真実

 呼び鈴を押してからの数秒が、信じられないほど長い。

 ガチャリとドアが開く。

 出て来たのは、すらりと長身の美しい女性だった。年頃は40代半ばくらいだろうか。

「——はい?」

 長い髪を指でかき上げ、その人は静かな目で私を見る。


「あの」

 この状況になって、はたと戸惑う。

 ここに来るまでのあまりにも謎めいた経緯を、一体この人にどう説明したらいいのか。


 狼狽える私を、彼女はじっと見つめる。

「……もしかして。

 あなた、パンを探しに来たの?」

「え……ええ、そうです!!」

 勢いよく頷いた私に、彼女は優しく微笑んだ。

「——よく来たね」





「ここまで来るの、大変だったでしょう? お茶入れるね」

 彼女は、私の前に立って廊下を歩く。

 明るく静かなキッチンに通された。白い壁と床に、白いダイニングテーブル。窓の外の夕暮れに、夏の青葉がさらさらと音を立てる。

「座って。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

 勧められるままに、テーブルの両側に2つずつ並んだ白い椅子の一つに座る。

「……あ、えっと、じゃあコーヒーで」

 カウンターの向こうで食器棚から白いカップを二つ出し、ドリップコーヒーの袋を切りながら、彼女がさらりと問いかける。

「天崎瑠夏ちゃんだよね?」

 思わず肩が揺れる。

「あの、どうして、私のこと……」

「びっくりするよね、ごめん。

 私は、つじ 優里香ゆりか。よろしくね」

 優里香さんというその人は、湯気の立つカップを私の前に静かに置き、向かい側に座りながら優しく微笑む。

「——色々事情があってね。あなたのこと、よく知ってるんだ。

 でも、話はとんでもなく長いしね。詳しい説明は私からじゃないほうがいいよ、きっと。もうすぐ帰って来るから」


 ……帰って来る?

 コーヒーを口に運んで、今の言葉を何となく反芻する。

 続きを何か考えようとした瞬間、カウンターの奥のドアをガタリと開けて入ってきた影がある。

 作業服に軍手、麦藁帽。トマトの入った箱を抱えて優里香さんへ向けられた笑顔を見て、私は固まった。


 気のせいか? 人相は驚くほど変わってしまっているが——それは、7年間片時も忘れたことのない笑顔だった。



「……父さん」


 私を見て、父は抱えていた箱を取り落とすようにどさりと置くと、たどたどしいような足取りでテーブルへ歩み寄る。

 昔と変わらぬ優しい眼差しが、じっと私を見つめ——その瞳が、大きく潤んだ。


「亮くん、ほら座って。

 本当に来てくれたよ、瑠夏ちゃん」

 そう言いながら、優里香さんは紙とペンを父の前に置いた。

「——」

 父は、もどかしいように紙に文字を書きつけていく。


『来てくれて嬉しいよ、瑠夏。

 大きくなったな』


 このやりとりに、溢れかけた私の涙が思わず引いていく。

「……父さん、どうして、筆談……?」

 父はふっと寂しげな目をして淡く微笑み、紙にペンを走らせる。

『それも含めて、これから話すよ。全部』







『僕は、命を狙われた。

 完成寸前の僕の研究を盗もうとする連中にね。

 ——お前に全て話しても、いいだろうか』

「うん。何を聞いても、大丈夫。全部聞かせて」

 私の答えに、父は小さく微笑んで続きを書いていく。


『母さんは、僕の助手をしていた男の罠に嵌った。

 彼は狡猾に母さんを口説き、母さんの心を手に入れた。そして、僕を消して研究成果を奪い、そこから得られる莫大な利益を手にしようと目論んだ。

 一見誠実で柔和なあの男は、反社会的勢力の一員だ。

 そして、彼らが奪った僕のAI研究の内容は——人を闇に誘導するカウンセリングスキルだ』


 私の顔が、無意識に引き攣る。


「人を闇に誘導する……?」


『そう。

 あれは、僕の研究を完成させるための一過程だった。

 人の心を光に向けて導くカウンセリングスキルをAIに学ばせたい。それが僕の最終目標だった。

 人の心は、光よりも闇に強烈に引き寄せられる。AIを利用する持ち主も意識できないうちに、闇へ踏み込みたくなる変化を少しずつ植え付けていくカウンセングスキルをAIに学習させたたら、どうなるか。——僕自身の好奇心も僅かに働いたことも否めない。

 今考えれば、身の毛もよだつ試みだった。


 知り合いの心理学者や心理カウンセラー達にも協力を得て、その恐ろしい試みはとうとう完成した。

 成功が確認できたら、すぐにその知識はAIの頭脳から抹消するつもりだった。

 しかし、そうはいかなかった。僕のすぐ側で研究の進捗をチェックしていた助手は、このタイミングを見逃さずに動いた。

 あの日の深夜、母さんと奴が突然僕の部屋に入ってきた。

 彼は拳銃を手にしていた。

 二人は、今手がけている研究を自分たちに全て明け渡せと要求した。僕の開発したAI技術を使って闇堕ちする人間を増やせば、今後ますます闇社会が潤う、と。

 平然と拳銃を向けられ、「もうここには戻ってこないと約束するから命は助けてくれ」と懇願した。

 必要最低限だけボストンバッグに詰め、家を出た。頼れるのは科学者仲間の優里香さんだけだった。

 お前に、別れの一言すら言えないまま』


 苦しくて、思わず俯く。

 母が私を疎んじ、遠ざけたのは、ただ自分たちの犯罪的な計画を成功させるのに娘が邪魔だった、それだけなのだろう。

 けれど……母が見せた「卓越した頭脳」への憎悪は、もしかしたらあながち的外れではないのかもしれない。


『危険な研究をしていることは自覚していた。誰に目を付けられ、いつ命を狙われるかもしれない、と。

 あの出来事の少し前から、周囲の気配に微かな違和感があることを、僕は感じ取っていた。

 お前にあの絵を贈ったのは、もしも自分に万一の事態が起こっても、いつかお前が僕のメッセージに気づいて真実を探しに来てくれたら……そんな微かな可能性に賭けたものだった』


 手にしていたカップが、微かに震えてかちゃかちゃと音を立てる。

 私は、顔を上げられないまま小さく呟いた。

「……そんなことが、あったんだね。

 でも、父さん。そのAI技術を搭載したイヌ型ロボットが来月発売予定だって、知ってる? すごい高額なのにもう予約が殺到してるんだよ。

 そんな恐ろしいロボットが本当に社会に出回ったら……」


『大丈夫』


 父は、さらりとそう書くと私に見せて小さく笑った。



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