寝待月カフェ

文月いつか

ホットチョコレート

 眠れない夜にさようなら。

 まぶたを閉じると、そこはやっぱり夜だった。


 ◇


朝陽あさひちゃん、一緒に帰ろう」

 隣を歩く陽葵ひまりちゃんは、私のあこがれの存在だ。優しくて、可愛くて、頭がいい。

 本人はいつも謙遜するけれど、もう少し喜んでもいいと思う。

 空にはぽつぽつと雲が漂っていた。秋の空はのどかで澄み渡っていて気持ちがいい。

 そんな中、時雨心地なのは私だけなのだろうか。


「朝陽ちゃんと陽葵は同じだね」

 陽葵ちゃんと初めて会ったとき、彼女はそう言った。

「だって、おひさまの名前だもん」

 ただただ嬉しかったのを覚えている。きっと、共通点が見つかったからとかの単純な理由からきた嬉しさだったのだろう。それでも、おひさまという言葉になぜだかとても心ひかれた。


「朝陽ちゃん」

 隣を見ると、陽葵ちゃんが神妙な顔つきでこちらを見ていた。

「私、行きたい大学決めたよ」

 刹那の沈黙の後、私はやっと口を開いた。

「よかったね……」

 またひとつ、陽葵ちゃんが遠のいてしまった。

 あれから何時間たったのだろう。家に帰り、夕食を済ませた私は、自室で英語の長文問題を解いていた。テーマは、「明かりによって見えなくなるもの」。光害問題を取り上げた内容だった。

 そういえば、この頃、星が見つけにくくなったと感じていた。これも、光害の影響なのかもしれない。

 ふと、今の空の様子が気になって窓を開けた。ひんやりと冷たい風が、一気に流れ込んできた。

 夜空をくまなく探してみたけれど、やっぱり星は見えなかった。

 その代わり、明るい澄んだ月が南の高い位置に昇っていた。もしかしたら、月の明るさで星が見えないのかもしれない。星まで隠してしまう月は、満月を少し過ぎた後の月だった。

 確か名前は……


寝待月


 その瞬間、体が急に軽くなって、宙に浮いているような感覚に陥った。訳も分からず、あたふたしていると、チョコレートの甘い匂いがしてきた。

「お好きなところにおかけください」

 カウンターの上の白い胡蝶蘭。声のしたほうを見ると、店員さんがにこりと微笑んでいる。

 私は言われた通り、好きな席に座った。窓の近くの二人席。白いソファがふかふかで心地よく、気を抜くと眠ってしまいそうだ。

 店内には、私と店員さん以外の人は見当たらなかった。店員さんは、二十代半ばの女性で、瑠璃色のエプロンを着ていた。左胸のあたりに、「東雲しののめ」と刺繍されている。

「寝待月なんて言葉、よく知っていたのね。私があなたくらいの頃は、全く知らなかったもの」

 そう言って、東雲さんはコップを私の前に置いた。湯気が立ち上り、甘い香りが漂っている。

「これは?」

「ホットチョコレートよ。ゆっくり味わってみて」

 東雲さんに促されるまま、私はホットチョコレートを一口飲んだ。カカオの甘みと苦みがちょうどよく、一口で絶品だとわかる。でも、私にとっては少し苦かった。口の中に残る苦みをおいしいとはまだ感じられないらしい。

「おいしいです」

 東雲さんをがっかりさせないように当たり障りのない返事をしてしまった。でも、心のこもっていない言葉はすぐにばれてしまう。

「もしかして苦かった?」

 「はい」と言ってしまうと、もっと東雲さんをがっかりさせてしまいそうだったので、こくりと頷いた。

「そっか……」

 あたりがしんと静まり返る。申し訳なさに耐えきれなくなった私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「ここってどんなカフェなんですか?」

 東雲さんは、さっきまで落ち込んでいたのを忘れたようにぱっと華やいだ。

「ここは、『寝待月カフェ』。寝待月が、南の空に昇るころに開かれるの」

 寝待月は、旧暦十九日の月。月の出が遅く、寝て待っているうちに昇ってくる。

 昔、陽葵ちゃんが貸してくれた月の本にそう書いてあった。

「寝待月が昇るころっていうことは、一ヶ月に一回しか開いていないっていうことですか?」

「そうね。一ヶ月に一回、お客様がひとりだけ来店できるの。だから、今月はあなたが特別なお客様ということね」

 不思議なご縁を感じながら、今月のひとりに選ばれた特別感で胸が満たされた。

「どうして、このカフェを開こうと思ったんですか?」

 その時、東雲さんの顔が曇った。

「何か不安なことでもあるの?」

 予想外の言葉に戸惑ってしまった。不安なことは勿論あるが、東雲さんに言えるようなことではない。

「たいしたことではないです」

 そう言って飲んだホットチョコレートは、さっきよりもさらに苦く感じた。

 東雲さんは顔を曇らせたまま、何かを決心したように話し始めた。

「私は、高校生のころ、ある喫茶店のおばあさんに助けられたの。自分の人生に迷いを感じていた時に、おばあさんが私のことを優しく受け止めてくれた。だから、私もおばあさんのように誰かのことを優しく受け止めて、少しでも役に立ちたいと思ったの。それが、このカフェを開こうと思った理由よ」

 とっても素敵な理由だった。私は、自分のちっぽけさを痛感した。

「だから、何でも言ってね。私じゃ役に立てないかもしれないけれど……」

 東雲さんにも不安な気持ちってあるんだな。そう思ったら、自分のちっぽけさが馬鹿馬鹿しくなってきた。素直になって、相談してみようと思えた。

「私、自分に自信がありません。何をやってもうまくいかない。友達の陽葵ちゃんは何でもできるのに……。人と比べなくていいことは分かっています。でも、とてもつらいです」

 東雲さんは、頷いて聞いてくれた。

「よくわかるわ。とってもつらいわよね」

 涙で目がかすんだ。

 よくわからなかった気持ちに名前がつきそうだった。

「陽葵ちゃんが、私たちは同じだねって言ってくれました。私の名前が朝陽だから、二人ともおひさまの名前だよって。でも、全然違います。陽葵ちゃんは、向日葵のようにぐんぐん成長しているけれど、私は陽葵ちゃんのようにはなれない」

 最初は嬉しかったはずの言葉が、だんだん重荷になっていた。陽葵ちゃんとは違うことを痛切に感じてしまう言葉。

「朝陽ちゃん。いい名前」

 もう涙をせき止めることはできない。心の中の黒い部分が、全部出ていくようだった。

 私、つらかったんだ。無理していたんだ。平気な振りをして誤魔化していた。

「ゆっくりでいいのよ。自分をもっと大切にして」

 当たり前のことなのに、全然できていなかった。自分を見失ってしまっていた。

「朝陽ちゃんは朝陽ちゃんだよ。朝のおひさまのように、ゆっくり昇っていけばいいよ」

 東雲さんは優しいまなざしで私を見ていた。あまりにもずっと見つめるので、恥ずかしくなって視線をそらした。

 視線の先には、影があった。月影かもしれないと思い、窓の外を見る。黄金色の寝待月がすぐそこにあった。

「東雲さん、ホットチョコレートのおかわりください」

「いいけど、さっきと同じで苦いわよ」

「大丈夫です」

 今度はちゃんと味わって飲める気がした。苦みもおいしいと感じられるかもしれない。

 東雲さんは、困惑しながらもホットチョコレートを作ってくれた。カウンターの後ろの調理スペースから、店全体に香りが広がる。最初に感じたのと同じ甘い香りだった。 

「どうぞ」

 一呼吸おいてから飲んだ。自分を試しているみたいで、ちょっとだけ緊張した。

「おいしい」

 心からの感想だった。やっぱり少し苦かったけれど、さっきよりは苦みもおいしいと思えた。もしかしたら、東雲さんが気を使って私が気付かない程度に甘くしてくれたのかもしれない。

「東雲さんに話を聞いてもらって、楽になりました。東雲さんは私にとっての救世主です」

「そう言ってもらえて嬉しい」

 東雲さんが微笑みかけてくれたその時、一段と月の光が強くなった。

「もうすぐ時間ね」

 その言葉を最後に、私が「寝待月カフェ」を訪れることはなかった。


 ◇


 東雲さんと出会えたことで、私の人生が明るくなった。陽葵ちゃんとも以前より仲良くなれた。

「陽葵ちゃん、私もやりたいこと見つかったよ」

「ほんと⁉ よかったね!」

 陽葵ちゃんはとても喜んでくれた。

「お互いがんばろうね」

「うん!」

 私はなんだかんだ言って陽葵ちゃんが大好きなのだ。そう気づかせてくれたのも勿論、東雲さんだった。

 私は陽葵ちゃんにはなれないけれど、ならなくていい。時々、劣等感を感じてしまうけれど、その時は東雲さんの言葉を思い出す。

 ゆっくりでいいのよ。自分をもっと大切にして。

 私は私。ゆっくりと確実に昇っていけばいい。

 あの後、自室に戻ってから「東雲」を辞書で引いた。珍しい苗字だったので気になっていた。

 東雲は、夜が明けようとして東の空が明るくなってきたころ。あけがた。

 私は東雲さんとも同じだった。

 秋の空が連れてきた不思議な場所「寝待月カフェ」。もう一度、ホットチョコレートを飲めた時、私はどれだけ大人になっているだろうか。

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寝待月カフェ 文月いつか @july-ocean

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