手取り約20万、みなし残業代40時間分含む。

@mizono_mai

第1話

不愉快に起床時刻を知らせるアラームの音を、ようやく消す。今日も、また、朝が来た。


起きなくてはいけない。身体が動かない。


しばらくして、スマホに手を伸ばして、LINEがきていることを確認する。昨日、デートをドタキャンしてきた恋人、瑠唯からのフォローの連絡かと期待したが、実際に届いていたメッセージは、中学時代の友達からで、結婚式に招待したいため住所を教えてほしい、というものだった。最後に彼女に会ったのはいつだっただろうか。


そんなことより。また結婚式…。

身体がますます重たくなり、大きく、ふーっと息をついてスマホをそっと元の位置に戻す。


起きなくてはいけない。身体を動かない。


それでも、無理矢理、身体を起こして、昨晩の残りのペットボトルの水を流し込み、のろのろとベッドからベランダに移動する。タバコに火をつけながら、空を見上げる。無駄に、晴れている。1日が始まる。


適当に服を着て、適当に髪を巻いて、適当に化粧をして、ぎゅうぎゅうの満員電車の中で、なんとか呼吸をして、会社に向かう。今月も、手取り約20万、みなし残業代40時間分含む。


「中丸、おはよ。中丸、出社、久しぶりじゃない?」


新宿駅南口を出て、職場までの一本道を歩いていると、聞き慣れた声がする。隣で、同じ営業職の上司である増田が爽やかに笑いかけてきた。


「そうですね。月曜日から会議とか勘弁してくださいよ。」

「中丸、今月も売り上げいいじゃん。おかげで、営業事務は業務溜まりまくりみたいだけど。あいつら、みんなバカだからさー。中丸みたいに要領良くできないんだよなー。」


要領が良かったら、こんな会社には入社してないけどな。心の中でつぶやきつつ、曖昧な笑顔を返す。増田の左手の薬指には結婚指輪がしっかりとはめられているけど、増田いわく「みんなバカ」である営業事務の中のひとりで、私と同期入社の南と3年以上、不倫関係にあることを、きっと社内の誰もが知っている。


1階のコンビニでアイスカフェラテを買って、6階のオフィスに向かう。


ああ。出社した自分、偉い。出社した途端、帰りたい。手取り約20万、みなし残業代40時間分含む。


オフィスに到着した途端、呼吸をするように、自然と身体が喫煙所にむかって流されていく。


タバコから出る煙を見ながら、改めて思う。帰りたい以外の感情がない。帰ってやりたいことがあるわけでもないし、仕事がとんでもなく嫌いだ、というわけでもないのに、なんでこんなに帰りたいんだろう。


「中丸、一瞬禁煙してなかった?」


同じく、自然に身体が喫煙所に流れされてきたであろう同期のはるかが笑う。


「一瞬ね。もう禁煙やめた。」

「無理だよね、この職場にいたら。」


ふわふわと巻かれた、綺麗な茶色い髪の毛。淡いグリーンのサマーニット。ちっとも剥げていない清楚な白いフレンチネイルに挟まれている、タール値の高いタバコだけが、はるかにあまり調和していなかった。


「あのさ、美々。」


周りに人がいないことを確認した後、くりっ、とした目をこちらに向けて、はるかは続けた。


「…来月で仕事やめることにした。」


入社当時、11人いた同期は、4年目の今、はるか、南、そして私の3人しかもう残っていない。


はるかは、実はずっとネイリストになりたくて、夢を叶えるためにネイルの専門学校に行く、と言った。


「社長にめちゃくちゃ詰められた。会社をバカにするなって言われた。」

「うわ。大丈夫だった?」

「うん、本当にこういうこと言う人いるんだーって引きながら聞いてた。」

「だよね、それは引くね。」


新卒時代からほぼ変わらない給料。手取り約20万、みなし残業代40時間分含む。暗黙の了解で、残業は40時間で収まるように、タイムカードを押しているけど、ほとんどの社員が、40時間を大幅に超える残業をしている。はるかは、先月、80時間だったらしい。バカにしているのは、どっちだろう。


「…とりあえずさっ、またすぐ飲み行こっ。」

「うん、また出社するとき、声かけるね。」


久しぶりに誰かの夢を聞いた、と思った。


本日の出社の目的、営業会議では、適当な数字を報告して、適当な行動計画を話した。きっと、部長以外、全員が適当な話をしているだけである。


会議が終わると、喫煙所を経由して、ホワイトボートの「中丸」と書いてあるマグネットの横に「客先訪問→直帰」と書く。


実際、客先訪問の予定などはなく、俗にいう「空アポ」。客に会わないのだから、別に使わないが、会社のパンフレットを数部、パフォーマンスとして、カバンにしのばせ、名刺入れに名刺を補充する。


さあ。帰ろう。


無駄に晴れている。手取り約20万、みなし残業代40時間分含む。


午前11時代の山手線内回り。乗客の中に空アポを入れて、帰宅している人は何人いるだろう。少なくとも、私だけではないはずだ。やや、混雑している車内でふと、そんなことを思う。


空アポを入れて、会社に嘘を報告をする緊張感も、4年目になると皆無だ。社会人2年目くらいからだろうか。息をするように空アポを入れるようになった。社用携帯のGPS機能はオフにしているし、既存顧客からの発注でノルマを達成することが多いため、上司にバレることはなかった。


「ミーちゃん、今日家にいる?今、ミーちゃんの家の近くにいるんだけど行っていい?」


渋谷につくまでの間に、瑠唯からのメッセージが届いていた。


「いいけど、今、渋谷だからあと15分くらいで帰る。」


と、返信をする。


結局、瑠唯は帰宅してから30分後にやって来た。


「ミーちゃん。」


部屋に入って早々、ふにゃっと笑う瑠唯に飛びつかれ、抱きしめられると、もう昨日ドタキャンされたことなんて、一瞬でどうでもよくなってしまう。


ああ。少しタバコの混じった、大好きな瑠唯の香りだ。


「…会いたかった。ミーちゃん。」

「昨日ドタキャンしたくせに。」

「昨日は本当に仕方なかったんだよー。ごめんね。ミーちゃん。」


瑠唯の柔らかい唇が、私の唇に3回、軽く重なる。ああ。瑠唯だ。瑠唯から一瞬でも離れるのが嫌で、ぎゅーっと瑠唯を抱きしめる。社用携帯が鳴っても、瑠唯から離れられない。


「…ミーちゃん。大好きだよ。」


何度か唇を重ねた後、瑠唯の舌が入ってくる。だんだん、動きが激しくなって、下半身の熱を感じる。瑠唯が欲しい。今だけでも、私のものになってくれ、瑠唯。


「ミーちゃん、可愛い…食べちゃいたい。」


瑠唯が耳元でささやくと同時に、そのまま床に押し倒され、私たちは激しく交わった。


「…瑠唯に会いたかった。」


行為後に、瑠唯の背中の手をまわすと、私が行為中に引っ掻きすぎたせいで、血が滲んでいた。指についた血を舐める。瑠唯の味がする。


「こっちの台詞じゃん。」


瑠唯が笑う。瑠唯が愛おしすぎて死ぬかもしれない、とふと思う。社用携帯がまた鳴っている。瑠唯に3回、キスをする。


身体を起こして、瑠唯のTシャツを羽織って、電話に出る。瑠唯は、私の太ももに、甘えるように頭を乗せた。私は、まるで犬を撫でるように、瑠唯を撫でる。瑠唯が愛おしくてたまらない。今、話している取引先は、私のこの状況を知る余地もない。そう考えると、少し愉快だった。追加発注依頼をまとめて、電話は終わった。


瑠唯は1個下で、付き合い始めてから2年になる。社会人2年目の夏。あの夏は、マッチングアプリで知り合った20人以上とデートをした。その中で、1番、相性が良かったのが瑠唯だった。友達のアパレル会社で働いていて、時々モデルもしているけど、写真を撮られるのが苦手だから、モデルの仕事が嫌いだ、と言っていた。


全体的にタトゥーの入った腕。癖っ毛。猫背だから気づかなかったけど、背がすごく高かった。


「ね、キスしてもいい?」


初めての会った日の帰り際、唐突に瑠唯は言った。


「いいよ。」


答えると同時に、瑠唯の唇がふわっと私の唇に重なった。


「なんかさ、こんなこと言うの変かなって気がするんだけど。」と前置きした後で、「ミーちゃんのこと、まだ全然知らないんだけど、ミーちゃんのことが好きだと思った。」と瑠唯は言った。何て答えれば良いか分からなくて、「そうなんだ、ありがとう。」と答えると、瑠唯は笑った。


3回目のデートは、吉祥寺の焼き鳥屋で飲んだ後、手を繋いで夜の井の頭公園を散歩した。そこで、瑠唯に交際を申し込まれた。断る理由がなかったから「いいよ。」と言った。


初めて会った日から、瑠唯は距離が近かった。この2年の間に、私はどんどん瑠唯を愛おしくなっているけど、瑠唯は、初めて私に好きだと言った日と同じくらい、それ以上でもそれ以下でもなく、私を好きでいるみたいだった。


「あのさ、ミーちゃん。」


私の太ももの上で、瑠唯は言った。


「何?」


瑠唯を撫でながら答えると


「大好きだよ。」


そう言うと、瑠唯は目を閉じて、眠る準備をしているようだった。


「ここで寝ないで、ベッドで寝てよ。」

「じゃあ、ミーちゃんもベッドに来てくれる?」

「うん。いいよ。」


瑠唯は私をお姫様抱っこすると、ベッドになだれ込み、また激しく唇を重ねる。


「ごめん、ミーちゃんが可愛くて、また我慢できなくなっちゃった。」


こうして、私たちは第二線目に突入する。さっきから、しつこく社用携帯が鳴っているが、そんなことはどうでもいい。今日も、私は、瑠唯に溺れて、満たされていく。


行為の後の一服を終えて社用携帯を次に見る頃には夕方になっていた。瑠唯は気持ちよさそうに眠っている。不在着信が15件入っていた。うち3件は南からだった。折り返すと、クレーム対応依頼だった。新卒の頃は毎回憂鬱な気持ちになっていたクレーム対応も、届くクレームの種類や顧客の特性はだいたい、いくつかの種類にしか分類されないと気づき、機械的にこなせば問題ないと分かってから、何の感情も動かさず、対応できるようになった。


残りの電話を折り返し、50通以上たまっているメールの返信と見積もり対応をする。夜8時。ようやく仕事を終える。カップラーメンでも食べようかとケトルでお湯を沸かす。お湯が沸くのを待っている間、ベッドに潜り込み、瑠唯に抱き着く。大好きな瑠唯の香りをいっぱいに嗅ぐ。


「…おはよ。ミーちゃん。」


眠たそうに瑠唯が微笑む。


「…おはよ。もう夜だよ。」

「ミーちゃん、仕事終わった?」

「終わったよ。」

「お疲れ。」


私の髪を撫でて、世界で1番愛おしい人にそうするように、瑠唯は私に何度もキスをした。


「なんか食べに行かない?」


瑠唯が起き上がり、髪の毛を整えながら問いかける。私も一緒に起き上がり、瑠唯の広い背中に抱きつく。


「今、ラーメン食べようと思ってたとこ。瑠唯も食べる?」

「んー、俺、ちょっと買いたいものあったから、コンビニ行ってくるね。」

「じゃあ一緒に行く。」

「プリンセスは家で待ってて。お土産、買ってくるね。」


瑠唯はウインクして、さっと唇を重ねると、上下スウェットを身に着け、あっという間に家を出て行った。日本人の父と、フランス人の母を持つ瑠唯は、18歳までフランスに住んでいたらしく、時折、こういった所作に西洋文化を感じる。


なんとなく、ラーメンを食べる気持ちが消えていき、また、私はベッドから動けなくなった。ベッドに残っている瑠唯の香りを、いつまでも嗅いでいたいと思った。


瑠唯がもう帰ってこないかもしれない。瑠唯が部屋を出ていくとき、毎回思うのはなぜだろう。


「よかった。まだラーメン食べ始めてなくて。」


10分後、そう笑いながら、瑠唯は、自分に牛丼と、私にサラダとゆで卵、玄米おにぎりと、デザートには米粉のロールケーキを買って帰って来た。瑠唯は、きっと、私に健康的な食事をさせるために、わざわざコンビニに行った。


瑠唯が買ってきたご飯をべながら、3年ちょっと、一緒に働いていた同期のはるかが仕事をやめるらしい、という話をしたけど、瑠唯は「そっかー。寂しいねー。」と言っただけだった。瑠唯には何度も私の同期の話をしたけど、瑠唯はきっと誰の名前も、エピソードも、覚えていないのだろうと思う。


「今日泊まっていく?」

「んー。友達の家に行かなきゃいけなくて。これ食べ終わったら、今日は帰るわ。」

「じゃあ食べ終わらないで。」

「そうだ、ミーちゃんも一緒に行く?三茶だから、タクシーですぐだよ。」

「いい。行かない。」

「じゃあ、ミーちゃんが寂しがるから今日は行けない、って友達に連絡する。今日はミーちゃんと、ずーっと一緒にいる。」

「うん、そうして。」


瑠唯がスマホを取り出す。


「嘘だよ。いいよ、行きなよ。」

「本当?」


うなずくだけで、涙が出そうになるのはなぜだろう。2年も付き合っている彼氏が帰るというだけなのに。


ご飯を食べ終わると、「また、すぐ来るね。」と言って、瑠唯は立ち上がった。


「駅まで一緒に行く。」

「帰り、ミーちゃんのこと1人にできないよ。」

「まだ9時前だから大丈夫だよ。」

「じゃあ、駅まで送ってくれたミーちゃんのこと、俺が送るよ。」

「何それ意味わかんない。」


2人で駅までの道を歩く。瑠唯に腕を絡ませて、身体を預ける。瑠唯が帰ってしまう。


冗談かと思ったけど、駅についた途端、瑠唯はUターンして、私をアパートの部屋の中まで送った。何度もキスをして、「大好きだよ、ミーちゃん。」と、ぎゅっと私を抱きしめて、瑠唯は去っていった。


瑠唯のいた痕跡がたくさん残っている部屋で、瑠唯のインスタを開く。この写真の中の甘いマスクの男の子がさっきまで自分の部屋にいたなんて、もう信じられなかった。瑠唯は、ほとんど自分の写真をアップしていないにも関わらず、10,000人近いフォロワーがいた。出会った頃は、500人くらいだったのに、ここ1年は顕著にフォロワーが爆増していて、瑠唯がタグづけされている写真は、瑠唯がアップしている写真の軽く100倍の量があると思う。昨日、タグづけされていた写真によると、瑠唯は、1クール前のリアリティ番組に出ていた女子大生の誕生日を30人くらいで祝っていたようだった。聞けば答えるけど、瑠唯は、聞かないと普段、何をしているのかまったく分からなかった。インスタで、誰かがタグづけしていることによって、彼氏の日常を把握している。ご丁寧にほぼ毎日、私の知らない誰かによってタグづけされ、プライベートを世界中に発信されている瑠唯。私がすべてチェックしていること、瑠唯は知らないだろう。


「会いたい」


そう言えば、その日か、次の日には、会いに来てくれる。今日みたいに、突然、ふらっと瑠唯が現れる日も多くある。


瑠唯は、そばにいるようで、ちっとも、そばにいない。瑠唯は、優しいようで、本当は優しくない。私の心の穴を埋めているようで、えげつなく心をえぐっている。今夜、瑠唯は、どこで、何をしているんだろう。さすがに今夜は、まだ誰も瑠唯をタグづけしていない。さっきまで、瑠唯が寝ていたベッドで、瑠唯の香りをいっぱいに吸い込む。瑠唯に会った夜は、瑠唯に会わなかった夜の100倍寂しい。


明日は、終日空アポでスケジュールを埋めよう。そう思った。


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