ホームレスとして装備されました
全身から夥しいほどの血液が出て、地面の色を変えた。私の躯体が横たわっている場所だけが王宮に敷き詰められる赤い絨毯のように煌びやかだ。もう体に感覚などない。さっきまでは全身の切り傷が燃えるように熱かったが、熱は引いてきた。次第に体表から温度が空気に逃げていくのを感じる。もう体のどこを探しても温度はない。私の小さな体は赤色の絵の具で塗り固められている。私はこれから死ぬ。死ぬってなんだろ? 辛いのかな? 苦しいのかな? 痛いのかな?
私は死んだことなんてないから、わからなかった。だけど、今までの辛い人生と比べたらきっと楽なんだろうな。もう苦しまなくてもいい。もう悲しまなくてもいい。
私の長かったホームレス生活がようやく終わる。いつかこれは終わる。いつかこの苦しみから抜け出せると信じて諦めなかった。だけど、それももう終わりだ。
生まれ変わったら、一度でいいからお腹いっぱいご飯が食べたいな。一度でいいからお水をたくさん飲んでみたい。一度でいいからベッドで寝てみたい。一度でいいから生まれてきてよかったと思いたい。そして、数え切れないほど、見ず知らずの困っている誰かを助けてあげたい。
私は目を閉じた。瞼の裏にはいつも見る暗闇が見えた。触れれば溶けてしまいそうな濃厚な暗闇。私はそれを受け入れた。絶望に体を舐めさせて、死神に魂を売り渡す。私はもう死ぬ。それは事実だ。私は自分の死を受け入れた。
私は短かった人生を鮮明に脳裏に描いた。みんな見て見ぬ振りだった。みんな私をいないものだと扱かった。今までの私の人生で、私に救いの手を差し伸べてくれる人なんてただの一人もいなかった。
そして、生まれて初めて誰かが私に救いの手を差し伸べてくれた。
「おい! 俺が助けてやる」
私は、閉じた瞼をもう一度開いた。そこには金髪の中年男性がいた。私は彼の顔をじっと見つめた。私たちの視線は交差し、互いの顔に突き刺さる。
「聞こえているだろ? まだ間に合う」
私の諦めかけていた心が少しだけ動いた。
「まだ意識はあるんだろ?」
魂が再び胎動を始める。
「時間がないから掻い摘んで説明する。今からお前は俺の武器になれ。そうすれば武器の修理能力を使ってお前の体を、武器として修理できる。いいな?」
私は彼の言っている意味がわからなかった。だけど、弱々しく頷いた。
「よし!」
彼はそういうと、目の前の空中にポップアップウィンドウのようなものを出した。
そこにはこう書かれていた。
『ホームレスとして彼に装備されますか?』
そして、その下に、
『はい いいえ』
の文字がある。その文字はボタンのようになっていた。
「さあ、『はい』を押すんだ。早くしろっ!」
私は喉から本音を絞り出した。
「諦めたくない」
そして、私は死体のように弱り切った体に残る力の残滓をかき集めた。
「なら早く押せ!」
全身全霊の全ての力を右手に集めた。
「諦めたくないっ!」
全ての苦しみと悲しみを原動力に、全ての希望を腕に流し込む。
「ならそうしろ!」
体の中にまだ残っていた僅かな液体は光を反射しながら目の端から、頬を切って地面に落ちる。
「諦めたくないっっ!」
そして、私はボタンを押して、気を失った。
薄れ行く意識の中で最後に見たのは、空中に浮かんだウィンドウの一文だった。
『ホームレスを装備しました』
空に浮かんだ文字は異様で、歪で、見たことも、聞いたことのない文言だった。だけど、それがどこか温かいように感じた。
[翌日]
目を覚ますと、窓から差し込む光の束が私の顔を明るく濡らした。私は気づいたらベッドの上にいた。ふかふかで暖かくて心地がいい。私は生まれて初めてベッドの上で起きた。
地べたで寝るときと違って、全身が痛くなかった。体が泥で汚れていないし、凍りつくような寒さもない。私は、人生で初めての心地よい睡眠に、思わず笑みを零してしまった。
上体を起こすと、窓を開けた。解き放たれた外界への木枠は、大きく口を開けて外の空気を吸い込んだ。部屋の中に新鮮な空気が流れ込む。その瞬間、街の喧騒が部屋の中に流れてきた。ベッドの上で感じた喧騒はいつもと違った心象を私に与えた。
私は、しばらく人生初のベッドを堪能すると階下に向かった。体は音を立てて軋んだ。まだ完全に体力が戻ったわけではないらしい。一歩、また一歩、歩を進めるごとに、痛みが足から太ももを這いずって、感覚神経に突き刺さる。だけど、死ぬほどの苦痛程度の苦しみは今までの人生の苦しみと比べたら、あってないようなものだった。
階下に着くと、暖かい美味しそうな匂いがした。私は食卓についていた中年男性に声をかけた。
「これなんの匂い?」
「ん? 目が覚めたみたいだな。これは普通のスープだ」
「スープって何?」
私は、初めて聞く料理に心が躍った。私の反応に中年男性は少し驚いたような反応を見せた。きっとこの食べ物は普通の人が普通に食べるものなのだろう。だけどホームレスの私にとってはご馳走に見えた。
「スープっていうのは野菜や肉を煮込んだ食べ物だよ」
「食べてもいいの?」
「ああ。もちろんだよ」
私は男性の向かいに座ると、用意されていた皿をじっと見つめた。そこには、黄金色の液体の中に、大小様々な形に切り取られた野菜がある。その中にはなんと肉もあった。肉なんて食べたことがあったのかも覚えていない。
スープから漂う美味しそうな匂いは、私の口内を唾液で満たした。私は、スプーンを手にとって一口だけスープを喉に流し入れた。その瞬間、感じたこともないような気持ちが胸から溢れて止められなくなった。
「うぐっ。うう。うぐ。美味しい」
私の目からは大粒の涙が列をなしてテーブルに溢れた。涙はテーブルに歪なまだら模様を描いた。朝日を水滴の内部で乱反射しながら、涙は次々と落ちていく。ガラス細工が光を吸収して跳ね返している様子を見ているみたいだ。
男性はかなり驚いた様子で私のことを見ている。
「そんな安物のスープでよかったらいくらでも食べていいよ」
狭い食卓の上で、知らない人と食べた安いスープは、一生で一番贅沢で美味しい食事だった。初めて食べたスープは強烈な印象とともに、力強く海馬(脳の中で記憶を司る場所)の中に刻みつけられる。私は何十年たってもこの時の食事の味を忘れることはないだろう。
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