第3話 殺人事件、発生
「……お坊さんは殺生禁止では?」
「殺すのは俺ではなく、力を貸してくださるご本尊だ」
この世を舐めている子供みたいな理屈である。灯は愛想笑いすら出せなくなった。
「……ちなみに、どこの宗派なんですか?」
「俺は密教僧だ」
「密教?」
「空海の名前くらいは聞いたことがあるだろう」
確か日本史で習った。真言宗の開祖だったと記憶している。歴史に詳しくない灯でも知っている、名にし負う高僧だ。
灯がうなずくと、常暁は若干満足そうな顔になった。
「彼は、密教を日本に持ち帰った一人だ。俺は彼の開発した真言密教を学んでいる」
「み、密教ってそもそもどういうものなんですか?」
「仏教の一派で、教えの中でも最高深秘とされる。だから師匠から弟子に伝えられ、一般には公開されない教えが多い。本来の目的は即身成仏だが、願望を成就させるための加持祈祷にも優れる」
かなりぼんやりとした説明だったが、灯は礼儀としてうなずく。
「……その一環として、呪いもあるんですか」
怪訝な顔をして灯は聞く。常暁は問いに、黙って首を縦に振った。なんだかとても怪しげで興味深い集団がいることは分かったが、それ以上知るのは恐れ多い気がして、灯はコーヒーをすすった。
「いた!」
安堵したのもつかの間。鋭い声が聞こえてきて灯は身を強張らせた。
「いましたよ!」
ぱっと見で「交番の人」と分かる、青と紺の制服の警官が振り返って叫んだ。その視線の先には、やや型崩れしたスーツに身を包んだ男がいた。周囲を威圧するような雰囲気が自然とあるから、この男も警察関係者──おそらく刑事だろう。
さっきの会話は物騒だったから、それで警察を呼ばれたのかと、灯は焦っていた。しかし、常暁は男三人が近くに来ても平然としている。
「おお、警官だ。ちょうどいい、天咲警察署まで連れていってくれ」
完全に足扱いされた背広の男が、額に際だって深い皺を刻んだ。
「そのつもりで来たんだよ。手間かけさせやがって」
「呼ばれるのが久しぶりだったからな。色々わからなかった」
のほほんと言う常暁に、刑事は唾を飛ばす。
「だったら交番に寄れ、一発だぞ。呑気に茶なんかしばきやがって」
「道を教えてもらったから、その礼だ。恩人は大事にせんとな」
警官は釈然としない顔をした。そして躾の悪い犬をなだめるような声で言う。
「……まあいい、早く来い」
「いや、これを飲んでから」
「はああ!?」
正直に言いすぎて、そろそろ刑事が切れそうだ。好意も悪意も包み隠さない常暁に呆れつつ、灯は目線をそらした。しかし、彼の怒声が形になることはなかった。血相を変えた若い女性が店に駆け込んできて、こう言ったからである。
「助けて!」
一瞬で、刑事たちの目の色が変わった。常暁をうち捨てて、女性に近寄っていく。
「何があったんですか?」
女性は身体を震わせるだけで、何も答えない。腰が抜けてしまったようで、子供のように尻餅をついていた。彼女の両手には、べったり赤黒い血が付着している。
おかしい。何かが起こっている。灯の喉が奇妙な音をたてて鳴ったが、向かいの常暁はなんでもないように茶を飲んでいる。無理しているのかと思ったが、指先に震えひとつなかった。
「怪我をしている。手当てしましょう」
「私じゃ……ありません。路地で、血、血だらけの女の人が……」
犠牲者がいる。それを灯の脳が理解すると同時に、刑事が鋭く声をあげた。
「おい」
「はい」
警官たちが、店を飛び出す。女性は完全に腰が抜けてしまっており、床にへたりこんだまま血まみれの手をもてあましていた。その様子は、なんとも寂しげで弱々しく見える。
「せめてあの血を落として……」
灯は彼女に手を貸そうとして、腰を浮かせた。
「待て。刑事の許可を得てからだ。あれも証拠だぞ、勝手に消したらお前が調べられる」
常暁に強い口調で止められ、灯はすくむ。そしてまた椅子に腰を下ろした。その場しのぎの行動をしなくてよかったと、密かに安堵する。
……しかし、常暁の言葉はひどく厳しい響きだった。それに今も、女性をじっとにらんでいる。一体どうしたのだろう、と灯はいぶかったが、それを口にすることはできなかった。
「常暁さんは行かなくていいんですか? あの人たち、あなたに用があったんでしょ?」
「今は情報収集が優先だ。俺の出番は、それが終わってから。本当に人が怪我なり死亡なりしていたら、まずは現場保存をしなければ」
常暁は悩むことなくそう言って、じっと座っている。灯の頭の中に、ドラマで見た黄色いテープと青いシートが蘇ってきた。……被害者が、生きていればいいのだが。
「それに……ここにいた方が、いい情報が聞けそうだしな」
常暁は言って、女性をじっと見ている。彼女は刑事に、掌を見せていた。程なくして、刑事が無線機を取り出し、しゃべった。
「女性の遺体を発見。現場保存、応援を要請したい」
灯の席からもはっきりそう聞こえた。常暁がわずかに目を伏せる。
通話が終わると、発見者の女性が蒼白な顔でつぶやいた。
「やっぱり、あの人……」
「残念ですが、亡くなっていました。倒れていた女性に触りましたか?」
「……いえ」
第一発見者の女性は、怖々ではあったが発見時の状況を語り始めた。
彼女はアパレルショップの店員だった。この日はいつもより早めにシフトに入る予定だったのにそれをど忘れしてため、かなり急いでいた。足元を見ず、全力疾走していたら、なにかにつまずいて転んだ。
「そんな時に限って。災難でしたね」
「……手に痛みがあったから、手の平をすりむいたと思いました。無意識に見たら……全部が真っ赤で」
そこまでの怪我をしたとは思えなかった。ならばこの血はなんだ?
そう思った彼女は、地面が血液で濡れているのに気付いた。そして、その先にあるものの正体も。
恐怖で笑う膝をなだめてなんとか立ち上がり、できるだけ現場から離れようとしたら、駅前に出ていたという。
一通り喋った彼女は、辛そうにうつむいた。
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