第8話 日常と非日常
目が覚めると、部屋に唯一ある窓から鉄格子越しに朝の光が入り込んでいた。
夏らしい青い空は、目に毒だ。
私は窓から顔を背けるように半身を起こして、寝台に腰かける。
私の動きに合わせて寝台がギシリと音をたてた。
「おはようございます、ディウラート様」
「おはよう、アリーサ」
初老の白髪の女性が穏やかに声をかけてくる。私の世話係りのアリーサだ。私が唯一信頼できる人物でもある。
「さあ、こちらへ」
私はアリーサに促されるままに寝台を出た。
机の上には、乾燥させた固いパンが一欠片と小さな蒸かし芋が並んでいる。
「朝食はいいと言ったはずだが?」
「ですが……」
「私はあちらでの食事がある。それでなくとも少ない食料だ。アリーサが食べてくれ」
私の言葉に、アリーサは小さく頷いて表情を暗くした。
私とアリーサは、長年この離宮に幽閉されている。外へ出られない私たちは、与えられる少ない食料で遣り繰りするしかなかった。
私には『あちら』での食事がある。
だが、アリーサはないのだ。
一食でも多く口にし、飢えをしのいで欲しい。でなければ死んでしまうから。
そういえば、と、アリーサがわざとらしく明るい声を出した。
「今日は十日ぶりの外出日ですよ。何故だか、最近はとても楽しみにされていたでしょう?何かあったのですか?」
アリーサは嬉しそうに、哀しそうに、皺を深めた。私は視線を落とす。
「別に」
別に、残念だなどとは思ってはいない。
彼女に会えないからといって、何がどうなる訳でもない。
「次は来られないの。今度会うのは二十日後ね」そう言った彼女の声がよみがえる。
私はそっと腕にはまる腕輪を撫でた。
「図書室に寄ってから出掛ける」
「ええ、ええ。わかっておりますよ」
私はさっと席を立つ。
アリーサとともに渡り廊下で繋がれた隣の塔にある図書室を目指した。
途中、この離宮で働く使用人たちと行き合う。
ひそひそと話す声が耳を刺した。
「ねえ、あの忌子はどうしたの?」
「昨日仕込んだ毒針は?」
「また失敗?ウォルリーカ様に叱られるわ」
「毒を受けても平気そうな顔して、気味が悪いわよね」
私は、無表情を崩さぬように、ゆっくりとした歩調で使用人たちの前を通りすぎた。
彼女たちは私の姿を認めると、すぐさま口を閉ざして形ばかりの礼をとり、足早に去っていく。
この離宮に居るのは、義母であるウォルリーカの息のかかった通いの使用人たちだ。
義母の命により、私に酷い仕打ちをすることはそう珍しくもなかった。
昨日寝台に仕込まれていたのは毒針だったのか、とぼんやり考える。
今さら毒など盛られたところで、この体はとうに毒に慣れてしまっているというのに。
嫌がらせのためにウォルリーカが仕向けているのだろう。
「ディウラート様」
顔を歪めてアリーサが呼びかける。
「平気だ」
そう言い聞かせて、私は歩を進めた。
「せめてフローリア様が生きておられたら……」
アリーサがふいに呟いた。
もう何年も前に亡くなった母の名だった。
母上が生きていた頃、確かに離宮はもう少し穏やかだったし、もう少しましな生活ができていた。
外に出られずとも、母上の優しい笑顔と歌声があれば十分だった。
さらりとした白銀色の髪と、溶けてしまいそうな淡い色合いの金の瞳を思い出す。
私を呼ぶ柔らかな声が、語りかけるように歌う澄んだ声が、私は大好きだった。
母上の腕の中で、いつまでも幼いままでいたかった。
けれど、母上は死んだ。
母上は、魔力の多さから王弟に召し上げられた第二王弟妃だった。
だが、第一王弟妃のウォルリーカに疎まれ、精神を病んだ結果、若くして命を落としたのだ。
その原因の一端に、私を身籠ったことで、ウォルリーカにこの離宮に押し込められたことが関係していると、私は知っている。
上流貴族の生まれで後ろ楯もあるウォルリーカに、下流貴族である母上は逆らえなどしなかったことも。
両親を早くに亡くした母上は頼る者もなく、半ば強制的に、王弟と愛の無い政略的な婚姻を結ばされたという。
そんな母上が唯一頼りにしていたのがアリーサだ。
母上が離宮に入る時も、みずからの自由をも奪われると知っていながら、母上に付き従った。
アリーサが居なければ、母上も私もこの離宮で生きてはいられなかっただろう。
その反面、私のせいで離宮に幽閉された彼女に、ひどく罪悪感を抱く。
図書室に着くと、私は適当に本を手に取る。
ここにある本は、全て読み尽くしてしまった。
『ディウラート、いい?できるだけ沢山の本を読みなさい。本は知識の宝庫よ。いつか必ず貴方の助けになるわ』
晩年、母上はいつもそう私に言い聞かせていた。
幼い私は、その言葉をよく理解できないままに、母上から読み書きを教えられた。
そんな母上が私に遺してくれた物が三つある。母上の遺品は、ほぼ全てウォルリーカに取り上げられてしまった。
だが、この三つだけは辛うじて私の手元に残ったのだ。
ひとつ、母上の杖。
ふたつ、図書室の本。
みっつ、歌。
杖は、母上が私に遺すために隠し持っていた物だ。私が杖を持っていることを、王弟一家は誰も知らない。
本は生前に母上が集めていた物で、私が文字を読めることを知らないウォルリーカが、処分しなかったのだ。
歌は、母上の一族に伝わる古い歌から、子守唄まで、様々なものを歌い継いでいる。
この三つが、いつも私の心の支えになっていた。だから今まで、生きてこられたのだ。
「行ってくる」
私はアリーサに朝食と取るようによく言い含め、いつものあの木の下へ出掛けた。
離宮から離れられる解放感は計り知れないが、マリーのいない事実に少し物足りなさを感じている自分がいた。
目的地に着くと、いつものように木の根元に腰掛けて本を開く。
本を読みはじめるが、なかなか集中できない。私はふと顔を上げ、周りを見渡した。
いつもならば、そろそろ彼女が来る時刻だ。
今日彼女はこないとわかっているのに、いつも彼女が現れる木立の方向が気になって仕方がない。
彼女は、ある日突然私の目の前に現れた。
離宮以外を知らない私にとって、マリーの存在は非日常だった。
腰まで届く豊かな黒髪は艶やかで、夜空のような美しい色合いをしている。
真っ直ぐに私を映す瞳は、吸い込まれそうな甘い飴色だ。
彼女は、何とも言えず私の胸を大きくざわつかせる存在だった。
杖を向けられた恐怖から警戒心をあらわにしていた私のもとに、マリーは何度も通っては構い倒してきた。
好奇心に満ちたその表情に、はじめは困惑したものだ。
――いや、今も困惑することは多いのだが。
それでも、彼女のいる非日常が私の日常になりつつあることは、否定しようのない事実だ。
「ディウラート」
ふいに、名を呼ばれたような気がして振り返る。
ざわり、と風に揺れる枝葉の音が、足音に聞こえて顔を上げる。
「いい加減にしてくれ……」
私は呟いて額に手を当てた。
そこに居るはずの者が居ないことに、これほど違和感を覚えるとは思いもしなかった。
忘れていたはずの、寂しいという感情がじわりと胸に広がる。
マリーは、いつだって私の知らないことを教えてくれる。
魔術だけではない。頼んでもいないのに、外の世界のことを私に語って聞かせるのだ。
はじめは鬱陶しく、面倒に思っていたはずの彼女を、いつしか当たり前に受け入れるようになっていた。
彼女の語る話を楽しみにしている自分が居ることに、気が付いたのだ。
だからこそ、憧れてしまった。
見たことのない、外の世界に。マリーの語る、自由な世界に。
何度も酷く惨い現実を突き付けられ、落胆してきた。マリーの言葉に胸を踊らせては、変わらぬ日々にため息をついた。
それでも、自由な世界への憧れを断つことはできなかった。
私は、本を置いて立ち上がる。
木の下から、一歩、また一歩と離れていく。
先日、マリーに教わった占いの魔術。その時に出た占いの結果を思い出す。
困難と、決別。
それは、マリーには秘密にしていたが、私が外の世界へ出られるかと占った結果だった。
――そう。占いには、否とは出なかったのだ。
外の世界に飛び出したくて。待っているだけが、もどかしくて。
どうなるかなどわかりきっているのに、私は歩を進める。
小川の手前まで歩みを進め、バチッという激しい音が木霊する。
私は見えない壁に阻まれ、全身に走る強い痛みと共に弾き飛ばされた。
背中をしたたかに打ち付ける。腕輪が鈍く光っている。
魔術が発動したのだ。激しい痛みに、私は声にならない声を上げる。
「……っ!」
やはり、私は離宮から離れられないのだ、と実感させられる。
忌々しい腕輪を力ずくで外そうとするが、外せる訳もない。
この腕輪は、かつて犯罪者を幽閉していた時代に離宮で使われていた魔術道具で、犯罪者が脱走しても、離宮から離れられないようにするための手枷だ。
離宮から離れすぎると先程のように弾き飛ばされるし、自由に離宮の外に出られないのも手枷のせいだ。
この手枷は、取り付けた人間にしか外すことはできない。
私やアリーサ、亡くなった母上はウォルリーカに付けられたので、彼女にしか外すことはできないのだ。
もっとも、彼女は外す気などないだろうが。
昔は、何度も何度も逃げようと試みた。けれど結局、叶わなかった。
芝に体を投げ出した状態で空を仰ぐ。
唇を噛んで、目をきつく瞑って、溢れそうになる感情を呑み込んだ。
口内には僅かに鉄の味が広がる。
自分の無力さが悔しくてたまらない。
それと同時に、マリーが憎らしくて仕方がなかった。
憎らしいのに、憎みきれないのは、何故だろう?
諦めた夢を再び見せた彼女は、あまりにも眩しかった。
ふと、彼女の笑顔が浮かぶ。
「マリー……」
呼び掛けても返ってこない返事に、私は寝返りを打って背を向けた。
霞の森に迷い込む
あの影は誰?
揺れる灯火惑わせて
誘うは妖精の歌声
歌が魅せるは 夢か?幻か?
彼の心のままに歌へ
重ねたるは掌
悠久の誓いの証
旋律にのせる言の葉は
光と成り
千代の未来を誰彼と行く
唇から零れた歌が、誰の耳にも届かず風に消える。
『貴方の歌は特別よ。何よりも美しいわ』
そう微笑む母上の声を、ゆるりと微睡みへ沈んで行く意識の中で、聞いた気がした。
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