第9話 再会4


「愛麗、こっち」

愁陽は愛麗の手を取ると、部屋の開いたままになっている戸口へと連れて行く。

愛麗は久しぶりにあたたかい春の匂いを感じた気がした。

そのまま並んで立ち、庭の向こうの景色に目を向けると、愁陽が言った。


「あいつの故郷は、ココから見えるあの山の向こうだ」

彼が指さす向こうを見ると、庭の低い木々や塀を越えたずっと遠くのほうに、青い空を背に少し霞んで連なる山々が見える。自室から見える見慣れているはずの景色なのに、いつもと違って見えるのはどうしてだろうか。


「あの山の、向こう……」

マルも二人の側にやってきて一緒に眺める。

「そうですよ、愛麗さま!ボクの故郷ふるさとは高い山なので、ここからでも山のてっぺんは見えるんです。正面に見えるあの山の右側あたり、えっと…ほら、あの頂が白く見えてるでしょ。あれは一年中、雪が溶けないからなんですよ。とっても高い山ですからね。あれが、ボクの生まれた山です」


愛麗の意識が外の世界へと強く引き寄せられていく。

愁陽も愛麗の隣に立ち彼女と同じ景色を眺めながら、さらにその向こうへと思いを馳せる。

「あの雪の山の向こうには、いくつかの大きく清らかな湖と何本もの水路に囲まれた美しい水の都がある。そこは活気溢れた商人の街なんだ。馬車の代わりに船が行き来している。そして、さらに険しい山々が連なり、その向こうには海が広がっているそうだ」


「う、み……」

「ああ、大海だそうだ。俺もまだ海は見たことがない」

「愁陽も?」

「うん。いつか、一緒に見られるといいね」

愁陽の優しい声音に幼い頃の彼の面影が重なる。


「っ、うん!」

愛麗もまた嬉しそうに顔を綻ばせたとき、彼女の黒い瞳が好奇心でその瞬間、煌めくのを愁陽は見過ごさなかった。

やはり愛麗は、愁陽の知っている彼女のままだ。

幼き頃の好奇心旺盛だった姫と変わっていない。


春の風がふわりと吹いて、彼女の薄紅色の衣と彼の青とが重なる。

愛麗は、自分の隣りに並んで立つ愁陽をちらりと見上げた

いつのまに幼馴染はこんなに大人になっていたのだろう。自分より頭ひとつ程背が高く、すぐ目の前にある広い肩幅と厚い胸板に男であることを嫌でも意識してしまって、二人の距離の近さにドキドキとしてしまう。


「そうだ!」

「えっ?」

愁陽は何かを思いついたように声を弾ませると、愛麗の顔を覗き込む。

いきなり至近距離で向き合う形になり、愛麗はどぎまぎしてしまうけれど、そんな彼女の気持ちなどお構いなしに、愁陽はまるで何かいたずらを思いついたかのように楽しそうに言う。


「愛麗、馬に乗ったことは?」

「馬っ?」

思いもしなかった愁陽の言葉に、彼女は振り仰ぎ彼の顔を見上げた。

思ったより彼の顔が近い。


綺麗な顔……

思わずぼんやりそんなことを考えてしまった。自分の心臓が煩いくらいに早くなる。

愁陽は全く気にしていないようで、むしろ愛麗の反応も楽しんでいるようにも見えて、悪戯を思いついた子供のようにをキラキラとさせている。愁陽の濃紺のが、陽の光をうつす深い湖のようで綺麗だ、と愛麗は思った。


「そう、馬!人に乗せてもらうのではなく、自分で馬の背に跨り、草原の中を走らせるんだ」

「自分で!?……そ、そんなの、無理」

「無理じゃないよ。愛麗は運動神経は良かったからね。すぐに乗りこなせるよ」

「運動神経は、って」

「え?違う?」

「…………」


貴族でも特に都で有力な大貴族の姫には、あり得ない話だ。

屋敷の奥に居て外にすらほとんど出たことないのに、まして馬の背に跨ぐなんて。

ちょっと、乗ってみたいとは思うけれど……


「自分で、馬を……」

「馬でなら、あの城壁を出て草原くさはらを駆けて抜けると、あの山の麓なんてすぐに行ける」

草原くさはら?」

「ほら、幼い頃、よく二人で行っただろ?こっそり城壁の秘密の抜け穴使ってさ」

愁陽が腕を使ってほふく前進のような真似事して、茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。

「一緒に遊んだ草原くさはら、覚えてるだろ?」


彼を見つめる彼女の瞳が、何かに弾かれるように大きく揺らめき一層輝きを増した。


「っ、…もちろんよ!もちろん、覚えてるわ」


愛麗の中で、もっとも楽しかった頃の思い出だ。

子供が四つん這いになってようやく通れる穴を城壁に見つけて、服が汚れるのも気にせず、狭い囲いから外の広い世界へ抜け出すことが幸せだった。

あの頃は愁陽とも身分や立場など気にせず、いろいろなしがらみに縛られることなく、自由に笑いあえた。無垢で無邪気だった。


けれど。

愛麗の心の中で膨らんだものがしぼんでいく。やがて、愛麗のに浮かんでいた輝きは消えて、小さく溜息が零れる。


「でも……、そんなこと……出来ないわ」

「どうして?」

「だって、……姫らしく、ない、から……」

言葉の最後のほうは小さくなり消えていくように言って、俯いてしまった。


そんな下を向いて肩を落としている愛麗の隣で、愁陽はプッと吹き出し、声をたてて笑った。そして心底可笑しそうに言った。

「なあんだっ!そんなこと!

「そんなこと?!」


愛麗も、思わず大きな声で聞き返してしまう。綺麗な形の眉の片方を、いぶかし気にあげた愛麗の顔を愁陽は笑うのをやめて覗き込んだ。

そして、きっぱりと言った。


「愛麗らしくない」


「え?」

最初は何を言われたのかよく解からず、愛麗はぽかんとしてしまった。


「愛麗らしくないよ」

「……私、……らしく、ない?」

「まったくね」

愁陽はにっこり笑って頷いた。

そして両手で愛麗の肩を優しく抱いて、もう一度外の世界を見せるようにくるりと方向転換させると、彼女の耳元で甘く低めの声で言う。


「愛麗。きみは草原くさはらを駆け抜けて、体いっぱいに風を感じるんだ」

「……風を、感じて」

「そうだよ。愛麗、きみにはこんな屋敷の中より、青空の下のほうが似合ってる」

「愁陽……」

なぜか、愛麗は鼻の奥がツンと痛くなる気がした。

どうして、彼はこんなに自分が欲しい言葉をくれるのだろう。


「いつか、一緒に行こう。馬で草原くさはらを駆けるんだ」

振り仰ぐとそこには、春の光を受けて輝く彼の蒼い瞳があった。

愛麗の中で、何かがカチリと音を立てて外れた。いや、実際にはそんな気がしただけなのだけれど、彼女の中で何かが変わった。


「……行ってみたいわっ、愁陽!」


「ああ。やっぱり愛麗はそうこなくっちゃ」

「私も馬に乗ってみたい!自分で馬の背に跨って、思いっきり草原くさはらを駆けてみたいわ。私にできるかな」

「大丈夫。俺が特別に教えてあげるよ」


愁陽が悪戯っぽく笑って片目を瞑る。すると愛麗が笑って小指を突き出した。

「約束!」

指切げんまんだ。幼い頃は、別れ際にいつも「またね!」と指切げんまんをして家路につくのが恒例だった。

「ああ、約束」

幼い頃のように小指を絡める。違いに成長した二人だが、笑顔はあの頃のまま。


そのあと、愁陽が城へ戻ろうと退室し廊下を歩きだしたとき、後ろから愛麗の明るい声が呼びかける

「愁陽!」

「え、なに?」

「また来てね」

彼女がとても嬉しそうに笑っている。


「ああ、もちろん」

「約束よ!絶対、絶対来てよ」

まるで子供のようだと、愁陽は微笑ましく思う。


「来なかったら怒るからね!」

「え」

愛麗が怒ると怖いんだよなぁ~


「わ、わかったよ……」

愁陽は苦笑を残して、その場をあとにした。


再会の約束をして愁陽が部屋を出ていったあと、愛麗のココロの中は久しく忘れていたぬくもりに満たされていた。

こんな気持ちになるのは、どれくらいぶりだろう。

こんな風に笑ったのは、いつの日以来だろうか。

いつが最後だったかなど、もう思い出せないくらい前だ。


僅かに目を細めて、まだ明るい光差し込む窓辺に目を向けると、あたたかく優しい光に愛麗のココロも包まれ始めた。


しかし、それと同時に反するように、暗く厳重に封印され閉じ込められていた闇もまた、静かにねっとりと動き出す。


静かに……、重く……、鈍く……

『……ぁの頃は、楽しかった……』

その声なき声は、愛麗の耳にまだ届かないでいる。


窓の向こうに広がる、どこまでも澄んだ青い空。

「馬に乗って、あの空の下を駆ける、か……」

もう一度、あの頃に戻りたい。

けれど、もう戻れないと思っている自分がどこかにいる。


愛麗は小さな溜息をつくと目を伏せた。


封印されていた扉から零れ始めた闇が徐々に形作っていく

静かに……、禍々しく……、


『……愛、麗、…らしく、な、い……』

その言葉は、愛麗にも微かに届いた。

いや、正確にはそんな気がした。

耳にではなく、頭の中に直接話し掛けてくるような。

それは、女のようで低く禍々しいと感じてしまう、声。

愛麗は息を詰め、声の正体を探ろうと神経を研ぎ澄ます。


『…ワタ、シ、らしく、ない……』

今度はさっきより、はっきりとした声で頭の中に響きわたる。確かに頭の中に届いた言葉を、自分の口から声にする。

「…………私、……らしく?」


『…ワタシ、らしくない……』


「……どう、いうこ、と……?」

問いかける愛麗の声が震える。彼女のココロからは先ほどまでのぬくもりは一切消えていた。急に冷やされていく。

あるのは恐怖。


『すべて、壊してしまえばいい』


それ以上、何も聞こえなかった。

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