泥の味
「お、女の人っ? ごめんなさい。私てっきりジャックは男性かと思っていて」
「いえ、いいのよ。よく言われるわ」
「あなた名前はあるの?」
その瞬間、『ない。わたしは親に捨てられたから』というセリフが頭の中に浮かんだ。泡の中に包まれて記憶がフラッシュバックする。そして、その記憶を私はつついて弾けさせた。もうあの時の惨めな私じゃない。
「ええ! 私の名前は愛です。この世界で一番強い力の名前よ」
そういうと、ジャックはすごく嬉しそうに笑った。そして、
「じゃあ早速この街を案内しますわね」
「お願いします」
私は、笑顔を顔に貼り付けた。
そして、私とジャックは街の中を共に歩み始めた。ゆっくりと二人分の足が歩を進めていく。
「ジャックさんは、先生の奥様なんですか?」
「いいえ。そう見えるかしら?」
ジャックは少しだけ驚いたような表情を浮かべた。
「違ったならごめんなさい。失礼でしたね」
私は、怪我の療養中に読んだ本で学んだ言葉遣いを必死で真似ながら話した。
「私は、先生の部隊の隊長よ」
「部隊?」
私は初めて聞く単語に首を傾げた。
「ええ。先生の仕事はこの街の警備よ」
「警察のようなものですか?」
「いいえ。警察は別にいるわ。私たちはこの街の自警団。レジスタンスと言い換えてもいいかもしれないわね」
「じゃあもしかして先生は、この国の警察と対立しているの?」
「そうよ。私たちは現国王の圧政に不満を持つグループなの。だからこの前のホームレス狩りの時に誰よりも早く先生があなたの元に駆けつけたでしょう?」
「確かに、ホームレス狩りが行われている時は、他の街の人たちはみんな家に隠れていたわ」
私は、誰も私に手を差し伸べてくれなかったことをまた思い出してしまった。黒い感情が少しだけ胸の骨の間から溢れる。
そんな、憂鬱な私に誰かが元気な声を投げつける。
「いらっしゃい! ジャックさん、今日もいいフルーツが手に入ったよ!」
気づくと果物屋の目の前に来ていた。店の前には気さくそうな店主が気さくそうな笑顔を浮かべている。
「こんにちは。リンゴを二ついただけるかしら?」
「あいよっ!」
店主は慣れた手つきで大きく育ったリンゴという食べ物をジャックに渡した。
「愛さん。この人は果物屋の店長代理よ。先生と一緒に暮らしているならここで買い出しをすませるといいわ」
私は店長代理に顔を向けた。
「よ、よろしくお願いします!」
「ああ。よろしくねっ!」
そして、再び私たちは街の巡回に戻る。
「はい。どうぞ、あなたの分よ」
ジャックが私に先ほどの果物を手渡す。
「ありがとう。これなんですか?」
一瞬の沈黙の後にジャックは口を開いた。
「これは、リンゴという果物よ」
きっと何も知らない私のことを不審に思ったのだろう。だけど、それは言わないでおいてくれた。私はリンゴに大きく口を開けて噛み付いた。その瞬間、リンゴの表皮が歯茎に食い込み、心地よい快音が鼓膜を撫でた。そして、リンゴの中からは、黄金色の果汁が私の口の中に流れ込んできた。リンゴの体液は甘くて甘くて甘くて酸っぱい。舌の上をチクチクと刺激しながら喉の奥に滑っていく。生まれて初めてこんなに美味しいものを食べた。
「美味しい」
口の中にリンゴの果肉を押し込みながら言った。そして、無我夢中でリンゴに噛み付いた。奥歯で砕いたリンゴの肉片は、軽快な咀嚼音と共に、感動を私の脳に植え付ける。爽快感あふれる噛みごたえと、甘美なメロディーのような味わいが私の快楽中枢を握りしめた。
「こんなにリンゴを美味しそうに食べる人初めて見たわ」
「ごちそうさまです。先生から聞いているかもしれないけど、私はずっとホームレスだったんです」
「ええ。よく知っているわ。今まで辛かったわね」
「はい。でもいいの。今はすごく楽しいから。今はご飯がたくさん食べられるし、ベッドで眠れる。お水もいっぱい飲める」
「ごめんなさいね」
ジャックは私の頬を右手で触った。ホームレスの女の子を見て見ぬ振りをして申し訳ないということなのだろうか?
ジャックの右手は優しくて柔らかい。ほんのり暖かいけど、少しだけ震えていた。ジャックの掌から私の頬に何かが流れ込む。どくどくと脈打つ透明な何かが私の心の入れ物に注がれる。何もなくて空っぽだったその入れ物に、何か暖かなものが溜まって温度を放つ。私はこれがなんなのかわからなかった。
「いいえ。ホームレスを見て見ぬ振りする人なんてたくさんいるし、一人だけ助けてもまた次の誰かがホームレスになるだけですから」
「そう」
ジャックはそれだけ言うと、右手を私の頬から離した。ジャックは悲しみとも慈愛とも取れるような複雑な表情を顔に浮かべている。きっと、普通の人はこういう重たい話が苦手なのだろう。私はその感覚がよくわからなかった。
その後、ジャックと街中のいろんな店を回った。魚屋、八百屋、万屋、武器屋、防具屋、道具屋など、かつてホームレスだった時には無縁だった様々なものが私の人生に入り込んでくる。今はしっかりと一人の人間として、これらのことに干渉できる。当たり前のようなことがすごく嬉しかった。
全ての店でジャックは店長代理と気さくな挨拶をかわしつつ、丁寧に説明してくれた。
私は、焼いてもらった魚をかじりながら街の中を歩いていく。脂の乗った魚は塩と絶妙に合っていた。微かな塩気が魚本来の旨味と脂肪を強め、引き出す。しまった肉の間から溢れる旨味成分たっぷりの水気は、魚の肉をほどよくしっとりさせている。パサつかず、べたつかず、塩と肉と脂の黄金比が私の口腔の中で協奏曲を奏でる。
「うんっ! 美味しい!」
「そんなにがっつかなくても誰も取ったりしないわよ。その魚はあなたのものだから一人で全部食べていいのよ」
「嬉しい!」
私は満面の笑みをたっぷりと心の中から絞り出した。
「そんなに好きなら私の分もあげるわ。全部一人で食べていいわ」
私は返事の代わりに、またもや顔に笑顔を貼り付けた。
その瞬間、私は何かにぶつかった。前をよく見てなかったのだ。前方から体に加わった力はそんなに強くなかった。
私にぶつかったのは小さな女の子だった。私よりもずっと小さい。四歳くらいだろうか?
「ご、ごめんなさい。前をよく見ていなかったから」
女の子は何も言わずに走って浅いドブを渡り、道の端まで言った。そして、その女の子の兄弟であろうか、少し年上の六歳くらいの男の子の後ろに隠れた。その二人は見窄らしい身なりと、ひどい体臭を放っていた。顔は泥と血が乾いてこびりついている。目は虚ろで、指先はボロボロになっている。壊れかかった人形が必死で人間のふりをしているみたいだ。その二人はホームレスだった。
私はその二人の方にゆっくりと近寄っていった。
「はい。どうぞ」
私は食べかけの焼き魚を男の子に渡した。男の子は一瞬だけ不思議そうな顔をしてから、それを妹にあげた。妹は焼き魚を手渡されると無我夢中でかじりついた。多分、長い間何も食べていなかったのだろう。
私はジャックの元に戻ると、ジャックの焼き魚を指差した。
「それ、私にくれるのよね?」
「え、ええ」
私はジャックの分の焼き魚を受け取ると、それも男の子にあげた。今度は男の子が焼き魚に頭からかじりつく。その様子をしばらく見てから、ドブをひと掴みして、ジャックの元に戻った。
「全部一人で食べるんじゃなかったの?」
ジャックは少しだけ嬉しそうな表情だった。
「お腹いっぱいになったの」
そして、私は先ほどのドブから掬い取ってきた泥をジャックに見せた。
「見てて」
そして、私はそれを口の中に入れた。
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