第15話 ウチは知らない、知らない
※
気がつくと夜だった。空は暗く、街灯は白い。
――もうこんな時間? ヤバ、仕事に行かなくちゃ。ミィちゃん、見つかんなかったぢゃん。
菊本可奈は、道端を歩きながらふるふると頭を振った。ここ最近、毎日こうだ。不意に眠れば意識が途絶え、目が覚めれば働きに出ている。しばらくは夢らしい夢をずっと見ていない。熟睡したとも分からない。
唯一、昨夜に紫苑と会った事だけは、はっきりと覚えている。
今までミィちゃんで紛らわせていた寂しい気持ちが、やっと満たされた心地がした。でも、今夜は紫苑に会えない。仕事はちゃんとやらないと、由紀子に怒られてしまう。
菊本可奈の頭に、確かな記憶は少ない。身分証に記載された住所にも、覚えがない。ウチはどこから来た? 何のために生きている? 脳裏に浮かぶナンセンスな自問を否定した。
風が頬を撫でて、染料の抜けてきた短髪が揺れた。パーカーの裏地が、皮膚にベッタリと引っ付く感じがして、紫の袖をまくった。
可奈は、自宅マンションの広いロビーに入った。
窓際のソファには、長髪を後頭部で一つ結びにした少女――妃沙耶が座っていた。
沙耶は、可奈を見るなり、
「また、仕事サボるの?」と言った。
「アンタだって、やってないぢゃん」
「私は戦うのが仕事だから。でも、可奈に刺されるとは思わなかったなぁ」
「え? ウチが、いつアンタを刺したの?」
「昨日の午後。覚えてないの? ミックを狙ったじゃない」
可奈は昨日の午後、自分がどこで何をしたか思い出せなかった。
しかし――ミック。いなくなってしまったあのミックを、どこかで見たような。そんな、記憶とも言いにくい情景がおぼろげに浮かんだ。夕方の駅前で、ミックに似た人を追ったような気がする。
「……ああ! 昨日、確かにミックみたいな人を見つけた。でもなんで? ミックを殺すほどウチはバカぢゃないよ?」
「じゃあ、ミックを見つけてから何をしたか、覚えてる?」
「だから刺してないって言ってんぢゃん!」
可奈は妃沙耶の聞き方にカッとなった。
沙耶は可奈の金切り声など意に介さない様子だ。
「質問に答えて。あなたはミックを見つけてから、どうしたの?」
「――別に」
「覚えてないんだ」
「バカ、決め付けんな!」
「怒らなくてもいいじゃない。私、可奈を心配してるんだよ? 可奈は私を刺して、その他にも三人くらい殺してるんだから。その原因は、考えないといけないでしょ?」
「何それ。信じらんない」
――アンタに、ウチの何が分かるのよ。
可奈は話を切ろうと、エレベーターに向かって歩こうとした。
「ミックは今、折笠紫苑という元の女の子に戻っている」
その名を聞いて、可奈は立ち止まった。
「シオン……あ、紫苑ちゃん?」
「そう。ミックは、紫苑なの。可奈、あなたが紫苑に会った時、何をしたの?」
「紫苑ちゃんは、優しくしてくれたよ? 危ない男に絡まれてたのを助けてくれたの」
「それは、こんな男?」
沙耶はポケットから端末を出して画像を示した。血みどろの男が項垂れている。
「グロッ。ウチは知ら――」
「常連の白川さん。知らないとは言わせないわよ」
可奈は、黙ってしまった。確かに、白川は可奈の仕事相手の男だ。言われてみれば画像の男は合っている。
「……だからなに? この人が死んでも、ウチには関係ないぢゃん」
「関係あるわ。だって、あなたが殺したんだから」
「……は? 何言ってんの」
沙耶が立ち上がった。可奈に歩み寄る。可奈は後退りしたが、沙耶は可奈のパーカーをぐいっと掴むと、無理矢理に引きちぎった。
下着をしていない可奈の白い上体が露わになった。沙耶は構わず、破いた紫のパーカーを翻して、裏地を可奈に見せつけた。
「……なに、これ」
リバーシブルの黄色地を、赤黒い色が半分以上覆っていた。袖の辺りはべたついていて、赤黒い液体は乾いていない。
「可奈。この血みどろをどう説明してくれるの? それに、その右腕も」
菊本可奈は、左腕で乳房を隠していた。しかし右腕は、肘から先を失ったまま赤い液体がぽたぽたと漏れ続けているのだ。
「……知らない」
可奈は首を横に振った。
「知らない。知らない。ウチは何も知らない。知らない。知らない。知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない――」
「可奈ッ!」
「いやァ!」
可奈は、びくりと膝をついてうずくまった。片耳を塞いだ。もう片方は、塞ぎようがない。
「可奈。今日だってお客さんは来るのよ」
「ウチに働けっての? こんな、こんな時にっ!?」
「じゃないと由紀子があなたを抹消するって。分かったら、早く治しに行きなさい」
「そんな……ウチは、何も知らないのに……!」
そう言って、菊本可奈は泣いた。涙は零れず、喚きだけがロビーいっぱいに響く。
沙耶は、破いたパーカーを可奈の丸い背中に掛けた。可奈がゆらりと立ち上がるのを確かめて、ロビーを出た。
※
妃沙耶は、マンション前の路上で腕組みをしていた。
暫くして、スーツ姿の男がマンションに入る。それを一瞥してから、沙耶は星の見えない夜空を見上げた。
……この街の男共にとって、ここは夢への入口に等しい。
駅前のシネコンの裏に建つマンションは、〈赤線地帯株式会社〉の寮である。〈赤線地帯株式会社〉と言っても、一つ所に〈赤線〉という建物があるのではない。
吉祥寺駅の東側には、数店のキャバクラや風俗店が存在しており、〈赤線〉のオートメイドがそれらの店に派遣されている。
オートメイドは、空き家や〈赤線〉が管理するアパート・マンションに住んでおり、それら高級感ある佇まいは、昭和・平成の古ぼけた建物たちとは一線を画する輝きであった。
店舗に属さないオートメイドは、自らの住まいに客を呼ぶ事がある。
街灯を避けて歩く男が〈赤線〉のマンションに入るのは、そういう意味なのだ。
「ミック……。私、もうこんなのヤなんだよ……」
菊本可奈が凶行に手を染めたのは、ミックが消えてからだ。可奈は、ミックを好いていた。心が不安定な可奈にとって、ミックは心の拠り所だった。
泣き出して暴れたいのは、沙耶も同じだ。それでもミックさえ戻ってくれれば、きっとこんな生活をしないで済む。沙耶はそう信じていた。
「お願いだよ。早く、助けてよ……」
――このマンションの住人に、救いを求めない者はいないのだから……。
沙耶は目頭を抑えた。
ミックを想うたびにするのだが、やはり涙は一粒も流れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます