。



 こんな自分が信じられなーい!



 

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