第2話

 大判の焦げ茶色の傘を持って奈美恵が帰宅したのは、七時を回り外がすかり暗くなってからだった。見覚えのない傘だった。雨は暮色を夜に塗り替え、玄関の向こうは漆黒の闇が広がっている。傘をつたう水滴をはらいながら、奈美恵はぎこちない笑みを作って、

「お腹すいたでしょう、すぐご飯にあうるわね。」と、返事も待たずにキッチンに入っていった。

 包丁で何かを刻むリズミカルな音と鼻歌が聞こえてくる。彼女の恋は今のところ順調らしい。

 娘の前で臆面もなく男の匂いをまき散らす姿に、芙美子は生理的嫌悪を感じながらも心のどこかで苦笑していた。かつて別れの修羅場で傷ついた母は夜叉のようだった。あの顔はもう見たくない。

「私、先にシャワー浴びるね。」

 ご機嫌で料理中の奈美恵の背中に声をかけて、芙美子は浴室にはいった。そしてていねいに身体を洗った。

 風呂から上がりキッチンに入ると、食卓はすっかり夕食の準備がされていた。焼き魚の香ばしい臭いが漂っている。髪にタオルを巻きつけた芙美子を見るやいなや、奈美恵は立ったままの彼女の全身を見据えた。

「あんた最近きれいになったわねえ。」

 自分を値踏みするかの視線をわざと反らし、芙美子は食卓の椅子に腰をおろした。母の自分に向ける眼差しはいつになく露骨だった。

 つがれた味噌汁を受け取り、今度は芙美子の方が奈美恵の顔をまじまじと見た。ふっくらとした丸顔で、白く弾力がある肌をしている。長いまつ毛に縁どられた色の濃い瞳は、悪戯っぽい光を放ち、奈美恵を四十五歳という実際の年よりもずっと若く見せている。少女がそのまま年輪を重ねた容貌からは、男との遍歴を経た今も狡猾さはどこにも無かった。裏切られようが玩具のように捨てられようが、新しい恋にはまっさらに立ち向かえる女である。

 一生大切にすると誓った芙美子の実のた父親は十年前に事故であっけなく急死した。彼も奈美恵を裏切った男の一人である。当時、彼女は泣いてばかりいた。からくも立ち直ることができたのは芙美子の存在があったからだ。また労災が認められ多額の保険金もおり、別の保険にも幾つか入っていた。自分の寿命を見越したかの大口の保険のおかげで金銭的にはぬかりのない形で父はあの世に旅立った。

 母と娘の二人暮らしになってからも、生活はとりたてて派手になることはなかった。

 働きに出たことのない母が新聞の求人欄に目を通すようになったのは、芙美子が中学校に入った頃からである。急に大人びてきた自分の娘にまたもや置き去りにされそうな思いにとらわれた彼女は外の世界に目を向けた。精神的自立をしたかったのだろう、気に入った職を見つけては働き、辞めたくなったら辞めるという勝手気ままな自立だったが、親子が必要以上の馴れ合いで干渉することなく、その生活様式が今に続いている。断続的に起きる男との確執は計算外のことだったに違いない。とはいえ現在の奈美恵は、男という縦軸と若さや美への執着とでもいう横軸で交差した座標上に自分の足場を見定めているところがある。芙美子が踏み込む余地は殆ど無かった。

 互いに顔色を伺うような、それでも親子水入らずの食事のあと奈美恵は後片付けに取り掛かった。そしてエプロン姿の背中を向けたまま、小さな声で言った。

「話があるのよ、ここが終わったら話するから。」

  芙美子は奈美恵の声色や背中に、尋常ではない意志を感じた。体の奥から嫌な予感が湧き上がってくる。カチャカチャと皿を洗う音が、いつもより長く感じられた。

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