第21話



 時刻は午後八時。

 小雨降りしきる夜、市民の誰もが知らない所で一国の命運をかけた戦いが始まろうとしていました。その火蓋ひぶたが切って落とされるのは、かつてパリエスの都を守る城砦として作られた建造物。そう、八つの塔を有した政治犯の収容所、バスチイユ監獄なのでした。


 バスチイユ監獄の地下牢より脱出したハービィとエンデは、奪われた仮面と木刀を求めて廊下を走っていたのでございます。

 薄暗いレンガ造りの廊下にはどこまでも牢獄の扉が並んでおり、中からは不気味なすすり泣きや、うなり声が聞こえてきました。内側からタックルをくり返しているのかドンドンと激しく揺れる扉までありました。

 ハービィは足を止めると眉をひそめ呟きました。



「まるで猛獣のおりだ。あの毒で異形化した人達が閉じ込められているんですかね」

「かもね。自分の身が化け物になったとしたら、あの昆虫看守みたいに正気を保っていられる者ばかりじゃないだろう。やはり奴らの計画を許すわけにはいかないな」

「捕らえた人間にむりやり毒を飲ませ、仲間に加えるつもりかよ。囚人全員を!」


「少し違うのう。毒を飲まされたのは下層の囚人だけ。上層の客人はまだ呑気にしとるよ。奴らは生まれつき、自分たちが特権階級で危険が及ぶとは思っておらんのさ」



 ハービィが振り返れば牢屋の小窓から老人が手を振っているではありませんか。



「おじいさんは?」

「元はここで看守をやっていた老兵よ。毒を拒んだら牢へ入れられる側になっちまった。人生なんてどう転ぶかわからないものよ」



 老人のつぶやきを拝聴すれば、監獄の囚人には二種のランク付けがなされているとわかりました。


 国のやり方に反発した学者連中の政治犯と、れっきとした犯罪者ではあるが身分が高すぎて処罰できない貴族の連中、その二種類なのでございます。前者が下層で狭い牢屋に閉じ込められているのに対して、後者は上階で贅沢な調度品を揃えメイド達にかしずかれながら優雅に生きているのだとか。

 それだけでも酷いのに「黒騎士とその仲間たち」が現れてから待遇はさらに悪化したそうなのです。下層の囚人を中庭へ連れ出しては処刑遊戯と称して怪物に襲わせているのだとか。それを安全な所から眺めて楽しむのは上級貴族たち。地獄と言っても大袈裟ではない悪環境です。

 ハービィはたぎる正義感のままに拳を握りしめました。

 隣でエンデも深々とうなずいています。



「黒騎士オルランドだ、奴がここに……」

「どうやらカラクリが読めてきたな。世界中を毒で汚染しようという連中がどうやって貴族連中とうまくやっているのか。なんてことはない、既得権を維持してやると丸め込まれているのだろう。その代償に民衆を差し出すことなんて何とも思っていやしない」

「それが人の上に立つ者のすることですか!!」



 思わずハービィは近場の壁を殴りつけました。

 古いレンガ造りの天井からパラパラと埃が落ちてきました。


 ハービィが幼き日から大好きだった英雄譚。

 その主人公たちは選ばれた特別な存在でありながら、決して弱者を虐げたり切り捨てたりはしませんでした。


「違う……みんなの信頼があるから……代表を任されているのに!!」

「アルカディオ君、気持ちは判らないでもないが。今は落ち着こう」

「ええ、すいません。冷静でないと勝ち目はありませんね」


「ほう、アンタ達もしかして黒騎士と戦うつもりなのかね? なら急いだ方がいいのう。今ごろ中庭では最後まで屈しなかった下層囚人を、見せしめの為に処刑しようといるはずだから。ふん、この狂気の監獄でワシはもう恐怖まで麻痺してしまった。人の死に直面しても何も感じんが……まだ義憤をなくしていないアンタを見ていると、まともな心が生き返りそうじゃ」

「おじいさん……どうか少しだけ待って下さい。必ず貴方を牢から出すために戻ってきますから」

「はは、ワシのことなど構わんでええ。それよりもよく聞け。このまま真っすぐに進んで左に曲がり三番目の部屋が備品管理室になっている。そこに職員の制服と予備の武器があるはずじゃ。ドアにはダイヤル式の錠前がついているが、〇七一四で開く。そう、建国記念日からとった番号なのよ。国内が統一されて、平和が実現すると誰もが思った日じゃ。いまとなっては皮肉なことよのぉ」

「恩に着ます」



 ハービィとエンデは老人に礼を言うと駆け出しました。

 仮面と木刀はまだ見つかっていませんが、彼等にはそちらを優先すべき理由があったのです。正義という揺るぎない事情が、さん然と心で燃えていたのですから。


 されどその気高き魂と相克そうこくを成すように現実は過酷なのでした。

 

 二人が看守の制服と武器を盗み出し、中庭へ足を踏み入れると、待っていたのは凄惨な場面でした。


 中庭は周囲を高い壁で囲まれた闘技場を思わせる造りで、本館の外壁に埋め込まれた八つの塔から物見高い貴族どもが眼下のショーを鑑賞しているのです。ある者はワイングラス片手に、またある者は骨付き肉を齧りながら。オペラグラスをのぞきながら笑っている者までいます。


 では彼らが何を見ているかといえば、中庭で行われている囚人と怪物の追いかけっこなのでした。

 追いかけるのは馬の首から人の上半身が生えた怪物。そう、ギリシャ神話でいう所のケンタウルスです。パカラパカラと蹄を鳴らしながら逃げ惑う囚人たちを追い回し、手にした武器で殴り倒す……凶悪きわまりない遊戯が行われているのです。

 しかも、そのケンタウルスが扱っている武器ときたら見覚えがある黒塗りの木刀ではありませんか。顔にはヤギをかたどった木製の仮面も装着されています。

 ハービィの探し物は二つともそこにあったのです。

 あたかも「とれるものならとってみな」と挑発されたような気分でした。



「あ、アイツ。大切なモンを何てことに使いやがる」



 歯ぎしりして本館ゲートから中庭へ飛び出そうとするハービィ。

 腕を掴んでそれを留めたのは冷静さを失くさぬエンデでした。



「まだ早いぞ、アルカディオ君。敵はまだこちらの脱走に気付いていない。この優位を活かせるのは一度だけだ。よく見たまえ、敵は果たして人馬だけかな?」



 言いながらエンデが指さしたのは、中央塔のバルコニーです。そこには長椅子でくつろぎながら配下と言葉を交わしている黒騎士の姿があったのです。

 まさに間一髪。怒りのまま中庭に飛び出せば、あそこから影のバリスタで狙撃されかねない状況でした。


 ここまでの努力がちょっとしたミスで全てフイになる所だったのです。

 戦場の恐ろしさを思い知り、ハービィは思わず唾を飲み込みました。

 エンデは無言でうなずくと、続けました。



「五分だけその怒りを抑えてくれ。私が奴を引き付ける。その間に君が大切な物を取り戻すんだ。ちゃんと君自身の力でやるんだぞ。恐らく……私にはそれを手伝ってやれないからな」

「それは……つまり……いや、ちょっと待って下さい!」

「他に手段はない。なぁーに心配はいらないよ。こう見えてもしぶとい方でね」



 ハービィが代案を考える暇すら与えず、エンデは微笑すると行ってしまいました。

 ゲートの暗がりにひそみハービィが独り己の無力さを嘆いていると、ポケットがゴソゴソと動き出し中で寝入っていた雨妖精のルカが顔を出しました。



「ふぅ、やっと二人きりになれたねぇ」

「別に寝てて良いのに。これから血生臭いことが始まるんだ。怖いぞ、がおー!」

「ふぅーーん、あの馬と戦うんだ。あれは妖精のケンタウロスじゃないね。見た目が同じなだけでフツーの人間だ。どうしてあんな姿になっちゃったんだか。生まれつきじゃないから、下半身の動きがガクガクでぎこちないよ。美しくないねぇ」

「……最近そうなったんだろ、突然変異の毒を飲んで。偶然あたえられた借り物の力なんて使えこなせるもんか……でも、それなら付け入る隙があるかもしれないな」



 世の中、何が助けになるか判らないものです。

 妖精の呟きから思わぬヒントを得たハービィは、持ち出した看守の槍を握りしめ時が来るのを待っていました。




 そして五分が何事もなく過ぎた頃。

 黒騎士が席を立ち塔の中へと歩み去ったのです。

 どこかで騒ぎが起きて、呼びだされたのに違いありません。


 本館ゲートからそれを確認したハービィは満を持して中庭へ足を踏み入れたのです。


 依然として小雨が降りしきる中、芝生を敷き詰めた地面は水を吸って重くなっている様子でした。片手に木刀を、片手にトゲ付きのメイスを持ったケンタウルス。奴は中庭を縦横無尽に走りながら歓声をあげていました。

 ご丁寧にも囚人たちの脚には動きを鈍らせる鉄球と足かせがつけられているのだから、悪趣味としか言いようがありません。


 現実は無情で過酷、ですが今日までハービィが鍛えに鍛えてきたのは正にこんな連中と戦う為でした。

 あの仮面を受け取ったその日から、心に灯った誓いを貫き通すと決めたのです。



「ヤメロ、馬面! そんなに暴れたいのなら俺が相手になってやる!」

「ムヒヒヒン、イキの良いのが残っていたのか? せっかく手に入れた新しい力を試しているのに、どいつもこいつも無抵抗で面白くないと思っていた。人はどうやっても馬に勝てない、すぐ踏みつぶしてやるぜぇ」



 人馬は踵を返すと真正面からハービィに向かってきました。

 その迫力は現代で言えば大型バイクの正面に立つようなものです。そして、仮に避けることができたとしてもすれ違い様に鈍器が振るわれ殴り倒されるのがオチなのです。


 この五分間敵の動きを見続けていたのでそれはよくわかっていました。


 そこでハービィがとった行動は……下手に動かず本館の壁を背にして立つことでした。まさか壁に突っ込むわけにもいかないので、人馬は急ブレーキ。足を止めて鼻息を荒くしました。



「なんだ? それはなんだ? まさか足を止めての殴り合いなら勝てるつもりなのか? お互いの体格差を見ろ。体重差を考えろ。俺様に見下されるチビの分際で。気に入らねぇ!」

「そうかい? そう思うなら、やってみろよ」

「ムヒヒィーン、なんだお前? 看守の制服じゃないか、裏切り者なのか」

「……まぁ、俺が誰かは後でな」



 人馬はさお立ち(前足を上げて後ろ足だけ立つこと)になると、ハービィを踏みつぶそうと襲ってきました。もちろん、蹄の踏みつけをかわしても次は木刀のスイングが待っていました。槍の柄で防ぐも力の差は相当なもので、吹き飛ばされて壁に叩きつけられてしまいました。

 木刀の硬さと腕力があいまって一撃で槍がひん曲がっています。



「見たか、非力な人の子め! 俺は全ての人間を超える速度と馬力を手に入れたのだぞ」

「慣れない体で無理しなさんな。馬脚を現すのも時間の問題だぞ」

「なにぃ?」



 両者が攻防を繰り広げている間に雨妖精のルカがポケットから飛び出し、人馬の背後へと回り込んでいたのです。

 ルカは馬の尻に近寄ると、ニシシと笑って力いっぱい引っぱたきました。



「ほーら、お尻ペンペン」



 馬というものは視界の外から近づかれるのが嫌いなのです。

 そして、腹のまわりや尻に無闇やたらと触れられるのも大嫌い。

 そうした禁忌を侵されると反射的に暴れだし、本能の命じるまま強烈な後ろ蹴りを繰り出してしまうものなのです。


 しかしながら、ルカは尻に乗っているので蹴りは虚空をかすめるばかり。



「な、なんだ? 体が勝手に動く」

「身に付いたのは長所だけじゃないだろう? 馬の習性をつけば人にも勝機はある」



 ハービィはケンタウルスがが後ろ蹴りでバランスを崩した隙に、壁を蹴って飛び上がりました。

 今こそゴーカイ流体術、飛影の出番です。

 三角飛びで高さを稼ぎ、ハービィは見事に人馬の背中へとまたがったのでした。鞍もあぶみもないので乗り心地は最悪ですが、無防備な後頭部が目の前にありました。

 ハービィはすかさず相手の首に腕をまわして締め上げたのです。



「ひっ、ヒィーン!」

「終わりだな。さぁ、世界樹の木刀と『俺の顔』を返してもらうぞ」

「俺の顔? お、お前がまさか黒騎士さまの言っていた……」

「気付いた時にはもう遅い! 暴れ馬を乗りこなしてやる」



 しかし、人馬もハービィを振り落とそうと必死です。

 ケンタウルスが締め落とされるのが先か、ハービィが落馬するのが先か、勝負は持久戦の様相を呈してきました。


 雨妖精のルカは両者の近くを飛び回りながら呑気に声援を送るばかりです。



「きゃはは~、どっちも頑張れ~」

「いや、こっちはもう良いよ。すぐ駆け付けられるよう、エンデさんの居所を探ってくれないか!」

「んもう~すぐ命令するんだから……ちょっと待ってね」



 ルカは両目を閉じ、耳を澄ませる仕草をとりました。

 雨の降るエリア限定ではありますが、ルカの聴覚は雨だれが踏み石にしたたる音さえ聞き取ることが出来るのです。


 

「居たよ~、あの塔の上階にいる」



 妖精が指さしたのは、黒騎士が居た中央塔。

 折しもそこで死闘が繰り広げられていたのでございます。











 ハービィが中庭に突入する少し前のことです。



「大変です。脱走した頂天騎士が階下で暴れています!」



 黒騎士オルランドは敬礼した部下より報告を受け、椅子から腰を上げました。


 戦士風の着衣や小手こそ黒そのものですが、影をまとうことによって生じる全身鎧は解除された状態です。

 レストランの時と同様に素顔がむき出しでした。

 頬に蛇の入れ墨がある五分刈りの男。髪には剃り込みも入っており、その強面ぶりは尋常ではありません。されど「脱走という不始末」の報告を受けた黒騎士は渋面を歪め、むしろ口角を楽しそうに釣り上げたのです。



「ほほう。それはそれは、愉快なことだ」

「は?」

「いや、なんでもない。そいつは何処へ向かっている? 目論見通り中庭かな?」

「それが、その、どうも此処を目指しているのではないかと……ぐわ!」



 報告中の部下が崩れ落ち、その背後に立っていたのはエンデその人です。

 変装の為に被っていた兵士の帽子を脱ぎ捨てると、茶色い髪をマッシュルームカットに整えたやせ気味の顔が現れました。



「お初にお目にかかります、黒騎士どの。ご観覧中のところ申し訳ないが、少し私と遊んではもらえませんか?」

「構わんよ、ちょうど退屈していた所だ。お前、知っているか? 今宵ベルサーユ宮殿では大切な夜会が催されている。それなのに、剣を預けた姫君を放置して俺がこちらに待機していたのは……頂天騎士であるお前がオイタをする可能性を考慮したがゆえ。どうやら気配りが無駄とならずに済んだな」

「ははは、アガタと違って騎士とは名ばかり、私は文官に過ぎませんがね」

「ふむ、見た所は素手のようだが。部下を倒したその手腕は気になる」



 軽口を叩きながらもオルランドの頭脳は目まぐるしく回転していました。

 部下が倒れる直前、黒騎士は肌にかすかな冷気を感じていたのです。



 ―― 氷結系の術使いか? 瞬時に人を昏睡させるほどの?



 騎士や剣士は、大概が遠距離攻撃や術の「からめ手」を苦手とするものです。

 どれほど体を鍛えようと飛んでくる弓矢や火球に剣で対抗するのは難しい、どんなに声高にロマンを唱えようとそれが現実なのでした。

 しかしながら、それでも場数を踏んだ者なら対処方法に心当たりぐらいはあるものです。



 ―― やってみろよ。初撃を堪えて切り伏せてやる。



 剣の柄に手をかけ、ジリジリと間合いを詰めようとするオルランド。

 ところがエンデは決闘を申し込んでおきながら信じ難い行動に出たのです。



「ここは場所が悪いですね」



 そう呟くと、あっさり背を向けてエンデは逃げ出したではありませんか。

 舌打ちして後を追いながらもオルランドの頭はまだ冷えていました。



 ―― 誘っている? 罠にでもかけるつもりか? 俺の不意をつけると思うなよ。



 逃げるつもりなら、まず塔の下へ向かったことでしょう。

 ですが実際にはエンデが目指したのは上階でした。

 上へ逃げても最後は袋のネズミだというのに。


 やって来たのは塔の形がはっきりとわかる円形の部屋。そこはガランドウで普段は倉庫として使われており、部屋の隅で壊れた家具や木箱が埃をかぶっているだけでした。

 追跡するオルランドがその部屋に足を踏み入れた時、室内は既に無人でした。

 上って来た螺旋階段の続きが部屋の対面にあり、エンデはそこへ行った様子です。

ここは単なる追跡劇の通過点、オルランドがそう決めつけて駆け出そうとしたその時……虫の知らせが彼を踏み止まらせたのです。


 明らかに誘い込まれたという事実が警報を鳴らしたのかもしれません。

 首筋に悪寒を感じ、微かな冷気が流れてくる頭上へ視線を向けると―― そこには恐ろしい光景が広がっていたのです。エンデと同じ格好をした霊体が、こちらへと腕を伸ばしてくるではありませんか。



「うぉ!!」



 オルランドは息を呑み、間一髪床に転がることで死の接触デスタッチをまぬがれました。

 すると、霊体は天井に吸い込まれるかのように消えていったのです。



 ―― なんだ? つまり天井越しに(エンデからすれば床越しに)攻撃しようっていうのか!? あの幽霊で上階から壁をすり抜けて! えげつない真似をする!



 押し上げていた剣の棒ツバをパチリとはめ、オルランドは嘲笑を浮かべました。



「だがな『人知を超えた力』は、文字通り お前に計れるモノじゃないんだよ」

「来い! 『夜王の武装ナイト・アームズ』よ!」



 中腰になって足下に掌をかざす。

 するとオルランドの影から巨大なハシラがせり上がってきたのです。


 ななめに飛び出したその柱は、闇が形作る破城槌でした。

 城門すらも貫くその破城兵器は薄い天井など一撃で突き破り、上階を崩落させたのです。二つのフロアが一つとなり、レンガや木材と共にエンデが落ちてきたではありませんか。


 その表情は当然驚きと恐れに満ちていました。


 愉悦にひたりながらオルランドは床に倒れたエンデを見下ろし、言ったのです。



「どうだ、面白いだろう? 戦場って所は何が起こるか判らんからな。なにやら霊を操るようだが、それなら斬られて死ぬことなど怖くはないか? やはり文官が現場に出てくるべきではなかったんじゃないのか?」

「……誤解があるようですね」

「ん?」

「命というのは肉体そのものです。心臓に流れる赤い血潮が生命なのです。確かに霊というものは存在しますが、心臓が止まれば現世の未練に執着する影となるだけ。命は大切にした方がいいですよ。貴方のモノも、他人のモノも」

「ククク、面白い奴だ。ご忠告ありがとうよ」

「ですが、一方で同感ですね。文官がしゃしゃり出るべきではないし、戦場という所は何が起こるか判らないから恐ろしい。貴方の後ろにも、来ていますよ?」



 オルランドの背後には衝撃で崩れかけた大窓とバルコニーがありました。

 そこに身長五センチ足らずの雨妖精がフワフワと飛んでいるではありませんか。



「アルカディオー!! ここだよ、この窓にいる」

「なんだ、貴様は?」



 オルランドがいかがわしく思い、その大窓から外をのぞいた―― その時でした。

 雨水を材料に、長く伸びた水の投げ縄が黒騎士の首へと絡みついたのです。



「なんだ……と!?」



 英雄術ミズチ。

 遥か眼下の中庭から伸びた縄の先には、人馬にまたがった仮面剣士の姿があったのです。ハービィは馬の脇腹にカカトを何度もぶつけ走らせます。すると、水の縄がピンと張って黒騎士の首を締め上げるのです。


 数歩引きずられ、黒騎士も一度はこらえようとしたものの疾走する馬に人の力で抗えるわけもありません。



「うおおおお!」



 黒騎士の体はバルコニーの手すりを超え、釣り上げられた魚のように塔から落ちたのでした。放物線を描いた末の落下予測地点は、中庭の片隅でした。


 高さはおよそ百メートル。いくら芝生の上だろうと地面に叩きつけられたら潰れたトマトのような有様となるのが目に見えています。


 しかし、オルランドは狼狽えもせずに空中で叫んだのです。



「どいつもこいつも、やってくれる! 楽しませてくれるじゃないか! だが、俺の新たな肉体を甘く見るなよ。騎士の誇りを代償に得た力だ!」



 彼の叫びに呼応するかの如く、落下地点に染み出た黒い影から何かがせり上がってきます。それは、巨人のものとしか思えぬほどに大きな掌だったのです。


 五指を開いた黒い腕が大地から伸び、落ちてきたオルランドを的確にキャッチしました。掌の中、包まれたオルランドの四肢へ闇の触手が次々と絡みついていました。


 指の隙間から黒い光が洩れ、やがて内側から巨人の握りこぶしは弾け飛んだのです。


 地響きを立て、膝から中庭に降臨したのは黒き甲冑に身を包んだオルランドでした。



「牢内で貴様らを殺さなかった意味、それは判るな? 仲間にならんというのなら、先代と同じく俺に殺されるがいい。もっと楽しませてみろ、アルカディオ!」



 一方で役目を終えた人馬は外壁にぶつかり、完全に意識を失っていました。

 激突の直前、馬の背から飛び降りた少年は軽やかに着地して向き直ったのです。


 構えるはツバの部分から双葉の芽が生えた黒塗りの木刀。

 被ったのはヤギを模した角ある仮面。

 今となっては、こちらこそが世に認められた彼のあるべき姿。

 あらわになった口元を真一文字に結んで、ハービィは名乗りを上げました。



「ゴーカイ流仮面剣士、二代目アルカディオ! ここに見参! 無辜むこの人々を捕らえ、野望のために命をもてあそぶ者ども! 覚悟しろ!」



 成り行きを見守っていた囚人たちの視線を一身に浴び、ハービィは下唇を噛みしめました。最早、少年の夢で済む時期はとうに通り過ぎました。

 ここは本物の戦場。英雄の仮面を被った少年が果たして風評通りの救世主たり得るのか……試される時がとうとう来たのです。


 対峙するは仮面の剣士と黒の騎士。

 守護する者と支配しようとする者。

 あたかも運命の糸で結ばれたかのように両者の対決はもはや不可避だったのです。











 時刻は午後八時半。

 場面は頂天騎士のアガタが入院する背両院『天眼さまの館』へと移ります。

 傷の痛みと熱で朦朧もうろうとするアガタがベッドでうなされていると、ノックもなしに病室の扉が開かれました。そんなことをするのは勿論ラタ・トスクに決まっていました。


 されど、入ってきたラタを目にしてアガタは驚きました。

 彼の着衣やリスの毛皮が泥と血に汚れていたからです。



「……どうした? 何があったのだ」

「怪我人を狙って刺客が次々とやってくるからさ、ちょっと奴らに礼儀を教えてやった。面会時間も守れない無礼者が、しつこいったらないね。まっ、何人来ようが僕の敵じゃないケド」

「黒騎士の配下か……スマン、苦労をかけるな」

「良いってことよ。君にはまだまだ働いて欲しいからね」

「やれやれ、お前に使われるほど私も落ちぶれたか。ふっ、それもよかろう。どうせ一度は敗北した騎士だ」

「自虐はダメよ~。勝とうが負けようが、僕にとってアガタさんはアガタさんよ」

「お前との付き合いも随分長いからな。もう家族みたいなものか」



 ラタは意味ありげに咳払いをすると、こう続けました。



「それにね、そんな怪我たいしたことない。教団に伝わる秘薬の中には傷を癒す物もあるんだ。材料がコッチの世界では手に入らないほど貴重品だからそうそう使えないんだけど。僕が思うに、今はきっとその時だね」

「この世界では……? お前の言うことはどうも判らないな」

「まぁまぁ、怪我人は大人しく待っていればいいの。本部に連絡をとったら天眼さま御自身が運んでくれるそうだから。もう少しの辛抱だよ。頑張った君に労いの言葉をかけたいんだってさ、運ぶついでだけど。やったね!」



 なんと天眼さまがこの病室へおいでになるというのです。

 アガタは痛みも忘れて起き上がりました。


 アガタも頂天騎士、重要な閣議で御簾ごしに主と話したことは何度かあります。

 けれどあの神秘のヴェールを越えて現人神とも呼ばれる御方が外界に出てくる事例などこれまで聞いたこともありませんでした。



「いやいやー、お忍びでよく外出してるよ、あの人は。そこまで神秘的な御方じゃないから。楽にして楽に」



 ニヤニヤ笑いながらラタは平然と言うのでした。

 その様子はあたかも親しい友達の素行でも語るかのようです。

 あまりにも馴れ馴れしい態度に、アガタはただただ呆然とするのでした。


 この教団には頂天騎士でさえも知り得ぬとっておきの秘密がまだあったのです。



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