第2話 刑法では裁けません
「どうした。この世の終わりのような顔でしゃべっていたな」
「仮病を使うんで、緊張してただけですよ」
結局、三駅離れたところでようやく降車に成功し、引き返してきた。灯が時計を見るとすでにこの時、午前十時。
始業時間を大幅に過ぎていたため、灯は「下痢でトイレにこもっていた」という言い訳を使う羽目になった。知り合いがいやしないかとしきりに辺りを見回したので、首が痛い。
初春の風はまだ冷たい。空は青く、時折小さく千切れた雲が遊ぶ魚のように浮かんでいる。その下を、人々がゆるゆると歩いていた。
この駅は大きさ・発展度としては中規模。一日の乗降数は数万人といったところ。細長い駅には東口と西口があるが、迷うほどの複雑さではない。人の流れもあるし、大きな案内板も掲げられている。大体の人間なら、苦も無く行き先を見つけるだろう。
しかし男の世間知らずはとどまることがなく、どこから出るのかと聞きたげな顔でいつまでもホームをうろうろしていた。
これが衆目を集めないわけがなく、善良なおばあちゃまたちからの寄付が増えるばかりなので、灯が見かねて改札口から出してやった。だからこんな時間になったのである。
「本当に助かったぞ」
男は安堵の表情を浮かべ、灯に礼を述べる。灯は照れ隠しに咳払いをした。
「……まあ、いいですよ。僕もズル休みできましたし」
案外あっけなく認められて良かった。このところ忙しくて有給がたまるばかりだったので、たまにはいいだろう。灯は晴れ晴れとした気持ちになって、ふと男に聞いてみる。
「どこへ行くんです?」
「天咲警察署だ」
男が警察に行く理由に興味がわいたが、初対面でそれを聞くのははばかられた。だから、茶化して言う。
「……今度からタクシー使ってくださいよ。電車、向いてないと思います」
「そうだな」
「じゃ、僕はここで」
「世話になったことだし、お前が良ければ何か飲んでいくか」
男はそう言って、駅前のロータリーに面するカフェを指さした。その程度の知識はあるらしい。
「……カフェはご存じなんですね」
「ああ。茶房ならわかる。電車や交通系は変わるのが頻繁でよくない。久しぶりに山から来てみればこれだ」
男は謎の愚痴をこぼした。まるで世の中が悪いと言わんばかりである。
しかし、本当に山にいるのなら、コスプレではないということになる。灯は、男に興味がわいてきた。
「普段はそこで修行を?」
「ああ。場所は明かせないが」
「本当のお坊さんですか。どうしてわざわざここまで降りてきたんですか?」
灯が聞くと、男は目を細めた。
「聞きたければ、茶のついでに話してやる」
とりあえず駅からすぐ見えるところのカフェに入った。このあたりに数店舗あるチェーンで、オレンジと茶色を多用した店内は親しみやすい雰囲気になっている。
サラリーマンや学生は本業にいそしむ時間のため、店内は親子連れや老人ばかりだ。客たちはゆったり間をあけて座っている。
灯たちもさされるまま、四人がけの席につく。立っている時は十センチ以上男の方が高いのに、座ると頭の高さが一緒になるのが悲しかった。
手が空いていたスタッフが、すぐにメニューと伝票を持ってくる。灯はそれに視線を落とした。少しお腹はすいているが、おごってもらうのにあまり高い物は頼みたくない。……本当は特大チョコパフェとパンケーキ、どっちも試してみたいところだが。
「ご注文は?」
「僕、コーヒー。ミルクと砂糖ありで」
「番茶を」
男はそっけなく言った。灯は一瞬きょとんとし、それから異質な存在を観察する。ウエイトレスは困った視線を灯に向けてきた。
「なんだ。金ならあるぞ」
男は、懐から手の切れそうな一万円札を出してきた。その無防備さに、灯の方がどぎまぎする。
「いえ、ここはお茶と言ったら紅茶しかないですよ。その中から品種を選ぶんです」
「茶葉でしたら、定番のアッサムが一番出ていますが……」
男のこだわりのなさに灯が困っていると、それを見て取ったスタッフが助け船を出してくれた。問われた男は、どうでもよさそうにうなずく。
「ではそれにする」
「ミルクとレモンがございますが」
「両方入れてくれ」
静かな店内に、男の声はよく響いた。その場にいた客が、全員こちらを向いた。普段は滅多に相手と目を合わせない善良な日本人たちが、男を穴があくほど見つめている。灯は思わず首をすくめた。
「……はい、かしこまりました」
接客スタッフだけは素早く衝撃から立ち直り、厨房に消える。キッチンもざわついたに違いないが、お望み通り、レモンとミルクが入った紅茶が運ばれてきた。茶葉の断末魔が聞こえてくるようだ。
「どうした」
「いや……無茶するなあと思って……」
できるだけ相手の液体を見ないようにしながら、灯は自分のコーヒーをすすった。客たちも男から目を背け、空気が少し弛緩する。
「そういえば、お坊さんは……」
「
それが彼の名前だった。本名ではないが、最近はほとんどこれで通していると言った。
「僕は鎌上灯。サラリーマンです」
名乗っていなかった灯は、軽く頭を下げた。常暁は微笑する。
「なるほど。電車に詳しいわけだ」
「あれで詳しいと言われても……」
「俺にとっては、十分すぎる」
「……その話はやめましょう。常暁さんは、何故警察署に行こうと思ったんですか」
理不尽な死を遂げた魂を、なぐさめにでも行くのだろうか。頭は剃っていなくても、僧侶の本業はやはり癒やしだろう。この時まで、灯は呑気にそう考えていた。
「呪いに行く」
常暁の声は、先ほどに続きよく通る。灯たちの近くに座っていた親子連れが、そそくさと席を立った。
「呪う? ……冗談ですよね?」
灯は常暁と、周りの様子を交互に見ながら言った。ほら、これは僧侶ジョークだから。きっと。知らんけど。
「俺は嘘も冗談も嫌いだ」
「そういうのって秘密なんじゃ……」
「ああ、そうも言われたが。どうせどこかから漏れるに決まっている」
常暁は断固とした口調で言った。正しいが、正しくない。灯の心の奥が重くなってきた。
「対象は人ですか?」
「他に何がある」
闇がどんどん深くなってきた。
「……ちょっと懲らしめたりするんですよね。相手が足の小指、どっかにぶつけるとか」
「加減を間違うと、相手が死ぬこともあるからな。はっきりした教本があるでなし、生かさず殺さずが難しい」
傷に塩を塗るどころか、本体ごと爆破するような発言。スタッフがかわいそうなものを見る目でこちらを見てきた。灯は必死に気配を殺しつつ、なんとか落としどころを探そうとする。
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