未知往く先のスズカ

平乃ひら

第1話 外れ少女



 沈むように身体が重い。

 ただの比喩だが実際に肉体への影響は大きく、指先一つ動かすことすら億劫だ。誰が自分の身体を弄り倒して厄介なことにしてくれたのか、それを思い出すと今度は頭が痛くなりまさしく心の中で七転八倒の大騒ぎとなる。身体を重くしているモノ、心を憂鬱にさせているモノ、それらは何も人間や他種族なんかではなくもっと目に見えない何かである。人間が大好きなのに人間からは分からない透明な世界の異物であり、自然の一部。超常現象を司る何か。

 そんな得体のしれない連中の声が耳からどっと入り込んでくれば身体の一つや二つ簡単に重くもなるというものだ。ついでにダルさが精神をも蝕んでいるのか何もする気が起きなくて実に厄介である。こんな人里離れた場所で行き倒れとかになっても骨すら発見されずに肉体のなにもかもが朽ち果てて終わりとなるだろうことに軽くぞっとした。死ぬならせめて人の目の付くところで、と思わないでもないが、それを叶えるためにはまず立ち上がることが肝心である。

 柔らかい土に生えている背の低い雑草、その上に転がっている自分。腕を広げたまま真上を見上げれば空を隠すような木々の枝と影を落とす緑色の雑多な模様。私の長い深緑の髪は細長い草に絡まって、まるで地面に縫い付けられたようである。試しに視線を移動させてみると、やはり大自然の中という言葉しか浮かばない場所で人が通るのを期待するのは実に難解だと、心の中で嫌な笑みが浮かんでくる。幸い汗一つ掻くわけでも、ましてや鳥肌止まぬ寒さでもない、まさに適温の陽気なので寝っ転がっている事自体を苦とは感じない。女子として無視できぬ土や埃が髪の毛にべっとりと絡みついているのさえ無視すれば快適ですらあるものの、警戒すべきは人ではなく獣だ。肉食獣は当然ながら雑食性の動物もよくないし、何なら草食獣が自分の真上を通っただけで圧し潰されて即死になることすらある。さすがにドラゴンや魔獣の類はいないだろうが、それも確実ではないため油断はならない。大の字で油断もへったくれもあったものではないが、まぁそういうことだ。

 いや、とかぶりを振ろうとして無理だったから心の中で否定する。真昼間の日中、真上の太陽がじりじりと両目を炙ってくるのは案外辛い。直射日光は目に悪かったというのを前の街にいた薬剤師の爺さんから世間話的に伺ってはいたが、それが本当のことなら実にまずい。幸い瞼を閉じることができるのでなんとかそれで事なきを得たいが、安全性の保障も何もないここで太陽が見えなくなるまで目を閉じているのもどうかという懸念もある。

 詰んでる、とはこういうことをいうのか。

 突発艇に身体が重くなることは今までもあった、というか生まれた時からそうだった。

 私は人間や動物、あるいは自然の発するものとは違う【音】を聞くことがある。それは場所によってその『濃さ』が変わるのだが、どうにもこうにもあまり踏んではならない場所に足を踏み入れてしまったようだ。いうなれば高い感受性に自信の肉体が耐え切れず一時的な麻痺状態と言い換えても良く、こうして呑気に寝っ転がっている間も徐々に感覚は戻りつつはある。ようは慣れだ。脳が処理しきれない情報量が耳から入り込んできても、不必要な情報はカット、つまりどんな雑多で喧噪の激しい街中でもしばらくいれば気にならなくなるようなもので、私はまだこの街という喧噪についていけてないだけだ。

 小さく長い息を吐く。

 打開策は時間の経過しかないか、と結論付けたところで草をかき分けるような小さな足音が耳にそっと入り込んできて、音とは対照的に身を強張らせてぎょっとする。もしや私を狙いに来た獣か何かか、それとも興味本位で近づいてくる小動物か。こんないたいげな女子を狙うなんてとんでもない変態野郎だと罵倒の一つでも飛ばしたいところだが、向こうとしては性欲ではなく食欲を剥き出してくる確率が高く、あわや腸まで食い破られる危機かもしれない。

 戦々恐々とした時間が流れていく中、その足音は私の目の前――正確には真上に近いところへひょこりと顔を覗かせた。

 ああ、その目の色はもしや……。

 少年だろうか。あどけなさを残すその顔は少年とも少女とも言い難く、黒く長い前髪の隙間から覗く深緑の瞳は興味深げな感情を隠すことなくキラキラとさせている。彼、または彼女は動けない私に興味があるのか、あるいは単なる異邦人に対する興味かは次の行動を起こしてくれるまで判断し難いのだが、さてここで問題が発生してしまう。ここに人間がいるということ自体驚きなのだが、その上で私を発見した現地人がいかなる感情で接してくるかは先ほど述べた通りその行動を待つしか無いわけで、もし仮に人間の三大欲求がそのまま私に向けられた場合、まぁ近くで眠るぐらいなら害はないが、性欲と食欲だけはこの身が実に危なく、そしていかなる結末を迎えたとしてもまったく笑えないことになるだろう。

 とっても嫌だ。こちとらこんな若い身で死んだり汚されたりするのはごめんなのだ。

 なのでまずは人間としての交渉、つまりはコミュニケーションを図ることにする。喉は動く、唇も動く、肺だって元気に空気の出し入れを行っている。声が出せない理由は全くない。

「あー、そこの君、ちょっといい?」

 私の声にビクッと身を強張らせ、その子は数メートル程度離れてしまう。うん、コミュニケーションを取ろうとした矢先に警戒心が跳ね上がったのが分かる。私は知人からよく空気を読めと呼ばれる類の自己中心的な女らしいのだが、さすがにここまであからさまに逃げられてしまえば嫌でも察してしまうというものだ。

「大丈夫、警戒しないで欲しい。私は旅の者でさ、ちょっとしたことで今動けなくなってるんだ。出来れば屋根付きの家に運んでちょっと休ませてもらうと嬉しいんだけど」

「あ、うっ……わたし……」

 お、声の感じからして女の子っぽい。ということは性欲の危険性は外していいかもしれないが、世の中には同性もお構いなしという人がいる。依然警戒を怠ることなかれ。

「あの、生きてるとは思わなくて……」

「死んでる人間に近づくほうが……いや、死んでるほうが危害はない、か」

 死んでいる人間と生きている人間、どちらか危険かと問われたならば、真っ先に後者と言うだろう。人間は理性を持って簡単に同族へ危害を加える種だからだ。

「危害は加えないことを約束するよ。というかそうできないんだよ。今の私は動けないからね」

「どうして?」

 と、彼女は自分の右手側の、さらに上に向けて顔を上げて問いを投げた。ちらりと目を向けると、なるほど何もない。猫が虚空に向かって視線を投げかけているようなものに近いのだが、事はそう単純なものではなさそうだ。

「……うん、大丈夫そう? なら連れてく? え、うん、運ぶのぐらいなら、薪を持って行くのに比べたら簡単だよ」

「体重管理には気を遣っているつもりだよ」

「ひぅっ」

「ごめん、驚かすつもりはなかったんだ。私は平和なただの旅人だよ。呑気な占い師だよー」

 警戒心を無くすためぼやいてみるが、何故かスルーされたようで返事は無かった。というか意味が通じなかったような気がして、私のお茶目なトークに対する自信はさりげなく挫けたのだった。

 少女は少しずつ近付いて、私の首の裏と両膝の裏にそれぞれ手を通す。まさかと思ったのも束の間、いわゆるお姫様抱っこで軽く私を持ち上げた。いくら私が普段から体重管理に苦心しているとはいえ、人一人をまだ年端もいかなさそうに見える少女が簡単に持ち上げるというのは驚きだ。見た目の体格と筋力がまるでちぐはぐであるという印象は、恐らく私に微かな違和感を覚えさせるに足る異様さだった。

 お姫様だっこのまま森の中を進んでいくのはいいが――いや、訂正しよう。他に誰も見ていないと言われても正直恥ずかしい。スカートじゃなかっただけまだ幸いと言えば幸いだったのかもしれないが、ここに別の観衆が居ようものなら全力を持って状況を打破することに邁進したことだろう。幸いにして誰もいない。目の前の女の子も自分がどれだけ恥ずかしいことを人にしているのか理解していないようだし、回復し次第ここを去るだけで私の些細な黒歴史の一行程度の被害で済むに違いない。というか切実にそれだけで済んで欲しい。ああ、旅のため肌を見せるのは危険だとパンツルックスタイルを選んでいる自分で良かった。

 ――しかし本当に一人だけか、と疑うのは私の癖の一つで、これについては良いも悪いもない。

 気付きさえしなければ認識されないモノというのは世界に必ず存在する。どちらにしろそれを視る者は世界中でもごく僅かと言われているらしいが、驚きなことに私は視える側の人間だ。『それ』が何なのかは後ほど説明するとして、もしやと思い、そぅっと視線を少女の頭上に移動させる。

 ――ああ、居た。

 黒い人型の何か。人の形を模しているだけで、ただのシルエットに過ぎない、本来なら認識さえ不可能なモノ。この少女はその認識できる側の人間で、さっきの独り言みたいな問答はこの存在と会話をしていたということか。

 あまり良くないね、と思うものの、関わって良いのかどうかはこの子による。

 なんとなく無言で――その黒いシルエットは極力視界に入れないよう努めながら運ばれていると、やがて使い古されて久しい様子の掘っ立て小屋が見えてきた。

「あの、あれが君の家かな?」

「は、はい。ちょっと古いですけど、住めますから大丈夫です」

 うん、住めることは住めるのだろうが、その基準値が私より大幅に下回ってしまっているようだ。

 しかし雨風ぐらいは凌げそうだし、まもなく動けるようになるだろうし、さほど問題にはならないと判断しよう。土の上で寝るより幾倍もマシだ。

 私を抱えたまま起用に木の扉を開く。ギィ……とさび付いた、あるいは擦れ合うような音は小屋の悲鳴にも似ていて、いよいよ持って外見から想定された家崩壊までのカウントダウンが近いことを教えてくれている。

「よいしょ」

 この家唯一のベッドに寝かされた私の周囲から、幾ばくかの埃が舞い散った。失礼にならないようくしゃみだけは我慢する。

「ありがとう、もう少ししたら復活するから、それまで休ませてくれると助かるよ」

「うん、それは大丈夫。あの、お姉さんはなんであそこで寝ていたの? 何をしてる人?」

「ああ、自己紹介がまだだったかな。これでもまだ十代の乙女、旅する占い師のスズカとは私のことだよ。当然有名でも何でもないから知らないことを恥じる必要なんてないけど、まぁ、なんかそれっぽく占って路銀を稼ぐ旅人なんだ」

「うらないし……占い? 占いって何をしているの?」

「んー、そうだね。恐らく君は占いそのものを知らないと思うから説明するけど、たとえば人は近い将来のことや、自分の不幸に対して敏感だ。具体的には恋愛関係や、未来の生き死に、仕事が成功するか失敗するか。大きくなれば今住む地が安泰か、己の子孫達は今後も繁栄していくか、簡単なのなら手相占いで今の自分はどうなのか、そういうことを知りたがるんだよ。私はそういった人達の希望に沿って『占う』ことで安心を与えているのさ」

「……えっと?」

「あれ、難しかった? んー、じゃあもっと簡単にしよっか。明日雨が降るか降らないか、それを知りたい時に教えるお仕事ってことだよ」

「え、そんなことなんですか? それなら聞けば早いと思うんだけど」

「――そうだね、その通りだよ」

「ねぇ?」

 と、少女は頭上の黒いシルエットに同意を求める。黒いそれがどう応えたか、私は意識的に音をカットして視線を逸らした。

「君は占いが不必要みたいだね」

 もし彼女が見えないモノをそのまま見えないままだったなら、私の占いは役に立つ。しかしこの場合、私の占いは彼女にとって何の意味も成さない。まぁ私が占い師としてやっていけているのは誰にも聞こえない筈の声を聞いて、その存在達がひそひそ話をしている対象の将来をこっそり盗み聞きしているからだ。

 そう、『彼ら』はこの世界に存在しながら、恐らく何かがずれた世界に住んでいる。故に普通の人には見えず聞こえず存在も認識されていない。人は古来よりそういう存在を精霊なり妖精なり、場合によっては神や悪魔に喩えている。見えずとも知識だけはあるのが人間らしいといえば、とても『らしく』て少し面白い。

「うん、動けるようになってきた。ありがとう、そろそろ出て行くよ」

「あの、もうすぐ雨が降りますよ」

「あ、そう」

 雨風が防げる家の中は有り難いのだが、私はここにいること自体危機感を覚えて仕方ないのだ。

 ずれた世界に住む彼らは人間に対して興味を抱いているのは間違いない。でなければその個人に対してお互いにひそひそ話をしたりその未来を語り合ったりして私の占いに役立たないからだ。だが、興味があるのと危害を加えないというのは決して一致しないことも重々承知している。彼らは人間に興味を抱く、それが良い意味でも悪い意味でも、だ。そして人間側が彼らに逆らう力なんてない。彼らは一方的に人間へ干渉してくるが、おこちらから彼らに干渉する術はあまりにも限られており、自衛手段はほぼ皆無という状態だ。

 何しろ認識されていないので、研究対象として調べる人がいないのもまた問題なのだ。もっと広義に知れ渡ってさえいれば誰かしら対処法を見つけたかもしれないし、人類の歴史はそういう積み重ねの結果成り立っていると師匠も語っていた。

 だから私みたいなぽっと出の特殊な人間が現れたところで、研究しようと思わなければ私が得た知識と経験は後世に伝わることもない。それに見えないのだから、私が文献に残したところでそれは法螺話の一種として扱われるか、良くても吟遊詩人の語りに使われるようになるかだろう。

 彼ら――師匠は仮称として精霊と呼んでいたが、その精霊がこうして少女へ肩入れしているのは実を言うとかなり良くない。私は見えない振りをしているので興味を引かれていないようだが、しかし彼らは気紛れな存在だ。いつこちらに興味の矛先を向けるか分かったものではなく、念のため鞄の中にある道具の内容を思い出しておく。

「あの、今日は泊まっていっても……その」

 正直ごめん被りたい、と口に出すわけにもいかず少しだけ逡巡する。変に間を持たせると気まずいし一日ぐらいなら何とかなるだろうと、とりあえずの皮算用で自身を納得させる。

「ああ、倒れたばかりだからね。念のため一泊させてもらおうかな」

 それに精霊が雨が降ると言うのなら、それはもう間違いなく雨が降る。確か一番近くの村まで一日歩く必要があったので、それなら雨を凌いでから行くのは正解だろう。――耳を澄まして声だけを意識する。彼らはなんと語っているのか、それを聞き取るのは目の前の少女だけではなく私の得意技なのだから有効利用はさせてもらおう。

 ――ああ、なるほど。雨だと彼らは口々に騒ぎ立てる。精霊は未来と過去を語り、私の理解の外、言うなれば世界の理の外側すらをも語る。その中に偶々天気予報が入っていたというだけだが、それでも彼らの言葉は真実だ。

「じゃあご飯、用意しなきゃね」

 虚空に向かって語る少女に私は密かに眉を潜め、だけれどもそれ以上の追求はせずに去って行く一人の足音と二人分の気配を感じ取っていた。

「どうしたもんかな」

 呟いた言葉は停止した空気に溶け、程なく消え行き、ベッドの上で仰向けのまま動けない自分一人だけが余計な『声』を遮断すべく意識を閉じたのだった。


 少女が食糧と言って穫ってきたものは基本的に果物が多かったが、古びて立て付けも覚束ないテーブルの上に置かれたそれらのすぐ傍にドンと横たわった猪はさすがに驚かされた。

 彼女が戻ってくる頃になると身体も動かせるようになり、今やいつでもこの小屋を抜け出せるぐらいには体調も良くなっていたのだが、地面や森、そして小屋の屋根を叩く無数の雨音が私の足を外に向けさせることを許さなかった。

「猪なんてよく獲れたね……」

「トト様がやってくれたんです」

 誰だそれは、と問い掛けたところで言葉を飲み込む。正体なんて解りきっているモノに対して迂闊な発言は命取りになるからだ。しかし――

「精霊が獣を捕ってきたということかな」

「せいれい? それなに?」

「その疑問のほうが驚きだけど、そうか、君は何も教えられなかったんだね。君のご両親は?」

「私はずっとここにトト様と一緒に住んでるよ」

 ああ、そういうことかと納得するが、腑に落ちない気持ち悪さが胸焼けのように心臓へ焼き付くのを無視できないのは、きっと私がまだ十代の小娘だからだろう。

「君は人と一緒に住みたいと思うかい?」

「え、なんで? ここは『安全だし何も危険が無いってトト様が言ってくれている』から大丈夫ですよ。だって」

「料理、作るの手伝おうかな」

 わざとらしく声を出して先に続く言葉を潰し、私は立ち上がり猪に目を向ける。絶命した猪の解体作業を想像するだけで気が遠くなりそうだった。

「あ、あ、私がやります」

 と、解体用の大きめなナイフを手にとって猪を一旦抱えて外へと出て行った。あの怪力は私より頭一つ分以上低い背丈にはまったく似合わないというか、それならもっと身体に筋肉があってもいいのにそうではない。実にアンバランス。そういう趣向の人間もいるというが、私には縁の無い世界であろう。いや、縁逢って欲しくないというのが本音だよ。

「あの、スズカさんは解体作業したことは?」

「……旅人だから獲物を狩って解体して食べる、なんてのはよくある話だけれど、鳥や兎ぐらいで、こんな大きな獲物は捕まえたことない、かな」

「あ、じゃあ」

 ぱぁ、と少女は顔を輝かせてから。

「一緒にやります?」

 お断りします。

 反射的に頭の中でそんな言葉が浮かぶ。かといって雨風を凌がせてもらっている身で、なんやかやと野っ原から助けてもらってもいる。ここで断るのは人としてどうだろうか。目をきらきらさせている少女を前に断る選択肢を奪われた私は、ちょっとだけ頬を引き攣らせながら頷き、小屋の真横にある雨を防ぐ屋根だけ着いた壁のない場所へと移動したのだった。


 二度と大物の解体作業はしない。

 人生での誓いは一生のうち三度あるという。それは成人の儀による神へまっとうな人間であれと誓うとき。それは人生の伴侶へその生を捧ぐと誓うとき。それは今まで育み己の身を後世に残したことに対する万物へ還る決意を誓った時。

 だが私は今、自分自身にこう誓う。食べる獲物を解体する時はその手に収まる一人分で十分であり、デカすぎて重すぎて皮が厚くて洒落にならない量の肉が獲れるのは贅沢品過ぎるから何があっても二度と猪は解体しないのだと。うん無理。精霊も解体時にああすればいいこうすればいいと囁いてくるのだが、教えてもらうのと実際に行うのは違うのだ。あの少女は一人で何度も同じことをしてきただけあってサクサクっと解体し肉を整理、手際よくまとめては台所へと運んでくる。正直盛大に溢れては流れる血が服に着かなかっただけ自分はよくやったと思うよ。旅人は荷物が命だが、どれだけ歩けるか――つまり荷物の重量制限を見極めるかが大切なので、あまり換えの服を持っていないのだ。

「……せめて水を持ってくるよ」

 空のバケツを手にとって私は井戸の場所を少女に聞くと、彼女は川まで行かないと無理だという。井戸はあったのだがとうに埋まっていて使い物にならず、仕方なしに毎日川付近まで歩いているのだった。

「起き上がったばかりなのに、大丈夫ですか。それにまだ雨が」

「ああ、もう『慣れた』からね。倒れることはないし、川の場所も『分かる』から安心して。多少の雨ぐらいは慣れっこだよ」

 川の場所は精霊が勝手に教えてくれる。この森の中は精霊の騒々しさが想像を遙かに超えていたので先ほどは不覚にも倒れてしまったが、慣れてしまえばなんということはない。要は情報を取捨選択できるようになればいいだけなのだが、その度合いを掴むコツが一発で判別できなかっただけなのだから。

 だから迷うこと無く川まで辿り着き、変な生き物が居ない場所を精霊の囁きから選んで水辺に近づいてバケツに水を汲んで戻る。雨に濡れ続けるのも我慢ならないから最短ルートを選んだが、普通なら見知らぬ土地でこんなにも手際よく水を汲んでくることに驚くのだろうが、少女は戻ってきた私を見ては「おかえりなさい!」としか言わなかった。

「肉を小さくしたので、水で炊きます。あとは野草を入れて完成です。味付けは……ええっと、途中にあった実を細かく砕いて……」

「ああ、いいよいいよ。食べられれば大丈夫」

 焼ける薪がパチリと音を立てる音に混じってくる、そんな同じ声が聞こえているのなら逐一説明されても困るというものだ。

 手際がいいのは彼女が経験を積んできた証拠で、説明下手なのは精霊の言葉を聞いてきて自分で考えてこなかった証左だ。しかしそれを駄目だと否定するにはこの森に人が全く居ない。居ないというか、これは――

 水を汲んでくる時に眺めてきた家の周辺。よくよく眺めると人が他にも住んでいた痕跡は残っている。数年で森に飲み込まれてほとんど原型を無くしているようだが、人が住まなくなった家などあっさりと崩れてしまうものだ。故にこの少女が住んでいるこの小屋だけは辛うじて形を留めているのだろう。よくよく観察すれば拙いながら補修した痕跡もあり、それは彼女が固執するようにこの家へ残ろうとしていることを示していた。

 ――ああ、なぜ残ろうとするのだろう。

「できあがりです!」

 と、少女は水炊き鍋をテーブルの上に置く。

 スプーンとフォークは私の分もあるようだ。古い銀色の食器に陶器の皿。これもまた古びているが、綺麗に拭いてある。恐らく私への配慮なのだろう。

「いただきます」

「いただきます」

 同時に食物へ言葉を告げて、私は肉を口に運ぶ。悪くはない。上等とまでは言えないが、疲れ切っていた肉体にはちょうど良い脂が五臓六腑に染み渡る。うう、あの黒い影のせいで失念していたけれど涙が出そうなぐらい自分は空腹だったのだ。

 言葉を失う勢いで皿に盛られた茹で肉と茹で野草を頬張っていく。いいね、実に良い。美味しい! ブラボー! そう叫んでもおかしくないぐらいテンションが高くなり、さっきは正直どん引きしてごめんと猪に心の中で謝っておいた。だから遠慮無く私の血肉となっておくれ。

「さて、私は君の名前を聞く気は無いし今もそうなんだけど、これだけ出来るのになんでこの森に残っているんだい?」

 唐突な問いに、少女は少なからず戸惑った様子を見せた。それはどういう意味を含んでのことか、見逃す訳にはいかない。何しろ精霊は人間の心までは教えてくれないのだから。

「え、それはここで生まれ育ったから……」

「言い方を換えよう。どうして人の居るところへ行こうとしないのかな」

 本当はこんなことを問う前に去ろうと思っていたが、食事までおごってもらった上に「はいさよなら」はさすがに人の心がなさ過ぎる。如何なる状況であれ最低限の礼儀を弁えているつもりだ。

 だからまだ世間をそこまで知らない――本来なら保護者がいるべき年齢だろう彼女に、私は問わなければならなかった。私もまだ少女という部類に入るだろうが、少なくとも旅人としての自分は目の前の少女より断然人生経験を積んでいる。

「だって、他の人はこわいから……」

「ああ、やっぱりそうか」

 誰も住んでいない村。いや、滅びた村と呼ぶべきここに残っている一人の少女。誰にも聞こえない、存在しないはずの何かから声を聞き、教えたこともない知識や未来のことを言い当ててはそれが吉兆と化す。恐らく最初はまだ良かったのだろうが、やはり他の人間からすれば不気味なことこの上ない。――それの指し示す未来など、正直考えるまでもなかった。

「私は占い師だと言ったね。なんで占い師をやっているか、教えてあげるよ。――私も君と同じ声が聞こえる。それは森羅万象、過去と未来を話題に喋り尽くす、本来なら目には見えない存在なんだ。その声を聞いて私は占いをする。だから君の過去と未来を占える。正直私と同じなんだからこんな占いなんて不必要だと思うけど、今はそうすべきだと私自身が決めている」

「うらないし……」

「君は過去にこう言われなかったかな? 魔女だ、と。我々を滅ぼす魔女に違いない、と」

「……!」

 顔を青ざめる少女に、私は気にする素振りすら見せずに言葉を続ける。

「嵐を呼んだのはお前だ、地震が起こしたのはお前だ、害獣が畑を荒らしたのはお前が呼び込んだのだろう」

「……あ、あっ……」

「経てして精霊の声を聞く人間はそう畏れられると、何しろ私も経験しているからね」

「で、でも、わたしは、なにもしてなくて……村がなくなったのは、わたしのせいじゃなくて……でも、わたしはみんなにおしえて……嵐が、嵐が来るから逃げてって……!」

「それで村が全滅したのか。真実――いや、精霊が教える未来の出来事を伝えていたらなぜか狼少女となっていた、という理不尽極まりない結論が今の状況、というわけだね」

 だが、少女をここに縛っているのはそれだけではない。ただ声が聞こえただけならば少女はここを移動していたはずだが、彼女をここに足止めしているソレが一番の問題なのだ。

 密かに深呼吸をする。黒い影は精霊に間違いなく、精霊を識る人間の絶対的な不文律、つまり守らなければならないことがある。これを破った場合、その人間に何が起こってもあくまで自己責任で終わる。

「いっそ私みたいに精霊の声が届かない未知なる世界を目指して旅するのも一興だと思うけど――」

 鞄の中にあるモノを掴み、私は努めて冷静に口を開いた。

「もういい」

 と、私は彼女の言葉を遮って、今まで視ない振りをしていた黒い影に初めて視線を向けた。自分で陰を認識させた。これは向こうからも自分を意識させることになり、はっきり言えば自殺行為そのものに等しい。

「君はその精霊が――トト様だったか、それがいるからそこから離れられなくなった。そのトト様とやらは君をいたく気に入り、君はトト様とずっとお喋りをしてしまった。いや、逆か。君はその精霊に話しかけてしまったから、精霊が君を気に入ってしまったんだ」

「え、トト様は私を守ってくれてるんだよ! そ、それにお姉ちゃんは見えてるの! どうして!」

「だから言っただろう。私は占い師。精霊の声を聞いて人の未来を予言する職業なんだ。ただ必要以上に精霊に関わらず、密やかに旅を楽しむだけの、つまらない人間なんだけどね。だけどはっきり言おう。その精霊は決して君の父親じゃない!」

 手から取り出した細長い針を思い切り投げる。それは本来刺さらない筈の黒い影の中心を貫き、壁に縫い付けた。

「何をするんですか! トト様!」

「ソレを父親としてここで一生を過ごすのは君の自由だが、人里まで降りてもう一度人間として生きるのも君の自由だ。今ならまだ戻れる。はっきりいうよ。今の君は徐々に人間から外れつつある。それがその怪力であり、私でも目をそらさないと危険だと感じたその黒い影にまとわりつかれていることだ。普通の人間はそうならないんだよ。精霊なんてなくても人は生きていけるんだから」

「いや! 生きていけない! トト様が!」

「そのトト様とやらが教えてきた通りにやってきたから今まで生きてこられた。だが、もういいんじゃないかな。十分に知識は与えてもらった。もう人と暮らしていく術を、君は身につけている。だがこれ以上精霊に関わったなら、君は『人間』を亡くすこととなる。精霊に関わるっていうのはね、そういう危険があるんだ。彼らは決して人間の味方じゃないんだよ。正直、君が私を見つけたのは偶然ではないと思うよ」

 いやたぶん私を見つけたのは偶然なんだけど、一応精霊の所為ということにしておこう。ここで密かに説得力を増しておくのは重要だ。

 だが事実として今の彼女は人間と人間ではないモノの境目にある。精霊に気に入られ、まるで家族同然のように暮らすなんて私からすれば眩暈がしそうな程に愚かな行為だが、そもそも精霊に対する基本的な知識がなく、彼女に寄り添ったのがあの精霊だけならば仕方ない。彼女はまだ親に甘えていたい年頃なのだから――

 しかし針で黒い影を縫い付けて動けなくしたのはいいが、あの針は特殊な素材で作り上げたものだ。実はかなり値の張るもので、出来ることなら回収したいが……無理だろう。引き抜いたが最後、恐らく怒り狂った精霊は私に牙を剥いてくるだろうからね。そうすればただ聞こえて見えるだけの人間が超常現象に敵う筈もない。

 私に出来る彼女への恩返しは、彼女を人間としての道へ帰してやることだけだ。今がその分岐点なのだ。これ以上遅くなればもう間違いなく戻れなくなる。ここだけは偶然だと思いたくない、が。

「やだ……やだ、やっぱり人間は怖いんだ。トト様をこんなにして、私をもう一度みんなの前に晒して、石をぶつけさせるんだ!」

「そんなことしないよ。君は精霊の知識が無かっただけだから、私が人と生きるための術を教えてあげる。それだけで」

「やだ! 怖い! 絶対に嫌だぁ!」

 バリン、と食器と鍋の割れる強烈な音が耳に入り込んでくる。思わず少女から黒い影へ目を向けると、その影は針を掴んで引き抜こうとしていた。たったそれだけなのに皿が割れるほどの衝撃波を放ったというのだろうか。

 やはり精霊は人の理解を超えている。

「私はトト様と生きる! もうお父さんもお母さんもいらない! 怖い! 怖いから! 怖いところに連れて行こうとするお姉ちゃんも怖い!」

「それが……それが君の答えでいい?」

 ギリ、と唇を噛む。恩返しにと人を人として過ごしてやりたかったが、ここまで強烈な否定の意思を受け取ってしまった今、もう彼女を元に戻すことは不可能だった。私は失敗したのだ。私は余計なことをしたのだ。恩を仇で返す真似をしてしまったのだ。

「お姉ちゃんはトト様を精霊と言ったよね。じゃあ、私も精霊になればトト様ともっと一緒にいられるんだよね」

「それは」

 ――できるのか? 人が、精霊に。人という理から外れた存在になるだろうと予測は立てたが、それはあくまでずれただけの存在で、精霊そのものではない。だが、もし『私の仮説が精霊になること』なのだとしたら?

「――いや、駄目。どうなるかわからない! 君はやっぱり人として生きるべきだよ! 人はあくまで人でしかないのだから! それ以上でも以下でもない! どんなに辛いことがあろうと、どんなにどうしようもないことが起ころうと、そこだけは決して外れちゃいけない!」

「お姉ちゃんの言うことはよくわからないよ」

 さっきまで泣き叫んでいた少女は、一転して微笑みを浮かべてきた。

 あ、と声を出す。小さな声だったが、それが私の全てを表現し、空気に乗って彼女へと伝わったようだ。

「うん、そうだよ、『そういうこと』なんだよ」

 少女の手は黒い影に触れて、そのまま針を指先でつまんで引き抜いた。あまりにもあっさりと引き抜くものだから、壁に刺さっていなかったのではないかと勘違いしたほどだ。

 ことりと針が落ちて、解放された影は私を襲いかかってくるのかと思いきや、それは少女が手で遮って留めた。

「トト様、連れて行って」

 すぅ、と彼女の姿が消えていく。

 ああ、そうだったのか。私は勘違いをしていたのだ。

「とっくに手遅れだったってことかー。そりゃどうしようもないなぁ」

 認識ができる私にすら認識できない程にその姿を消すなんて、まさしく人間を辞めた超常の何かになってしまったのだろう。

 そういえばどこかでのれんに腕押しなんて諺を教えてもらったなぁ。うん、それだ。

 彼女は元々人間であったけれど、今は人間の振りをしていただけだったんだ。きっと私という精霊を認識する人間がいたから偶々そうしただけで、ああ、いつから変わっていたんだろうか。それは昨日かもしれない。私と出会う直前かもしれない。あるいは私を拾って助けてくれている間かもしれない。または――

「村が滅びた時、彼女はそれに巻き込まれていた。その時に」

 それが一番しっくりくる答えだったけれど、その答え合わせに付き合ってくれる人は一生現れることはないだろう。

 私は落ちた針を拾って鞄にしまい、小屋を出る。

 歩いて何十歩目かで振り返った小屋は、私の目に入るところで少しずつ崩壊が始まり、やがて崩れてしまったのだが、その崩れる瞬間、少女が微笑みを浮かべたまま手を振っている幻想を視て、私は手を伸ばしかけた。

 しかしすぐにそれは止め、振り返る。

 そして二度とその小屋に目を向けず、私はしとしとと振り続ける雨の中を歩いていった。


 嗚呼、騒がしい声がする。

 誰にも認識できない存在達の喧しい声が、常に私の鼓膜を震わせる。

「次はどこに行こうかな。せめて人のいるところに向かおうか。ふかふかベットで寝たいし、誰かと喋りながら食事もいいよね。同世代の女の子がいると気分も楽でなお良し! 目指せ新天地。静かな大地、道行く先の未知なる世界へ」

 森の中で謳うように囁くと、うっすらと感じていた気配が遠ざかっていく。

 なんとなく寂しくなりながら、私は森の中の喧噪に耳を傾けつつ次の旅へと向かうのだった。  

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