北の島、青い雲

aoiaoi

父の絵

「はあ……」

 7月下旬の午後。

 私は、自室のベッドにどさりと転がった。


 天崎あまさき 瑠夏るか。高2。明日から自由で楽しい夏休みが始まる。

 しかし私にとって、行く場所のない「夏休み」は地獄だ。


 私は、家族に愛されていない。


 私を愛してくれた父は、7年前、私が10歳の夏に突然失踪した。

 母の悲しみは、そのまま家族を捨てた父への恨みに変わったようだった。

 母は父の残した物を全て処分した。そして、父によく似た頭脳を持つ私にも冷ややかな態度を取るようになった。

 父は、AI技術の優秀な研究者だった。男にしては背が低く、ちょび髭に丸いメガネをかけた素朴な見かけだったが、その頭脳は卓越していた。

 失踪の直前まで、「研究は順調だ」と嬉しそうに話してくれたことを覚えている。


 学校で良い成績を取ることは、私には難しいことじゃなかった。ひとりになった母に喜んで欲しくて、私は真剣に勉強した。

 けれど、ある日勢いよく差し出した100点の答案を見て、母は言った。

「勉強ができるからって威張らないで。頭のいい人間なんて、その分大事なものが欠けてるのよ」

 嫌なものを見る目つきが私を刺した。

 ひとりの部屋でランドセルを降ろしながら、涙が零れた。


 父の研究の成果で、お金には幸い困らなかった。けれど母は「パートを始めたから」と、しばしば深夜まで帰らなくなった。

 私はいつしか、テーブルに置かれたお金でコンビニやスーパーの弁当やパンを買って、ひとり夕食を食べるのが当たり前になった。


 だんだんと、学校のテストで目立たぬ点を取るようになった。どの教科も、正解が解ってもわざと空欄にして、いつも50点や60点。これ位なら学校でも問題視されず、母にも罵られない。これ以上母に嫌われ、冷たくされるのはあまりにも辛かった。

 母が冷淡になればなるほど、父の声と笑顔の記憶は濃くなって、私の中の痛みを一層強く抉る。

 どんなに痛くても、無駄な痛みというのがあるんだと、小学6年の私はふと気づいた。


 私が中1の時、母は再婚した。相手は、父の研究の助手をしていた男だ。

 義父は柔和な笑顔を浮かべ、信じられないことを言った。

「これからは、家族としてよろしくね、瑠夏さん。

『私は娘に愛されていない』と、美紗子さんがいつも悲しそうに微笑むから、僕はずっと彼女が心配でした。

 どうやら君にはお母さんは必要ないようだから、僕も美紗子さんも君には必要以上に干渉しない。もちろん学費と生活は保証するよ」

 私が高校へ進学すると、母も義父ももうこの家にはほとんどいなくなった。恐らく彼の家で暮らしているのだろう。

 私は「自由」という口当たりのいい言葉と金を与えられ、このマンションの一室に「捨てられた」女子高生だ。


 父の研究はそっくり義父が引き継ぎ、その有用性を利用して彼らは3年前にAI技術を売る会社を創設した。そして、父が生みの親である高度なAI技術を搭載したイヌ型ロボット——心理カウンセラー並みの高度なカウンセリングスキルを持ったAI——がひと月後に発売予定だ。

 高額にも関わらず既に予約が殺到している。彼らの会社は間違いなく莫大な利益を上げるだろう。


 ベッドにごろりと仰向けになる。

 それもこれも、どうでもいい。私は、何も欲しくない。

 信頼できる物は、勉強と本だけだ。

 知識は、私を裏切らない。どんな時も私の味方になり、私を支えてくれる。生きる力をくれる。


 ——何度、そう自分に呟いたか。


 涙が滲みそうな瞳を何とかしたくて、いつものようにベッドの脇の壁に飾った小さな風景画をじっと見つめた。

 この絵は、父が私に贈ってくれた水彩画だ。失踪する少し前に。

 穏やかな川の河口に、人々が楽しげに集まっている。彼らが見下ろす水中には、魚の光る背中がたくさん見え隠れしている。

 明るい空と雲。

 素人が描いたものとすぐに分かるようなさりげない絵だけれど、この長閑のどかで優しい風景に私の心はいつもふっと鎮まった。

 でも、今日は無理だ。

 心が鎮まるどころか、涙が次々に溢れて止まらない。


 父さん。

 大きく泣きじゃくりながら、私はベッドに立ってその額に手を伸ばした。

 小さい頃は届かなかった額に、今はしっかり触れられる。

 額を壁から外し、埃を拭いながらそっと膝に置いて座った。

 額の中の静かな風景を、これほどつぶさに見つめたのは初めてだった。

 父さんは、一体どんな気持ちで、この絵を描いたのだろう。


 ふと、人々の群れから少し離れた場所に、子連れの男が立っている姿が描き込まれているのに気づいた。

 その小さな女の子の服を見て、鼓動が不意に波立つ。


 これは——私だ。


 水色のワンピースに、ピンクのリボン。幼い頃の私が大好きだった服装だ。

 そして、その手をしっかりと繋ぎ、少女を優しく見つめるのは——父だ。

 間違いなく。


「……これって、どこの絵……?

 日付とか場所とか、何か書いてあるのかな……」

 急速に動き出した好奇心に、額の後ろの留め具を外す。

 絵を留めていた板がカタリと緩んだ。

 少し緊張しながら薄い板を取り除くと、そこには二つ折りになった小さな紙が挟まれていた。


「……なんだろう」


 その紙を開いた私は、思わず息を呑んだ。

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