恩返し

新木稟陽

怪しいお姉さん

「こんにちは。いいお天気ですね、おにいさん」


 身長、中の上。顔、悪くはない。自己評価として『悪くはない』なんて言ってしまうところから察せられるだろうけど、良くもない。でも悪いというわけではない。よく言えば普通、悪く言っても普通。

 彼女がいたことはある。告白されて、まぁその時は舞い上がった。勿論オーケーしたけど元から好きだったわけじゃないから長くは続かなかった。

 そんな俺の唯一自慢できるところと言えば勉強くらいだ。高校3年、まさに受験生。将来やりたいことが思い浮かばない俺は、とりあえず勉強していい学校に入ることを目標としている。夢は決まってなくても、いい大学に入れば選択肢は増える。選択肢なんて多いに越したことはない。

 まぁなんというか。そんな、言うなれば俺は『少年にとってのメスのコクワガタ』みたいな存在だ。夏場に見つけたら「おっ」とテンションが上がるけど、2秒後には「コクワかぁ……しかもメスかぁ……」とがっかりする、みたいな。

 そんな俺に、突然それなりな美人のお姉さんが声をかけてきた。


「ちょっとちょっと、無視しないでよ。君だってば」


 知らないふりをして通過すると、彼女は後を追ってきた。勘違いじゃない。本当に俺に声をかけていた。


「えっと、大丈夫なんで……」

「え、おい。変なあれ、ほらあれ。勧誘とか詐欺じゃないから」


 嘘である。間違いなく。こんなの募金と称した詐欺か宗教勧誘、はたまた美人局か。他に考えられる可能性はといえばただの狂ったひと。


「いやほんと、この後忙しくて」

「ほんとに! 怪しい人じゃないから!」

「……じゃあ身分証とか見せてください」

「……。それはできないけど。」

「ほら」

「あーちょっと待って待って!」


 今自白した。自分怪しい人ですって自白した。

 歩く速度を少しずつ上げてつきはなそうとしても、その人は随分食い下がってくる。

 何もかもおかしい。例えば何がおかしいかというと、二人称からおかしい。その人は見たところ20代半ばくらい。あんたがお姉さんであって、俺はおにいさんではない。それともあれか。居酒屋で店員のバイトを「おにーさーん」って呼ぶあのノリか?


「……なんすか」

「ハハーハ、やっと足止めてくれたね」


 あまりにもしつこいので、つい足を止めてしまった。


「いやーなんというか。ちょっとね、君の見てくれを気に入った。お姉さんとお茶でもどう?」

「そう……」

「待てって!」


 秒速で踵を返すも、両肩をおさえられて身動きを封じられる。


「なっ……ちょ、おい、やめ……!」


 抵抗するほど拘束がきつくなってきて、次第に抱きつかれているみたいな状態になる。


「くふふ、あまり抵抗するなよ……! ほれどうだ、私の胸が当たってどぎまぎしてるだろう……!」

「するかよ……! 恐怖ですよ、恐怖……!」


 運動嫌いが仇となった。年上とはいえ女相手にも力負けするなんて、情けなさすぎる。過去にタイムスリップできたら、一年くらい前の自分に「トレーニングは欠かすな!」と進言したい!


「この、離せっ……」

「むご!? コイツ、女性の顔を手で押しのけるとか……!」

「女の前に狂人じゃねえかっ……」

「おにいさーん。言っていいことと悪いことがある、ぜっ!」

「うわっ!?」


 景色が、九十度回った。

 違う。俺が投げ飛ばされたんだ。


「……ん?」

「ほっそいなぁおにいさん。鍛えたほうがいいよ?」


 気が付けば、俺は完全に組伏せられていた。

 狂人に。


「誰かぁぁぁ! 助けてくださぁぁぁい!!」

「あ、ちょ、馬鹿おまっ! プライドとかねぇのかよ!」

「あぁあぁあぁあぁ! いてぇぇぇぇ! いてぇよぉぉぉぉ!」

「わ、わかったわかったから!」


 狂人が拘束を解いた瞬間。

 ダッシュ!


「この野郎! 待てコラ!」


 背後から聞こえる罵声。構うことはない。やっぱりそうだ。あの狂人は何か良からぬ事を考えていたに違いない。


「おーい! 後悔するよー!」


 なんだそら。こっちの気を引きたいにしてももう少しまともな引き止め方あるだろ。アホかあいつ。


「ポッケ確認してみろー! さーいーふー!」

「…………。」

「ほーらこれ、これこれ〜」


 誓う。

 これからは制服のポケットなんかに財布入れない。




「私は里中紗友里。改めてよろしくね。」

「……ッス」


 結局、まんまと引き止められてしまった。財布を物質にされ、俺は仕方なく狂人の要求を飲んだ。『連絡先を教えること』と、『お茶すること』だ。しかも前者においてはたちの悪いことに、連絡先の『交換』ではない。一方的に教えるだけ。つまり着信拒否ができない。

 この狂人、とんだ策士だ。


「……なんなんすか、まじで。見てくれが気に入られるような男じゃないんですけど」

「いいじゃないいいじゃない。タイプってのは人それぞれだよ。それよりさ、『この後忙しくて』じゃなかったの?」

「言い訳に決まってるでしょ。今日は塾ないし」

「へえ。塾はいつ行ってるの?」

「火水だけっすよ」

「やっぱり、だよね」

「……なにが?」

「いや、正直だねぇ。気を付けたほうがいいよ?」

「……ッチ」


 狂人との会話は、なんの変哲もなかった。趣味は何とか、好きな子はいるのとか、学校楽しいかとか。怪しい話は一切なかったし、話していて不快じゃない。それがまた腹立たしい。


「今度は狂……なんだっけ……里中さんのこと教えてくださいよ」

「お、何? 私のこと気になってきちゃった?」

「帰ります」

「財布いいの?」

「ッチクッソこの……」


 狂人は色々と話してくれた。名前は里中紗友里。27歳で高校生に声をかける犯罪者予備軍。職業は研究職らしい。本人曰く最近大発明をして今は休暇中らしい。

 なお、全てが嘘の可能性あり。

 てかたぶんそう。突拍子もなさすぎる。


「やっぱ研究者って変な人多いんすね」

「おいそれは偏見だぞ」


 狂人はそう言って笑う。いかんせん顔は良いものだから、こいつを笑顔にできたことを少しばかり嬉しく感じてしまう。

 ムカつく。嬉しく感じたそばから倍々でぶん殴りたくなる。ほんと、顔の良いやつって得だよな。


「職場でいい出会いないんすか。研究職なんて男ばっかでしょ」

「うーんまぁ、好みの人はいないねぇ」

「俺くらいのがお気に召すならいっぱいいるでしょ」

「そこまで後ろ向きな思考はよくないねー。私は勇貴君の顔好きだよ。」

「……っ、そういうの、やめてください」

「あは! 照れた! 顔赤〜!」


 殺す。

 財布を取り返した後、殺す。

 今俺の顔が赤いのは羞恥ではない。怒りだ。震えて眠れ。

 と言いたいところだったが結局その後もだらだらと話に付き合ってしまった。


「と、今日はそろそろ解散しますか。もう一時間も経ってるしね。」

「えっ!? ほんとだ……」

「私と話すの楽しかったでしょ?」

「財布返してください」

「時間過ぎるの早かったね〜」

「財布」


 財布は無事に返ってきた。しかもお茶をしたファミレスの料金は狂人持ち。『高校生にお金払わせるわけないでしょ』らしい。




「はぁ〜……」


 帰宅早々、ため息が出る。

 何だったんだ。

 今日、あの狂人とやったことといえば

①取っ組み合い

②財布を取られる

③ファミレスでおしゃべり

 まさか、本当に俺の顔が気に入っただけだと言うのだろうか。

 いや、まさかぁ。

 どうせ仲良くなったと思ったところで何かしら厄介なことが起きるに違いない。

 でも。

 狂人の連絡先を、俺は知らない。

 あの人がもう連絡してこなければ、二度と会うことはないだろう。

 それはそれでなんだか寂しい気がする。

 …………。

 ……なんてことはなく。

 翌日の帰り道、普通に電話が来た。しかも公衆電話から。公衆電話からの着信なんて初めてだよ。


「やぁ〜勇貴君! 昨日ぶり!」

「……ッス」

「私は嬉しいよ! 勇貴君と遊ぶためにこっちで使える現金いっぱい用意しといたからさ!」

「でかい声でやめてくださいよ……」


 結局、今日も今日とて狂人とのお茶に付き合ってしまう自分がいる。我ながら良いやつというか流されやすいというか。でも、こんなメスのコクワガタでも喜んでくれる人がいるのは正直救いになる。

 なんて思いつつも今は受験生。狂人の方は話半分にして英単語を覚えよう。英語は必須なのに苦手なの。


「ほいでだ、勇貴君……なにしてんの?」

「話は聞いてますよ」

「勉強熱心なのはいいことだけどね、女性とデート中にそれはどうかと思うよ」

「27歳が高校生相手にデートとか恥ずかしくないんですか」


 一分一秒でも無駄にはできない……なんてほど切羽詰まっているわけじゃないけど、余裕ぶっこいていられるわけでもない。俺はマルチタスクタイプだから、話聞きながら勉強だってできる。


「ほんとに話聞いてる? 好きな食べ物は?」

「唐揚げ」

「お風呂で身体どっから洗う?」

「頭」

「好きなタイプは?」

「クラフト」

「私のことどう思ってる?」

「プライマリー」


 この通り完璧である。でも、ふと狂人の顔を見てみればなんだか呆れた顔をしている。気にしない気にしない。


「イエスかノーで答えて」

「イエス」

「勉強好き?」

「ノー」

「行きたい学校は決まってるの?」

「イエス」

「お金持ちになりたい?」

「イエス」

「楽してお金欲しい?」

「イエス」

「宝くじあたってほしい?」

「イエス」

「明日遊園地デートいこう」

「イエス……ん?」


 あれ、今なんか……?


「よし、勝ち! 録音したからな!」





「ランド久しぶりだぁー!」

「どうして……」


 どうしてこんなことになった。


「テンション上がるね!」

「どうして……」


 どうして律儀に来てしまった。

 夏前の受験生なのに、こんなまる一日かけても遊びきれない場所に。


「ほらそんな顔しない! 来ちゃったんだから遊びまくろ!」


 狂人はそう言うと、無理やり手を引いてずかすがと進んでいく。相変わらず力が強い。


「え、あ、ちょっと待ってそんな手汗が……」

「おいおい急にかわいいかよ勇貴君! 萌えるぞ!」


 どうして、どうして、どうして……。


「あーー!!!」

「うわっ!?」

「わかったよもう! 遊べばいいんだろ!」


 そうだ。その通りだ。コイツの言いなりになるのは癪だけど、来てしまったから仕方ない。今まで遊びは我慢して結構ちゃんと勉強してきたんだ。ここで一日遊んだからなんだっての。


「来たからには遊び尽くすからな。アラサーの体力でついていけないとか言──」

「いい加減年齢イジんなっ」


 げんこつが飛んできた。


「──ってぇ……マジで……」

「ま、心意気や良し。激戦区から行くよ!」


 初っ端に人気のコースターに乗り、着ぐるみと写真を取り、まったりしたアトラクションにも乗り、昼食代わりに間間で買食いを挟み、年甲斐もなくキャラクターのカチューシャを買い、アトラクションでびしょ濡れになればお揃いでTシャツなんか買って。


「はー。なんですかその格好は。楽しみすぎでしょ。高校生のカップルかよ」

「片方高校生だから間違ってないよ。というか勇貴君も同じ格好ですけど。」

「んー……」


 まぁ、たしかに。狂人と言ってもきれいなお姉さん連れて二人でテーマパークなんて悪い気はしない。いや、この際言ってしまえば鼻が高い。ここまで来たらこの狂人が何かしらの勧誘って線もかなり薄いし。


「にしても悪いね、今日も奢ってもらっちゃって」

「言ったでしょ、高校生連れ回してんのに金払わせるわけないって。……悪いとは思ってなさそうだけど」

「うん」


 俺は本来、他人に奢られるのが好きじゃない。でもこんな、10も歳の離れた人にあちこち連れ回された上に金は払えなんて言われたら引く。そのへんちゃんと払ってくれるのは良いところだと思う。ちゃんと稼いでるんだな。案外『大発明した』なんてのもほんとだったりして。


「ねぇ、今日どうする? 明日も日曜だし、このままホテルとって明日も遊んじゃう?」

「いや、さすがに帰る」

「えーー」


 えーーじゃありません。当たり前です。

 すると、里中は珍しく大人しい口調になる。


「なんでそんなに勉強すんの?」

「は? なんでって、将来のためよ」


 当たり前だ。日本は未だ学歴社会。フリーランスとか自営業とか、そんなのができるわけじゃなければいい学校に行くのが無難。定石。


「将来、ね……」


 そんな当然の答えに、里中は妙な雰囲気を見せた。

 珍しく、眉を下げた。


「……うし! 休憩おわり! まだまだ時間あるんだから遊び尽くすよ!」


 そんな反応が珍しくて、彼女がなぜ眉を下げたのか、大して気に止まらなかった。





 図書館は嫌いじゃない。静かで気分が落ち着く。気分転換したい時には、その選択肢が無限にある。有名な文学書なんて読めば、それだけで自分の格が上がった気にもなる。

 のに。


「ねーねー勇貴君。かまってよー」

「…………。」

「ゆーきくーん。ゆーうーきーくーん」

「…………。」


 うるせぇ。


「ここ、図書室」

「あっ、はい……」


 ……。

 …………。

 ………………。


「ゆーきくーん」


 また、小声で話しかけてくる。


「なに」

「なんでそんなそっけないのー。昨日一日デートした仲じゃーん」

「はぁ……」


 しつこい。ここはガツンと言ってやる必要がある。

 そう思って前を向くと、「やっと顔上げてくれた!」とか喜びやがる。


「里中さんは、自称研究職でしたよね」

「紗友里って呼んでっ」

「……。」

「あ、ごめんなさいそうです。」

「したら大学も行ってますよね。受験勉強大事なのわかりますよね。」

「わかるけどさぁ、若い時間は今だけなんだよ? それを楽しめるのも今だけだよ!」


 この人には本当にもう、ため息しかでない。


「正直、ムカつくんですよ」

「えっ?」

「本当かどうかは別として、自分は研究者でしかも大発明したんでしょ? そら今は遊んでられるでしょうよ。でも俺は今受験期なの。今やんなきゃ将来に響くの。」

「えと、そ、そんなつもりじゃ……」

「わかったらどっか行って。気が散る。」


 思ったことをぶちまけてしまった。でも後悔はない。この人はいい歳してるくせに、子供すぎる。自分のことしか考えてない。

 しかし、これだけ言ったのにこいつは動く意志を見せない。ちらちらこっちを見て、「あの、ごめんね」とか言うばかり。


「じゃあ俺が移動します」

「あっ……」


 里中さんは、ついてこなかった。

 なのになんだか、集中できなかった。




「や、やぁ、勇貴君。」


 図書室の日から二回夜が明けて、火曜日。昨日は音沙汰なかったのに一日挟んだらまた現れた。電話もなしに、帰り道に。

 少しは反省したんだろうか。


「今日はちょっと、どっかでかけない?」


 なーんて期待した矢先にこれだ。信じられない。ハチャメチャに頭が悪いか、研究という一点にリソース割きすぎて他の部分で壊滅的に頭が悪いか。この人、わざと俺から嫌われようとしてないか?


「あの──」

「お願い! 今日で最後だから! 私その、明日遠くに帰らないといけないの!」

「いや、そんなの……」


 急に言われても信じられるわけがない。どうせ足りない頭で精一杯考えた言い訳だろう。それで今日一緒に出かければ、明日また開き直ってやってくるに違いない。


「お願い、本当に、今日で最後にするから……」

「……」

「そしたらもう、二度と連絡もしない。顔も見せないから。」


 その顔は、どうも嘘をついているようには見えなかった。

 なにもそこまで言うのか。


「……わかったよ」

「……ほんと!?」


 我ながらちょろい。甘すぎる。こんなんじゃ将来詐欺とか簡単に騙されんぞ。


「たださ、別にそこまで言わなくても、受験終わった後とかなら──」


 面と向かって言うのはこっ恥ずかしいけど、別に嫌いになったわけじゃない。というか、里中さんと二人でいるのは楽しい。悪く思ってはいない。だから、受験期が終わった後ならまた。

 そう言おうとした途端。


「──え?」


 彼女が、消えた。

 比喩でも誇張でもない。今の今まで間違いなく目の前にいた彼女が、モニターの電源を切ったみたいにプツリと消えてしまった。瞬く間もなく、本当に一瞬で。


「……え、は? 何? あ?」


 何が起きた。思考が追いつかない。今さっきまで、一緒に居て、話していて。これから出かけようなんて話をしていたのに。

 どうする。探す? 何処を? 探して見つかるものなのか?

 どうしようもない。とりあえず、本来の目的地である塾に向けて移動しながら探すか……なんて思ったら。


「──っと、ごめんごめん」

「うわ!?」


 背後から急に、彼女の声が聞こえた。振り向けば確かに居る。間違いなく、里中紗友里だ。肩に触れてみれば、触覚でも存在を確認できる。


「ごめんね、私実は幽霊なんだ」

「……はぁ?」

「急な話だよね。でも今のでわかったでしょ。もうすぐ消えちゃうの。自宅近くで死んだんだけど……もう時間がなくてあんまり離れたとこに居られないみたい。」

「い、や、ちょ、ちょっと待って……」

「ごめんなさい。もう時間がないの。もし私との時間が楽しかったと思ってくれるなら……最後に一緒に居てくれるなら。……ちょっと、スマホ貸して」


 頭が回らない。幽霊? もうすぐ消える?

 ぼーっとしているうちにお馴染みの手癖の悪さでスマホを取り上げられ、返されたときにはとあるマンションの位置が地図アプリで表示されていた。ここから三十分くらいの場所だ。


「ここに住んでたの。で、その近くで死んじゃって。最後のお願い。ここに来て」

「わ、わかった、行くけど」

「ありがとう。楽しか──」


 彼女は言いかけて、また消えた。

 俺は塾を休む旨を親に連絡し、反対方向の駅まで走った。




「ただいまー……」


 結果として、彼女は現れなかった。昨晩充電を忘れてたスマホは早々にダウンして、足で探すしかなくなり。例のマンションに近づいて、辺りをぐるぐる周って、住民にくっついてオートロックをかいくぐって侵入して。そこまでしても、彼女は現れなかった。


「勇貴! ちょっと連絡くらい返しなさいよ! 塾行ったかと思ったんじゃない!」

「いや、スマホ電池切れちゃって……なんで?」


 帰宅早々、母親が駆け寄ってくる。普段過保護とは程遠い性格の母親が、俺の帰宅にありえないほど安堵していた。

 学校や模試の成績も上々の俺だから、基本勉強面に関しては放任的。だから塾を休むと言っても二つ返事でオーケーしてくれた。そこまでは良しとして、『塾に行ったかと思った』とはどういうことやら。別にいいじゃん、行ってても。


「あんた、ニュース見てないの!? あ、スマホ電池切れてたのか……。ちょっとテレビ見てっ」


 腕を引っ張られ、手も洗わずにリビングに連れられる。画面には『速報』の文字とともに、見慣れた交差点が映し出されていた。


『繰り返します。先程午後四時三十分頃、渋谷区の交差点で事故が発生しました。』


「……んだこれ」


 そこは、家から徒歩圏内。というか、最寄り駅から塾までの通り道だった。


『目撃証言によると、赤信号で停止中の自動車が急発進したものと見られます。現時点で死者一名が確認されています。その他怪我人の数は不明です。』


 死者、一名。


『死亡が確認されたのは、渋谷区在住──』


 画面に映し出されたのは、聞き覚えのある名前。


『里中紗友里さん、六歳』


 里中紗友里。

 そんな。

 そんなまさか。偶然だ。よく聞くなんてほどではないが、名字も名前も珍しいというほどではない。同姓同名だって一人や二人いるだろう。

 それに、六歳だなんて。

 確かにあの人の精神年齢は六歳だったかもしれないが、そういう話じゃない。


「あ、いや……」

「勇貴?」


 思い出す。彼女が消えた時を。

 彼女の最後のワガママに付き合おうとした瞬間、彼女は消えた。それに驚きながらも塾へ向かおうとしたら、また現れた。で、目的地を変えたらまた──消えた。


「そんな、ことって……」

「勇貴? どうしたの?」


 ありえるのだろうか。ありえない。

 でも。

 急いでスマートフォンを充電する。復活するまでの時間がもどかしい。

 スマートフォンが起動した。確認するのは、ブラウザ。履歴を消したりしない限り、最後に検索した画面が出るはずだ。


「……やっぱり」


 表示されたのは、彼女が言っていたマンション。しかし一つ戻ると、おかしな検索結果だった。


『東北沢 マンション』


 普通、自分の住んでいたマンションだったら名前くらい覚えているだろう。つまり彼女は、ここに住んでなどいなかった。

 彼女の言っていた言葉がチラつく。『研究者』に『大発明』。もし、そうなんだとしたら。歴史を変える発明をしておいて、勿体なさすぎる。二十年かけた大掛かりな自殺だ。


「勇貴? 具合でも……」

「決めた!」

「ヒャッ!?」

「母ちゃん、進路決めた。」

「ええ!?」


 この瞬間、勇貴の進路が決まった。大学はどこでもいい。なるべく良いところへ。大切なのはその先だ。

 幸い、勇貴のそもそもの進路志望は大学進学で理系。研究職に就くならまず通らねばならない道だ。

 しかし、そんな発明が自分にできるだろうか。

 否。

 彼女は二十年かそこらで完成させたんだ。できない筈がない。それに、できませんなんて言えない。許されない。


「勉強してくる!」





 天気もよく、いつも通りの平和な日常。戦争とか大きな災害とか、そんな大勢が苦しんだ歴史をまだ知らない少女にとっては当たり前の毎日、その一日。慣れてきた小学校の友達と放課後にそのまま公園で遊び、その帰りだ。

 いつもの慣れた交差点。赤信号は止まれ、青信号は進め。青信号が緑色なのに何故『青』というのかも知らないが、重要な点はしっかり理解している。六歳児でもそのくらい当たり前だ。

 信号が青に切り替わった。視覚障害者用の音も鳴っている。少女それらをしっかりと確認し、右手を挙げて──


「おっと」

「えっ」


 その右手を、何者かに掴まれる。


「ちょっとごめんね。」


 それは、白髪混じりの男。還暦も近そうに見える。

 突然、少女の手を掴む男。当然周囲の目もそちらに向く。勿論、不審者として。営業らしきサラリーマンや、ベビーカーを押す女性。若いカップルや、学校帰りの男子高校生もいる。しかし少女自身を含むそれら全ての視線は、その数秒後別の方向へと向けられることになる。

 少女が今まさに渡ろうとしていた横断歩道、そこに赤信号で停車していた筈の軽自動車が急発進したのだ。車はそのまま交差点に侵入、他の車に激突して停止する。しかし大したスピードは出ていなかったから、当てられた方の運転手も意識があるようだ。


「あ、あの……」

「おっとごめんね、もう大丈夫だ」


 男は少女から手を放す。彼を見上げる少女は震える体から、精一杯声を絞り出した。


「あ、ありがとうございます……」

「うん。賢い人ですね。……本当に。倍も時間が掛かっちゃいました。それじゃ、気をつけて帰るんだよ」


 男はそれだけ言って、その場を立ち去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恩返し 新木稟陽 @Jupppon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ