悪魔の囁きに違いない!

「ああ、話は聞いてるよ」


 おだやかに微笑み、彼は答えた。


「だけど茶道に関しては、全くのドシロウトなんだけど……」


「大丈夫です! 茶道の基本は私達部員で練習いたしますし、外部の方に長年講師をお願いしてる方がいらっしゃるので、特別難しいことはございません。先生には、たまに様子を見ていただくだけで結構ですから」

「あ、大丈夫。なるべく関わるようにするから。アドバイスなんて無理だけど、雑用ざつようは任せて」


 にっこり。

 さわやかな笑顔で、千野せんの先生は答えた。


「えっと、君が部長の遠藤くんだね。それから……」


 不意に千野先生は視線を移した……私に向かって。


「うちのクラスの……中沢、だったよな。部長より君に頼むことが多いかも知れないから、色々教えてくれよ」


 ハハハ……。


 ちょっと照れた感じの、笑い声。

 まだ、顔と名前がうろ覚えで申し訳ない、という感じで。


 ……いたたまれない。

 遠藤先輩に肘でつつかれて、あわてて小さく、ハイ、と返事をする。


「あ、ついでに部室にも案内してもらえるかな。まだ校内よく分かってないし、場所も覚えておきたいから」

「あ、では、この子に案内させますわ。私、生徒会でまだ打ち合わせがありますので」


 え?


「頼むよ。中沢」


 えぇ!?

 先生と……ふたりで?


 黙りこくって、部室のある校内の外れに向かって歩く私と千野先生。


 特に話しかけて来る様子がないことに、私は少し、ホッとしていた。


 だって、何話したらいいの?


『私にキスしたこと忘れちゃったんですか?』


 なんて、まさか聞けないし……。


 と、うだうだ考えているうちに、部室である作法室さほうしつに着いた。校舎から少し離れた同窓会館どうそうかいかんの二階。事務所もあるけど週の半分くらいは無人で、通用口と作法室の入口だけ鍵を預かって使用している。


「どうぞ」

「へえ、きちんと茶室になってんだ。水屋みずやもあるし」


 え?


「あ、一応古文と日本史の教師だからね、その程度の知識はあるよ」


 ふーん。


 あくまで爽やかに言ってのける先生の姿に、私は、もしかしたら本当に勘違いなのかも、と思った。


 遠藤先輩に余計なこと話す前でよかった。


「では、一通り、説明させてい……!」


 突然、私の視界は真っ暗になった。


「ん……!」


 強引に体を引き寄せられて、次の瞬間、口を塞がれていた。


 それが千野先生の唇だと理解するのに、少し時間がかかった。


「んー! ……ん!」


 間違えなく、あの時と同じ感触……もっと、長く、深い口づけ。


 私は頭を振ったり、手足をバタバタさせて、何とか逃れようとした。


「ん……! ……いやっ!」


 やっとのことで離れたと思ったら、そのまま畳の上に押し倒され……再び唇を奪われる。


 もう、ダメ……。


 その先に起こるだろう、行為を想像して、涙が止まらない。


 こんな校内の外れの、人の出入りがほとんどない建物の中で、誰が助けに来てくれるっていうんだろう?


「……口止め、完了」


 急に体が軽くなる。


 私を押さえ込んでいた千野先生が、体を退かし、そのまま胡座あぐらをかいた。


 私は呆然として、先生を見つめた。


 メガネをはずし、ボサボサになった前髪を手ぐしで整えている先生は……まぎれもなく、あの。


 私のファーストキスを奪った……。


「何? 続きしたかった?」


 ついッ、と手を伸ばして、私の首から胸元に指をわせる。

 ダイレクトな感触……見下ろせば、リボンタイがほどけて、ブラウスのボタンが、ブラが見えるほど外れていた。


「キャア!」


 あわてて胸元を隠すように身をすくめた。


「いや、思ったよりフクフクしていて、中々抱き心地いいなあ」


 意地悪く笑う先生。


「な……何で……」

「だってお前、めちゃくちゃ俺のこと見てんだし。余計なこと言いふらされる前に、口止めしとこうと思って」

「言いふらすって……そんなこと!」


 出来るわけないじゃない!

 先生と……キスしちゃったなんて!


「多分、な。その様子じゃいらぬ心配だったみたいだけど」


 ……そんなことで?

 ……そんな理由で、こんな、ヒドイこと!


「……ほら、またそんな顔する」


 睨み付ける私に、先生は笑いかける。

 意地悪で……それでいて、ドキドキするような、艶めいた笑顔。


「お前、表情くるくる変わんのな……ガキみたいな顔してるくせに」


 不意に、先生は身を乗り出した、私の方に。

 急に顔が近くなって、逃げるより先に、見入ってしまった。


 息を吐いたら、先生に届いてしまいそうで、私は思わず息を止めた。


「……俺が見つめると、こんな顔しやがって……」

「……」


 声も出せないまま、金縛りにあったみたいに身動みじろぎしない私のあごに、先生の指が触れる。


 冷たい、指。


 顎から頬へ、それから唇へと指先でなぞられても、私は身動みうごき出来なかった。


 冷たい指先なのに、なぞられた所が、熱い。


 ……ゾクゾクする。



 パチン!



 突然、目の前で手を打たれて(いわゆる猫だまし?)、私は我に返った。


「中沢……お前が泣くから止めたのに、俺を挑発するな」

「な! 挑発って!」


「さっき言ったのは、半分ホント……半分は、嘘だ」

「え……?」


 さっきのって……口止め、ってやつ?


 先生は髪を何とか整えて、メガネをかけ直した。


「そもそもお前にキスしたのが間違いだ……俺としたことが、大失敗だよ」

「大失敗、って……」


 あんまりじゃない!


「おまけに、その味が忘れられなくなっちまうなんてな」

 

 ……?


「今度俺をその気にさせたら、泣いても止めないからな。覚悟しとけよ」


 は?


「中沢は脱いだらスゴそうだから、楽しみだな……あ、くれぐれも、他の男にあんなエッチな顔を見せんじゃないぞ」


 は……?


 はあぁ?


 颯爽さっそうと立ち去る先生の後ろ姿を見るともなしに見ながら、私は呆然としていた。



 今度、って、何?


 何を楽しみに、してるって?



 脱いだら?



 エッチな?



 ……カアーッ!


 頭の中で、先生のセリフが再構築された途端、私は顔が熱くなるのを感じた。


 うそぉ?


 うそだぁ!



『この俺が、思わずキスしてしまうなんて、おまけに忘れられなくなるなんて』


『次は、もう自分を止められない』



 って、違う!

 セリフ違うから!


 都合よく脳内変換されたセリフが、先生の声色で、頭の中でリフレインされ続ける……いやぁ!


 こんなの!



 こんなの!



 悪魔のささやきに違いなーい!



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