第15話 ウチは知らない、知らない


 気がつくと夜だった。空は暗く、街灯は白い。


――もうこんな時間? ヤバ、仕事に行かなくちゃ。ミィちゃん、見つかんなかったぢゃん。


 菊本可奈は、道端を歩きながらふるふると頭を振った。ここ最近、毎日こうだ。不意に眠れば意識が途絶え、目が覚めれば働きに出ている。しばらくは夢らしい夢をずっと見ていない。熟睡したとも分からない。


 唯一、昨夜に紫苑と会った事だけは、はっきりと覚えている。


 今までミィちゃんで紛らわせていた寂しい気持ちが、やっと満たされた心地がした。でも、今夜は紫苑に会えない。仕事はちゃんとやらないと、由紀子に怒られてしまう。


 菊本可奈の頭に、確かな記憶は少ない。身分証に記載された住所にも、覚えがない。ウチはどこから来た? 何のために生きている? 脳裏に浮かぶナンセンスな自問を否定した。


 風が頬を撫でて、染料の抜けてきた短髪が揺れた。パーカーの裏地が、皮膚にベッタリと引っ付く感じがして、紫の袖をまくった。


 可奈は、自宅マンションの広いロビーに入った。


 窓際のソファには、長髪を後頭部で一つ結びにした少女――妃沙耶が座っていた。

 沙耶は、可奈を見るなり、


「また、仕事サボるの?」と言った。


「アンタだって、やってないぢゃん」

「私は戦うのが仕事だから。でも、可奈に刺されるとは思わなかったなぁ」


「え? ウチが、いつアンタを刺したの?」

「昨日の午後。覚えてないの? ミックを狙ったじゃない」


 可奈は昨日の午後、自分がどこで何をしたか思い出せなかった。


 しかし――ミック。いなくなってしまったあのミックを、どこかで見たような。そんな、記憶とも言いにくい情景がおぼろげに浮かんだ。夕方の駅前で、ミックに似た人を追ったような気がする。


「……ああ! 昨日、確かにミックみたいな人を見つけた。でもなんで? ミックを殺すほどウチはバカぢゃないよ?」

「じゃあ、ミックを見つけてから何をしたか、覚えてる?」


「だから刺してないって言ってんぢゃん!」


 可奈は妃沙耶の聞き方にカッとなった。

 沙耶は可奈の金切り声など意に介さない様子だ。


「質問に答えて。あなたはミックを見つけてから、どうしたの?」

「――別に」


「覚えてないんだ」

「バカ、決め付けんな!」


「怒らなくてもいいじゃない。私、可奈を心配してるんだよ? 可奈は私を刺して、その他にも三人くらい殺してるんだから。その原因は、考えないといけないでしょ?」

「何それ。信じらんない」


――アンタに、ウチの何が分かるのよ。


 可奈は話を切ろうと、エレベーターに向かって歩こうとした。


「ミックは今、折笠紫苑という元の女の子に戻っている」


 その名を聞いて、可奈は立ち止まった。


「シオン……あ、紫苑ちゃん?」

「そう。ミックは、紫苑なの。可奈、あなたが紫苑に会った時、何をしたの?」


「紫苑ちゃんは、優しくしてくれたよ? 危ない男に絡まれてたのを助けてくれたの」

「それは、こんな男?」


 沙耶はポケットから端末を出して画像を示した。血みどろの男が項垂れている。


「グロッ。ウチは知ら――」

「常連の白川さん。知らないとは言わせないわよ」


 可奈は、黙ってしまった。確かに、白川は可奈の仕事相手の男だ。言われてみれば画像の男は合っている。


「……だからなに? この人が死んでも、ウチには関係ないぢゃん」

「関係あるわ。だって、あなたが殺したんだから」


「……は? 何言ってんの」


 沙耶が立ち上がった。可奈に歩み寄る。可奈は後退りしたが、沙耶は可奈のパーカーをぐいっと掴むと、無理矢理に引きちぎった。


 下着をしていない可奈の白い上体が露わになった。沙耶は構わず、破いた紫のパーカーを翻して、裏地を可奈に見せつけた。


「……なに、これ」


 リバーシブルの黄色地を、赤黒い色が半分以上覆っていた。袖の辺りはべたついていて、赤黒い液体は乾いていない。


「可奈。この血みどろをどう説明してくれるの? それに、その右腕も」


 菊本可奈は、左腕で乳房を隠していた。しかし右腕は、肘から先を失ったまま赤い液体がぽたぽたと漏れ続けているのだ。


「……知らない」


 可奈は首を横に振った。


「知らない。知らない。ウチは何も知らない。知らない。知らない。知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない――」


「可奈ッ!」

「いやァ!」


 可奈は、びくりと膝をついてうずくまった。片耳を塞いだ。もう片方は、塞ぎようがない。


「可奈。今日だってお客さんは来るのよ」

「ウチに働けっての? こんな、こんな時にっ!?」


「じゃないと由紀子があなたを抹消するって。分かったら、早く治しに行きなさい」

「そんな……ウチは、何も知らないのに……!」


 そう言って、菊本可奈は泣いた。涙は零れず、喚きだけがロビーいっぱいに響く。

沙耶は、破いたパーカーを可奈の丸い背中に掛けた。可奈がゆらりと立ち上がるのを確かめて、ロビーを出た。


    ※


 妃沙耶は、マンション前の路上で腕組みをしていた。


 暫くして、スーツ姿の男がマンションに入る。それを一瞥してから、沙耶は星の見えない夜空を見上げた。


 ……この街の男共にとって、ここは夢への入口に等しい。


 駅前のシネコンの裏に建つマンションは、〈赤線地帯株式会社〉の寮である。〈赤線地帯株式会社〉と言っても、一つ所に〈赤線〉という建物があるのではない。


 吉祥寺駅の東側には、数店のキャバクラや風俗店が存在しており、〈赤線〉のオートメイドがそれらの店に派遣されている。


 オートメイドは、空き家や〈赤線〉が管理するアパート・マンションに住んでおり、それら高級感ある佇まいは、昭和・平成の古ぼけた建物たちとは一線を画する輝きであった。


 店舗に属さないオートメイドは、自らの住まいに客を呼ぶ事がある。

 街灯を避けて歩く男が〈赤線〉のマンションに入るのは、そういう意味なのだ。


「ミック……。私、もうこんなのヤなんだよ……」


 菊本可奈が凶行に手を染めたのは、ミックが消えてからだ。可奈は、ミックを好いていた。心が不安定な可奈にとって、ミックは心の拠り所だった。

 

 泣き出して暴れたいのは、沙耶も同じだ。それでもミックさえ戻ってくれれば、きっとこんな生活をしないで済む。沙耶はそう信じていた。


「お願いだよ。早く、助けてよ……」 


 ――このマンションの住人に、救いを求めない者はいないのだから……。


 沙耶は目頭を抑えた。

 ミックを想うたびにするのだが、やはり涙は一粒も流れなかった。

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