リメルの花

園田紅子

第1話 日常から呼び覚ます夢

 

 

 あれがあなたの、夢なのよ、と。



 頭に響く小さな声に、そっと目を開けた。


 そこには、白い空間が広がっていた。どこが入り口で、どこが出口なのかも分からない、静かな空間。ふと足元を見れば、桃色の花がつぼみのままでひっそりと存在していた。しゃがみこんで手を伸ばす。触れた瞬間に、左側の空間が揺れた。


 驚いてそちらを見れば、そこには、自分がいた。


 いつも鏡や写真で見る己の姿。見慣れたはずの「自分」は、なぜかウェディングドレスを着ており、見たことのない、まるで他人かのような表情をして佇んでいる。


 嬉しくて、待ち望んでいて、それでもやはり、切なくて。その表情が意味するものがなんなのか分かった気がして、震えるような息が小さく漏れた。


 永遠の愛を誓うためにウェディングドレスを身に纏った、目の前の自分。それはずっと憧れていた姿だというのに。その隣には誰もいないのだと、気付いてしまった。



 ずっと、ずっと昔から、心の底に秘めていた一つの夢がある。


 それは、誰かを愛し、誰かに愛されること。


 無条件に愛されるって、どういうことだろう。永遠を越えて想われるなんて、そんなこと。


 誰かが聞けば、小さな夢だと笑うだろう。頑張れば叶えられるよと、笑うばすだ。けれどどうしても、信じられなかった。こんな自分に、そんな出会いが訪れるなんて。


 幼い頃に芽生えた夢は、根をはり、つぼみになった。そして未だに、咲かないまま、ひっそりと。


 目線をもう一度、触れたままの桃色の花に戻した。


――そうか、これが私の、夢なのだ。





 閉じていた瞼がゆるりと開かれる。覗いた黒い目でしばし部屋の中を見渡してから、瑠都るとは静かに体を起こした。


 カーテンの隙間から日の光が差し込む部屋は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っている。六時半に鳴るはずだった目覚まし時計を見れば、ちょうど六時を指したところだった。


「まだ、六時……」


 瑠都は寝起きのぼんやりとした意識をつくろいながら、白い腕をその時計に伸ばし、セットしておいたアラームを止める。


 寝ていられるはずだった三十分がもったいないような気もしたが、再び寝てしまうと今よりもっと起きにくくなることは、これまでの経験からよく分かっていた。


 瑠都は小さく息をついて、制服に着替えるため立ち上がった。


(変な夢見ちゃった……)


 夢の中で、想いを再確認させられた気がする。幼い頃から身の内にある想い、咲かないままの花。自分しか知らないその想いを再確認させるのも、また自分でしかないのだ。


 考えながら眠ったわけでもないのに、と瑠都は少しだけ恥ずかしくなった。

 どうも最近、想いが色濃くなってきている気がしてならない。きっかけになるようなことが何かあったわけでもないし、心に強い変化があったわけでもないというのに。


 そっと心に抱くものも、訪れるきしみも、ずっと、何も変わらない。


(それとも、まだ熱が残ってるのかな)


 瑠都は制服に着替えていた手を止めて、右手を額に当てた。普段よりか少しだけ熱い気もしたが、頭痛や体のだるさが残っているわけではない。額から手を離して、瑠都は再び、小さく息をついた。


 身の内に仕舞ったはずのものを、もっと深く仕舞うために首を横に振れば、胸の下まである艶やかな黒い髪が揺れた。


 着替え終わり、おもむろに意識を現実へと向けていく。カーテンを開け、眩しさに目を細めると、部屋から出るためにドアへ向かった。





 階段を降りながら、制服のスカーフを整える。瑠都の通っている高校は中学、高校、大学と一貫であり、高校の制服もセーラー服だった。襟とスカーフと袖口、スカートが紺色で、あとは白いこの制服は近所でも可愛いと評判で、瑠都も気に入っていた。


 つい最近冬服に変えたため長袖のそれを整え終えたと同時に、階段を降り切る。電気が付いているリビングを覗くと、母親が新聞を読んでいた。こんな時間に起きているのは、珍しい。


「……おはよう、早いんだね」


「……おはよう」


 新聞から目を離さない母親の返事を聞いて、瑠都が洗面所に向かおうとすれば、相変わらずはきはきとした口調で母親が呼び止めた。


「瑠都、あなた先週風邪をひいていたんでしょう。もう治ったの」


「え、あ……うん」


「しっかりしてちょうだい。自己管理くらい自分でできないのかしら、あなたは。お前が母親らしいことしてないからだって、私があの人に言われたのよ」


 新聞を机に置いて、鋭い眼差しで瑠都を射抜く。何も返さない瑠都に大きな溜息を吐くと、母親は再び口を開いた。


「何か言うことはないの? 本当に、あなたはいつまで経っても自分の意思っていうものがないのね。誰に似たのかしら、まったく。だいだい、あの人だって父親らしいこと一つもしていないくせに――」


 いつの間にか、瑠都の父への不満に変わった言葉を、瑠都はどこか遠くで聞いていた。


 母親がこうやって誰かを責め、愚痴をこぼすのはよくあることだった。自分に非はないのだという前提で出されるその鋭利な言葉が、幼い頃から瑠都は苦手だった。


「聞いているの? はあ……とにかく自己管理はきちんとしなさい。私のせいにされたら、堪ったものじゃないわ」


「……ごめん」


「あなたは昔から、誰かの役に立つようなことなんて、なんにもできないんだから。だったらせめて人に迷惑をかけないように心掛けなさい、いいわね?」


 小さく頷いた瑠都の横を早足で通り過ぎると、母親は二階へと上がっていった。このことを言うためだけに起きてきていて、会社に行く時間になるまで再び寝るのだろう。一人きりの、寝室で。


 父親と母親の寝室は、瑠都の物心がついた少しあとに別々になった。世間体だけを気にして離婚しないだけの、まるで他人のような夫婦。


 止まっていた足を動かして洗面所に向かい、そのあと朝食を食べて学校に行く用意をし、家を出る時間になっても、二人とも部屋から出てくる様子はなかった。


 家にいる時、父親は瑠都が家を出る頃に起きるのだが、今日は足音すら聞こえない。


 どうやら昨夜も、帰ってきていないようだった。





花松はなまつ、明日日直だったよな」


 六限目のあとのホームルームが終わると、担任の教師が近付いてきて瑠都に声を掛けた。


「明日一限の前に配ってほしいプリントがあるから、ちょっと早めに職員室に来てくれないか」


「はい、分かりました」


 笑顔で返した瑠都に担任は申し訳なさそうに眉を下げて、頼むな、と片手を上げると急ぎ足で教室から出ていく。それと入れ替わるようにして、同じクラスの友人が机の横に立った。


「ね、先生なんて?」


「明日配るプリントがあるから、朝早めに来てくれって」


「いいなあ、先生と朝から会えるなんてー」


 帰るために立ち上がった瑠都の横に並んだ友人は、羨ましそうに高い声を出す。


「じゃあ明日早く来る?」


「うーそれは勘弁……」


 冗談っぽく問えば、友人は肩を落とした。すぐに変わった態度に笑えば、同じように笑った友人が、でも、と続けた。


「でもさ、やっぱり先生かっこいい。大人の魅力っていうの?」


「大人の魅力?」


「そう! なんかこう優しく包み込んでくれそうっていうか……もう付き合いたい!」


「でも先生、結婚してるよね」


「……そこが問題なのよ」


 感情を態度に交えて言葉を発する友人は、歩きながら顔を覗き込み瑠都に訴える。


「だってさー女子校に通ってると、出会いないじゃん。そりゃ身近な大人に恋しゃうわけよ。もう二年生だよ? 恋しないまま高校生活終えるなんてやだよ!」


「……うん、まあ、そうだけど」


「もうっ、瑠都ってばいつも恋に関しては乗り気じゃないよね。恋したいとか思わないの?」


「思わないことは、ないけど……」


 だったらもっと、恋っていうのはね、と恋について力説する友人の話を聞きながら、瑠都は自然と、幼い頃からの夢を思い出していた。



 この夢みたいな夢を、誰かに話したことはない。


 自分一人の中に、そっと仕舞っておきたかった。

そうしていつか現れる愛しい人だけが、見つけて、同じようにそっと抱いてくれたらいいのにと、そう思っていた。


 男性と付き合ったことはもちろん、まともに誰かを好きになったことだってないかもしれない。


 友人と別れて一人で歩く帰り道、瑠都は自分の人生を振り返ってみていた。しかし「恋」という要素を探してみても、どこにも見当たらない。


 この歳になってそれでは、やはりおかしいのだろうか。甘過ぎる夢を見ているくせに、無理に現実を伴わせることはしたくなかった。


 意識しない内に俯いて目線を下げながら、悶々と考える。


(いつか、なんて……思っててもいいの?)


 恋をした時、ほのかに覚える胸の高鳴りは、いったいどんな熱を与えるのだろう。





 人は自身の予期しない変化には、気付きにくいものだ。例えば瑠都だって、自身を纏う空気が少しずつ変化していることも、何気ない日常の中では自覚するに及ばない。


 唐突に世界が変わることだってあることも、もちろん、知らない。


 静まりかえった家の扉を開けた瑠都は、なぜか強烈な睡魔に襲われていた。洗面所に行って、階段を上がっている間も、気を抜けばすぐに眠りにつけそうなほどの濃い眠気。


 朝、しゃんと起きるのは得意でない瑠都も、こうして日中強い睡魔に襲われることはあまりなかった。


 それなのに今日は、どうしてももう眠ってしまいたい。


(家に入るまでは、なんともなかったのに……)


 部屋に入るとカバンを机に置き、すぐにベッドに向かう。普段は、制服のままベッドに上がるなどということはない。


 けれど今はそんなこと意識すらできなくて、ふかふかのベッドへと身を預けた瑠都の部屋に響くのは、導くみたいに小さく刻む秒針の音だけだった。




――咲かないまま消えていってしまう花も、確かにある。でも咲いたらきっと、とても綺麗よ。

 だからね、一人きりで抱いておくなんて、もったいないわ。

 

 

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