第三章  その日、世界が塗り変わる音がした 3



 それから彼は、さらなる下層へ下りる階段を探して都市を歩き回った。



 「十と三分の四番通りを北に行けば、昇降機があったと思うけど」


 「そこの二つ目の角を右に曲がって、緑の商店街の突き当たりまで行きゃなんかあんだろ、たぶん」


 「あそこに建ってる一番星の館分かるかのう? あの中を抜けた西にカササギ橋っていうのがあって、そこを渡れば階段があるじゃろ」


 「その階段、ずっと前にとり潰されてるぜ? 今はカスミ草の館があるから、一回に上に上がって迂回しなきゃダメなんじゃね?」


 「そこの壁伝いに崩れかけの階段があるでしょ? あれで第五層まで直で行けるって聞いたことあるわよ」


 「ん~? そこをずーっと行って~ひょっと曲がって~。パッと飛び越えたら~細い道をドーンと行って~三番目の階段を下りたら~着くよ~~」



 何度人に聞いても要領を得なかったが、日も落ちる直前になってようやく第六層まで辿り着いた。


 ここまで来ると、もうほとんど底と言ってもいい。


 日の高さなど関係なく、暗くて、鼻と喉を塞ぐような重い空気が滞っていた。それは常時燃えている灯りの油の臭いか、炊事の匂いか。それとも、こんな場所に住んでいる者たちの独特の体臭か。もしかしたら全部かもしれない。


 たとえば空気に色をつけることができたとして、ならばここの空気はきっと、何色も混ざって名付けることさえできない汚れたドドメ色だろう。腹の底から生理的な嫌悪感がせり上がってくるような場所だった。



 「ずいぶん活きのいいお兄さんだねえぇ……」



 ただでさえ薄暗い視界が煙だか水蒸気だかでかすんでいるというのに、マイアーの足取りには勢いがあった。目ざとい黄ばんだ長い爪の手が、マイアーの腰布を掴む。



 「一本どうだい……? 安くしておくよぉ……?」



 その先を辿れば、垢だらけのしわくちゃの腕が、ボロ布と伸びた灰色の髪をまとわりつかせた体に続いていた。垂れて萎んだ小さな乳房が丸見えになっていても、まったく気にしてない様子で老婆は道に座り込んでいた。



 「どうだいぃ……? この世の天国を見ることができるよおぉ……」



 反対の手に持って揺らしていたのは、乾いて茶色く変色した植物を詰めたパイプだった。


 ハッと鼻で笑い、マイアーは老婆の腕を蹴り飛ばした。



 「悪いな、ばあさん。俺はもう天国を知っている」



 人目の届かないここは、人間の精神を変容、破壊する危険な毒草を育てるには絶好の場所だった。そんなところに住んでいる者が、普通であるはずもなかった。


 それからも縋り付いてくる亡者のような彼らを足蹴にして、マイアーはどんどん歩いていった。そうしているうちに、本当に何者もいない場所へ出た。



 「さて、ここならかまわんかな」



 マイアーは左右を見回して確認すると、地も砕くかという勢いで片足を振り下ろした。どれだけ厚くても、整備されてこなかった木は、簡単に人ひとり通す以上の穴を空けた。


 地中から漏れている有毒ガスがブワッと噴き出してきたが、マイアーは涼しい顔で穴の中へ飛び下りた。


 マイアーの目的は、この裂け目の底にあるというラブレターだった。


 美の女神に宝石を贈った男神の片割れは、裂け目の底にこっそりと恋文を隠した。ところがそれを見つけてもらう前にフラれてしまったので、恋文は日の目を見ないままになっているらしい。


 とある酒の席でそれを又聞きの又聞きしたマイアーは、自身の悪戯心が疼きだすのを感じた。そして善は急げとばかりに、こうしてはるばるやってきたのだった。


 どこからか水がにじみ出ているせいで空気はとても湿っており、足下の土もぬかるんでいる。わずかに傾いた大地に従って、水はやがて一所に溜まっていた。


 その中にラブレターとおぼしきものが揺らいでいるのが見えた。



 「おお、あった、あった。はてさて、若かりしコッシヌはなんと書いたのか……っ⁉」



 水の中に手をつけた瞬間、天地がねじ曲がるような目眩を感じた。とっさに手をひいたが、もう遅い。


 自分が空を見ているのかどうかすら分からなくなるほど視界が歪んで、息がつまる。



 「ぐぅっ……!」



 どれだけそうしていたのか、急にそんな息苦しさから解放された。かと思えば、すぐ目の前には汚れた木目。



 「あ、」



 マイアーは派手な音を立てて、顔面から道に落下した。


 服が汚れるのも気にせず転げ回って、痛みに呻いていると頭上から呆れた声が降ってきた。



 「アンタ、そんなに落ちるのが好きなの? 今度はどこから落ちてきたのよ」



 涙が流れて、徐々にランタンに照らされた豊かな栗毛に焦点が合っていった。



 「……ああ、君はたしか、昼間に会ったお嬢さんだな。ということはまさか、ここは第三層か?」


 「ええ、そうよ。どこだと思っていたの」



 その答えで、マイアーは自分に何が起こったのかを理解した。そうすると、だんだん笑いがこみ上げてきた。



 「ふっく、あははははっ! あの脳筋単純バカにも慎重さがあったか! 転送魔法とは一本取られた。これじゃあ喧嘩を売る相手は選べなど、人の子を笑えんな、あははっ! 痛い!」



 痛みを訴えながら大笑いするマイアーを、女はかわいそうなものを見る目で見下ろした。


 さらに絶妙なタイミングで、グウゥ~という気の抜ける大きな音が闇に響いた。



 「……うん、腹が減ったな!」



 音の出所は、マイアーの腹の虫だった。腹筋を使って立ち上がり、埃を払っているマイアーに女はちょっとした好奇心で声をかけた。



 「今から飯屋を探すなんて面倒でしょ? 簡単なものなら出してあげれるわよ?」


 「ん? それはありがたいが……ああ、もしかしてテディベアの礼か? なんだ、そんなに嬉しかったのか! 我ながら可愛くできたと思っていたんだ。よかった、よかった」



 思わず、窓枠についていた女の肘が滑った。



 「違うわよ! むしろその逆よ!」


 「逆とは?」


 女はずいっと身を乗り出した。薄い布地の服を押し上げる白い双丘が窓枠に乗って、たぷんっと揺れる。



 「アタシがぬいぐるみなんかに喜ぶコドモじゃないって、教えてあ・げ・る」



 艶やかなピンクに塗られた唇が熱く濡れたような吐息を含んで、ことのほかゆっくりとそう動いた。



 「……ふむ。女から誘われておいて、断っては男が廃るというものだな」



 意外な誘いに多少面食らったマイアーだが、見た目も中身も立派な男。そう呟くと地面を軽く蹴りつけて飛びあがり、あっという間に女の部屋の窓枠に手と足をかけた。



 「ありがたく君の世話になろう」


 「……」



 人間離れした芸当に、「マジで何者」と言いかけた声を、すんでのところで女は飲み込んだ。これまでもこれからも、素性の知れぬ男とも一夜を共にするのが、女の生き方だからだ。


 代わりに口にしたのは、服だけでなく顔や手にまで及んでいた汚れについてだった。



 「はい、濡れタオルで我慢してよ。そのままでベッドに上がられちゃたまったものじゃないけど、お風呂なんて贅沢言わないでね」



 「ははっ、分かっているさ。そこまで非常識なつもりはない。濡れタオルでも十分ありがたいさ」


 「ここでお風呂っていうと『月桂冠の湯屋』ぐらいなんだけど、この家とはちょうど反対にあるから、めったに行けないのよね」



 女はマイアーが脱いだ服をたたんでやりながら、窓の向こうへ視線をやった。昼はそこに、鮮やかな緑の旗が風に翻っているのがよく見える。場所が分かっても簡単には行けないのがこの都市の常だ。だから、あの目につく色が憎らしかったりもする。


 女が小さなため息に不満を乗せたとき、ぐいっと腰を引き寄せられた。



 「そのわりに君はいい匂いがするな」


 「っ……!」



 カッと顔に熱が集まった。


 栗毛に顔を埋めながら囁かれた声は存外低くて腰に響き、回された腕は思っていた以上に逞しかった。



 「ちょ、ご飯は……!」



 焦ったように顔だけ振り返れば、うっすらと妖しく微笑むマイアーと目が合った。



 「なーに、一晩ぐらい腹に何も入れなくても支障はない。ああいや、ここは、君のほうが美味そうだと言っておくべきか?」


 「何を、んっ」



 女のそれ以上のセリフは、重ねられた互いの唇の間に消えた。



 ──疾くね、夜の馬


 ──我に眠りを与えるな


 ──さあ、不死身の怪物を殺そうか


 ──永遠の螺旋階段の上で君を待てるように




 翌日、女が目を覚ましたときには既にマイアーはいなかった。


 気怠い体を起こして部屋を見回すと、女が買っておいたパンがひとつなくなっていた。



 (ちゃっかりしてるわね)



 冷えた水を取り出してのどを潤しながら、何気なくカーテンを開けた女は危うく吹き出すところだった。



 「……っ⁉ はっ……⁉」



 眠気も怠さも光の速さでどこかへ飛んでいった。何度目をこすっても、窓のすぐ傍ではためいている緑の旗は消えない。


 『月桂冠の湯屋』が、女の家の隣へ移動してきていた。



 ──一宿一飯の礼だ。



 女の耳に聞こえたマイアーの茶目っ気たっぷりの声は、はたして幻だったのか。



 「~~んっとに、何者だったのよあの男はあぁぁぁぁ!」



 女の絶叫は、風に攫われて消えていくだけだった。




 その日、階段と迷路の都市は上も下も東も西も関係なく、大騒ぎだった。


 一体何があったのか、一夜にして都市の並びがまったく無茶苦茶に変わってしまったからだ。


 しばらくは混乱が続くだろうが、これもやがては迷宮の噂を彩るエピソードになるのだろう。


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